もう、お前以上の人間には会うこともないだろう。
お前に会えた事が、オレにとっての、本当の幸せだった。
……どこにも、行かないでくれ。
……愛してる……
お前に、会いたい。
……お休み、菊。 幸福なる夢を。
『 Repetere Primavera 』 巡 る 春
母が死んでから数週間後、父は突如「日本へ行こう」なんて言いだし、未だ部屋に籠もりがちだったアルフレッドの腕を引っ張り出した。初めは憂鬱ではあったのだが、母の生まれた故郷を一度は見ておきたいと、不承不承だがアルフレッドは首を縦に振って、今に至る。
母が生まれた故郷の家と土地一体と、そこから望める広範囲の土地を、アーサーは買い取ったと言う。そのお陰で、彼女の親戚によって土地が荒らされることも、家を壊される事も無く、古い建物はそのまま残っている。
自分達の家とはあまりにも違う、一体どこからどこまで壁なのか分からない程に吹き抜けの良い建物内を歩き回り、時折床が苦しそうな声を立て、アルフレッドを驚かせた。何もかもが古くて、それなのに目に映る全てが新しい物に見える。
父は、家守らしき女の人から案内を受けるまま、そんな室内を躊躇無しに歩いていく。ああここに、幼い頃の母が居たのだと思うと、アルフレッドは見上げた天井の染みが微かに滲む心地がした。
一つの部屋に入ると、開け放たれた窓から一斉に風が舞い込み、畳の青い匂いが辺りに充満し、そして土と草の香りが胸一杯に広がる。部屋に入り込んで直ぐに、アルフレッドは足が動かなくなり、ただ外の光景を見つめた。
先程から何度となく目にしていた筈なのに、手前に一本、庭の奥に一本植えられた桜は、よく分からないが今までの物とはかけ離れていると言っていいほどに美しい。
父はその光景を一目見ただけで直ぐに庭に降り立ち、不思議な履き物を引っ掛けるとそのままどんどん庭の奥へと歩いていってしまう。アルフレッドは慌ててそれを追いかけ、木製のサンダルを履いた。
奥の桜は少々日光が少ないのか、手前に咲いていた桜よりも幾分細く、しかも日陰で下の土は湿って苔が少々生えている。が、アーサーはその桜の前に立ち、その桜を見上げて微かに目を細めた。
桜の木の下には椅子が一個置かれていて、それも随分雨風に晒されていたのか、ボロボロとなり半分腐っていて到底座れそうも無い。
アーサーはしゃがみ込むと、アルフレッドには何も言わずに、ただポケットから一つの指輪を取り出す。それは、確かに埋める直前まで母がしていた結婚指輪で、アーサーは手袋を取るとそのまま湿った土を掘り始める。
適度に開いた穴の中に指輪を入れ、茶色の土を指輪の上にかぶせていくと、不意に菊が入った棺が徐々に土の中に隠れていくのを思い出し、思わずアーサーは顔を顰めて砂を手早く掛けてしまう。
菊は、自分にとってたった一つの光りだったというのに、それなのに結局自分を一人置いて、どれ程探しても見つからない、遙か彼方に行ってしまった……悔しいような、悲しいような、絶望さえ感じてアーサーは強く目を瞑る。
指輪を埋めてしまうと、アーサーはまるで逃げるように立ち上がり、そして振り返り、後ろに立っていたアルと目があった。彼は、何か言いたそうな顔をしているけれど、表情がまるで読めない。
終始一度も菊に似ていると言われた事のないアルフレッドのその顔に、それでもなぜか、一瞬彼女の姿を見つけてアーサーは瞬時立ち竦み、彼を見つめた。
彼女が自分の命を削ってまで生んだアルフレッドは、自分達が想像仕切れないほどに大きくなっていき、そしてやがては自分の身長までを超えてしまうのだろう。
彼女は、そこに居た。
菊はちゃんと、決して自分を一人にしないように彼女が一番大切にしていた存在を残していってくれていたのだ。一つ吹いた風に髪を揺らされ、自分と同じ色をした彼の髪が揺れる。似ても似つかない筈の息子の顔に、彼女の影が滲む。
暫く立ち竦みアルフレッドの顔を見ていたアーサーがアルに歩み寄り、まだ幾分己より小さいアルフレッドの体を抱き寄せる。勿論すぐにアルは抵抗しようとしたのだが、父が耳元で、掠れた声で母の名前を呼ぶものだから、動けなくなってしまう。
自身と同じ金色の髪を目の端で見つめたまま、風に吹かれて桜の花びらが一斉に散る姿が眼前に広がり、瞬時こんなにも美しい情景があるものだろうかと、立ち竦んだ。
母の柔らかく暖かい手の平がまだ幼い自身の頭を撫で、その声が自身を慈しみ、世界はずっと暖かな日だまりに染め上げられる。巨木の影に、自分も知らない程に小さな、母を見つけた気がした。
自身を抱きしめた父の肩が震え、アルフレッドはただ抱きしめられるままに初めて観た世界と対面していた。
駈けていく。土の薫りが鼻先を掠め、自分の背より高い、青い雑草を掻き分けて、菊は新しい着物が汚れるのも、靴を履いていないことも忘れ、ただ初めて自由に動く足を動かし、夢中で駈けていく。
不意にずっと続いていた草の森が終わり、眼前一杯の真っ赤な夕焼けが菊の目を焼いた。それは懐かしい、故郷の空だ。故郷の匂いだ。そして、懐かしい空気だ。
空には赤とんぼが無数に飛び交い、金色の稲穂が見える所どこまても続いている。そして風が吹く度に、まるで金色の海の様に稲穂が轟き、波打った。
日本だ、日本だ、日本だと故郷の景色に菊は胸が一杯になるのと同時に、向こうで自分を待っていてくれている二つの影に向かい、両手を大きく振りながら駆け出す。その顔に浮かべられた笑顔は、どこか泣き出しそうな笑顔だ。
何時の間にそうなのか、もう気にも止めないうちに菊の体は小さくなり、この国で過ごした幼少時代そのままの容貌であった。けれどもそんな事、ここではとるに足りない事。
「お父さま!」
舌ったらずな口調で菊はそう叫び、一人目の影に抱きつくと、彼はいとも簡単に幼い菊を抱き上げ、抱き締めてくれる。暖かさと懐かしい匂いに、思わず菊は泣き出しそうな目を細めた。
抱き上げられて初めて気が付いたのだが、この稲穂の更に向こうには、巨大な桜の木が植えられ、ハラハラと絶え間なくその涙を散らしているのが見える。
ああやはり死んだなんて、嘘だったんだ。菊は震える掌でギュッと彼に掴まってから隣に視線をやると、やさしく微笑む母の姿を見付け、菊は思わず泣きだしそうになる。
柔らかな母の笑顔。もう忘れたと思い込んでいたその顔が、吃驚するほど自身に似ていて、それでいて懐かしい風貌。
「……ごめんなさい、菊。」
申し訳なさそうに俯く母に、菊は目を細めて首を振りにっこりと笑う。またこうして会えるのなら、この世界に謝罪など何もいらない。
「おまえは幸せだったか、菊?」
そう問うてくる父の声は、不安でか微かに震えていて、菊は顔を持ち上げて自分を抱き上げている父の顔を見ようとするが、太陽の赤い光の影となってその表情は読み取れない。それでもそこに幾分かの後悔が滲んでいて、菊は表情を和らげた。
菊は視線を向こうに続いている稲穂の海に向けると、金色がザワザワと揺れ動き、海鳴りにも似た音がこの世界にあふれ出す。全ての光りは彼等に吸収され、蠢く波は今まで見てきた何よりも美しい。
金色の光は、あの人の髪の色と同じ色。キラキラと華やかな、美しい色。この風は、きっとあなたに届くのだろう。
「私、幸せでした。とても。」
ああ、だから、そんな顔なさらないで下さい、アーサー様。
あなたの事を愛しています、これからもずっと……。ずっと、傍に居ります。
ああ、だから、今はお休みなさい。もうさようならです、愛しいあなた。
直ぐに訪れるだろう、優しい夢まで……
「キク、体調はどう?」
幼い頃から落ち着き、という言葉をどこかで落としてしまったかのように騒がしかったアルフレッドも、最近はとても穏やかで柔らかい。それは喜ばしいことなのか、そうでないのか分からずに、菊は苦笑を床の中、浮かべて彼を見やった。
「大丈夫です。」
先程まで寝入っていたせいか、少々喉が涸れていたけれど、本当に今日は随分と楽である。
それでもアルフレッドは不安そうな色をその顔に浮かべ、菊の眠るベッドの横に椅子を引き出して腰を下ろす。そしてまた珍しいことに、随分と長い間彼は押し黙っていた。
「あのね……キク。」
ようやっと口を開いたアルの瞳は外を向いていたけれど、キラキラと日射に反射するその輝きには、確かな怯えと微かな涙が滲んでいる。
「キク、オレ、色んな事を考えたんだ。」
余所を向いていた瞳が再び菊を捉えたとき、それは幼い頃にしていた彼の表情とそっくりであり、思わず菊は息を飲み込みアルの事を見た。震える彼の声が寂しげで、菊も思わず不安に捉えられる。
「オレ……オレ、死にたく無いよ。こんなに怖いなら、時々、生まれてこなければ良かったなんて思うんだ。」
アルフレッドの顔には、まるで懺悔の様な悔しさが滲む。泣き出しそうな瞳を揺らしながら、「……こんなときにゴメン」と喉元で呟く。
菊はフルフルと首を振ると、ふんわりと柔らかな手つきでアルフレッドの金髪をそっと撫で、ふんわりと微笑む。不安そうなアルフレッドを宥める様に、菊は子供の頃彼にそうしたものと寸分違わずに、アルフレッドの頬を包み、上を向かせた。
「アルフレッド、愛してます。これからも、ずっとずっと、愛しています。」
穏やかにそう囁く彼女の声色は、優しくて、懐かしくて、切なくて……アルフレッドは思わず身を乗り出し、キクに鼻先を寄せると、震えながらも力強い声で返す。
「オレもだよ。」と。
今もこんなに愛しているし、これからだってその心地は消えることなんて有り得ないだろう。例え彼女が居なくなっても、自分が居なくなっても……きっと、この思いは途絶えたりなんてしない。
アルフレッドは、自身の背中が微かに震えるのを覚えて、目の前が涙の膜で霞んでいくのさえどうでも良かった。
柔らかな光の中で微笑む彼女は、今も昔もまるで変わらない、あの強い女性であった。どんなに悲しいときも、彼女に抱き上げられればなんでも無い事へと変わってしまう。
窓の外では木々が揺らぎ、花々はもう少し待てば目一杯に短い自身の人生を謳歌するのであろう。
……そんな景色を肌で感じると、世界はなんて意義深いものなのだろうと、そう思えてくる。キラキラ光る太陽の光は、誰をも平等に包み込み、その人々が全員自分達と同じなのだ。
「愛してるよ、母さん。」
涙ぐんで俯く、そのアルフレッドの頭を、ゆったりと優しく菊は撫でた。世界は若返り、青葉の薫りが辺りに満ち溢れ、幼き頃に本を読み聞かせてくれた母が、瞬時に脳内に駆ける。
午後が来る。麗しき物語の一部に、午後がやっと顔を出す。
終わりのない終わり
後書き
もしも人が死んだのなら、一体何が残るのか。
何も残らない、という筈は有り得ないと、信じたいです。
そして永遠に輝く何かがあるならば、道を外す事なかれです。