家鴨とワルツ
 
 
『家鴨とワルツ』
 
 
 遥か東の海の果てにポツリと存在している小さな島国、日本からイギリスのカークランド家に娘が輿入れしてきた事実は、広い社交界を大いに賑わせた。うわさ好きの彼らが格好の餌食として、あることないこと口にし、嫁入りを果たした菊の姿は、社交界の中で二転三転している。
 そんなことは露知らず、新婚だというのにかの二人は気まずさを持てあましながらも、二人だけの時間を過ごしていた。結婚式を挙げてから引っ切り無しに訪れてくる客人をないがしろにし、アーサーは菊との無言のお茶会の席に着いている。
 言いたいこと、聞きたいことは後を絶たないけれど、口にできるのはほんの一握りだ。それもお互い。
 お互いが己の口下手っぷりに嫌気が差しつつも席を外せずにいると、不意に意を決した菊が顔を持ち上げた。
「あの……今度社交界に出ます、よね?」
「ああ、そうだな」
 上目がちにおどおどと口を開く菊を一瞥して、アーサーは直ぐに視線をそらした。眼を見やると菊が怯えるのを知っているからこその行動であったが、あからさまに反らされた眼に菊がいつも微かに動揺していることは、知らない。
「お恥ずかしいのですが、私こちらの社交界には出たこと無いんです。……だから、私、挨拶の時何を話したらいいのか解らなくて」
「いや、座っていればいい。挨拶はオレがする」
 緊張に頬を紅潮させて、珍しく笑顔を浮かべた菊を一蹴したのは、眼さえ合わせないアーサーだった。菊は零れ落ちそうな程眼を大きくさせたのも一瞬で、直ぐに表情を強張らせて下を向いた。
「そう、ですね」
 温かみを失った口調にアーサーが彼女へ視線をやった頃には、菊はいつも通りの無表情でコップの中身を見つめている。
 菊が参戦する初めての社交界は、それほど大きく無い規模で行われる予定だった。しかしアーサーが出席する事になったためか、近隣の貴族達がこぞって参加することになり、最終的には一年に一度あるかないかの大規模なものへとなっていた。
 アーサーは菊を徐々に馴らしていくつもりだったから、その状況に正直辟易していた。最初から人に囲まれて眼を回している姿を、容易に想像出来た。
 最初は日本から取り寄せた着物を手渡そうと思っていたが、目立たないためにも肌が隠れるドレスと髪を隠すための帽子を用意させた。
 菊を驚かせたく、少々遠出をして人気の店へ赴き、ドレスはオーダーメイドさせた。異国の地で居心地悪く過ごしている菊も、きっと喜んでくれると、出来上がったドレスを見て頬を緩めた。
 実際手渡すと、一瞬驚いた様子を見せた後、いつも通りの表情が読み取れない笑顔を浮かべて礼を述べる。もっと喜んでくれると思っていたアーサーは、どこか不満を抱きながらもドレスを着込んだ彼女を想い、憂鬱な社交界も少しは楽しみになった。
 
 
 社交界当日、菊が鏡の前で着こんだドレスを見やり、祖国から付いてきたお手伝いの娘は嬉しそうな声を上げた。綺麗な化粧も施し、高い帽子を被っても尚、菊は浮かない表情をしている。
「お綺麗ですよ。帽子も大きくて、きっと高かったでしょうね」
 ついついお金の事を口走った事に、お手伝いの娘は思わず口元を手で覆った。しかし菊は特に気にする様子も無く、瞼を伏せて考え深げに帽子の形を整えている。
「恥ずかしいだけなのです。この肌や髪を隠してしまいたいのでしょうね」
 吐き捨てられた言葉に、お手伝いの娘は眼をまん丸にさせて聞き返したが、菊は返事をせずにそのままベッドの上へ腰かけた。
「奥様……」
 遠慮がちにかけられた声に、菊は眉根を下して笑顔を向ける。無理した様子が垣間見える姿に、思わず押し黙った。
 静まり返った部屋にノックの音が響き、直ぐにアーサーが菊を呼ぶ声が聞こえた。傍に立てかけられた杖に手を伸ばすと、ゆったりと立ちあがって己で扉に手をかけた。
「着替えたか、じゃあそろそろ出かけるぞ」
 綺麗に着飾った姿を上から下まで確認すると、歩くのを手助けするように腰へ腕を回す。一瞬菊は体を強張らせるが、素直にアーサーの腕に手を置く。
 
 
 華やかな社交界は、今まで狭い世界で暮らしていた菊にとって、眩しい程だった。吊るされたシャンゼリアには蝋燭が五万と使われ、ワルツは全て生演奏されている。
 その世界の中で、華やかな衣装を身にまとい、男女が楽しそうにクルクルと踊っている。まるでこの世に悩みなど無いような様子を、部屋の隅で椅子に座り、菊は眺めていた。
 楽しげに踊る綺麗な人々は、自分とは違う人種であるようだった。
 イギリスに渡ってから直ぐ、アーサーに案内してもらった図書館で、皮張りの古い本を手にしたことを思い出した。英語の勉強にちょうどいいだろうと、アーサーが選んで手渡してくれた、童話集だった。
 初めてのプレゼントが嬉しくて、一晩かけて全て読んだ。その中に載っていた『みにくいアヒルの子』。綺麗な雛に混じって、一匹だけ醜い子が混じっている物語だが、ラストはそれが白鳥だった、というオチだ。
 楽しげな男女の中に混じった、酷く惨めな自分は、正に醜いアヒルの様だ。それも白鳥に変身を遂げない、醜いまま終わってしまうアヒル。
 パーティーが始まってから無数に声を掛けられたが、殆どが笑顔を浮かべるだけで事なきを得た。『挨拶に行く』と立ち上がったアーサーに、思わず声を掛けても『その足で行くのか?』と不機嫌そうに言われてしまう。
 彼は恥じているのだ、東洋人の妻を娶った事を。だから黄色い肌を隠すためのドレスに、暗欝な色合いの髪を誤魔化す帽子、そして部屋の隅に置かれた椅子。
 ……ならば、大人しく座っているのが彼にとっても、菊にとっても一番いいだろう。
 ぼんやりとしていた菊に声を掛けてきたのは、それまでの女性達とは少々毛色の違う、エリザベータという女性だった。カラッとした性格に好意を抱き、アーサーに声を掛けられるまで随分と長い間話しこんでしまった。
「もう帰ろう」と言ったその顔は、何だか少し嬉しそうだ。思わず「何かいいことが?」と尋ねると、嬉しそうな表情を直ぐに強張らせる。そして無言ばかりとなる馬車の中で、何か失言をしてしまったのだろうと、瞼を伏せた。
「今夜は自室で就寝いたしますね」
 沈黙に耐えきれなくなり声を上げると、ようやく真っ直ぐにアーサーは菊へ視線を送る。
「疲れたか?」
「ええ、少し」
 そうか、と呟かれた言葉を最後に、再び二人の会話は途切れた。家への道のりをひたすら無言で過ごすのは苦痛であり、菊は逃げ込むように自室へと引っ込んだ。
 急いでドレスを脱ぎ化粧を落とすと、ようやくホッと身の内が軽くなるのを感じる。ベッドにねっ転がり瞼を閉じると、瞼の裏で煌びやかな人々がクルクルと回っている光景を思い出した。
 その世界で一人浮いた自分と、冷たいアーサーの瞳を同時にハッキリと思い出し、居たたまれなさを感じる。
 ウトウトと舟を漕ぎ始めた所でノックの音を聞き、寝巻を引き寄せて体を起こした。
「もう寝たか?」
 部屋に響いた声に驚き、菊は表情を強張らせる。そのためか返事は掠れ、声の主は不思議そうな表情を浮かべていた。
「少し顔色が悪いな、明日も体調が良くなかったら医者を呼ぼう」
 言葉とは裏腹に淡々とした様子で、思わず菊は彼から視線をずらす。
「……ダンスに興味あるのか?」
 小さな沈黙の後アーサーが尋ねた言葉に驚き、菊ははじかれるように彼を見やった。
「今日、ダンス観てただろ?」
「それは……ご存知のとおり、私は足が悪いので、ダンスなどできません」
 動揺する心地を押しとどめて、菊は小さく首を振って肯定でも否定でもなく、逃げるような言葉を呟いた。
「体は俺が支えてやるよ。ワルツぐらいだったら踊れるだろ?」
 右腕を引っ張られるように立ち上がると、言葉通りアーサーは菊の腰に腕を回してその体を抱え上げる。フワリと浮き上がり地面から足が離れると、慌ててアーサーにしがみついた。
「スローテンポなら大丈夫だ、きっと疲れもしない」
 ピタリと体を密着させる形で、ゆったりと動き出す。支持されるままに、動かない足を動かすけれど、脚が支えるべき体重は持ち上げられているため、辛くは無かった。
 彼が歌う鼻歌の音楽にあわせ、目の前の景色がクルクルと動き回る。今までダンスというものをしたことが無かった菊にとって、それは初めての光景だった。蝋燭の灯りが通り過ぎ、夢心地で眺めた男女の一員になったようだ。
「意外と簡単だろ?」
 耳元で言われて、ようやく菊は己を取り戻して体を縮める。キョトンとした黒い瞳とかち合い、思わずアーサーは菊から体を離す。
 ほんの少しだけ目が回っていたが、それ以上に可笑しさがこみ上げて、知らず頬を緩めた。
「悪い、少し酔っていたみたいだ」
 抱えあげられていたままベッドの上に戻されると、アーサーは慣れた手つきでナイトテーブルに置かれていたコップに水を注ぎ、菊へ差し出す。
「今日は疲れただろうな、ゆっくり休めよ」
 しゃがみこんでぎこちないながらも優しい手つきで菊の頬を撫でると、立ち上がった。しかしその後姿を、親のご機嫌を伺う幼子のような小さい声色で菊は呼び止める。
「なんだ?」
 宝石のようで、どこか人間離れした翡翠色をした瞳が菊を見つめる。いつもその色に憧憬の念を抱きながらも、どこかで恐れていた菊は、それでもまっすぐに瞳を見返した。
「……また、ダンスを教えてくださいね」
 恐る恐る言った言葉に反して、アーサーは一瞬目を丸くしてから思わず表情を緩めて微笑んだ。
「ああ、みっちり教えてやる。だが社交界での披露はやめような」
 キラキラ輝く世界に、また一人ポツンと取り残される状況を想像し、菊は目線を下げた。どんなに優しげな言葉をかけられても、それは気まぐれの一種でしか無いのだろう。その言葉に一喜一憂する己が惨めで、普段必死に己の心を隠そうとする自分が馬鹿らしい。
「オレ以外の奴と踊んなよ」
 引き寄せられて、挨拶の様なキスを頬に受ける。子供っぽいじゃれつきと、夫婦らしい行動に驚きアーサーを見やれば、お酒のせいか頬が少々赤い。
「知り合いに音楽が堪能な奴がいるんだ。今度呼ぼうな」
 アーサーは名残惜しそうに指を絡ませた後、笑顔のまま部屋を後にする。
 残された菊はキョトンとした後、不可解そうに眉根を下ろして首を捻った。
 暫くしてこの一件をすっかり忘れていた菊をよそに、アーサーは本気で楽団を呼び寄せた。ダンスとは名ばかりの、ただアーサーに抱えられるような形のダンスは、それなり菊を楽しませた。
「楽しいですか?」と、ワルツを教えるアーサーに尋ねれば、彼は顔を赤くして他方を向く。
「つまらなければ、やらないだろ」
 ぶっきらぼうな言葉に、思わず菊は頬を緩めて笑った。