からくれないに ※ この小説に出てくる国名は、実際の国とは全く関係ありません。アーサーがひどいです。
 
 
 戦争の口火が切られたのと同時に、小雨がサラサラと窓のガラスを濡らし始めた。侵攻に対する準備を整え関所の見回りを言いつけられたギルベルトは、窓を押し上げて肌寒い空気に眉間に皺を寄せる。
 彼女の能力は、離れ過ぎていると効かなくなる。小さな島国ではさほど問題でも無かったけれど、今回は恐らく軍の後ろに付いてくるだろう。直ぐにでも雨粒の大きさは増すのだとばかり思っていたけれど、いつまで経っても雨は強まることも止むことも無い。
 軍が上陸するまでの約一カ月の緊張状態の中、毎日毎日空は厚い雲に覆われ続けた。やがて攻めてくるだろう兵はいつまでも遣って来ず、その時ようやく、彼の地もまた毎日降る雨に悩まされている事を聞いた。
 空は深い雨雲で満ち溢れ、雨は絶えず全てを濡らす。泣いているのだ。そう、怯え泣いているのだと、雨雲を見上げながら確信した。
 
 
『からくれないに』
 
 
 対戦国がギルベルトの出身国だと知った菊が、歌えない、と訴えるとアーサーは困った様子は見せたものの、強く言って来ったり脅したりは決してしなかった。歌うことが無くなり、数日は菊はアルフレッドと毎日遊んで暮らし、アーサーは相変わらず優しくて、出てくる甘い菓子もおいしい。
 しかしある日、着物ではなくドレスアップさせられ、見知らぬ顔が並ぶ大広間に通された。元より人と会う機会が無かった菊にとって、見知らぬ人程恐ろしい者はない。いくつもの視線が向けられ、理解することの出来ない言葉が頭の上を行きかう。
「菊、歌って」
 以来一度も歌っていなかったけれど、アーサーに促され、見知らぬ顔が並ぶのが恐ろしく、小さくだが故郷の歌を歌った。瞬間、降っていた小雨が止んで日光が差し込む。
 ざわつく声が聞こえ、怯えて直ぐに彼女は口を噤んだ。目線を下げ、声を上げている人々から視線を反らした。直ぐにでも逃げ出したかったけれど、しっかりとアーサーに腕を掴まれ、その場から逃げられない。
「みろ、菊。みんながその能力を褒め称えてる」
 興奮気味に耳元で言われた言葉に、すぐさま首を横に振った。目の前の人々は口々に何かを口走るが、それは到底褒めているように見えない。
「いいえ、怯えているだけです」
「それでも素晴らしい能力だ」
 及び腰になっている腰回りに腕を回され、逃げることも出来ずに並んだいくつもの目に晒され、委縮し、逃れるように顔を反らす。
 それに気がついたのか、ようやくアーサーに腕を引かれて部屋を退出した。それでも扉向こうから声が飛び交い、それらは怒声とも恍惚とした興奮ともとれる声色をしている。
「うぃっち、ってなんですか?」
 人々の口をついて出ていた言葉の、最も多く耳に残った言葉。菊にあてがわれた部屋へと向かう途中、そっと見上げるとアーサーは柔らかな笑顔を浮かべた。
「魔法が使えるっていうことだ」
「……私、本当に、もう、戦争に加担したくありません」
 翡翠色の瞳が一瞬驚き、それから曖昧な笑顔を浮かべる。部屋に入るとアーサーは後ろ手で扉を閉め、午後の柔らかな光が入ってくるようにカーテンを開けた。先ほどまでの雨粒が新緑に付き、キラキラと輝いている。
「なぁ、菊。俺達結婚しないか?ギルもしたしな。それに俺は長男じゃねぇから、子供はいらないし、アルフレッドはお前に懐いているし」
 まるで明日の夕飯を決めるように、サラリと述べられた言葉に瞠目する。
「……私、歌えません」
「今はその話じゃないだろ」
 喉を鳴らして笑う声を聞きながら、アーサーは革靴の底を鳴らして歩み寄る。最近はもう嗅ぎなれた香水の香りが鼻腔をよぎり、太陽の明りが麦色の髪を煌めかせる。
「もしもお断りしたら?」
「今までと変わらない」
 苦笑を浮かべて菊の頬を撫でてから、小さく首をかしげる。
「俺じゃぁだめか?」
 上から見やってくる翡翠色の瞳を見上げ、首を横に振った。彼は当然な応えを受けながら、それでも安堵の色を示す。アーサーと一緒にいるのは楽しいし、この生活も気に入っている。もしも申し出を受ければ力を使わざるをえないだろうし、断ればこの生活を続ける事は出来なくなるだろう。
 もう会えないだろう赤紫の瞳を思い出し俯くと、アーサーが菊の思い出した人物の名を呟く。
「あいつはもう、結婚したよ、菊。待っても無駄だ」
 見透かされた事に、瞬時に顔を真っ赤にさせると、屈んだ彼が左頬を菊の右頬に寄せる。嗅ぎなれた香水と暖かさに身を縮めると、直ぐに離れて行った。
「良い返事を待ってる」
 扉が閉まる音が聞こえ、ようやく足元に落としていた視線を持ち上げ、開いたカーテンから外を見やる。目にしみるほどの眩しさが嫌で、カーテンを引いた。
 
 
「菊、食事だよ……泣いているのかい?」
 夕飯前ほどの時間帯に、扉から、彼にしては控えめな声が聞こえ、菊はテーブルに突っ伏していた顔をあげ慌てて頬を拭う。足元まで駆けてきたアルフレッドに見上げられ、思わず顔を反らした。
 カーテンも締め切り、太陽も沈んでから暫く立ったから解らないと思ったのだが、彼は直ぐに気配を嗅ぎ取っているらしい。
「どうして泣いてるの?」
 菊はアルフレッドの声を聞きながら、手元に置いてあったランプに火を灯す。辺りがぼんやりと浮かび上がり、心配げな瞳が見えた。
「……私、ずっと家族がほしかったんです」
 アルフレッドを招き寄せて呟くと、空色の瞳を大きくさせて彼も頷く。
「俺もだよ。菊は俺の事好き?アーサーは?」
「好き、ですよ」
 途端目を輝かせて「ならいいじゃないか」と顔一杯で笑顔を浮かべ、声を弾ませる。
 菊は苦笑を浮かべ、食事に向かうためにランプの灯りを吹き消した。
 
 食事を終えて自室にこもり、本を一冊本だなから抜き出した。帰ってきてから古書を漁り、菊と同じような力を持った人間が過去にいなかったか、洗いざらい調べている。しかし出てくるのは大抵『魔女』の類であり、信憑性があまりなかった。
 昼間に菊をお披露目したものの、猜疑的な人間が少なからずいた事が気に掛った。菊も怯えきっており、「もう歌いたくない」と何度も繰り返す。嫌われるのは好ましくなく、勿論手などあげようもないけれど、しかし手綱を離さない様にしなければならない。
 結婚を持ちかけるには少々強引だったが、彼女の性格から断りきることは出来ないだろう。あとはどうにか説得して……と、勝利を半ば確信しほくそ笑むんだとき、開いていた窓の外から菊のか細い歌声が、風に乗って聞こえてくる。それとほぼ同時に、パラパラと雨が降り始めた。
 悪戯に力を使うこともなかったため、珍しいと窓の外へ顔を出した。灯りは灯っていないが、菊の部屋の窓は大きく開いている。
 暫く歌声を楽しんでいたが、本を読んでいるうちに雨ばかりが降り、彼女の声は止まってしまっていた。サラサラと葉の上を滑る雨の音に耳を澄ませていると、追いつめられていた姿を思い出させ、何気なく気になり椅子から立ち上がる。
 島にいた時は良く笑っていたけれど、ここに来てからはいつも押し黙り、身の置き場所が無いようだった。アルフレッドを受け入れてからどうにか楽しそうにしていたけれど、自分がギルベルトよりも劣っているようで腹が立つ。
 ノックをしたが返事は聞こえず、眠ったのかと暫く扉の前で迷っていた。しかし、どうも気になってノブを回し、真っ暗な中にそっと顔をのぞかせる。
 名前を一度呼ぶが返事は無いものの、廊下からぼんやりとした光が差し込み、椅子に座って顔を伏せている姿が見えた。窓はあけっぱなしで、床を霧状の雨が濡らしているのに気が付き、部屋へはいっていく。
「風邪ひくぞ」
 窓を閉め振り返るが、うつ伏せに眠ったまま動かない。そっと肩に手を置くと、グラリと彼女の上体が大きく揺らぐ。大きな音をたてて、彼女が転がり落ちる前に、床に何かが落ちていく。
 慌てて腕を伸ばし、どうにか菊が倒れる前に胸に引き寄せてから、床に転がった、夕食で皿の横に並んでいたフォークを拾う。微かな血の匂いに気が付き強く体をゆすると、ようやく彼女が潤んだ瞳を開けた。
 
 酷く声帯を傷つけたため、声は殆どでなくなり、それと同じくして雨はいつまでも降りやまなく開戦が予定された日が過ぎても空模様は変わらない。