からくれないに
※ この小説に出てくる国名は、実際の国とは全く関係ありません。
『からくれないに 5』
日本語は、日常の言葉しか喋ることが出来ず、だから別れの言葉も愛の言葉も一つとして知らない。最後の最後に送った言葉に、菊はアーモンド型の眼を大きくさせ、キョトンとギルベルトを見上げた。
苦笑を浮かべた所で急かされる様にもう一度汽笛が鳴り振り返れば、ルートヴィッヒが心配そうに二人を見下ろしている。そのまま階段を上るり、弟の肩に手を置いて一緒に行くよう促した。
「いいのか」
階段が収納される音を聞きながら、ルートヴィッヒの声が追いかけてくる。未だに港から見上げる黒い二つの瞳を思い描くが、それを振り切るように階段へと続く扉を開けた。
ルートヴィッヒは、兄が言った『家族のような奴と住んでる』という言葉と、出て来た少女を嬉しそうに紹介していた姿を思い出す。てっきり一緒に連れてくるのかと思っていたが、どうやら仲違いしてしまったらしく、帰る数日前は会話をしている姿もほとんど見なかった。
バイルシュミット家は尚軍人として名を馳せており、普段はルートヴィッヒが率いることもあるという。長期の休みを貰った時のみ、東へやってきてギルベルトを探していたそうだ。母と父の病気などはあったものの、暮らしぶりは悪くも無く、それ以上にあの嵐で父に何事とルートヴィッヒが苦労していなかったことにホッとした。
懐かしい大地に踏み入れたのは港を出てから数カ月後のことだった。微かな記憶を手繰り寄せ、そのままだという己の部屋へと足を踏み入れる。誇り一つ被っていない自室は、記憶の通りであるが、どこかあっけなくただソレだけだった。
昔夢中になって読んだ冒険譚の本を一冊抜き出し、パラパラと捲れば美しい人魚の挿絵でとまる。幼い頃夢見た世界の果てに、確かに歌で人を魅了する女がいた。あの頃夢見ていた故郷は、思いのほか色褪せ、最近は残してきた彼女ばかり思い出す。
どうにかこちらの生活にも慣れ始め、見覚えの無い親戚や懐かしい友人への挨拶も終え、メイドに世話される生活にも飽きて来た頃だ。ノックの次にルートヴィッヒの声が聞こえてきて、溜息と同時に読んでいた本を閉じる。
「兄さん、父さんが呼んでる」
「だから婚約はしねぇっていってんだろ」
閉まったままの扉に向かって言うと、困った様子なルートヴィッヒが顔を覗かせる。
「ならば自分で言ったらどうだ。『もう枠は埋まってる』って」
「埋まってねぇよ」
寝っ転がったまま応えると、もう一度溜息を吐きだす。菊にとっての“家族”は彼女の中で出来上がっており、どれだけ頑張ったって子供が出来ない彼女に、理想のものはつくってやれない。
帰ってきてから子供向けから本格的なものまで、神話や物語で彼女の能力を調べてみても、大したことは解らなかった。強引にでも連れて来たとしても、恐らく責任を感じて苦しみながら生きて行くことになるだろう。今まで自分の人生全てを捧げて来たというのに。
「……とにかく、一度顔を出しておいてくれ」
ルートヴィッヒの言葉に曖昧な返しをし、本日三度目となる溜息を吐きだす。あの小さな世界では当然写真など無く、菊を象る物など一つも無い。仕方なくいつも使用していた『菊』を彫った帯どめを拝借し、いつも左のポケットに沈めていた。今頃必死に探しているかと、一人ほくそ笑む。
父親の部屋には今日の新聞が置かれ、一面にギルベルトの写真が掲載されている。生存の可能性は0だと言われていたギルベルトの奇跡の生還、それだけで社交界は面白がって取り上げた上に、ギルベルトがいた所が現在も不可思議で神秘的な東の地とあり、更に大盛り上がりしていた。
今回まだOKをだしていない婚約でさえ記事にされ、まるで明日にでも結婚式を上げる様な雰囲気を勝手に出されている。最初は小言だろうと、ぼんやりその記事の己の写り具合を眺めていたが、語られる言葉にその表情を徐々に変えていった。
自室に戻り適当に放っておいた新聞紙を広げ数枚捲ると、半面ほどの記事に先ほど聞いたことがそのまま書かれている。今戦争していた国の有利を告げるもので、勝利へと導いているのが『嵐』なのだという。都合が良いタイミングで海が荒れ、巨大な雨粒が休むことなく大地を濡らし、火薬さえ次々にダメにした。
その幸運な国が、アーサーの母国と同じである。ただそれだけで、偶然だと言われればそのとおりだが、ひっかかってならなかった。父親の言葉には、この記事の続きがある。それは、最近ここと摩擦が起こり、このままだと戦争が起こりかねないということ。
しかしあの菊が、ずっと一緒に暮らし続けて来たギルベルトの申し込みを断り、母国を見捨てて会って半年程度の男についていくだろうか。チラつく様な腹立たしさを思い出し、誰に向けるでもない舌打ちをした。
久しぶりの邂逅はそれから大した時間も経たない内だった。結局雨はやむことなく、戦争は続行不能となり、彼の国は勝利を手にした形で終止符をうつ。
その勝利によって世界は大きく動き、急遽大きな会合が開かれた。かの国へわざわざ出向く事になった数多くの不幸な国人の中に、バイルシュミット一家もしっかり含まれていた。普段着ない礼服に身を包みながらも普段軽口を叩く兄が妙に大人しく、ルートヴィッヒは不思議そうに隣で様子をうかがう。
バイルシュミットの責任者である父親は割と中心の中にいたが、二人は要人の護衛が主な理由であったため、会議の内容さえ聞こえない様な後ろの席に座らされた。円形の大きな部屋は薄暗く、中央の人々の所のみに吊るされたシャンデリアが煌々と光っている。
帽子を目深にかぶりながら辺りを探っていくと、薄暗い部屋の中にチラリと新緑がひかる。それはほぼ真正面、距離にすればずっと遠く、瞳も小さな反射程度にしか見えなかった。それでも白黒映画に色づく一つの宝石の様に、はっきりと認識することができる。
彼が座っている場所は、ホスト国の要人が座るべき席だ。あの日と変わらない小麦の金髪を揺らし、実に詰まらなさそうな表情でシャンデリアを見やっていたが、不意に視線を感じたのか真っ直ぐに向き合った。
それは互いに確信を覚える再会であった。睨みつけるギルベルトに対し、アーサーは少々薄い唇を歪める程度の笑みを浮かべた切りだ。隣に座っていた人間に声を掛けられ眼を反らし、休憩の合図がなるまで再び向き合うことは無かった。
休憩の笛が会議室に鳴り響き、静まり返っていた人々が一斉に立ちあがり部屋は音で溢れた。ギルベルトはなんの躊躇も無く立ち上がり、人をかき分けるように進んでいく。後ろからルートヴィッヒの声が聞こえてくるけれど、それを無視して真っ直ぐアーサーの前に立ちはだかった。
談笑をしていた彼はギルベルトを振り返ると、先ほどと同じ笑顔を浮かべて座ったまま出迎える。
「ああ、どこかで見たと思ったが久しぶりだな」
まるで過去の知り合いと偶々出会ったかのような口調に、額に青筋を浮かべ胸倉をつかみあげた。辺りが一斉にざわつく中、慌ててルートヴィッヒが後ろから取り押さえるが、力が強くそのまま額と額を擦るほど近寄せた。
「菊はどこだ」
「さぁ、あの島にいるんだろ」
怒りを示すギルベルトに対し、アーサーは冷めた口調でそういうと掴まれた胸倉の掌を引き離し、襟元を正す。
「兄さん、人目がつきすぎる」
耳打ちされた言葉に不承不承ながら頷き、見事に咲き誇った薔薇園のベンチに座った。満開の真っ赤なバラは香りが高すぎて頭がクラクラするが、再開の合図と共にルートヴィッヒは会場へ戻ったけれど、ギルベルトは頭を冷やすためとその場にとどまった。
何を聞かれても答えようとしない兄に、ルートヴィッヒはそれ以上問うこともなく素直に会場へと戻って行った。
疑惑は完全に確信へと変化し、アーサーのあの態度から、菊本人の意思で来たことはあまり考えられない。しかし海経由だろうが陸経由だろうが、本気で抵抗した彼女に敵う筈も無い。始終一言も喋ることが出来ない環境におかれていたということ以外。
あてがわれたホテルは豪華絢爛ではあったものの、このままでは戦争は回避出来ないという。イギリスの軍事力ならば五分五分だと誰もが口をそろえて言うだろうが、実際戦争になれば母国は大雨で全てが流されるか、草一本生えないほどひび割れ乾ききるだろう。
勝つ方法など一つも無い。戦争が決まったら負けると同義になるだろう。会議を終えた父親が「このままでは確実に戦争になる」とごちる言葉を聞きながら、ぼんやりと縁側に座る小さな背中を思い出した。
「……アーサー・カークランド」
ポツリと漏らされたギルベルトの言葉に、部屋にいた父親とルートヴィッヒの視線が集まる。会議室での一件は勿論父親の耳にも入っていたが、ただの小さな小競り合いとして大事にならずに終わった。
「さっきのことで謝りてぇんだけど、家の場所わかんねぇかな」
軽く笑って言うと、小さな沈黙の内に目配らせをし、結局ルートヴィッヒがついていく形で馬車へと乗り込んだ。アポは一切ないが、バイルシュミットの長男の訪問とあれば、容易にあしらうことも出来ないだろう。
「本当は何かあるんじゃないのか?」
真っ暗な道の中を進む馬車の中で、揺れる灯りに照らされる兄を覗きこみ恐々と声をかける。しかし黙り込んだままギルベルトは赤紫の瞳をルートヴィッヒには向けず、黙り込んだまま外ばかりを見やっていた。
菊の屋敷で同じ屋根の下にいたものの、ルートヴィッヒはアーサーと会話をしたことは一度も無かった。当時『居候』と紹介された男が政府の要人だったことには驚いたけれど、色恋が挟まれるとなれば口も出しにくく、よって父親への説明も困難を期した。
まだ眠る様な時間では無いにしても、夜中に尋ねるのはやはり非常識だ。しかしギルベルトの「行く」という一点張りで、仕方なくカークランドの豪邸に向かうことになった。
ギルベルトが召使いに旨を伝えると、意外にもあっさりアーサーは門を開く。通された客部屋は非常に豪勢で、床に敷き詰められたカーペットからカーテン、そして家具に至るまで全て細やかな手が加えられている。灯されたランプ一つとっても、他国のガラス職人を使ったのが良く解る。
「昼間の事を謝りに?」
喉を鳴らしながら二人を出迎えた主は、穏やかとは言えない笑みを浮かべ、日本語で話しかけて来た。ギルベルトの後ろに立っていたルートヴィッヒが戸惑うのを背後に感じながら、ギルベルトは眉間に深い皺を寄せる。
「そうみえるか?……菊はどこにいる」
「何の話だ。だから菊は日本にいるんだろ」
胸元から煙草を咥え、火を灯してからようやく、二人に座るよう促す。しかしギルベルトは微動だにせず、ただ腕を組みかえただけだ。
「あんなに都合よく雨降るかよ」
「偶然だ」
バンと両手で強く机を叩くと、慌てたメイドがギルの所へと駆けより宥めるが、それを振りほどいてアーサーを睨みつける。緋色の鋭い目線に対し、微かな笑みを浮かべて翡翠を細めた。
「ならばもし、本当に彼女がここに居て、それで?」
「連れて帰るに決まってんだろ!」
声を荒げるのに対し、アーサーは声高な笑い声をあげる。そしてすぐさま「それで?」と切り返した。意図を掴みかねて聞き返すギルベルトに、立ち上がったアーサーは軽く肩を叩く。
「お前も利用するんだろ。同じだ、軍の名家バイルシュミット。
話は終わりだ。この二人を丁重にお送りしろ」
ギルベルトの制止を遮ってアーサーは客間を後にする。残された二人は、摘まみだされるように屋敷の外へと追い出された。
「……何の話をしていたんだ」
屋敷を振り返るギルベルトに後ろから声を掛けるが、彼は生返事を一つ返すばかりだ。目線の先を見やれば、最上階の一部屋の電気が付き、小さな人影が見える。しかし逆行と遠い距離のせいで、その顔は当然見えない。ただ、黒い影が二人を覗いていた。が、やがてカーテンが引かれ光も遮断される。
馬車に乗り込んで暫くすると、肌寒い空気を縫って雨がトタトタと天井を打つ。ルートヴィッヒはふと、兄とアーサーが言い合っていただろう『菊』という女性を思い出した。