魚の泪 <゚二ニ>< 


 
 魚の泪特別編 【結婚式】
 
 
 兄が結婚する。初めてそう聞いたとき、マシューもアルフレッドも酷く驚いた。兄であるアーサーは一人暮らしをしていて、時折その部屋に訪れていたのだが、見るも無惨に彼の部屋は汚れていた。
 彼から聞いていた女性も、最後は菊という名前の女性であり、それ以後誰かと付き合っている風には見受けられなかったのだ。
 どこから嗅ぎつけたのか、両親はまだ見ぬアーサーの恋人である菊を批判し、別れるように彼に説得をしていた。その度に家は荒れ、兄は一時帰っていた実家から直ぐに出て行ってしまった。
 それでも……いや、それが原因か、結局彼等は別れる事になったらしく、菊という女性はそのまま海外へ行ってしまった。
 その兄が結婚する。一体誰と?
 アルフレッドは帰宅し玄関に立ったまま、しゃがみ込んで恐る恐る扉の隙間から中を覗き込んでいるマシューを見やり、ポカンと口を開く。
 部屋の中では誰かが争っている言葉を聞き、それが両親とアーサーであるのが分かる。そして直ぐに「結婚する、しない」という内容だと気が付き、アルフレッドも慌ててマシューの横について中を覗き込んだ。
 話の内容を聞くに、二年前に別れたとばかり思っていた、あの菊という女性と結婚するという。あの飽きっぽいアーサーが、大学時代と更に文通だけで2年間、一人の女性と付き合い続けていた。信じられない。
 
 その後、アーサーは一度恋人を家に連れてきて、食事を共にする事になった。
 初めまして、と微笑んだ菊は、アルフレッドとマシューが想像していた女性とはまるで違う。大人しそうで、柔らかく、そして気が利くという、アーサーの好みとは思えない女性であった。
 はっきりいって、アルフレッドとマシューにとって彼女の印象はとても良かった。正直、アーサーには勿体ない。足が悪いと言っていたが、杖さえつけば歩けていたし、さほどの支障では無い。
 けれど両親はやはり反対しているらしく、なんだかんだと嫌味を言われて、食事の最中悲しそうに俯いていたその姿を、ハッキリと思い出す。食事の最中だというのに、アーサーは彼女が持っていたナイフとフォークを取り上げると、そのまま戸惑う彼女を連れて家を出て行ってしまった。
 思わず追いかけたのはアルフレッドだけで、マシューも両親もその場でポカーンと口を開け間抜け面を浮かべていた。
「兄さん。」
 家からさっさと出て行ってしまった2人の後ろ姿にそう声を掛けると、アーサーは不機嫌そうな顔をアルフレッドに向ける。空には、満月が一つ浮かび、厚い雲を照らし出していた。
 呼び止めておきながら、それ以上の言葉が続かなく、黙り込んだアルフレッドをアーサーは暫く見つめる。そして口を開いたのは、アーサーの方であった。
「後始末は頼んだ。」
 右手を持ち上げてヒラヒラ揺らすと、そのまま彼は家を後にしてしまう。残されたアルフレッドは、思わず苦笑を浮かべて、再び家へと戻っていった。
 それから暫くして、兄が結婚する。と再び聞かされた時、今度はマシューもアルフレッドも別段驚きもしなかった。両親を置いて、2人でどんなパーティーを開くか談義した程であった。
 
 
 
 2年間、菊は頑なに帰ってくるのを拒み続けていた。それは、リハビリを成功させる為の、自身への規律であり、甘えない為の事だったのだろう。
 アーサー及び菊の兄である王耀は、何度仕事を捨てて会いに行ってしまおうと思った事か。それも、菊が怒るであろう事を考えると耐えねばならないと、仕方なく腹をくくっていた。
 本来ならばメールに頼れば直ぐに返事が手に入るのだが、それよりも、生きた彼女の姿を追い求める為にか、手紙のやりとりが多かった。そればかりが楽しみで生きていたと言っても、過言では無いだろう。
 久しぶりに空港で菊と向かい合った時、色々言おうと思っていたのにも関わらず、何もかも投げて駆け寄って、抱き上げていた。
 そして再びのプロポーズに成功し、そのままスイスイと、恐ろしいほど簡単に物事は進んでいく。ただ一つ、アーサーの実家との和解を望んでいた菊を紹介に連れて行った事だけが、やはり失敗だった。
 あんなに酷い目にあったというのに、結婚式にアーサーの両親も呼ぼうと、菊は懸命にアーサーを説得した。結婚式は菊の要望もあり、身内と友人だけで行う小さなものにすることにした。
 和服にしようか、それともウェディングドレスにしようか迷った末、歩きやすさ重視でウェディングドレスにすることに決めた。その他の細々としたことも、雑誌やらならんやらで決めるのは、意外にも大変である。
 2人で結婚場、手順、更には新居も取り決め、ようやく一息つくころには、なんと式の前日であった。
 
 王耀が感心せざるを得ない所の一つに、アーサーに異常なほどの頑張りがあった。いや、2年間遠距離過ぎる遠距離恋愛を続けていたから、頑張るのは当然なのかもしれない。
 兎に角彼は、2年間と暫くの合間金を貯め続け、菊の貯金とを合わせれば、新居の頭金ほどは出来ていたのだ。結婚の予算も、長年の貯金があればどうにかなるけれど、準備は些か大変で、王耀は寂しがる間もなく式の前日を迎えた。
 やっと、やっと2年ぶりに一緒に住むことになったというのに、今度はまた違う所へ行ってしまう妹に、実際非常に寂しい思いがしている。あれほど可愛がっていたのに、巣立ってしまうなんて……
 ようやっと寂しさが込み上げてきた所で、ことんと音を立てて王耀の目の前に湯飲みが置かれる。その湯飲みに釣られて顔を持ち上げると、ふんわりと微笑んだ菊と目が合った。
「お疲れ様です、兄さん。」
 最近仕事帰りで疲れた王耀に、菊は彼がよく煎れたお茶を、代わりに煎れてくれる。その香りに誘われて、一口含むと、2年前に海外に行くかどうか悩んでいる事を打ち明けてくれた時の事を思い出す。
「嗚呼、明日お前は出ていっちまうのかぁ……」
 思わず零れた言葉に、菊は少しばかり目を大きくさせてから、曖昧な笑みを浮かべて見せた。それから王耀の隣に座る。
「今日はお前の好物一杯作ってやるからな。」
「私もお手伝いします。」
 大きく伸びをすると、そのまま立ち上がって台所へと向かうのを追いかけて、菊も立ち上がりその後を追いかけた。「いい」と言おうとしたけれど、どこか必死めいた様子にそうも言えず、結局2人で夕飯を作ることにした。
 長い間一緒に住んでいた事もあり、気は良く合う。料理を作り始めれば、簡単に物事は進んでいくし、お互い邪魔に思う事など、一度もない。
「兄さん。」
 不意に名前を呼ばれ、肉団子を捏ねていた王耀は振り返り、野菜を切っている菊を見やった。彼女は自身の手元に集中していて、王耀へ目線は一切送ってはいない。
 長かった髪は、海外に居る間に切ってしまい、その白く細い項が見える。頼り下のない細くて小さな体はそのままだというのに、彼女の存在はいつにも増して、しっかりとしている様に思えた。
「兄さん、ありがとうございました。私、本当に感謝しています。」
 微かに語尾が掠れていたけれど、フト顔を持ち上げて王耀の事を見やった菊は笑顔で、黒い双眼は優しく光っている。
「……礼を言うのは、まだ早いアル。」
 作り上げた肉団子をスープの中に沈めながらそう返すと、菊は再び俯いて野菜を切るのに集中し始めた。結ばれた菊の唇が、微かに震える。
 
 2人で食べるにはあまりにも豪勢で、全てを食べきる前に2人は満腹になってしまい、仕方なく残りはラップして冷蔵庫に仕舞い込んだ。
 明日から1人だというのに、あの残りものだけでも三日分はあるだろうと、王耀はサランラップがかけられた皿の群れを見やりながら、苦笑を浮かべてみせる。
 ソファの上に座っている菊に、今度は王耀自身が煎れた茶を置いてやると、菊は一瞬驚いた表情を浮かべてから、軽く頬を緩めて湯飲みを受け取った。彼女らしくもなく、礼をいうよりも早くに口を付ける。
「……やはり、兄さんの煎れたお茶の方がおいしいですね。」
 菊が肺の奥深くから、暖かい息を吐き出してそう言うと、耀はにんまりと笑ってみせる。
「それは当たり前アル。だって我が得意の茶アルからね。」
 幼い頃から何度も、菊がぐずったり、お互い口に出さなくても辛かったり、悲しいと感じた時に、いつも湯気を立てたお茶だ。ただ匂いを嗅ぐだけで、遠い昔が蘇る。
 その湯気がゆらゆら揺れるのを暫く無言で眺めていた菊は、やはり昔の思い出ばかりに囚われていた。辺りが揺れるほど、悲しくて懐かしい心地がする。
「……私、本当はとても恐いんです。」
 言ってしまってから、菊自身ハッとして思わず自分の口を手の平で覆った。
 けれど、一度出てきてしまった言葉を急に止める事は出来ず、目を大きくさせ、微かに震えたまま菊は言葉を続ける。俯いたその動作に従い、短くなった髪が揺れた。
「アーサーさんはお優しい方ですし、何があってもあの人を信じ抜く自信はあります。でも……やはり、少し恐くて。  それに、やはり私だけこんな……ここを出て行ってしまっていいのか。」
 それは海を渡るときも言ったセリフであったけれど、今度の別れはまた種類が違う。巣立ちを控える鳥とは違い、いつでも会える事は分かっているのだが、それでも人生に一度あるかないかの別れである。
「ぶっちゃけ我は、あんな奴と結婚するのは反対だったアル。……でも、お前が選んだなら、付いていかなければならねぇアル。」
 菊と正反対に、王耀は非常に落ち着いた様子で、自身が煎れたお茶を口にする。
「そんなに重く考えなくてよろし。悔いが残らない程度まで付いていって、ダメだったら帰ってくれば良い、それだけアル。」
 眉根を下ろして王耀の方を見やっていた菊は、そっと湯飲みに口を付けた。自身が煎れたものと、やはり違う味が口内に広がる。
 
 
 当日は晴れで、久しぶりに見た友人達が、みな笑顔で自分達を祝福する。
 杖無しで歩くのは辛くて、引いてくれる王耀に半ば寄り掛かるように、懸命にバージンロードを歩く。待っていたアーサーが、嬉しそうに微笑んで、菊に手を伸ばす。
 戸惑う暇も無く、菊はアーサーの腕にしがみついた。その瞬間、後ろで、本当に小さく名前を呼ばれ、弾かれる様に菊は振り返る。
 兄は微笑んだけれど、その目が、表情が、酷く寂しそうで、菊は全身が震える様な心地に襲われた。けれども、もう彼には腕を伸ばす事はしない。
 ああ、あなたが今まで一番大切でした。けれど……言葉にすることなく、口内でそう唱えたとき、フワリと体が持ち上がったのを感じ、ギョッとして菊は持ち上げた主を見上げる。
 菊をアーサーが抱き上げたとき、周りがワッと歓声を上げる。けれども菊は慌て、アーサーのタキシードにしがみつき、眉根を下げて見せた。
「あ、あの、重くないですか?」
 あわあわと菊がそう尋ねると、アーサーは大股に歩きながら、微かなに口角を持ち上げて、いつものように笑ってみせる。
「ああ、重くないけど、重いな。大丈夫、落としたりしねぇから。」
 菊にだけ聞こえるほどの声色でそう言うと、菊は身を乗り出してその首に自身の腕を絡ませた。一瞬驚いたのか、微かに彼の腕の力が弱まる。
 が、直ぐに持ち上げ直され、そのまま菊は兄に目線を遣る。その表情が、少しばかり悲しくて、菊は頬を緩めた。
 大丈夫です、兄さん。私はこの人と、きっとどこまでも歩けるから……
 
 床にゆったりとおろされ、向き合った翡翠色の瞳がゆったりと微笑む。鐘の音が青い空に鳴り響き、みんなの祝福の声に急かされる様に唇を合わせた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 2周年企画ものは大抵短く行こうと思っています。でもこれ、結婚式っていうより、結婚式前日ですよねー。
 いやしかし、のび太の結婚前夜はなけますよね。  鮎煮