卿菊


 
 

'Tis I'll be here in sunshine or in shadow
O Danny boy, O Danny boy, I love you so.
 
日の光の中、日陰の中、私はそこに居ます。
ああダニー、私のダニーよ、あなたを心から愛しています。
( Danny Boy より )
 
 
 
 
  『 marzo 』
 
希望の三月
(もう、さようならです、愛しいあなた。)
 
 
 

 ベッドの横に椅子を置き、アーサーは菊の顔を覗き込んでその額に手の平を置く。と、彼女はゆっくりと目を開き、アーサーの顔を見やって、ふんわりと微笑んだ。
「……調子は?」
「ええ、大丈夫です。今日は本当に、とても楽で。」
 確かに菊の顔色はとても良く、腕を伸ばし起き上がろうとする菊を、アーサーは助け起こしてやった。ベッドから起き上がる(といってもただ上半身を起こしただけなのだが)と、寝ていて縺れた髪の毛を手串で整える。
「アーサー様、私達結婚して何年だが、御存知ですか?」
 部屋に置かれている花に目をやっていたアーサーは、菊のその言葉で顔を戻して少しばかり痩せた菊の顔を見た。
「いや……」
 思わず頭の中で計算しようとするのだが、今何歳なのかも良く分からず、アーサーは首を捻っていると、菊はなぜか自分で言うのが嬉しそうに微かに首を傾げて笑う。
「19年なんです。あと一年で20年なんですよ。」
「……そんなになるのか。それならば来年、祝わないといけないな。」
 手を伸ばして聞くの頬に触れ、その額に唇を落とすと、菊は喉を小さく鳴らして笑い声を立てる。こういう時は、やはり初めて会ってから何年も経っているのだと気が付く。
「なら私、頑張りますね。」
 その菊の言葉に、アーサーは思わずハッとして彼女の顔を見やると、菊は照れるように小さく微笑み、肩を竦めた。
「1年……」
 微笑む彼女の黒くて大きな瞳が微かに揺れ、居ても立っても居られずにアーサーは身を乗り出して、菊の小さな体を抱き寄せる。抱きしめた彼女の体が、段々と細くなっていくのが抱き心地だけでもはっきりと分かった。
 震えるその首筋に顔を埋めると、伸ばされた彼女の手の平が、自分シャツをキュッと掴むのを感じる。  
 
 それから三日程で急激に菊の体調が崩れ、今まで以上に大量の血を吐くと、すっかり衰弱して食べ物どころか水も殆ど喉を通らなくなった。やつれて青ざめた菊の顔には、どうしても拭いきれない死の匂いがする。
 医者は自分達を呼び集め、親しい人間には手紙を出しておいたほうが良いと言うのを、アーサーは心の奥は酷く混乱していて、どうしていいか分からずにぼんやりと右から左に聞き流す。ただ立っているだけで、頭がクラクラとする。
 ベッドの横で跪き、目に一杯の涙を溜め自分の頬にあてがわれた菊の手の平を包み、アルフレッドは彼女の名前を呼んだ。自分は、そんな彼の後ろでぼんやりと、死に逝く彼女の病でやつれている姿を見つめ続ける。
 あの日のままの黒い瞳が虚ろに揺れ、アーサーに向けられる。微かにその唇が動くが、何を言っているのか分からずに、アーサーは体を乗り出して彼女の唇に自分の耳をグッと近づけた。
「……ごめんなさい」
 もう一度、小さく、掠れて聞き取れないほどの声色で彼女が囁くのを聞き、顔を持ち上げたアーサーは、泣き出しそうな表情をして、青ざめた菊の顔に手を当てて首を振れば、菊は小さく、眉を歪めて笑う。
 どうしてか、安らかな顔をしていた菊はもう一度何か囁いた様に唇を動かすが、今度こそ言葉さえ漏れずに、何を言っているのかまるで分からない。それでもアーサーは菊に向かい頷くと、彼女は満足そうに微笑んで、そして一度頷き最後の息を漏らし、永遠の眠りに就いた。青空が嘘のように綺麗な日だった。
 
 彼女が死んだが、葬式の最中もアーサーは実感が湧かずにただぼんやりと、アルフレッドが泣きながら彼女が入れられた棺にしがみついているのを見つめていた。冷たい土の中に入れてしまうなんて残酷だ、と、アルフレッドは涙で掠れた言葉でそう叫ぶ。
 そんな中でも、アーサーは酷く淡々と儀式を取り仕切り、やはり淡々と葬式に出席する人々の挨拶を聞き、部屋の隅にぼんやりと立ち続けている。式の準備も片付けも、全てを家の召使いがやってくれる。
 彼女の危篤を伝えたら遠いところからわざわざやって来て、それでも間に合わなかった、菊の兄の様な存在だったという王耀や、菊の数少ない友人であるエリザベータなんかは声を漏らし泣いていた。それを有り難いと思う一方で、どうしてもアーサーは泣くことさえ出来ない。
 そうして葬式も終え、真新しい一つの墓が建ち、毎日華を飾り、それでも彼女がもうここに居ないなど、思うことさえ出来なかった。どこか遠くでまだいつもの様に本を読んでいる様な、笑っている様な気がしてならない。
 それでも彼女の部屋を整理しなくては、と、召使いにやらせる気には勿論なれずにアーサーは彼女の部屋に入ると、いつも通り開いた窓から午後の柔らかい風が白いカーテンを揺らしながら室内に舞い込んでいた。
 アルフレッドは涙一つ見せないアーサーに責める様な視線を投げ掛けてくるし、葬式中無表情だったアーサーを、親戚も招待客も「やはり」といった感じで影で嘲笑していたのは知っていた。それでも、やはり泣くことさえ出来ない。
 綺麗に整頓された彼女の部屋は、自分が出張先で購入した子供に向けるようなぬいぐるみやガラス細工、そして写真しか無く、こう見ても物を持っていない人だと思える。
 思わず苦笑を浮かべながら手近にあった熊のぬいぐるみを一つ手に持つと、その下にブリキで出来た少々大きな箱があるのに気が付き、思わず片眉を持ち上げそっと取り上げた。錆がきていて、男のアーサーでも結構な力でやっと開いたその箱には、数多くの手紙がひしめきあっている。
 どんなに長くこちらに住んでいても、彼女はいつだって日本の薫りを体全身から漂わせていた。自国を愛して、自分の家族を、親しい人を深く愛していた。
 その結晶だというべきか、自国の父親からの手紙、兄からの手紙、そして出張先から毎回届けていた自分の手紙まで、綺麗に分類分けをして括られている。自身の束が一番大きく太く、二束に分けられているのに、思わず苦笑が漏れた。
 見慣れた自身の文字がその紙の上を這っている。まさやこうして残っているとは思わなかったほんの小さな用事を書いた手紙まで、その束の中にしっかり入れられていた。
 手紙の束を持ち上げ苦笑を浮かべていたアーサーは、ふと、その束に漏れて一通箱の底に落ちているのを見つけ、ハタと翡翠色の瞳を大きくさせる。
 彼女が貰った手紙が入っている筈の箱なのに、何故かその手紙は未開封になっていて、その上宛先も何も書いてない、まだ白い封筒が微かに膨らんでいるだけの手紙だ。
 不思議に思いながらもアーサーはその手紙を持ち上げ日に透かし、そしてペーパーナイフでそっとその封を破ってしまわないように、実にそっと開け始めた。中に入っていたのは、たった一枚の、それも数行しか書かれていない手紙だ。
『もしアーサー様に伝えられなかった時の為に、ペンを取ります。』そう、菊の綺麗な文字で書き出されている手紙に目を通した瞬間、すぐ目の前に彼女の気配を覚えた。自分の前にあるのが紙では無く、彼女自身である気がしたのだ。
 菊は、あの苦しみやつれた姿ではなく、昔まだ元気だった時の顔色で自分を見上げ、そして微かに微笑んでいる。ああ、もう苦しんではいないんだな、と、アーサーは心の底から安堵を覚えた。
「あなたの事だから、きっと気に病んでいらっしゃるんじゃないかと思ったんです。」
 照れたように笑うその姿も、その声も、なんの努力なしで鮮明に思い出すことが出来る。まだ、誰よりも傍に居る気がした。あの黒く美しい髪が風に揺れ、酷く幻想的に靡き、健康的な白い頬には柔らかな朱が混じっている。
「私、あなたと一緒に居られて幸せでした。本当です。」
 にっこりと黒い瞳を細めて菊が笑う。その瞬間手の中からカサリと手紙が床に落ち、菊はその笑顔の影を残したまま、自分の前から姿を消した。アーサーが思わず伸ばした腕は虚しく床に落ち、その瞬間視界が歪み、ボロッと涙が零れてカーペットに丸い染みを作った。
 溜まっては零れを繰り返し、今まで彼女が死んでからまるで出なかった涙が零れていくのか涙は際限なく床に落ち、いくつもの染みを作り上げていく。喉から声が漏れ、苦しいのにその声を押しとどめる事が出来ない。
 嗚咽を漏らし床にうずくまり、そうしてやっともう彼女がどこにも居ない事を思い知った。黒いあの双眼も、あの声も、何一つ自分は失ってしまったのだ。
 けれど。今その事を思い知るのと同時に、彼女がこんなにも自分の近くに居ることを、知った。
 言いたいことなど全部言い尽くしてしまう気で病に侵された彼女に接したのに、当然彼女に言いたかった事は尽きるはずもない。もしも菊がこの場にいたら、言えなかった全てを言いたい。
 それでも、何一つ自身の気持ちを良い尽きる事なんて、きっと不可能なのだろう。
 酷く熱くなった涙が流れるアーサーの頬を、窓から吹き込む柔らかで涼やかな風が撫でていった。
 
 
 大理石で出来た白い墓の前でぼんやりと立ち竦んでいるアルフレッドに、墓参りに来ていたアルセーヌが彼の名前を呼ぶと、アルフレッドは顔を持ち上げて薄青い感情の滲まない瞳をアルセーヌに向けた。
「……大丈夫か。」
 笑いかけていたアルセーヌは表情を曇らせてそう問いかけると、アルフレッドは何も言わずにまた目線を大理石の墓に目線を戻す。音もなく静かなこの平野に、一つ風が吹き、アルフレッドの金糸の髪が揺れた。
「……キクが、言ったよ。キクが死ぬ前に言ったんだ、オレに。」
 沈黙ばかりが続いていた中、不意にその沈黙を破り、泣き疲れて掠れた喉でアルフレッドがボソリと呟く。アルセーヌは微かに目を細めて、かつて人形の様に小さかったその背中をジッと見た。
「愛してるって、オレの事、これからもずっとずっと愛してるって。」
 そう、呻くように呟いたアルフレッドの瞳から、ボロボロとまるで際限を知らない様に涙がこぼれ落ちていく。不謹慎ながら、アルセーヌは彼が大きくなっていく様に、その時初めて大きな感動を覚える。
 何もかもが動いていくのを、変わっていくのを不幸だと誰かが言ったけれど、そんな事は決してないのだ。世界が絶えず変化するからこそ、そこから今までより一層綺麗な光りが吹き上がっていくのだろう。アルセーヌはアルフレッドの肩に腕を回すと、宥めるように訪ねる。
「お前の父ちゃんは、大丈夫か?」
 小さな間を空けてから、アルフレッドは憎々しげな様子でアルセーヌを見上げ、眉を歪めた。
「あんな奴!……あいつは、キクが死んだときも泣かなかったし、墓参りも一回しかしてないんだ……」
 最初は威勢が良かった癖に、語尾を弱めていき、最後は泣き声混じりに小さく「父様は、母様のこと好きじゃなかったんだ……」と肩を揺らし、頬を懸命に拭いながら言った。
 そんな筈は無いと、彼が一番知っているだろうに、今は何かに当たらなくては一人で立つことさえ困難なのかも知れない。どんどん溢れ出す涙が顎先からこぼれ落ち、キラキラ柔らかな日の光を反射させ光る。

 
 ノックをしても返事は帰ってこず、まさかと思い慌てて扉を開けると、机の上の書類に没頭している彼が居た。アルフレッドの言うとおり、アーサーはまるで菊の死にこたえる事なく、今までの業務をこなしているかのように、見える。
「……なんだアルセーヌ、来ていたのか。」
 そこにアルセーヌが居ると気が付いたのは、三回目に声を掛けてからだった。アーサーは不機嫌そうな顔を持ち上げアルセーヌを見やるが、それでも片手に持った書類を置こうとはしない。
「なんだよ、親子してダメダメじゃねぇか。」
 そう言ったアルセーヌは、なぜか満足げに苦笑を浮かべると、やっと扉から離れてアーサーの座っている机に歩み寄り、寄り掛かる。と、アーサーは緑色の瞳を細め、少々うっとうしそうにアルセーヌの事を見やった。
 そしてようやく掛けていた眼鏡を外し、コトリと机の上に置くと大きく伸びをする。
「お前も何か手に職を付けた方がいいぞ。今は良いかもしれないが、このまま永遠と楽な生活が出来ると思うなよ。」
 世間話を始めるアーサーに、アルセーヌは思わず苦笑を浮かべると肩を大きく竦めた。
「それでなんだお前は、わざわざオレに説教される為に来たのか?」
 ハンッ、とバカにするようにアーサーは笑うと、結婚してから一度も吸っていなかった煙草に口を付けると、大きな煙を吐き出す。懐かしさよりも新鮮を覚え、アルセーヌは小さく唇を尖らせる。
「そうじゃねぇよ、お前の息子がお前のこと気にしてたから見に来ただけだ。」
 アーサーは微かに目を大きくさせると思わずアルセーヌを見上げて目を細くさせた。それから俯くと、また書類の方へと視線を落とす。
「……日本へ行こうと思うんだ。それで、溜まっていた仕事を終わらせているだけだ。」
「日本へ?」
 アルセーヌが思わず聞き返すと、アーサーは下を見たまま「ああ」と返事をすると机の上に置かれていた紙をペラリと捲り、下の紙を見やった。
「……そうか、そうだな、それもいいかもな。」
 一瞬呆気にとられた後、アルセーヌは呆気にとられたままの顔で一度頷く。
「……あとお前、ちゃんと墓参りしとけよ。アルフレッドが気にしてたぞ。」
 家から出る前にアルセーヌが一言そう言い置くと、バタンと閉まった扉を見やってから、またゆったりとした動作で書類に目を向ける。
 
 
 アルフレッドはまたぼんやりと、光りを浴びているキクの墓の前で座り込んで、大理石を眺めていた。爽やかな風が一つ吹き、自身の髪を揺らしていく。
 後ろからふと足音が聞こえ、慌ててアルフレッドは顔を持ち上げるとその姿をみとめて生えている木の裏にそっと身を隠した。アルセーヌが促したのか、アーサーは花を抱えて俯き加減に菊の墓の前にしゃがみ込んだ。
 
 彼女の死と直面してから、中々訪れることが出来なかった菊の墓の前でアーサーは跪き、冷たいばかりのその墓石を指でそっと撫でる。そこは、冷たくはないだろうか、寒くは無いだろうか……
 何か言わなければと口を開きかけるけれども、喉がつかえ、視界が歪み、言葉は言葉として自身から絞り出されはしない。思わず下唇を噛みしめ、俯くと、それを待ちかまえでもしていたかのように、涙が落ちていく。
 朝起きればちゃんと顔も洗っている、歯も磨いている、髭も剃っている……あなたが居なくても大丈夫だと、本当はそう、伝えに来たのに。
 あなたは一体どこに居るのだろうか。もしもまた会える日が来るのなら、どんなに気が楽だろうか。
 そこは、冷たくはないだろうか、寒くは無いだろうか……もしも寒さで打ち震えているのならば、雨の日も雪の日も傘を差しだしてあげられるだろうけれども、ただ無言しかかえってはこない。
 あなたの死は、どれ程に自分に穴を空けただろうかと、今ここに居るのならソレを叫んでしまいたかった。けれどももう、ここには何もなく、ただ白い石が建ち、美しい花々がその墓を飾っている。
 アーサーは涙を拭きはせず立ち上がると、霞んだ声色で、やっとの事言葉を紡ぐ。柔らかな風が彼を取り囲み、ああ、また彼女がここに来た季節が帰ってきたのだと、ぼんやりと思った。
 
 
「 There will never be another you. 
  I'm glad I've gotton to know you. …… Don't go away.
 
  I'll always love you, and I miss you.
 
  Good night, Kiku. Sweet dreams. 」