椿姫・別ルート
※小説部屋にある「椿姫」を先にお読み下さい。今回ははっぴーえんどばーじょん
「椿姫」
近所の洋服屋で働いているアルセーヌを送り出すと、週に一度程菊は医者に通い、薬を貰い受けていた。決して裕福では無いけれど、そのぐらいのお金はどうにか工面出来る。
結核はうつる病気であったけれど、アルセーヌは特に気にする様子もなく、それが菊を戸惑わせた。その事を責めると、彼はにんまりと笑って「だって、恋人同士同じ病気で死ぬなんて、ロマンチックじゃん。」なんて言うのだ。
勿論菊は頬を膨らませて起こるけれど、アルセーヌはそんな菊を見て笑う。
けれど、キスの一つさえしない恋人など、彼も楽しくは無いだろう。それまで遊び人だったアルセーヌにしてみたら、この暮らしは楽しといえるのだろうか。
家事を終えてぼんやりと、そんな事を考えていた時、扉の向こうでノックする音が聞こえ、菊は顔を持ち上げた。この街に知り合いは居ない筈なのだが、と、微かに首を傾げる。
扉を開けると、大きな鞄を抱えた一人の初老の男が立っていた。菊はキョトンとして、その男性を上から下まで眺めてから、慌てて彼を中へと招き入れる。
彼女が出て行った後の家は、もとより家具がなかった筈なのに、以前にも増してガランとして見える。人一人の存在が、こんなにも空間を変えてしまうものなのかと、思わずアルセーヌは驚いた。
この街が好きで、暫くはどうするでも無くぼんやりとソコに居たけれど、バカンスの時間が近づけば出て行かなければならない。叔父の別荘であるから、いつ誰が来るとも分からないからだ。
本当だったら期間一杯お金を貯め、小さくとも一部屋借りて、そこで細々とでもいいから、彼女と2人の生活をしたかった。けれど、散々遊んだ自分も彼女も、その資格は元から無かったのかも知れない。
もとの街にはあまり帰りたくなかったけれど、もしかしたら……もしかしたら、病状の悪化で移るのを恐れ、そしてここを出て行ったのかも。そういう考えが、自身と彼女を惹き付けているのだろう。
仕事を行く気になれず、そのままバイトを首になり、アルセーヌは荷物を纏めてもとの街へと帰っていった。そこで見たのが、以前よりも尚派手に遊んでいる菊だった。
元々娼婦など似合わない性格だと思っていたが、それも勘違いか、それとも恋しているからこその盲目だったのか、以前より酒を呑み、煙草を吸い、パーティーの度に男を囲んで笑い声を上げている。一緒に暮らしていた時の貞操など、その時の彼女は持ち合わせていなかった。
自分はそれなり温厚な方だと思っていたけれど、この光景を見ていたその時ばかりは頭に血が上った。それまで男と戯れていた菊が、ふとアルセーヌを振り返った。ばっちりと目があったその瞬間、確かに菊は動揺を示す。
瞬時に思い出したのは、大きな目を潤ませて、雨の中己を尋ねてきてくれた姿だ。愛を求めるのは愚かでは無いけれど、無い愛に縋るのは愚かだろう。それは分かっている、分かっているのだが……
アルセーヌと目があった菊は、社交界の途中だというのにそそくさと帰っていった。
次に彼女と会うだろう社交界では、昔の女を連れて行った。その深層心理は自分でもわからなかったけれど、結局彼女と同様、一緒に暮らした日々はただの遊びだったのだと、彼女と自分に言い聞かせている行為だったのだろう。
そうでもしなければ、いつまでも永遠と未練に揉まれて、執着していたかもしれない。男女問わず、執着と嫉妬は、醜い。後ろ暗い感情は勿論あり、どうにかして見せつけられればと思わなかったといえば、嘘になる。
出会った彼女の表情は、想像していたよりもずっと、ずっと切なそうで、やった自分が一番戸惑った。泣き出しそうなその黒い瞳は、雪の降る日に、己を尋ねてきたその瞬間をありありと思い出させた。
その癖、アルセーヌは抱いた女の腰を引き寄せ、無言で彼女の横をすり抜けた。いつの間に髪を切ったのか、サラサラと揺れる好きだった黒髪は、もう肩にさえついていない。自分が好きだと言ったから、切ったのだろうか。
数回目の端で見つけた彼女は、やがて社交界にも顔を出さなくなる。流れてきた噂では、結核であった事がバレ、あまり男も寄りつかなくなっていったという。
自分にはもう関係のないことだと思う反面、悪化したのだろうかと考える自分も居る。過去の恋に捕らわれてしまうなど、自分らしく無い。自嘲気味に笑ってシャンペンに唇を当てた時、不意に後ろから声を掛けられた。
「……お前、本田の家に行ってこい。」
振り返るとアーサーが顔を顰めて立っている。アルセーヌは一瞬表情を陰らせるけれど、直ぐに笑顔を浮かべてみせた。
「え?なんで。やだよぉ、俺が振られちゃったのに。」
わざとらしく笑ったアルセーヌに、アーサーの表情は更に厳しくなる。不機嫌な彼に勝てる者は中々無いけれど、今は容易に頷きたくはない。
「あなた、振られちゃったの?」
クスクス笑う連れの女性に笑みを送っていると、バンッと大きな音で思わず顔を上げさせられる。アーサーが叩いただろう机には、グラスが一つ倒れ、赤ワインが真っ赤な染みを作り、ポタンポタンとそれが床に少しずつ垂れている。それは、夜中に苦しそうに咳をする彼女の口の端から垂れた、真っ赤な血を彷彿させた。気が付いたらジッと、零れるワインの雫に目がいく。
どうしたの?と、声を掛けられるまで、アルセーヌの視界と思考は赤い雫に支配されていた。しかし本当に見ていたのはワインの雫では無く、遠くにいる懐かしい後ろ姿ばかりが瞼の裏にちらつく。
「……アルセーヌ」
冷えた声色で名前を呼ばれ、ゆったりとした動作でアルセーヌは顔を持ち上げ、アーサーを見た。
「……俺に、どうしろっていうの?結局あの子が決めた事でしょ」
「うるせぇ!ガタガタ言ってねぇで会いに行けって言ってんだよ。……後悔したいのかよ。」
吐き出された言葉に、アルセーヌは微かに眉間に皺を寄せる。そのまま踵を返し、アーサーの目線を振り解くかのように歩き始めた。後ろでもう一度名前を呼ばれるけれど、そのまま肌寒い外へと出て行く。
「帰るの?」
隣に立っていた女が、不思議そうにそう声を掛けてきた。一瞬連れが居たことさえ忘れていたアルセーヌは、ギョッとして思わず立ち竦んだ。
「んー。ガキが五月蠅いからね。……俺んちおいでよ。」
手招きするけれど、女は突っ立ったまま動こうとしない。ただ目線を少しばかり下にすると、不機嫌と言うよりも、どこか寂しげな影を落とした。
「あんたさ、変だよ。帰ってきてからずっと」
彼女は一つ、ポツリとそう漏らすと「寒いから入る」と、アルセーヌに背を向けてそのまま屋敷の中へと再び入ってしまう。アルセーヌは上げた手の所在に困り、そのまま適当に振り、煙草へと手を伸ばす。
今更屋敷の中に入る訳にはいかず、そのままプカプカと煙草をくわえながら歩き出す。久しぶりの煙は肺に染みて、情けなくも思わず咳き込む。
胸ポケットに入った彼女から貰った指輪に、煙草の箱を戻すときにようやく気が付いた。無くさないようにいつもいつも胸ポケットに入れていたから、今日もすっかり忘れて入れてきてしまったのかも知れない。
キラキラと光る指輪を上に翳すと、懐かしいその光に、アルセーヌは思わず目を細める。この宝石に全ての思い出が詰まっている様な心地さえ覚え、溜息を吐き出した。
「な……何しに……」
扉を開けると、顔面が蒼白の少女が立っている。痩せた、ほんの一週間ばかり見ていないだけだというのに、彼女は目に見えてげっそりと細くなっていた。
「いつもいる女中は?家具も少なくなってるね。」
戸惑う彼女を余所に、そのままズカズカと部屋に入っていくと、いつも置いてあった筈のピアノと、置物が数点見あたらない。そのアルセーヌを止めるために、菊の指先が彼の服に絡み、引っ張った。
菊が文句を言おうとすると、それよりも早くに肩を掴まれて顔を近寄せられた。菊は瞬時に病のことが気になり、思わず顔を反らした。
「薬は?ちゃんと飲んでるの?」
「あなたには、関係ありません」
声を震わせた菊に、思わずアルセーヌは笑い声を立てた。
「そういうこと、言う?」
軽く笑っただけでそのままアルセーヌは台所へと入っていくと、菊は諦めたのか、戸口につったってぼんやりとアルセーヌの動向を見やっていた。
「料理も暫くしてないみたいだね。」
荒れた台所に目線をやると、彼は微かに首を傾げた。娼婦に似つかわしくなく、彼女は料理や家事の類が大好きで、食事は勿論水くみ、掃除、洗濯と、侍女の必要があるのかと疑う程に何でも自分でやっていた。
それなのに、台所には料理した形跡が無いし、部屋は掃除した跡も無い。その上薬を飲んでいる様にも見えない。
「さ、お兄さんがおいしい物作ってあげるから、大人しく座って待ってなさい。」
眉根を下げ、納得の行かない様子でこちらを見やる菊に笑いかける。けれど彼女は容易には頷こうとしない。
「お願いです、帰って下さい。」
「友達、としてでも駄目なのかな?」
どこに何があるのか確認しつつそう宥めると、菊は眉間に険しい皺を作り、泣き出しそうな表情を浮かべている。やっぱり何か変だと思いながら、今はまだ核心はつかない。
食材はあまり無く、本当に簡易な物しか作れなかった。が、それでも我ながら素晴らしい出来だと心の中で自画自賛する。差し出しされた菊は、椅子に座ったままその食事を眺めるだけだった。
「……怒ってないんですか?」
「えー?怒ってないわけないじゃん。」
並んだ食事を目前に、それでも菊は動こうとしない。アルセーヌは机に片肘をつけて俯く彼女の顔を覗き込む。青白い、明るかったその影もない顔色。
「じゃあなぜ来るんですか!もう、放って置いて下さい。」
パッと顔を手の平で覆う菊を相手に、アルセーヌは瞳を細めた。
「これ、返しに来たんだ。」
胸ポケットから指輪を取り出すと、机の真ん中にコトリと置くと、潤んだ黒い瞳がソレを捉える。そしてフッと、その顔に切なさが交じった。
菊はその指輪を拾い上げると「確かに受け取りました」と一言呟き、右ポケットにぽとんと落とす。
「ねぇ……あのね、恥ずかしいんだけど、さっきやっと頭冷えてきたんだ。そしたらやっぱりさ、不思議なんだよね。
菊、だったらさ、理由言っていくだろうな、って思って。」
湯気を立てる卵料理を見やりながら、そう呟く。部屋の中数カ所に設置された蝋燭は、ユラユラと部屋の中を照らし出し、俯いた彼女の顔にも陰が付いていた。
「言いたくない?……いや、言えない?」
言い終わるよりも早くに席を立つ。そこでようやく、はじかれた様に菊は顔を持ち上げ、泣き出しそうな瞳でアルセーヌを追いかけ、自身も立ち上がった。けれどもそれより早く、アルセーヌは部屋の隅に置かれていた衣装箱に手を掛けた。
隠し物はいつもここだね、と、他の男から貰った物が詰まっていた衣装箱を前に一人、こっそり笑ったのは随分昔のことに思える。その中に、今はバッグが一つ、ポツンと置かれている。後ろで菊が悲鳴を上げ、縋り付いた。
「それは駄目です!お返ししなければ……」
「……死んでから?」
開けると中に札束が幾つか詰まっていて、どれもまだ手を付けていなく、思わずアルセーヌは顔を顰めた。
見たことのある鞄に、見たことのある紋章。引っ張り出して彼女の目の前に置くと、ゆったりとアルセーヌは立ち上がり、床に座り込んだ彼女を見やる。
「……死んだら、返すつもりだったんだ。」
ポツリと漏らすと、フローリングの上、菊は強い拳を握り締める。その床に、音を立てて雨粒のような音を立ててドットの色を付けた。
「もう、お許し下さい。」
「許す?何を?勝ってに出て行った事?俺に、相談しなかったこと?」
ポタン、ポタンと、涙が絶えずどんどんと零れていくのを見やりながら返事を待つけれど、いつまで経っても答えは返ってこない。だからこそ、続いてアルセーヌが口を開いた。
「薬、飲んでる?……お金無いなら、コレ、使えば良かったのに。」
足先で鞄を突くと、そのままゴトンと倒れてしまった。こんな紙くずと、内心ポッと憎しみが宿るけれど、その感情も彼女の声で打ち消される。
「だってそれを使ってしまうと、まるで、お金が欲しくてあなたと別れたみたいですから……」
言葉はしゃっくりによって破られる。そこになってようやくアルセーヌはしゃがみこみ、泣いて揺れるその頭をゆったり撫でる。と、そこで鼻の上を赤くして、頬と睫に涙を付けた彼女が顔を持ち上げ、アルセーヌを見やった。
やつれた頬を撫でると、身を乗り出して少々低いその鼻の上にキスを送る。菊は一瞬目を大きくさせてから、眉根を下ろして泣き出しそうな表情になる。
「……あなたはもうお帰り下さい。ここに居てはいけません。」
「なんで?」
「私と一緒では……娼婦と一緒では、不幸になります。」
アルセーヌは思わず苦笑を浮かべる。
「自分の幸・不幸は、自分で決めるよ。」
食事は半分も食べられなかった。寝室でベッドに横になると、なんとまぁ薄っぺらになってしまった事かと、アルセーヌはこっそりと驚いていた。
求められるままに手を繋ぐと、枕元に置かれた蝋燭だけがこの部屋の灯りとなり、ユラユラと揺れながら部屋に多くの影を落としている。虚空を見やっていた彼女の黒い瞳が、やがてゆっくりとコチラを向いた。
「私、もう長くないかも知れませんよ。」
寂しげに漏らされた言葉に、アルセーヌは再び苦笑を漏らすと、身を乗り出して唇を合わせる。甘い香水の匂いが漂い、菊は目を細めた。
「早く元気になりなよ。そしたら、今度は容易に親父が来られない、遠い所へ行こう。アルプスなんて、空気が良いからいいかもね。」
菊は男を見上げながら、視界が揺れるのを覚えた。そして一つ頷くと、その揺れていた視界から、ポロリと雫となり頬を伝っていく。そしてそれを拭う間もなく寝入ってしまったから、かわりにアルセーヌがソレを拭う。
窓の向こうは既に白々と明け始めていて、黒い煙を吐き出す煙突が、もう少しで稼働するだろう。絡めた指先があまりにも細くて、アルセーヌに焦燥感を植え付けた。
まず薬を買いに行き、毎日通って栄養を摂らせ、それなり体力が回復したのを見て早朝街を抜け出した。最後にした作業は鞄を自分の家に送る事で、菊には中身をそのまま返したといったけれど、本当は全て着服させてもらった。
いつか全て返せるまでになったら、返そうとは思う。けれど今は逃走資金にさせていただいた。
さて、初めて降り立ったアルプスの山奥の村は、少々肌寒くはあったけれど、噎せ返るほどに空気が良い。思わず咳き込んだアルセーヌに菊が苦笑を送った。
小さな服屋に勤めながら余興で始めた都会風のデザイン服を売るアルセーヌのお店は、街中の女の子に受けに受けた。お陰で薬を買うお金に困ることは無く、空気が良いためにか菊の発作は少なくなっていた。
菊も一緒にお店を手伝ってくれて、今年やっと新しい自分の店が持てることになった。そんな訳でこっちの暮らしは中々楽しいですよ。と締めくくられた手紙を手に、アーサーは思わず顔を顰めると、ポイッと後ろに投げ捨てた。手紙は、この場所に縛られているアーサーにとっては、どう考えても嫌味の塊であった。
ペンを口先にくわえ、雑多な街を見やる。ああ、俺もアルプスにいきてぇ。言葉もなくそう呟き、書類の中から便箋を一枚、引っこ抜いた。