からくれないに ※ この小説に出てくる国名は、実際の国とは全く関係ありません。
 
 
 ギルベルトが居なくなった後も、菊はそれまでと特に変化も無く過ごしていた。どうやって彼女を連れ出そうと思案に暮れる中、刻一刻と時間が過ぎて行く。
 それはイギリス船が着く予定の半月前、ハワードからの手紙には急を要することが一つ書かれていた。それは北から徐々に南下してきた疫病が広がり、都市は半ばパニックに見舞われているということ。
 そしてハワードからの手紙を読んだのとほぼ同時に、彼女も月一回届く民衆からの手紙に目を通していた。そして夕食の時にはその顔を真っ青にし、いつもは人一倍食べるのほとんど喉を通らなかった。
「ここにあまり長い間置いておけなくなりそうです。どこか、宿を探しましょう」
 殆ど残っている食事を前に、彼女は箸を置いてから呟いた。
「……どうして。何かあったのか」
 先ほどからずっとまごついていた彼女は、長い睫毛を伏せてうつむく。いくつかの室内灯が揺らぐだけで幾分暗い室内に、波の音ばかりが暫く響いた。それでもジッと待っていると、顔を持ち上げた彼女の目に涙の膜が張っている。
「ああ……私……」
 みるみる内に彼女の瞳から涙が零れ、机の上にいくつかの跡を残す。顔を覆った指の間から、いくつも零れていく。言葉にならない言葉の間に、今は居ない男の名前が挟まれ、微かにアーサーは眉間に皺を寄せる。
 背中をさすってやりながら問えば、多くの時間をかけて先ほど届いた手紙の概要をポツリポツリと語りだす。菊の手紙にも疫病の事が書かれ、その被害状況はハワードからの手紙より克明だった。
 彼らは疫病をとめるための人身御供が欲しいのだという。それもとびきり清らかで、人間を超えた力を持っている聖なる人物。そこで彼女に白羽の矢が立たない筈が無い。
「……ギルなら、なんて言ったでしょう」
 背中を丸めて縮こまる彼女が、波間に埋もれて囁いた。もしもその答えを菊が本当に知らないのだとすれば、こんなに悩むこともなく、あっさり自身を捧げただろう。
「逃げろ、って言うだろうな」
 再び潤んだ瞳が、それでも真っ直ぐアーサーを見やる。
「その能力は恩恵か?違う、殺されて埋められた女神の呪いだろ。お前はいっそ憎んだっていいんだ、お前を苦しめる全てを。お前が一身に呪いを受けてやっているのに」
 目を真ん丸にさせて呆然と突っ立っている菊の動揺が、手にとるように感じた。恐らくギルベルトにさえ同じ事を言われたことも無かったのだろう。否定を言いかけた唇は震え、アーサーから視線は外された。唾を一つ飲み込むと、最後の推しだとばかりに再び口を開く。
「親から離されて、好きな奴からも離されて、それで死ぬことなんて出来るのか?……なぁ、一緒に来ないか?」
 
 船に揺らされ、この世の全てだと思っていた島がどんとんと遠くなっていく。視界を遮るための雨がザアザアと降る中、菊は室内の小さな窓に張り付き、あまり見えない景色ばかりを見つめていた。
「後悔してるのか」
 ランプ一つの視界で、オレンジに照らされた彼女が振り返りアーサーを見やる。底の見えない真っ暗な瞳に微かな光が走り、その厚めの唇には感情がさほど見えない微笑みを湛えている。
「あなたは、初めからこのつもりだったのでしょう」
 黙り込むアーサーから肯定を読みとり、彼女は小さく喉を鳴らした。何も言えずに居ると、菊の瞳は再び窓の外の果てない波間へと向けられる。
「全部計画だったのですか」
「まさか。病気は操れないだろ」
 情報操作で兄弟の再開や、手紙の内容を変えることは可能だが。己でも驚いてしまう程スラリと出て来た言葉に、菊はうんともすんとも言わず、変わり映えしない窓の外ばかり見つめている。
 一緒に行こう、と言ってから彼女は長い間部屋に籠って考え込んでいたが、イギリスへ向かう船が出る数日前に、妙にサッパリさいた様子で姿をあらわした。そして「私ももっといろんな世界を見てみたいです」と笑い、細い腕で大きな風呂敷包みを抱え込んでいる。
 菊が暗に言っている“世界”は、確実にギルベルトの育った世界であり、そして彼自身だ。菊とギルベルトの間にどんな言葉が交わされたのか解らないけれど、恐らく彼女は彼とは会わない。しかし、誰よりも会いたいと思っており、そのために今回の申し出を受け入れたのだろう。彼女も無意識のままに。
「私はあなたの国で何をすればいいんですか」
「……ちょっと雨を降らしたり、太陽出してもらえればいい。そしたらどこにでも連れてってやるし、おいしいもん食わせてやるよ」
 隣に座ると客船の安いベッドが盛大に鳴き、波音と雨音の中に唯一響く。菊は感情の読めない表情を浮かべアーサーを見やると、頬を緩めて先ほどとは違う笑顔を浮かべる。
「あんまり心配しなくていい。簡単なことだし、あそこみたいに閉じ込めたりするつもりもない」
 敢えて笑顔を浮かべる物の、彼女はそれ以上何も言わない。恐らく彼女の頭の中には金色の稲穂と、そして懐かしい人だけだ。
 
 
 ギルベルトがアーサーを疑っていたのは知っていたが、菊のもとに自らの意思でやってきたのは今まで一人も居ないし、人間と言えばここ十数年ギルベルトしか見たことなかった。正直言うと話が物珍しく、物を知らない菊はそれだけで楽しくて仕方が無かった。
 もしもアーサーがいなかったとしても、菊はギルベルトを引き留めることも無かった。しかしアーサーがいなければ素直に人柱になっただろう。言われるままに能力を使うだけの空っぽでは無かったのかと驚くのと同時に、初めて自分の意思で外に出たことに喜びさえ感じた。
 手紙で天候についての請願が来るのは一つの季節に数回、否、その前に病気で母国はダメになってしまうかもしれない。少し前ならば胸がつぶれる程の罪悪感を覚えただろうが、今はなぜだかそれほどの重みも感じない。
 大切な物を全て風呂敷に詰め込みながら、ギルベルトから貰った物の中に唐紅の口紅を見つける。大きなもの、かさばるものは持っていけないと言われたため、貰った物は殆ど持っていけないけれど、これ一つなら大丈夫だろう。合わせられた貝殻を開くと、殆ど使われていない綺麗な赤が輝いている。
 雨の港は昼だと言うのに薄暗く、そして静まり返っていた。流行病のためか、大挙して訪れていた船も人も無く、ただイギリスへ向かう、そして菊が乗る船だけが待っている。船の前で待っていた人物は、二人の顔を確認することも無く乗せると、早々と階段を仕舞った。雨のせいとも言えないほど甲板には人影も無く、部屋までの道のりも唯静かだ。
 
 数か月の船旅を経てイギリスに着いてから暫くは、アーサーによって市内の観光をさせてもらった。見たことも無い可愛いドレスに小物、過剰なほど飾り立てて豪勢な部屋を貰い、アーサー自慢の薔薇園を見て回った。全てが新しくて、珍しくて、一日はあまりにも早く過ぎて行く。
 言葉も文字も読むことが出来ないため、召使いやアーサーが誰かと喋っている言葉も理解できず、意思疎通が出来るのはアーサーだけだった。アーサーは家族と別居しており、家には召使いぐらいしかいなかった。
 そして頼まれるまま、どこかに雨を降らす。それが一体どこなのか、そして何のためなのかは聞く事もなかった。
 延々雨を降らせた後には、一緒に田舎へ旅行しようと約束していたけれど、何か問題が起こったらしく旅行は撤回された。それから暫く朝早く外に出かけるようになったが、夜は毎日沢山の話をしてくれる。
 けれどその日帰って来た彼はどこか沈んでいて、手には紙の束が握られている。お風呂を終えて生乾きの髪に櫛を入れていた菊は、黒い瞳を丸くしてベッドに座ったまま出迎えた。
「何かあったんですか?」
 恐る恐る顔を覗きこむと、彼は小さく翡翠を細めご愛想に笑い、菊に紙の束を手渡した。
「ギルベルト、結婚するんだってよ」
 一面読むことの出来ない新聞を手渡され、アーサーの言葉を飲み込めないまま表紙の写真に目を落とした。懐かしい顔と一緒に、知らない女性が並んで写っている。指先でさすってみると、荒い新聞紙の感触だけが伝わり、握ったその手の熱さも思い出すことは出来ない。
「アーサー様、お客様です」
 ノックの次に直ぐ執事の声が聞こえ、彼は舌うちを一つして席を外す。来た主を尋ねれば、聞き慣れた名前に知らず菊も顔を上げた。
 夕焼けに染まる輝く様な銀髪、悪戯っぽく細められる緋色の瞳、重ねれば関節一つ大きな掌。思わず立ち上がろうか迷ったものの、結局体が固まって何の反応も出来なかった。家族を作って欲しいと言ったのは菊自身であり、今更出て行くことは叶わない。
 アーサーは無言のまま部屋を出て行くと、再び部屋は静まり返る。膝に乗せていた新聞紙を机の上に置き、いつ出てくるのかも解らない彼を待って、窓際へと移動した。暗闇ばかりが広がっており、寒々しい景色に凍えてしまいそうだ。
 いつまでそうしていたか、やがて二人の長身の男が館から出て来た。少しだけ実を乗り出して見やると、こちらを見上げた双眼が仄かな光で赤く光る。
 思わず名前を呼び掛けた口を慌てて閉じて、カーテンに手を掛けた。確かにあの姿はギルベルトだったけれど、今更出て行っても仕方が無い。家族を作れと言ったのは自身であるし、そして今彼はその言葉を実行しようとしている。
「菊」
 不意に名前を呼ばれ、弾かれる様に顔を持ち上げた。窓に背を向けて立ち直し出迎えると、彼は笑顔を浮かべ歩み寄る。
「ギルベルトが来てたんだ。今度はお前も同席すればいい」
 首を横に振ると、隣に座るように促す。いつもよりずっと饒舌なアーサーを見上げ頷いているが、ギルベルトの話題は大して出てこなかった。聞きたくても聞く事は出来ず、俯く菊の髪を一房摘まみ唇を寄せる。
「あのな、親戚に一人、両親も兄弟も居ない子供がいるんだ。引き取ろうと思ってるんだが……まだ小さいし、遊び相手になるだろ」
 負い目か憧れか、菊は子供が好きらしく、広場で見かけるたびに目をキラキラと輝かせて目で追いかけていた。そして予想通り顔を輝かせると、アーサーの言葉に何度も頷く。
 ギルベルトの話題が出ない事に若干の安堵をおぼえ、可愛がっていた従兄のアルフレッドと菊が楽しげに遊んでいる姿を思い頬を緩める。
 
 船に乗ってからコツコツと言語の勉強をしていたが、アルフレッドを迎えると決まってからは更に一生懸命勉学に励んでいた。アーサーが会議で居ない時はメイドを無理に勉強相手につけ、やがて遣って来る小さな隣人に胸を期待で膨らませる。
 やってきた金髪の八歳の少年は全く怯むことなく、見かけない色合いの菊を興味津津で見上げ、元気に己の名前を声高に述べる。ずっと勉強していながらぎこちない言葉で話しかけても、アルフレッドは満天の笑顔を浮かべ菊の足元に抱きつく。
「オレ、これから会議だから仲良くな」
 満足そうに頷き、揃い過ぎているという程に遊び道具が揃った子供部屋に案内すると、執事に耳打ちしてそのまま外へと出て行った。
「これからよろしくおねがいします」
「よろしくなんだぞ」
 笑顔を返して円やかな頬を撫でると、アルフレッドは嬉しそうな声を上げて再び菊に抱きつく。子供独特な甘い匂いにドギマギしながら抱き寄せ、細い髪に指を絡ませた。
 
「ねぇ菊、今イギリスって戦争してるんだ」
 飛行機を手に持って遊んでいたアルフレッドが不意に菊を見上げた。
「せんそう?」
「喧嘩してるんだぞ!でも相手の国に雨が一杯降って、全部流れちゃったんだって。それで勝ったんだ」
「……そう」
 子供部屋に置いてあった絵本を床に置くと、ポツリと小さく返す。顔を輝かすアルフレッドの前で、曖昧な笑みだけを浮かべた。
「また戦争があるって、メイドが言ってたんだ」
「どことですか?」
「ドイツだよ」
 縁側に座り緋色の瞳を嬉しそうに細め、彼は自身の故郷を嬉しそうに語っていた。霧が掛った朝方のブドウ畑、歴史のある石畳の町並み、古城が並ぶ大きな河。いつか菊を連れて行くと冗談交じりに笑った、その国の名前。