『からくれないに 4』
トン。タン。トン。雨粒が瓦から落っこちて、地面を穿つ音が静かで暗い室内に響いてくる。菊はその、生命を保つ自然の音が何よりも好きだった。母の胸に顔を押し当てて眠っていると、不安など全てが溶けて消えて行ってしまうと思えてならない。
菊の生まれた土地には良く雨が降り、そしてほどよく太陽の光があたって、周りがどれだけ不作でも稲が実らない年は無かった。毎年沢山の稲穂は大地を金色に染め、風が吹くと全てが動き出し波にも似た波紋が生まれる。それは美しく、幼い菊の記憶に焼きつき憧憬とさえなった。
そして五歳を迎える年、知らない人間が沢山やってきて菊の腕を引っ張って籠に押し込まれた。訳も解らず籠に乗った時、母が絹を切り裂くような悲鳴をあげて追いかける声を聞く。そこでようやく、自分の旅路は帰る場所を失っているものなのだと気が付いた。
一人が怖い。
誰一人として自分の名前も呼ばず、笑いかけてもくれず、闇に飲まれて死んでいくようで、一人の夜は何よりも怖い。菊が死んだところで所詮それは菊の死ではなく、『巫女』の死となり、やがて新しい巫女が登場する。
誰も居なくなった屋敷で一人、生きているのか死んでいるのかも解らない生活を繰り返し、ある日砂場に一人の少年が流れ着いた。久しぶりに見た人間……その上自分と同じように、他人と明らかに異なった色を持つ少年に、菊は胸が瞬時にして浮き上がるのを感じる。
どうにか屋敷に連れ帰って、再び眼を開けるのを焦がれて待ちわびた。どんな声か、どんな性格か、どんな瞳の色なのか……やがて鬼灯の様な紅い瞳を開き、ジッと菊を見やる。それはこの世のものとも思えないほどに綺麗な瞳だった。
いつもよりも遅めに帰って来たギルベルトを出迎えるため、廊下を小走りで走り扉を開ける。直ぐに見つけたのは大好きな紅い瞳だが、いつも抱えているお土産は無く、更にギルベルトの背後には見知らぬ男が二人立っていた。
立ち竦んで大きな彼らを見上げて呆ける菊の肩に腕を回し、ご機嫌な様子でギルベルトが何かを言う。しかし、菊にはなんといったのか理解できず、それが非常に恐ろしかった。長身でアーサーよりも明るい金髪を持った男が体を大きく折って屈み手を伸ばすが、どうしていいか解らずに体を縮まらせた。
「菊、向こうの挨拶だ。手を握ればいい」
促され、慌てて両手を伸ばし、おずおずと大きな指先を握って直ぐにひっこめた。何か間違ったのか男は呆然とし、ギルベルトはケセセセといつも通りの笑い声をあげる。
「こっちはフェリシアーノ。そんでこのデケェのが弟のルートヴィッヒだ。オレ様を探して偶々来てたんだってよ」
嬉しそうな笑い声を聞きながら、意識が遠のいていく様な感覚を覚える。瞬時にそうだと思ったけれど、実際眼の前で紹介され現実感が遠のき、グルグルと彼の声が頭を巡った。どうにか笑顔を作って顔を上げると、紹介された男に対して頭を下げる。
「良かったですね、いつも気にしてましたし……ああ、でもご飯が三人分しかないので、急いで作らないと」
喉を鳴らして笑ってみせてから、台所へと逃げ込む。簡単な料理の下準備を済ませると、動転で震える指先を懸命に抑えながら野菜をきざんでいく。
「菊、何か手伝おうか」
不意に扉口からアーサーの声が聞こえ、思わず体を震わせてから振り返った。どうにか笑みを浮かべて見せると、なぜかアーサーの方が泣きそうな表情をしており、つられて菊も思わず眼に涙が溜まるのを覚え、慌てて俯く。
「大丈夫か」
不安を真っ直ぐ付けつける言葉に、ボロリと溜まっていた涙が零れ落ちた。誤魔化そうと顔をあげるよりも早く、抱き寄せられて包みこまれる。突然なことと、ギルベルト以外の人間に触れられること自体初めてで、体が硬直してされるがままに抱きしめられた。
ギルベルトの肉親が現れることへの恐怖は、彼と出会った時からずっと続く。今のこの瞬間さえ、一緒に喜んでやれず一人になることへの恐怖に苛まれている。
どのぐらいそうしていたのか、特に言葉もなく、ただ抱きしめら続けた。人の体温は暖かく、それだけで安心していく自分が嫌で仕方ない。安堵を交えた溜息を吐きだし、離れようとしたがそれよりも先に腕を引っ張られた。
見上げればギルベルトが怒りを交えた紅い眼が見下ろしているけれど、二人は争うこともなく、ギルは用意されていた料理をもって菊の腕をひき、そのまま食卓へと戻っていく。途中アーサーを振り返れば、新緑の瞳が降りたての雨水に濡れた用に、切なさを含みチラチラと光っている。
ルートヴィッヒとフェリシアーノはこちらの言葉を欠片も喋ることが出来ず、菊は彼らの会話に付いていくことは叶わなかった。時折ギルベルトを合間に入れて気を使ってくれたけれど、直ぐに取り残されて手もちぶたさになってしまう。そうなると疲れがやってきて、ウツラウツラと眠気がやってきてギルベルトに凭れかかって意識を飛ばしかける。
「……寝るか?」
揺すられて覚醒すると、耳元で声を掛けられ頷いた。ギルベルトは軽く一緒に飲んでいた相手に声を掛けて立ち上がると、部屋の前まで送られ最後頭をくしゃくしゃに撫でられる。
「部屋には誰もいれんなよ」
苦笑を浮かべてそう言われ、頭にクェッションを浮かべたまま軽く頷く。お酒臭いキスを頬に受け、布団を引っ張り出して丸くなった。
暫くグルグル思考に揉まれていると、背後の障子が開く音がし、すぐに誰かが布団の中に潜り込んでくる。頭の後ろでお酒臭い息が吹きかけられ、微かに身じろぎした。
「お酒臭いです」
後ろにピッタリとくっついたギルベルトを押しやると、不満の声が漏れる。暫く攻防を繰り返すけれど、結局後ろから抱きかかえられたまま落ち着いた。くっついてくる体は熱く、未だにアルコールがまわっていると良く解る。
「……なぁ、オレのお袋はもういないって。親父もそろそろやばいって」
菊のお腹へと回された腕に力がこもり、長身な体を若干縮めた。菊の首元に鼻先を寄せて名前を呼ばれるが、反応できずにただ固まっている。菊が眠っていると思ったのか、やがて彼の寝息が聞こえて来た。
結局朝まで眠ることが出来ず、鳥の鳴き声と朝の光を感じて眼を覚まし、巻きついた腕からそっと抜け出す。山の辺りが白く薄明るくなるのを見やりながら、冷たくて痛いほどの井戸水で顔を洗い、身支度を整え台所へと向かう。途中で雑魚寝していたルートヴィッヒとフェリシアーノに布団をかけた。
台所に入ってすぐに名前を呼ばれて振り向けば、眼の下に濃い隈をつくったギルベルトが気だるそうに立っていた。
「お茶いりますか?」
「ああ」
大きな欠伸をして近寄る気配を背後に感じながら、釜に水を入れて火を点ける。自身とギルベルトの湯呑を取り出しながら、朝食の準備も進めて行く。
ジッとこちらを見つめる真っ赤な瞳を思い、昨夜どうしても出てこなかった言葉を賢明に組み立てる。米をとぐ指先が震え、泣いてしまいそうで眉間に力を加えながらも、口元に笑みを浮かべて振り返った。
「あ、あの。考えたんですけど、お父様に会いにいったらどうですか」
昨晩菊は寝入っていたと思いこんでいたものだから、一旦眼を大きくさせてから安堵したのか頬を緩めて指先が冷たい掌で菊の頬を撫でた。
「そっか……来週船が出るんだ。帰ってくっから待ってろ」
「……いえ」
にこやかに言われた言葉に、ギルベルトの笑顔は強張り眉間に皺が寄せられる。
「あなたはドイツで、本当の家族と暮らしてください」
「なんだよそれ。変わりが出来たからそれでいいってか?」
声を荒げて菊の肩を掴むが、菊は頭を振って口を開くが、声色が潤んでうまく言葉が出てこない。
「私はここに一人で住みます」
ようやく言葉が出てくるのと同時に、廊下にポタポタと涙が落っこちたのが見えた。それ以上言葉は続かず、きゅうっと体を縮めてただ俯く。
「……菊、オレはここの生活が気にいってんだ」
先ほどの威勢など微塵も感じられないギルベルトの言葉に、ただ小さく「わかってる癖に」と返すのが精いっぱいだった。ずっと一緒にいた所で子供も産まれず、先に菊が死んでしまえばそれこそギルベルトは独りになる。
それは例えギルベルトが「それでいい」と言ったところで、菊は生きている限りずっと負い目を抱き気にし続けるだろう。年をとるにつれて、体を合わせるという行為自体が辛く恐ろしかった。歴代の巫女は一体どうやってこの傷と向かい合い生きてきたのだろう。
抱き寄せられ、胸に顔を押し付けられた。少し息苦しいけれど、彼の匂いが肺一杯に入ってきて安堵さえ覚えた。腕を伸ばし広い背中に抱きつき、懸命にきゅうっと抱きつく。何万回と呼ばれた名前が耳元で聞こえ、涙声で返せば彼は喉を鳴らして笑った。諦めも悲しみも含まれた、胸を裂くような笑い声だ。
「ひでぇ顔だな。朝の準備は代わりにやっとく」
力強かった腕が緩まれ、頬を包まれて向かい合わせられる。真っ向から見やった紅の瞳は細め、背を押されて部屋に帰るよう促され、そのまま素直に廊下を折り返した。しきっぱなしになっている布団に潜り込み、いつも懐に入れている唐紅色の紅をとりだし、鼻先に押し当てて丸くなる。
一睡もしていない筈なのに眠気など訪れるわけもなく、ぼんやりとした頭にいくつもの思い出が浮かんでくる。喧嘩したことや、二人でご飯をつくったり、どちらかが怪我や病気したらずっとつきっきりで世話をした事……そして初めて肌を合わせたのは真夏で、二人とも汗だくで気持ち悪かったこと。
丸くなって閉じこもる菊を呼びかけたのは、ギルベルトではなくアーサーの声だった。どうせ扉を開くつもりなどなかったため、頬は涙でぐちゃぐちゃになっている。もしも彼が「台所にたつ」などと言わなければ、飛び出していくことも無かっただろう。
日中は帰るまでに仕事を終えようと忙しく働いているため、殆どギルベルトと会話する機会は無かった。彼らしくも無い気を使っているのか、そのかわりアーサーが何度も話しかけてくれた。ギルベルトと一緒に居るのは眠る時ぐらいで、会話らしい会話もない。
ギルベルトが出掛ける日も、布団に入りながら準備する彼をぼんやりと眺めていた。最後に頭をクシュクシュと撫でられ、軽い挨拶を受け出て行く背中を見送る。たったそれだけだった。
思い出の品々を引っ張り出して抱きしめうつろうつろとしていた所を、再びアーサーに連れ出された。初めて島の外に出たけれど、それ以上にギルベルトのことで胸がぐちゃぐちゃになり、何も考えることが出来ない。
連れ出されてしまったものの、彼と会った時なんて言われるのか、どんな顔をされるのか……きゅうっと小さくなる菊を安心させるためか、櫓を漕ぎながら彼は自身の国の話を沢山してくれた。陽気なお祭り、どこまでも続く農場、そして家に居る数匹の犬達。彼の友達はその犬ばかりで、友達さえ一人も居ないという。
港につくと出港する船はいくつも既に準備を整えており、見送る人や乗船者で港はごった返し、一体どこにギルベルトはどこにいるのか容易に見つけられない。人々に揉みくちゃにされながらも進み、銀髪とあの赤い双眼を懸命に探した。
真っ黒か金色の頭の中に一つ、銀糸の髪が揺れるのを見つけ、思わず彼の名前を呼んだ。人々のざわめきに声はかき消されたけれど、声を上げたのとほぼ同時に月を隠して大粒の雨が突然降って来る。港に居た人々は突然の雨粒に驚き、屋根がある場所へと目指すため、先ほどまで開けなかった視界が開け、空を見上げていたギルベルトは菊を探すために辺りを見回していた。きっちりとした洋服姿は、驚くほど様になっている。
ふと紅い瞳と眼が合ったのは、息を切らして階段の下まで駆けよった時だ。菊が深くかぶっていた笠を取ると、ギルベルトは後ろで待っていたルートヴィッヒに耳打ちし、一人で降りてくる。
「ばれたらどうすんだよ」
慌てて覆い隠す両手に苦笑を洩らし、懐かしい暖かさに片手を添えて甘えた。
「こんなに雨が降っていたら、誰も見えやしません」
大粒の雨が地面に辺り水しぶきをたて、更に提灯の類は全て消えてしまっている。殆ど互いの顔も伺えない様な暗闇だが、言葉だけで顔色を読めるのは何年も一緒に、それも二人だけで暮らしてきたからだろう。
「ギル……やろうと思えばもっと早くあなたを母国に送れたというのに……ごめんなさい」
ぐしゃぐしゃに濡れた髪を拭い、苦笑を浮かべてから抱き寄せる。見慣れない格好でも懐かしい香りが漂い、思わず背中に腕を伸ばしてしがみ付く。
「なぁ、一緒に来いよ。お前が欲しがってた家族にだってなってやる」
耳元で言われた言葉に眼を細め、心の底から安堵のため息を吐きだす。体を離して紅い瞳を見上げると、笑みを浮かべたまま小さく首を横に振った。降り注ぐ大粒の雨のお陰で涙は見えず、笑顔で送り出すことが出来そうだ。
「あなたはもっとちゃんとした家族をつくって、そして幸せになってください」
菊の言葉にギルベルトは苦笑を浮かべ、いつもと同じ手つきで頬を撫で、唇を落とす。ほんの数秒ふれあうだけのキスを終えたところで、船が大きな汽笛を一つ鳴らした。彼の紅い瞳がそちらに向けられ、そして直ぐに向き直る。
「Ich liebe dich.」
理解出来ない言葉で何かを囁くと、乗組員に促されるまま、振り返ることも無く彼は階段を上っていく。大雨の中直ぐに階段は収納され、やがて再び汽笛を高らかに鳴らし、船はようやく港を逃げるように離れた。
ぼんやりと立ちつくしていると、徐々に雨は弱まりやがて空は再び月が顔をだす。着物はぐっしょりと濡れそぼり、動くだけで張り付き気持ち悪いが心はとても穏やかだった。
「アーサーさん、お待たせしました」
元の場所でびしょぬれになっていた彼に声を掛けると、驚きを露わに跳ね上がるように振り返る。新緑の瞳が真っ直ぐこちらを見やり、思わず苦笑を浮かべた。
「次はあなたのお見送りをしないとなりませんね」
近づく我が家を見やりながら呟くと、穏やかさの反面、瞬時に胸の奥に例えようも無い苦しさが差し込んだ。アーサーが漕ぐ櫓の音と波の音ばかりが海に落ちる。