アダージョ
約二週間ぶりに帰ってきた夫に対して、いつも仕事帰りはそうなのだが、一体何を話したらいいのかよく分からない菊は、やっとコートを脱いでくつろいでるアーサーの横でちょっとだけ俯いた。足がもっと自由に動くのなら、それこそ彼にしてあげる事が膨らむのだろうけれども、生憎足も動かない自分に出来る事などたかが知れている。自身、自分は何も出来ないただの人形の様な気さえした。
晴れていようが雨が降っていようが、体の調子が良かろうが悪かろうが、必ず仕事から帰ってくると彼女は玄関先にいつからそうしているのか、重さに耐えかねて微かに震える足を杖で支え、自分の姿をみとめると、必ずふんわりと微笑んでみせる。そしてそれから彼女の、自分を最も安心させてくれる声色で「お帰りなさいませ」と言ってくれる。
それは約2週間振りの帰省だった。
「菊?」
目の前のソファーに腰掛けて紅茶を啜っていたアーサーが、俯いたままの菊に不思議そうな声色で声を掛けた。と、慌てて菊は顔を持ち上げると少しだけ首を傾げてアーサーの緑色の瞳を見やる。
「どうした?体の調子が悪いなら休んでろ。」
ズイッと体を乗り出して顔を近づける彼に、思わず体を退きかけながら俯いたまま上目遣いで見やる。触れるか触れないかで止められたアーサーの掌の存在を左頬の辺りに感じながら、じんわりと変な汗が滲むのを感じた。
「……いいえ、大丈夫です。」
そう菊が言った瞬間、アーサーの体からフワリと嗅いだことの無い甘い香水の香りが漂った。女物の高そうなその香りに思わずパッと顔を持ち上げると、怪訝そうな顔をしていたアーサーと目が合い、ふと彼の眉間の皺がより深くなる。
「どうした?」
ちょっとだけ首を傾げ、いつもどおり少々ぶっきらぼうな口調でアーサーは菊に問いかけると、菊は慌ててふるふると頭を振り「なんでもありません」といつもよりも少々張った声が出てアーサーも言った本人である菊までもが驚いた。が、アーサーもそこを問いただす事は出来ずにただ「そうか」と一言釈然としないまま呟いて元通りソファーに深く腰をかける。
普段なら口数が少ないながらも仕事先の話をする筈のアーサーも、なぜだが無言のまま本をパラパラと捲っていた。随分長い間室内はただ本が捲れる音と時計の針の音ばかりが鳴り響き、遂に居たたまれなくなり菊は椅子の脇に置いておいた杖をそっと握ると出来るだけ音を立てない様にゆったりとした動作で立ち上がる。
が、数歩歩いた時、焦っていた所為か不意に踏み外し、ガチャンと音を立てて杖と共に床に転がり膝を強打した。驚きと痛みで思わず声が漏れると、慌てて起き上がるといつの間にかアーサーが菊の名を呼んで肩を掴む。その瞬間にまたあの甘ったるい香りが鼻孔をつき、思わずパシリと音を立てて彼の手を振り払う。驚いて言葉を無くしたアーサーがポカンと口を開けたまま固まっていて、数秒お互い固まった後菊は顔を真っ赤にして慌てて目を伏せると小さく謝罪を述べる。
「すみません……私、先に部屋に戻ってます。」
普段は自分を置いて先に部屋に一人で戻ってしまうことなど皆無だというのに、手を叩かれた上に先に帰ってしまった。これは憤慨するべきシーンなのかもしれないが、憤慨するにはあまりにも落ち込んでしまって、ただしゃがみ込んだまま妻を見送ってしまった。
一体何がいけなかったのか……走っていって本人に問いただすほどの度胸を残念ながら持ち合わせていないアーサーは、振り払われた掌をそのままに冷や汗を掻きながら思わず自分の言動に思いをはせた。が、どう考えても何か彼女にしでかしたとは思えないし、二週間家を空けることはざらにあるのだから今更怒られる事も仕事だと理解している彼女が憤慨するとも思えない。だが、菊の様にずっと我慢し続けてしまうタイプの人はもしかしかした突然爆発したりすることがなきにしもあらずなのでは……
一人悶々と床に膝をつけたままの姿勢でそう考えていると、茶菓子を手に部屋に入ってきたフェリシアーノがアーサーを一目見てビクリと体を震わせて笑顔のまま固まった。
「あ……あの、アーサー様?」
眉を歪めて不思議そうな顔でそう問いかけてくる彼をそっと見やって数秒思案した結果、何事もなかったかの様にアーサーは立ち上がると先程本を読んでいたソファーの上に再び何事もなかったかの様に腰掛けた。
「あのぅ、これ一応持ってきたんですが。……奥様はいらっしゃらないんですか?」
二人分のケーキを手に困り首を傾げながら、聞いていいことか否か考えあぐねてフェリシアーノは彼らしくもなく遠慮がちにそう訪ねてくる。瞬間、アーサーは意図する間もなくフェリシアーノを睨んでしまったものだから、フェリシアーノも大きく肩を揺らして慌てて彼一人分のケーキを机上に置くと、慌てて部屋を後にしようと一礼をした。
が、フェリシアーノが部屋を出るよりも早くにアーサーはグルリとフェリシアーノを振り返り呼び止める。吃驚して酷くゆったりとした動作でフェリシアーノが振り返ると、眉間に皺を盛大に寄せたままのアーサーがそっとフェリシアーノに耳打ちをした。
自室の椅子に座り読みかけだった本に目を通すも、その内容すら中々頭には入ってこなかった。重くて深い溜息を一つ吐き出すと、本をパタリと音を立てて閉じる。
実際、愛人なんて今の時代、ましてやアーサー程の位になれば当たり前過ぎる程に当たり前だし、嫁ぐ前からそんな事は承知していたというのに、今までアーサー自身にそんな影が無かったせいか、現実で起こると気持ちが対処しきれなかった。だからといって彼に対してあんな態度を取ることはどうかしている。
そっと自分の顔を両手で包んで心を落ち着かそうとするのだけれども、なんだか泣き出しそうな心地は中々取り払えない。そして何より、父に申し訳なかった。ガックリと項垂れている菊の部屋に、誰かが軽快なノックをした。もしかしてアーサーかもしれない、と、思わず早くなる心臓の上に掌を押し当ててノックに返事をすると、フェリシアーノの明るい声が響く。
「どうぞ」と応えると、読んで字のごとく、フェリシアーノがうきうきと菊の部屋に踊り入る。何か使命感でも背負っているかの様な彼に、菊は思わず小さく首を傾げた。
「どうしたんですか?」
そう訪ねると、フェリシアーノは慌てて首をぶんぶん振って菊の勧めてくれた椅子に腰を下ろす。
「旦那様から昼休み頂いたので奥様に旅での話をして差し上げようと思いまして。」
嬉しそうにニコニコ笑うフェリシアーノに、自分があまり外出出来ない為いつもだったら嬉しそうにしてくれる菊は、少しばかり困った風に微笑んだ。一時間程は道中にあった事を少々面白おかしくしてフェリシアーノが話をすると、菊も所々笑う。やがてフェリシアーノの話も一息ついた時、ふと菊が口を開いた。
「……そういえばご帰宅の予定が一日遅まりましたよね。何かあったのですか?」
さり気なく、なんでもなさそうにそう訪ねると、フェリシアーノは一瞬キョトンとしてから、頭の中を探る様に上方を見ながら大きく首を傾げる。それから暫くして、大きく手をポンッと打つと「あっ」と声を上げた。
「そういえば旦那様が一日帰るのを延期なされてなんか部屋に女のひ……」
そこまで言ってようやくにこにこ笑っていたフェリシアーノが、その笑顔のままサッと青くなって汗がダラダラ噴き出す。対して、菊はそっと俯くと瞼を伏せがちにして「……そうですか」と力なく呟いた。
「い、いやでも奥様、多分……いえ、絶対仕事上でお付き合いがある方だと……」
真実一体どうなのか聞いていないし、疑ってさえもいなかったフェリシアーノが慌ててアーサーの代わりに弁明しようとするも、当然説得力が微塵も無い上にその慌てようが訳もなく更に怪しい。
「あ、あの、奥様」
上目勝ちにフェリシアーノがそっと菊の顔色を覗くと、菊はふんわりと笑いながらちょっとだけ困った様に眉を歪めてみせる。
「日本でもよくある事です。」
そう笑う菊を少々納得がいかないかの様な表情でフェリシアーノは見やりながらも、菊の部屋を後にした。
ノックの後に入ってきたフェリシアーノの顔を一目見るなり、「どうだった?」という言葉さえ喉につかえてしまう。その不機嫌そうな顔に思わずアーサーさえも目を大きく開いてポカンと見やってしまう。
「……どうしたんだ、お前。」
心底不思議そうにそうアーサーが訪ねると、プックリ膨れたフェリシアーノが執事としてはあるまじき風体で「自分の胸に聞いて下さい!」と一言言い置いてさっさと室内から出て行ってしまった。と、一人残されたアーサーは眉間に皺を寄せつつ不可解な様子で目を丸めるばかり。
仕方がないから先程から読むふりをしていた本を再び開いてみるものの、やはりその内容が頭に入らない。家に帰ってきてからの悩みが一つから二つに……しかも何やら重大な感じに変わってしまった。これってどうすればいいのか、これまで本気な恋愛をしたことが無いものだから菊と結婚してからというもの悩んでばかりだ。友人のアルセーヌには絶対に相談したくは無いし、どんな本も参照にならない事も最近学んだ。
うんうんと悩んだ結果、一番の有効策はやはり自身で彼女の所に行くこと以外には無いのでは、とようやく思い至る。思い至るも、勇気が今ひとつなのだが、このまま夕飯を迎えるのも絶対に体力とHPが持たない。暫く本を読む振りをしながらモクモクと考えてやっとでた答えが、やはり菊の元へ向かい、彼女と直接話しをする事だった。大きく深呼吸とも溜息ともつかない息を吐き出し、そっと読んでいた本をまた机の上に戻して立ち上がる。
菊の部屋をノックして帰ってきた返事に応えると、心なしかいつもよりやや間があってから扉が開かれた。これまた心なしかいつもよりひんやりとした目つきで菊のお付きが頭を下げつつ部屋から出て行く。
立ち上がって自分を出迎えた彼女を椅子に座らせ、彼女の前に置かれた椅子に自分も腰を下ろして向かい合った。若干いつもと様子の違う伏せ目がちな彼女に、どうやって切り出したら良いものか、黙ってポケットの中身の小箱をそっと指でなぞる。切り出しが分からずまごつく自分は、恐らく仕事先ではまったく観られない姿だと思うとどうにも恥ずかしくてやりきれない。
「何か御用でしょうか?」
そう訪ねる彼女にどう言っていいか分からずもごもごとこしょばゆい。
「お前こそ、何かあったのか?」
とアーサーがそう返したせいか、重い沈黙が二人にのしかかる。じっとりとアーサーは汗が滲むのを感じて、菊からちょっとだけ目線を降ろしてポケットの中の小箱をギュッと握りしめる。沈黙が暫く続いた後、ようやくアーサーが「あのな」と声を上げようとしたまさにその時、パッと顔を持ち上げた菊がアーサーの顔をジッと見つめながら口を開く。
「あの……私のことはあまり気にしないで下さい」
………ん?菊の言い放った言葉に強ばったままの笑顔で固まる。笑う菊のその言葉にどう反応したらいいのか分からずに言葉に詰まる。
「……どういう意味だ?」
眉間の皺深くアーサーが訪ね返すと、菊の笑顔が少しだけ陰った。
「アーサー様が……アーサー様の望むようにしていただきたいのです。」
俯いた菊の顔から完全に笑顔が消え去り、語尾が軽く震えてその瞳が揺れるから思わずアーサーも体を乗り出す。触れようと思って伸ばしかけた右手を引っ込め眉を歪める。
「何の話だ。」
少々きつめなアーサーの口調に、思わずビクリと体を震わせて菊が揺れる黒い瞳でアーサーを見上げた。
「……他に女性がいらっしゃるなら、無理してコチラに帰っていらっしゃらなくても……」
そう菊が言った瞬間、ガタンと机を叩いて大きな音を立てながら立ち上がると、それにあわせて椅子が転がり落ちる。驚いて菊が目を見開いてアーサーを見やる。
「なんでそうなるんだ。」
声を荒げたアーサーを見上げた菊が、何かを言おうと口を開くものの途中でキュッと下唇を噛みしめるとグッとアーサーを見上げる。その瞳の下の部分にぐんぐん水分が溜まり、その姿を見ていたアーサーが一番わあわあと焦ってハンカチを取り出す。が、そのハンカチを受け取らずに菊は自らの掌の甲で慌ててグイと拭う。
「す、すみません……こんな醜い所を見せてしまって」
すんすんと鼻を鳴らしながら零れかける涙を逐一グイグイと拭いつつ、菊はまた小さく笑おうとするが指先が軽く震える。代わりに身を屈めたアーサーがハンカチを菊の頬にあてがった。
「勝手な勘違いだ。お前以外に女なんて居ない。」
アーサーがハンカチでそっと菊の頬をなぞりながらそう言うと、パッと赤くなった目をアーサーに向ける。
「で…でも、こ、香水の……」
震える菊の言葉を聞きながらじっとアーサーは考え、「あ」と香水の匂いが強烈な店員を思い出し一人納得した。と、同時に泣き出してしまった菊に胸の奥がホカホカと暖まるのを感じて、思わず緩まる頬に力を入れる。
「菊」
アーサーに名を呼ばれて赤くなってしまった目をそっと持ち上げると、目の前に小さな箱がパカッと口を開いて彼女を待っていた。中に納められていた小さな宝石が散りばめられた高そうで綺麗なリングが収まっている。状況が掴めずにぱちくりと大きく瞬きをし、ジッと不思議そうにそのリングを見つめていた菊の掌の上にそっと小箱を置いた。
「……なんですか、これ?」
小さく首を傾げてそう訪ねた菊に、アーサーは少しばかり恥ずかしそうに肩を竦ませる。
「結婚指輪だ。」
というアーサーの返答があまりにも意外だった為に、菊は驚いてパッと顔を持ち上げて大きく目を瞠らす。
「でも……もう頂きました。」
手に平に収まった小箱を思わずアーサーの元に差し出したのを、そっとアーサーは受け取ると中の指輪を大事そうに取り出すと、菊の左手ではなく右手を大儀そうに掴んだ。そっと差し込まれた指輪を、涙で濡れた黒曜石の様な瞳で翳して見つめると、キラキラと綺麗に光る。
「最初のリングは、オレが選んだ訳じゃない。……だから、オレが菊に似合う指輪を……」
そこまで喋ってふと菊がジッとアーサーを見やっているのに気が付いたのか、ボッとアーサーの顔が真っ赤に染まった。と同時に菊の顔もパッと赤く染まる。
「……仕事の後に宝石屋を呼んだんだ。その店員が香水がきつくてな。」
数秒の沈黙の後、きゅっと菊が再び泣き出しそうに瞳を歪め真っ赤になるのをアーサーも真っ赤になりながら見やる。
「……気に入ったか?」
アーサーのセリフに、彼を見上げた菊が気恥ずかしそうに笑った。
こうしてこの一件は片が付いたのだが、それから暫くフェリシアーノのアーサーへの視線が酷く冷たかったとか。