『からくれないに 3』
 
 
 あまり晴れることの無い自国でも、何度か青が空を塗り替える日がやって来る。普段父や兄、時に使用人にさえ疎んじられることのあったアーサーだが、母だけはいつも大切に慈しんでくれ、晴れの日は必ず二人でピクニックに出かけた。
 母は元々使用人で、アーサーは兄弟の誰とも同じ母親を共有してはいない。子供の眼からしても綺麗な人で、その上無邪気でどこか浮世離れしている。家の誰もが嫌う貴族外の血は、大らかで愛おしい。
 普段勉強を詰め込まれ、心の許せる人間も居ない家の中で暮らしているアーサーを心配してか、人の目を盗んで時折連れ出してくれた。彼女は屋敷から少しだけ離れた小さな家に、数人の召使いとだけ住んでおり、普段は一緒に居られなかった。
 何度も思い出そうとしても、幼い頃に亡くした母の顔は思い出せない。ただ、そんなピクニックの時、湖の向こうに巨大な虹が一つ掛けられていたのは、今でもはっきりと、眼を瞑れば思い浮かべることが出来た。
 虹の下には宝物がある、病気になる前の、アーサーよりも明るい金髪を太陽に輝かせて母が言った。アーサーが何を言っても笑い、一緒になって湖で泳いだりもした。木漏れ日に照らされ昔話をしてくれた母の横顔は、既に神話の様に息づいている。
 そして亡くなった時は、どうにかその思い出を隠そうと必死になり、彼女に繋がる者は全て菓子の缶に詰めてベッドの下に隠した。汚れた頬を拭ってくれたハンカチ、一緒に摘んだ花、写真など無かったから、忘れないうちに描いた母の似顔絵、彼女は字が書けなかったため手紙の類は一切無い。
 楽しかった思い出は堅い蓋の缶に詰め込んで、独りで死んでいった母の様にならないように、必死になって這いあがって行った。愛情を得ようなどとは既に思わず、実力だけでどうにかしようと寝る間も惜しんで勉強し、汚いことも沢山してきた。ただ、母の様に無駄死にをしたくない、その一心だった。
 薄暗く、自身のほんの周りしか認識できない、冷たい部屋の中。全てが白黒に見える世界で、飾られた薔薇だけが異様に赤く、いっそ恐ろしかった。
 ベッドに沈み込んで干乾びて死を待つばかりの母に、侍女が紅い紅を塗る。自分と同じ翡翠の瞳には光もなく、見上げたアーサーを認識している様子はなかった。どうしたらコチラを見てくれるのか、何度も呼びかけながら背伸びをするが、虚ろで何も見ていない。
 父も、勿論別腹である兄達も、彼女が息を引き取る場には参加しようとしなかった。アーサーは『母』の死というよりも、これから自身を愛してくれていた最後の人が息を引き取るのが恐ろしく、そればかりに浸蝕される。
 そして母は、その真っ赤に塗られた口紅からは一言も……アーサーの名前さえ呟かれること無く、死んでいった。
 
 眼を覚ますと頬が濡れており、驚き拭って重い体を起こす。慣れない環境でくらしているからか、最近は良く見たくも無い夢ばかりを見る。十数年見ていなかった母の夢ばかり繰り返し、繰り返し。
 乱れた着物を慣れた手つきで直し、井戸に向かう。菊とギルベルトは既に起きているらしく、台所からは朝食を作っている音が聞こえてくる。一度台所に立ったところ何故か釜が爆発し、それ以来料理を手伝うことも禁止された。
「おはようございます」
 台所から前掛けで手を拭きながら、柔らかな笑顔を浮かべて菊が顔を出す。彼女の優しい声が今朝の献立、そして天気、更に今日ギルベルトが本島に行くのだという話題が転がっていく。
 眼の端で追いかけながら相槌をうち、どうしても彼女が欲しいという欲求が胸の中で膨らんでいった。邪魔なのはギルベルトだけだが、この間ハワードとのやりとりで、ギルベルトの親族特定にまで至ったという。彼の弟は未だに兄を探しており、今も中国あたりをうろついているらしい。
 ハワードには一旦ここを離れ、ギルベルトの弟ルートヴィッヒに会いに行くように言いつけた。恐らく最低でも半月は姿を現さないだろうけれど、ここの生活にも慣れ特に不自由も無いため、後は出来るだけ早くに出て行くだけだ。勿論、彼女を連れ出して。
 上手くいけばギルベルトが本島に行った時と時期を合わせ、出来れば出向く場所も最初から決められたら尚いい。頭の中で色々と思い描いていると、黙り込んだアーサーを不思議そうに黒い瞳が覗きこむ。
「あの……ここも慣れましたか?」
「え……ああ、そうだな」
 予想よりも間近にあった顔に驚き、慌てて言葉を紡ぐと満足そうに彼女は微笑む。
「だが何もないから、ギルベルトも行き辛いだろうな」
 軽い口調で述べられた言葉に、菊は眼を大きくさせてから、少しだけ俯いて唇だけで笑う。
 
 ギルベルトが本島に渡り、残された二人は全ての仕事を終えて縁側に腰をおろした。せがまれるままに万年筆やハンカチを見せ、それから故郷の話を沢山してやる。
 好奇心が強いらしく、彼女は深淵の瞳をキラキラと輝かせ「もっと」とせがむ。母国の歴史から、誇りの紅茶や薔薇園の話をしていた頃にギルベルトは帰って来たらしく、突然空から本が降ってきて彼女の膝の上に乗っかった。
 お土産の唐紅色をした紅を渡され、先ほどアーサーと話をしていた時以上に瞳を輝かせる。相当嬉しかったのか、次の日の夕方にも一人縁側に座って合わせ貝にいれられた明るい紅を、頬を緩めながら見やっていた。
「塗ってやろうか、ここ鏡ねぇし、一人じゃ濡れないだろ」
 後ろから覗きこんで見やり笑いかけると、紅とアーサーの顔を見比べ暫く戸惑ってからそっと差し出した。眼を瞑って眉間に皺を寄せる姿に苦笑を洩らし、小指の先に紅を付け柔らかな唇にそっと塗っていく。紅など無くても十分に整った顔に、更に華やかさが増していく。
 自国の美女たちに比べれば、顔も体もずっと栄えないけれど、惹きつけられる穏やかな雰囲気。丁寧に唇全面に塗って「出来た」と笑えば、夜の瞳を光らせて笑い、お礼を述べて立ち上がった。
「お礼に何か……」
 首を捻ってそう言った後、小さく手を打ってそっと歌を紡ぐ。すぐさま細い霧の様な雨が降り、辺りに霧を立ち込めさせる。焼ける様な太陽を背景に光る世界は、今まで見た人工の光や宝石で造られたどんな世界よりも美しい。
「ああ、あれです」
 呆然としたアーサーの袖を引っ張り菊が指さした先には、天気雨の中にうっすらと光る虹がある。振り返った彼女は、どこか気恥ずかしそうに笑い数歩虹による。子供の様な真っ直ぐなまなざしが、初めて虹を見たかのようにうっとりと光った。
「ギルが教えて下さったんですけど、虹の下には宝物があるんだそうです」
 小さな虹の下で振り返った彼女は、紅が塗られた唇に人差し指を当てて「ギルには内緒ですよ」と笑いそのまま裏手で薪を割っている彼の元へと駆けて行く。虹はほんの数分間だけ空にあったけれど、霧が晴れるのと同時薄れて消えて行ってしまった。
 
 それから半月後にギルベルトは本島に向かっていった。夕食の準備を終え、居間でまっていた菊は帰って来たギルベルトを迎えるため、小走りに玄関へと向かう。いつもより少し帰って来るのが遅かったらしく、夕食を拵えている頃からずっとそわそわとしていた。
 いつもならお土産を抱えて嬉しそうに直ぐ部屋に戻って来るというのに、その日は中々戻ってこない。不思議に思って立ち上がろうとしたところで、足音が数人分聞こえてくる。硝子売り場へと二人とも焚きつけたのは確かだが、流石に一回で偶然出会うとは思っていなかったため、期待と不安を込めて障子を見やった。
 現れたギルベルトは満面の笑みを浮かべ、後ろに立っていたオールバックの男に何かを喋り掛けている。ギルベルトと金髪を後ろに撫でつけた男、そして茶色の髪をした若い男が楽しそうにキョロキョロと部屋を見回していた。
「こいつオレの弟のルートヴィッヒ!すげぇよな、オレを探して情報集めてここまで来たんだってよ。偶然本島で遭ってな」
 偶然じゃない。という言葉を飲み込んで立ち上がると、彼らと入れ替わるように廊下へと出て行く。楽しげな笑い声は彼の母国語で、半分も何を言っているのか解らない。菊となれば全く理解できないだろう。
 台所を覗けば、小さな光で増えた人数のために食事を作り足している彼女の姿が見える。あまりにも小さな背中姿に、自身がそうした癖に後悔さえ覚え、そっとその直ぐ傍に近寄った。
「菊、なんか手伝おうか」
 急に掛けられた声に驚き小さく体をビクリとさせ、アーサーを見上げた。強張っていた表情を瞬時に柔らかにさせ、首を捻って見せる。
「いえ……じゃあ、お皿運んでくださいますか?」
 既に用意されている小皿を指さすと、簡単に作られる様な物がいくつか乗せられていた。頷いてお盆に移している最中でふと振り返ると、彼女の背中が少しだけ震えていて思わず腕を伸ばし、そっと肩をさする。我慢していたのか、先ほどとは違いいくらか潤んだ瞳が揺れた。
「大丈夫か」
 頬を触り掛けて空中でとめ呼びかければ、耐えかねた様子で一粒だけ涙が零れ落ちる。蝋燭の炎に照らされて光粒は美しくて、今まで感じたことの無い痛みがキリリと胸に差し込む。
 感じたことの無い心地に戸惑い、気がつけば腕を伸ばして抱きしめた。容易に胸の中に収まってしまい、こんなにも小さくて細いのかと、驚愕すら覚える。ギルベルト以外の男に初めて抱きしめられ、一瞬ビクリと縮み上がるが、どうしていいか解らず抱きしめられるままにした。
 突然台所の引き戸が開けられ、抜けるほどに白い肌をアルコールで赤くさせたギルベルトが顔を覗かせる。どうやら、つまみの類がいつまでたっても机上にならばないのを、不思議に思ってやってきたらしい。真っ赤な瞳を睨み返したが、彼は菊の腕を引っ張ってつまみと共に台所をあとにしただけで、アーサーへのアクションは一つも無かった。
 特に追うことも無く、先ほどの体温を確かめるように両掌を広げてみた。今まで体感したことの無い暖かさは、いっそ懐かしささえ覚えてしまう。否、幼い頃に当たり前の様に触れていた暖かみだと気が付いた時、アーサーの中で何かが入れ替わってしまった。
 
 朝方まだ太陽が昇る前、ギルベルトと菊が言い争っている声で眼が覚めた。別段声を荒げているわけではないけれど、普段険悪な口調で話している事が一度も無かったため、直ぐに喧嘩をしているのだと気が付く。
 二人の喧嘩は直ぐに終わったらしく、眼を覚ました辺りでピタリと声はやむ。いつも通りの穏やかな朝日に包まれた室内を見まわし、人の気配が無いのを確かめてから廊下へと出て行く。居間には昨晩飲んだらしい宴会の残りと、ギルベルトが連れて来た男二人が雑魚寝している。
 井戸場に向かえば既にギルベルトが顔を洗っており、居づらさを覚えながらも冷たい水を引き上げた。肩にかけていた手拭で顔をぬぐっていると、紅い瞳の気配を感じて睨むように上を向く。
「なんだよ」
「……オレ、来週ルッツとドイツに帰るから、てめぇもさっさと帰れ」
 舌打ちと共にその場を離れかけた背中に、思わず声が飛び出す。
「菊はどうなんだ」
「知らねぇよ、あいつが行けって言ったんだ」
 元々の三白眼を剣幕に細め、下駄を鳴らしてそのまま室内へと引っ込んだ。真っ直ぐ菊の姿を探すけれど、いつもだったらいる台所にも見つからず、屋敷中歩いて結局は彼女の部屋の前に辿りつく。中に入ったことは勿論無く、部屋の中を見たとの一度きりだ。
「菊、飯は食うか?」
 閉まった障子に向かって呼びかけると、すぐに「いりません」と半分涙に潤んだ声が聞こえてくる。
「そうか……オレ飯作って来るし、その、ちょっと多めに作ると思うし、食えたら食えよ」
 モジモジしながら言って立ち上がった瞬間、慌てた様子で顔を青くさせた菊が飛び出してくる。頬を涙で濡らしぐしゃぐしゃにさせ、綺麗に流れる黒髪は今日ばかりボサボサだ。
「あ、あのっ、あの、私が作ります!」
 慌てて頬を拭って立ち上がり、アーサーの横について一緒に台所へと向かう廊下を進んでいく。途中で名前も知らない男二人は二日酔いらしく、重い体を引き摺って井戸場で水を飲んでいる。
 台所での作業を終えて出て来た彼女はいつもと変わりなく、にこにこと笑顔を浮かべて全員分の食事を出した。二日酔いだろう三人には消化に良いもの、そして自分とアーサーにはいつも通りの、白米と味噌汁そして魚が並べられる。食事が終わるまでギルベルトと菊は一切口をきかず、彼が去る日まで話をしている姿はほどんど見かけなかった。
 
 ギルベルトが出て行く支度を全て終え、鞄も持たずにルートヴィッヒ、フェリシアーノと小舟に乗り込んだ。直前まで菊の部屋の前で粘っていたけれど、結局彼女は部屋から出ようともせず、勿論見送りにもいかないらしい。
 夕凪の海は絶好の渡航日で、船の出港も時間通りだろう。最終的に別れの挨拶も出来ないまま、やがて彼らの姿は見えなくなった。ここからでは、汽笛さえ聞こえてこないだろう。
 菊が前日に用意していたお弁当を手渡しただけで、アーサーも別段送ったりもせず、暫く閉まったままの障子を見ていた。ここ数日情緒不安定に陥った彼女が何度となくひきこもった部屋、いつだかそんな日本神話を読んだな、なんて溜息を洩らす。
 夜を予感した虫達が鳴く音に混じって、彼女が泣いている声がする。聞けば聞くほどに……不思議と胸が痛む。初めてな感覚に困惑しながら、やがて我慢出来なくなって立ち上がった。
「船はあるんだろ?」
 堅く閉じられた障子をあけると、状況を確認するより先にそう告げた。移動手段を無くすわけにはいかないと、ギルベルトはもう一艘本島から木製の小舟を買い取り、今回はそちらで出て行った筈だ。
 薄暗い部屋に着物や小物を沢山広げ、彼女は布団を被って頬を濡らしキョトンと赤くなった眼でアーサーを見上げた。突然の訪問者に驚き言葉も出せず、引っ張り上げられるまま立ち上がり笠をかぶされ、気が付いたら船の所まで連れ出されている。
 何の力を使わずとも空は晴れ上がり、絶好の渡航日和が眼にしみて胸が痛む。順調に作業を進める彼を尻目に、独り引き返そうと家に続く石畳へ踏み出した瞬間、ふわりと体が浮く。驚きで顔を持ち上げると、澄んだ硝子の様に美しい瞳が眼の前に現れ、思わず顔を反らす。
 持ち上げられたのもつかの間、直ぐに船の中に降ろされると、ロープを外して手早くアーサーも乗り込む。大きく揺らいで思わず身を縮めるが、眼の前で悠然と漕ぎ始める姿を見やり、ようやく恐る恐る周りを見やった。
「お前はずっとこんなとこに居たから知らないだろうが、世界は本当にでけぇんだ。ドイツなんか、ここから数カ月もかかるし、途中で嵐に遭えば死ぬかもしれない。どっちにしろ、二度と会えなくなる」
 その言葉にそれ以上菊は抗おうとせず、離れて行く自身の家をぼんやりと見つめている。
 来た時は遠い場所から漕いでいたから解らなかったが、本島はさほど遠くなく、出港の汽笛にはどうにか間に合った。笠を深く被らせ、人ごみに紛れて降り立つと、ドイツへ向かう船を教えて小舟の場所に一人残る。
 やがて日は傾き星が輝いていた空から、急に大粒の雨が降り空を仰いだ。恐らく彼女がちゃんとギルベルトに会えた合図なのだろう。そしてそれは、ここに戻ってこない可能性もある、ということ。
 皆が軒下に逃げ出す様な激しい雨の中、暫く雨間に見える、港にひしめき合う船の灯りを眺めていた。やがて無かったことの様に夜空は晴れ上がり、月が眩しいほどに顔を覗かせる。
「アーサーさん。お待たせしました、さぁ帰りましょう」
 不意に後ろから声を掛けて振り返れば、拍子抜けするほどに穏やかな笑顔を浮かべて彼女が立っている。前に感じた暖かみが胸の奥に広がり、自覚せずにはいられないほど強く胸が締め付けられる。先ほどの様な雨ならば、いっそ泣くことも出来ただろう。
 彼女が欲しい。あえて手を引くなどばかげている。手を引かれて船に乗り込み、軋む音をたてて小舟は月の光も穏やかな海原へと駆けて行く。口ずさむ彼女の歌は、尚海を宥め、そしてどれほどこの心をかき乱すだろうか。
 彼女が欲しい、否、どうやってでも手に入れる。
 
 
 
 
かいてもかいても進まなくて苛々苛々。妄想では既に終わってるのにまだここかよと……はぁ痒い痒い