卿菊 ※ この小説はかの有名な貴族英×女体日パラレル(卿菊)の設定を少々拝借させて頂き書いております。私の妄想満開ですので、あしからず。
 
 
 
 
 幼い頃、暑い日は侍女なんかを連れてよく海水浴へ行った。父親はあまり家にいない人だったし、母は足が悪かったから、泳ぐのは大抵一人だった。
 母は自分が泳いでいる間、海を見ていると言っていた。海は、母の故郷にも当然あって、そして故郷と繋がっているのだと、昔話をするように、彼女は言う。
 海で1日過ごすと体は疲れ切り、重く、そして微睡みはまるで波の中にいる感覚となる。遠退く海鳴りと、光ばかりの世界で彼女に抱き上げられ、心地よい午後がきた。
 帰りの馬車は微睡みの最中で、振動は波間にと入れ替わる。
 そして母からは、微かな潮の薫りがした。母は沈み掛けた太陽の光をキラキラと照らしている海と同じだと、夢うつつに思うのだ。
 
 
 
 
 『 novembre 』  (ノヴェンブレ 思い出と十一月)
 
 
 
 
 やってしまった、と、アルフレッドは深いため息を吐き出して、憎々しげに顔をしかめる。今までどれだけ馬鹿にされようとも、表立って人に暴力をふったことは無かったのに、ついカッとなってみんなが居る前で手を上げてしまった。
 けれど殴った事についての後悔はしていなく、ただ自分が人に暴力をふるった、という情報がキクに流れてしまうのを恐れているのだ。
 成績は良い方だし、こんなときだからこそ利用出来る父の地位は他の血筋で争える者はほとんど居ない。つまり少なくとも退学だとか停学だとかは有り得ないだろう。しかし相手はキクである。暴力自体彼女が好むとは思えないし、落胆させてしまうだろう。
 アルフレッドは学園長の部屋をノックすると、余所行きの声色で一度挨拶をした。返事を聞き、特に臆する事もなく扉を開け、アルフレッドはピタリと固まる。
 ちょこんと座った彼女が心配気にアルフレッドを上目遣いでみやったものだから、その黒い瞳と直に出会い、久しぶりに見たことに対する喜びと同時にだまされた様な悔しさを覚えた。
「な、何でキクがここに?」
 思わず眉を歪めてそう問うと、心配そうな顔をした彼女は、いつもそうしていた様に小さく首を傾げてみせる。そんな動作ひとつひとつが懐かしいのに、今は喜ぶ隙間さえない。
「呼ばれたんです。」
 そう、そんなこと聞かずとも分かっていたけれど、聞いてしまえば益々悔しさがアルフレッドの胸中につのる。身から出た錆とは言え、まさかキク本人が呼び出されるとは思わなかったのだ。
 アルフレッドはカッとして今すぐにでも文句を言ってやりたかったが、キクの手前汚い言葉を吐くことさえ戸惑いを覚える。仕方なしに、アルフレッドは学園長に促されるまま椅子に座った。
 幼い頃から母に怒られた記憶はほとんど無く、だからといって勿論、母を軽く見ていた訳でもなく、逆にいつかため息を吐かれるのではないかと、幼い頃から酷く恐ろしかったのだ。
 自分を見やっているキクはため息を吐くわけでも、怒るわけでもなくじっと自分を見やるばかり。だから、目を逸らしてしまった己が憎い。
 授業中の為、校庭で授業をしている楽しげな音が聞こえてくる。静かな室内ではその声が酷く反響し、アルフレッドは益々居たたまれなくなり、自身の手の平に視線をやって、どうにかこの場を乗り越えようと努める。
「二人で話を十分したから、君はお母さんに部屋でも案内して来なさい。」
 学園長にそう声を掛けられ、アルフレッドは納得しきれない様子で一度学園長のひげ面を睨みかけるが、菊の目があるのに気が付き諦めた。
「ならキ……母さん、案内するよ。」
 一体二人がどんな話しをしたのか気になるけれど、この場面でそんな事も聞けずに、そのままキクに向かい掴まるための腕を伸ばす。
 学校に入ってから、長期の休みにしか会えに行けなくなて、会える日は驚くほどに減ってしまった。昔はいつだって傍に居たというのに、こんなにも離れてしまうと、久しぶりに会う度に母は昔から知っている母から離れていくように感じる。
 いくら東洋系で西洋の人よりも歳を取らないといっても、スルリと伸びた指はハッとするほどに歳をとり、泣いている自分をいつも包み込んでくれたその体は、知らない内に益々小さくなっていく。気が付かないうちに、どんどん彼女は自分から離れてしまう。
「綺麗な所ですね。」
 不意に隣りを歩いていたキクがそう言い、物思いにふけっていたアルフレッドはそこでやっと自分を取り戻し、彼女に顔を向けた。するとキクはにっこりとこちらを見やって微笑み、懐かしさと共に切なさを覚える。
 学校はいつもとあまり変わり無く、変わりがあるのは自分ばかりだ。
 部屋は……ルームシェアをしている部屋は、男二人で住んでいる訳だし、キクに見せられる有様ではあまり無い。一体どこに連れて行ってあげれば、彼女は喜ぶのだろう。
 昔、幼い頃、足の悪い母をどこまでも連れて行けることが自分の夢であったのを、思案しながら思い出した。自分も想像の範囲内を超えやしない外国だとか、見たこともない花が咲く野原だとか、母の祖国だとか……
 それも幻想だったのだろうかと、今は少し、そんな事を思うようになった。夢は時間に追い越されて、幻想は幻想から脱却する間もなく、自分は一人ぼっちになってしまうのではないかと、今は怖くてならない。
「お友達、沢山居ますか?」
 柔らかで懐かしくて心地よい、彼女の優しい声色が懐かしさよりも新鮮さを伴って自分に響く。
「居るよ。」
 一体友人とはどんなものなのかすら、本当は理解さえしていない癖に、アルフレッドは迷う事などせずに、即答してみせる。アルフレッドは学内では常に強者といっていい存在であったし、傍に人がいつも居る存在であった。
 けれども彼等がどこかで自分の生まれを嘲っていることも、ちゃんと理解している。だからこそこの学内の人間達がくだらない存在に思えてならない。
「そう、なら良いんです。」
 彼女はそう言うと、微かにその大きな瞳を細め、眩しそうに外を眺めながら微笑む。……きっと、キクならばきっと、アルフレッドが放った言葉の根を掴んでいるだろうに、それ以上は何も追求してはこないのだろう。
 不意に落ちてくる沈黙が勿体なくて、アルフレッドは慌てて口を開こうとするけれど、何と言っていいのか分からずに口ごもってしまう。と、アルが何かを言うよりも早くに、菊はアルに視線を寄越すと、小さく肩を竦める。
「それではあなたともお話し出来たし、そろそろ帰りますね。」
 ふんわりと微笑んだ彼女が杖を取り直したのを見やり、アルフレッドは慌ててキクの背中を支えて歩くのを手助けしてやる。
 
 
 裏門では懐かしい外見の馬車が待機していて、召使いの代わりにアル自身が彼女をサポートし、乗せる。次に会えるのは長期の休みの時だけ。
 前は週末良く会いに帰った物だけれど、今では長期の休みだけにしか家に帰らなくなってしまった。その理由は一言で言えない……というか、アルフレッド自身も一体どうしてなのか、分かっていないのだろう。
「……どうしてキクは、オレの事を叱らないのさ。」
 馬車が出るのを見送る最中、我慢できずにアルフレッドはそう声を上げ、菊を見やる。けれども彼女は、ただくすぐったそうに目を微かに細め、そしてアルフレッドの頭の上に軽く手を置いた。
「今度帰ってきたら、苺のパイを焼いてあげますね。楽しみにしていて下さい。」
 そう一言言い置き、彼女の手は引っ込み、アルフレッドが顔を上げるよりも早くに馬車は動き出してしまう。
 小さくなっていくその馬車を見送りながら、上がる土埃ばかりに視線をやり、やがてその音さえ聞こえなくなる。暫くその場で立ち竦んだ後、クルリと向きを変えてそのまま重苦しい門の下をくぐった。
 中庭には小さな花々が咲き乱れ、牢獄じみたこの建物には酷く不釣り合いな世界が広がっている。
「アルフレッドさんのお母さん、本当に綺麗な方ですね。」
 不意に背後から声を掛けられてそちらを見やると、トーリスがいつもどおりの笑顔を浮かべてアルフレッドに向かい片手を持ち上げた。
「……今はまだ、オレに話しかけない方が良いんじゃないかな。」
 ついつい手を挙げてしまってから、アルフレッドに付いていた人間は、いきなり自分の傍から離れていった。そんなくだらない人間、元より興味の欠片もなかったけれど、いい加減苛々してくる。
 トーリスはアルフレッドの言葉に軽く肩を竦めるが、ただ困ったように眉尻を下げただけでアルの傍から離れようともしない。
「あの、なんかオレ、良く分かりませんが、そういうのは好きじゃないです。」
 えへへ、と照れてトーリスは自身の頬を掻いて笑う。その姿を横目でアルフレッドは見やってから、小さく肩を竦め、無言のままに自室へと向かって歩き始めた。
 
 
 
 
 
 
 切っ掛けは、本当にくだらない、身分だとか成績だとか、またはこの年代の少年にとったら大事な事柄である、スポーツでの妬みだったのかもしれない。もしくはただ上にへつらわないアルフレッドがたんに気に入らないだけの、高学年だったのかもしれない。
 とにかく、アルフレッドは一人の一つ年上の先輩に目を付けられていた。尊敬出来る人物にしか、それなりの態度を取らないアルフレッドは、勿論嫌われているからといって、別段何か気を回すつもりさえない。
 だからといって、人の目があるところや、今のところ下手に出ていれば良いだろう人の前ではきわめて従順であるふりをする。大抵はにっこり笑っていればどうにか誤魔化せるし、それほど苦痛では無い。
 ああ、だからとって、どうして少しも尊敬に値しない人物に嫌味を言われて腹が立たないこと事が出来ようか。
 
 名前呼ばれ、アルフレッドはやっと彼に顔を向け、そして足を止めた。彼曰く、アルフレッドが彼の事を無視したらしい……のだが、アルフレッドからしたら別段無視したつもりも無い。ただ目線の中に入らなかっただけの問題だったから。
  「お前の母親、イエローらしいな。」
 振り返ってもあまり反応しないアルフレッドに憤りを覚えたのか、相手は憎しみをその表情に映して目を細めた。アルフレッドの平静を崩すことが出来るか、もしくは最大の屈辱を与えることが出来ると、相手はそう踏んでいたのだろうが、アルフレッドは小さく肩を竦めた後、溜息を吐き出す。
 その手の中傷にはもう慣れていたし、あまりにも語彙力が乏しく、そして相手への精神的ダメージを与えることも出来ないセリフに、思わずガッカリしてしまったのだ。
「だから?」
 アルフレッドは小さくそう返すと、そのまま踵を返して自室に戻ろうとするも、それを止めようとまた彼が口を開く。
「恥ずかしくないのかよ、そんなんでこの国に来て。それともお前がマゾコンだから、親子揃って恥知らずなのか?」
 気の利いたつもりらしい彼は、自分のその言葉にしたり顔を浮かべ、彼の金魚の糞も釣られるように小さく笑った。だが、アルフレッドの隣りに立っていたトーリスは、瞬時に顔色を変え、慌ててアルフレッドを目の端で見やる。
 何を言われても部屋に帰るつもりだったアルフレッドは足を止め、ゆったりとした動作で振り返る。
「マザコン?へぇ、じゃあ君は、自分の母親を愛していないのかい?」
 それまで平静を保っていたアルフレッドは、不意に顔に陰を落として冷たい怒りを顕わにした。その場で事の成り行きを見ていた人々も、思わず息を飲み込み一歩後退してしまう。
 言った相手は抑えながらも動揺すれば、アルフレッドは彼に似合わないほどにニッコリと微笑み、大股に相手に近寄り、その顔を覗き込んでやった。
「君さ、オレが居ない間に随分と適当な事を言ってるらしいじゃないか。」
 クツクツと喉を鳴らして笑うアルフレッドは、グイと彼へと顔を寄せれば、相手は怯みたじろぐのが分かったけれど、それでもアルは責めるのを止そうとはしない。
「言えよ、今すぐ。言えよ。」
 笑顔を直ぐさま消し去ると、奥歯をギリギリと鳴らしながらアルフレッドは薄青い瞳で彼を睨み付ける。相手は当然何も言えずに、ただ怯えの滲む顔をアルフレッドに向けた。
 アルフレッドは腕を伸ばして、怯えが滲む彼の襟元を掴んでキツク締めた。グッと喉元で呻く声が聞こえるのだが、それさえ気にせずにアルフレッドはギリギリと力を強くさせていく。
 不意に、何も言う暇さえ与えずに、パキッと小気味よい音が鳴り響き、アルフレッドの拳が相手の顎先に綺麗に入った。ジン、と拳が痛みで響いたけれど、アルフレッドはその拳を解こうとはしない。
 タラリと口の端から血が垂れ、膝が微かに震えた後、彼の体が簡単に床にへたり込んでしまう。
「立てよ。」
 彼の金糸に似た髪を掴み顔を持ち上げさせ、そしてまた小さく目を細めてみせる。すかさず腕を振りかぶるけれど、それよりも早くにアルフレッドに誰かがしがみつく。
「ちょっともう止めて下さい、みんな見てますよっ!」
 慌てたトーリスが、最後は声を潜めてそう言ったのに、ようやくアルフレッドは我に返ってハッとした。こんなにも聴衆が居る中で、あまりにも自分を失いすぎてしまった様だ。
 パッと彼の頭から手を離すと、指先に絡まっていた髪の毛を、汚い物を拭うように振り落とす。そしてまた無言のまま、アルフレッドは自室に向かい歩き始めた。
 後ろで慌てたトーリスの声が聞こえてくるけれど、アルフレッドは足を止めることもなくそのまま自室へと突き進んでいく。握ったドアノブは、あまりにも冷たく懐かしさの欠片さえ存在しない。
 もう授業が始まる時間だからだろうが、相方はおらず、部屋はやはり散乱したままだった。懐かしい我が家なんて、そこには欠片も落ちては居ない。
 アイツはもっと世間を知っておけ、なんて何度も言ったのだが、世間なんて所詮こんなものだ。なんともまぁくだらなくて、狭くて、汚くて、夢も希望も、キラキラ輝く夕日さえ無いのだ。
 突っ立ったまま、目の前がユラユラ揺れるのが見え、自身が涙ぐんでいるのだと初めて気が付き、眼鏡を取るとそのまま袖で拭う。
「……キク。」
 ポツリと漏らした声は、意外なほどに部屋に響き、忘れたはずの姿が掠れる。それは憧れであるのか。否、そんな事くだらない……
「君に、会いたいな。」
 どうしてここはこんなにも地獄なのか。どうしてオレは、楽園から追い出されてしまったのだろうか。
 楽園に続く空が、酷く淀み目の前に広がっていた。