『からくれないに 2』
 
 
 雨風と波が一緒になって船をもみくちゃに叩きつける。船を見上げるたびに、その大きさに惚れ惚れとしたが、今や強烈な波間に揉まれて空き缶の様にペシャンコに潰れてしまいそうだ。
 今年14を数えたばかりのギルベルトは、宛がわれた部屋から出てくるなと言われ部屋に押し込められた。軍人ではあるが、一応貴族だというのに冒険好きな父親に連れられやって来た中国北部の海、見知らぬ空気と海に今にも殺されそうだった。
 ランプを点けることも叶わない真っ暗な部屋の中、叩きつけられる雨音に紛れて甲板に飛び交う悲鳴や足音、命令する叫び声が聞こえてくる。その途切れ途切れに聞こえてくる自身の父親の声に、胸の内が焦って我慢できずに扉を押し開けた。
 ひっくり返って飛んできたトランクと一緒に外へ飛び出すと、大きく傾いだせいで体勢が崩れ転がる。一瞬でぐっしょりと濡れ、口の中が塩っ辛い味が広がり顔を顰めた。這い出て父親を何度も呼ぶが、声はかき消されて何も聞こえない。外は雨雲で真っ暗に染まり、世界はとっくに滅んでしまったのかとさえ思えた。
 甲板に向かう途中、より大きな波が船の横腹にぶつかり再び傾ぐ。バランスを崩したギルベルトは、ただ真っ黒な海の中に放り出される。冷たい水が一斉に口に潜りこみ、上を目指そうにも一体どこが上なのかさえ解らない。もがけばもがくほど体力と体温が失われ、空気を求めて苦しかった肺も、やがて空気さえ求めなくなる。
 どこまでも真っ暗な海の唯中、暖かい布団に包まれた様な心地を覚えながら意識を手放した。
 
 次に眼が覚めた時、穏やかな午後の光に満たされた部屋に寝かされていた。木目が見える天井を見上げながら、ここは天国なのかと漠然とする頭で思う。
 重い体を持ち上げて上半身をあげると、見たことの無い形状の世界が広がっている。草で編み込まれた床のためか、独特ながら心地の良い自然の薫りが立ちのぼっており、開き放たれた紙と木で出来た窓から春の風が絶えず頬を撫でる。
 庭には木々が植えられ、溜池には蓮の花が浮かび、鯉が優雅に泳いでいる。敷き詰められた苔、背景には竹林、そして潮騒が遠く聞こえて来た。
「起きられましたか」
 聞きなれない言葉を喋りながら、不意に紙の扉をスライドさせて一人の少女が姿を現す。自身とは違う肌色に真っ黒な眼、髪、そして衣服は本でしか眼にしたことの無い、そで部分が膨らんだ紅い民俗衣装を着ている。
 何かを喋りながら脇に置いた鍋から小さなスプーンで粥を小皿にわける。香ってくる食べ物の匂いに知らず腹が鳴ると、少女は眼を細めて笑い、ギルベルトの手の中に小皿を手渡す。
 匂いを嗅いでから口に含む姿を見送ってから、少女はまた何かを言う。ただ聞き取れたのは、彼女の名前だけだった。
 
 その家には菊しかおらず、何から何まで全て一人でこなしていた。怪我が治るのとほぼ同時に言葉を一つ一つ覚えて行き、一月経つ頃にはどうにか身ぶり手ぶりで話をすることが出来るようになり、半年後には日常会話には支障をきたさない程度にまで成長した。
 月に一度だけ本島から数人の人間が訪れるものの、彼らは上陸することさえせず、島の門前にある箱に手紙を一つと、沢山の反物や甘味、穀物を置いていく。ミミズが這った様な文字は流石に読むことも出来ず、神妙な様子で手紙を読む菊の後ろで構えて見守ることしかできなかった。
 そして手紙を読んでからは数日間毎夜離れに籠ってしまう。決まって歌声が聞こえ、晴れていた空は濡れ、濡れていた空はたちまち晴れ上がっていく。一晩中眠ることなく彼女を待ち、朝になって一番に風呂を焚いてやると何度も褒めて頭を撫でられた。
 彼女の能力は聞かされることもなく理解しており、一晩中歌わなくてはならないような日は何となしに手伝うようになった。そして一年経つ頃には言葉の壁もなくなって、力仕事は殆どギルベルトが負うようになると、元からの家族であるように互いに軽口を叩いたりじゃれあったりするようになる。
 一体どのぐらいの年月が経ったのか解らないが、二度目の冬を迎えた。慣れた、と表現できないほどに生活に溶け込んだある日のことだった。寒さに身を縮めながらも縁側で雪を眺めていると、布団に包まった姿の菊がギルベルトの隣に腰を下ろす。
「こういう雪とかってのも、止ませられるのか?」
「ええ、でも綺麗なので降らせておきます」
 こんこんと降る雪は朝から、間断なく世界を銀色に塗り替えている。見慣れた庭が一気に別世界のようになり、少し座っていただけで鼻の先と肺が痛み、体の先はどこも凍るように冷たい。
 衣服を引っ張られてそちらを向くと、同じ布団に入るように促される。小さな一人用の布団では否応なくくっつく形になり、この時初めて肩をぴったりとくっつけた。直ぐ横に感じる呼吸音を、わざと意識しないように止め処なく降り注ぐ雪を見上げる。
「昔話、しましょうか」
 不意に呟かれた言葉に釣られて顔を見やるが、彼女は微笑みながらも俯き表情はうかがい知ること出来ない。昼の雪空独特な仄明るい灰色の空と、微かな光を凝縮させて照りつけてくる銀色の光に包まれて、伏せられた睫毛の先も光る。
「昔、穀物の女神さまが人間の所にやってきたんです。一晩泊めてくれたお礼といって、部屋に籠って沢山の穀物を取り出したんです。人々は最初は喜んだけど、いつか彼女が去ってしまうのが恐ろしくなって、いつも彼女が穀物を出す何かがあるはずだ、っていうことになったんです。
 それで村人は共謀して、彼女を殺してしまいました。けれど彼女の荷物には穀物を出すものなんてなくて、夏は雨が一滴も降らず、お米もとれなくなっちゃんです。でも、彼女を埋めた所からは沢山の穀物が生えてきました。
 みんなはそれを食べたんです。そうしたら……村人の一人の女の子だけ、天気を操れたんです。でも……」
 そこで握りしめていた湯呑から、だいぶ冷えてしまった御茶を一口すすった。小さくなる体に、暫く戸惑ってから、腰に腕を回す。驚き眼をぱちくりとさせてから、いつものようにアーモンドの瞳を三日月に細めた。
「でも、そういう能力を持った人は、子供が出来ないんです。それに、みんなから怖がられて、人間から穢れが移らないようにって一人で暮らさなきゃいけないんです」
 最後は溜息が混じられ、重く吐き出された。伏せられた瞼を暫く見やっていたが、やがてぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫でれば、驚きを含んだ様子で見上げてくる。
「夕飯何くいてぇ?」
「作って下さるの?」
 キラキラ輝く瞳で見つめられ、思わずウっと後退しながら立ち上がると、台所に続く廊下に出た。後ろから菊が芋の保存場所を告げる声が追いかけ、応えるように右腕を上げる。
 
 ある日山高く積まれた、使いもしない供え物の反物や高価な銀貨を見やりながら、ポツリとギルベルトが声を漏らした。
「勿体ねぇ……」
「ええ、まぁ、街に言って違うものに変えられたら良いのですが……」
 聞けば顔が知られているため、本島の街には行ったことがないらしい。幼い頃は地方に生まれ、5歳ほどまではそこで育ったらしい。能力が周りにばれ、引き離されてからはずっとこの離島で生きて来たという。
 そして15になるまでは数人の巫女が身の回りにいたのだが、穢れが移り能力が無くならないように、この国の成人式と同時に誰もいなくなったらしい。例え菊が死んだとしても、生まれ変わりは直ぐに世に出てくるため、さほど問題は無いという。
「オレが行ってやるぜ」
 ケセセと軽く申し出れば、破裂しそうなほど期待が込められた、星が散る瞳がキッラキラと輝いてギルベルトを見上げた。
「本当ですか?でも危なくないでしょうか……」
 そう言いながらもせっせと荷造りをし、隠し持っていた小舟を倉庫から引っ張り出す。漕ぎ出たギルベルトを見送り、彼女は着物を裾を持っていつまでもいつまでも手を振っていた。
 買い出しに行った場所は、外国人が自由に出入りするのを許された特別の一角だったらしく、ギルベルトの他にも数人見かけ、それほど怪しまれることも無かった。ただ、反物は最上級なものであったらしく、布屋の主人には訝しい様子で見られた。
 用事を全て終えるころには日はとっくに落ち、いつもならば就寝しているだろう時間帯に小舟を付けた。菊はとっくに眠ったのだと思いながら、買いつけた流行りの小説や簪、レースや饅頭なんかを担いで玄関先までどうにか辿りつく。
 扉に手を掛けた時、中からバタバタと駆けてくる足音が聞こえ、扉を開くのとほぼ同時に小さな体がぶつかりながら抱きついてきた。思わず抱きとめると、見上げて来た夜を固めた様な黒い瞳は涙を湛え、それでも一杯に笑顔を浮かべている。
「お腹すきましたでしょ。それともお風呂になさいますか」
 持って帰って来たお土産など見向きもせず、ギルベルトに問いかける姿にむず痒さを覚えた。ただ、二度目から真っ先にお土産に抱きつき、見向きもしなくなったが。
 
 アーサーがやてきてから一週間後、反物を積んでいつものように出掛けて行き、まだ日がある内に慌てて帰ってくれば、縁側で菊とアーサーは楽しげに話しをしていた。元来好奇心の強い女だ、西洋の品を一つ出せばいくらでも質問を投げかけてくる。
 続きを楽しみにしていた小説を膝の上に落としたことで、ようやくギルベルトに気がつき、菊は顔を輝かす。その隙をぬって間に座ると、風呂敷から簪やら甘味などを取り出して彼女の膝の上に並べて行った。
「イギリス行きの船は半年こねぇってよ」
「……そうか」
 それは、既にアーサーが乗って帰るつもりの船だ。出来れば、どうにかして彼女を国のために連れて帰る船だ。つれてかえれば、どれほど家は喜び戦争は上手くいくことだろう。
 思案に暮れるアーサーを余所に、袋から合わせ貝を取り出し得意顔で突いて見せる。開くと鮮やかな赤の口紅が入っており、驚きで眼を大きくさせてからフワリと頬を緩めて嬉しそうにギルベルトを見上げた。
「綺麗……唐紅の色ですね。でも、付ける機会があまりないですね」
「別にいつでも付ければいいだろ」
 適当に返事をし、一緒に買ってきたかりんとうを齧りながら、嬉しそうに紅を見つめる菊を見やっていた。
 
 夏も過ぎて秋口になり、日が沈むのも早く、そして夕焼けは真っ赤に染まるようになった。斧で暫く薪を割っていたが、疲労を覚えて斧を投げやり溜息を吐きだす。竹林の向こうでは太陽が燃え上がりながら沈み、近くに聞こえる潮騒は穏やかな明日を約束しているようだ。
 秋の虫が鳴く声に混じり、黄昏の霧から菊がギルベルトの名前を呼びながら駆けよって来る。先ほどまで台所で作業をしていたが、どうやら一段落済んだらしい。
「見てください、ギル」
 犬の様にギルベルトの周りをクルクル回る菊を捕まえると、恥ずかしそうにしている彼女の唇にはしっかり紅が塗られている。化粧っけの無く白い肌と黒い眼、髪に栄える綺麗な紅色。我ながらよくこの色を選んできたと、内心満足に褒め称える。
「アーサーさんに塗って頂いたの」
 無邪気に告げられた言葉に、出かかっていた褒め言葉を飲み込んで着物の裾で乱暴にゴシゴシと拭う。幼い頃から他人と接する機会が少なかった彼女は、そういった事には非常に疎い。
「何するんですか!とれちゃいました?」
 頬を膨らまして文句を言う頭を、わざとぐちゃぐちゃに撫でて「やっぱ童顔だと似合わねぇな」なんて毒づき、声高に笑いながら玄関へと向かう。後ろからポコポコと怒りながら文句を言いつつも、服の裾を引っ張りながら付いてくる。
 潮騒は高く、いつもと同じ空の色なのにどこか胸の奥がざわつく。アーサーという存在の違和感だけでなく、それ以上にどこかで亀裂が出来、毎日が崩れて行くのを覚える。
 
 眼を覚ますと真っ黒な、底の見えない眼がジッと覗きこんでいる。時折見られる光景に、特に驚く事も無く体を捻って起こした。
 枕元に置かれていた水差しからコップに注ぎ、一気に全てを飲み込んだ。水分が一斉に体内に注がれ、一気に潤いを感じる。もう一杯注いで菊に手渡すと、眠そうな眼を擦りながらうつ伏せになり、そっと口元にコップを付けた。
「うなされていました」
 何か落ち込んだ声色に、身を屈めて表情を覗きこむと上目がちに睨まれる。
「久しぶりに弟の夢をみたんだ」
 別れた頃は10歳だった弟は、夢の中では成長していた。蒼い瞳にギルベルトと同じ程になった背、体格、しかし一目見てお互いが自身の兄弟だと気が点く。
 手をとって、笑い合い、直ぐに故郷の言葉も思い出し、話は夜になっても尽きない。家で一人待っている菊の事さえ忘れ、気が付いたら故郷へ向かう船の上から、小さくなるこの国を眺めていた。そこでようやく菊の事を思い出し、慌てて大声で彼女の名前を呼ぶと、月が見えていた夜空からパラパラと雨が降ってきた。そこで眼を覚ます。
「あいつ……早くどうにかなんねぇかな」
「嫌いですか?」
 心配気な声に、にっかりと歯を見せて笑う。 「ああ、大嫌いだ。昼間っからデキねぇし」
 朝から晩まで、もしくは家から畑から竹林から、どこでも好きな時にちょっかいを出せばノッてきてくれたというのに、最近はあまり触らせてもくれない。
 腕を伸ばして肩を触ると、ただくすぐったいのか誘っているのか、喉を鳴らして笑い布団の中に潜り込む。嬉しそうに顔一杯に笑い、布団の上から抱きつけば、中から楽しげな笑い声が聞こえ、強引に布団をひっぺがえす。
 ほぼそれと同時に、裏手にある井戸から音が聞こえ、慌てて菊は布団を取り返して包まる。
「襦袢とってください」
 舌打ちしてから畳んでおいた襦袢を手渡すと、そそくさと袖に腕を通す。ギルベルトも枕元に畳んでおいた着物に袖を通し、欠伸と伸びをして振り返れば、彼女は帯を結んでいる所だ。寒さが日に日に強まって来ているため、二人とも厚手の着物で目新しく、綺麗に髪をまとめる姿を暫く座って眺めていた。
 アーサーがやってきてから既に三カ月が経っており、あと半分で彼は船に乗り込むことになるだろう。それまでの間我慢して下さい、なんて穏やかな笑顔で言われたが、行き所の無い焦燥感は未だに強く、中々拭いされない。
 着替えを終えて井戸に向かった菊とアーサーの挨拶が聞こえ、ようやく立ち上がって台所へと入っていく。菊が一番に火をいれたらしく、煮込みや炊飯は既に熱せられていた。漬物をぬか床から出して洗い、一口サイズに切っているところで軽やかな足音を立てて菊の声がする。
「ねぇギル、ギヤマンってご存知ですか?」
 アーサーに入れ知恵されたのか、いつも通り好奇心旺盛な様子で眼を光らせてギルベルトの背中にくっつく。溜息交りに身返すと、やはり期待に満ちた顔で見上げられ、結局その日も彼女の我儘に押されて船を海へ落とし街へと漕いで行く。お金に変えられるものを全て金に換え、取りあえず御所望のガラス細工が売っている場所へと向かった。
 色とりどりに並んだ見慣れない小物や皿などを見ながら、彼女が一番好くだろう色や模様などを見て回る。自分があまりに甲斐甲斐しく、途中でアホらしくなりながらも一通り見て、結局グラスを手にした時、ガラス細工と一緒に飾られていた季節外れの、陶器の風鈴が一斉に鳴り響く。
 綺麗に通る済んだ音につられて顔を上げると、こちらを見つめている見慣れない空色の瞳に気が付いた。今朝見た夢がクロスするなか、寒空に彼は鼻の先を赤くさせて『彼』が立っている。自身と同じ程の身長に、金糸の髪は後ろに撫でつけられ、どことなく幼い頃の面影も成熟しかけの顔に宿していた。恐らく相手も、ギルベルトが自身の肉親であることに気が付いただろう。