からくれないに ※ この小説に出てくる国名は、実際の国とは全く関係ありません。アーサーがひどいです。
 
 
 止む間もなく降り続ける雨は、小雨といえど日夜関係なく続くとならば、川は溢れ農作物に多大な悪影響を与えた。時間が経つにつれて下水道が逆流し、疫病が流行る可能性も高い。
 向かうべきところを知らない不安は、やがて噂となってギルベルトの耳にまで届いた。「かの国には天候を操る魔女がいて、彼女のせいで雨がやまない」のだという。嘘とはいえないもので、それが今現在彼女の立たされている立場なのだと解る。
 ただ、天候を操れてアーサーのもとにいるとなれば、なぜアーサーの上にも雨が降り続けるというのだろうか。
 
 
『からくれないに』
 
 
「まだ声が出ないのか」
 細い顎を指先で持ち上げると、彼女はあきらかに怯えた様子を見せた。何度も繰り返す質問に、菊はいつも首を横に振る。そしてまた、しとしとと雨が降っている窓の外へと視線を投げかけた。
「止ませ方も解んねぇのか」
 苛々とした声色に身を縮ませ、項垂れたままコクコクと無言で頷く。澄んだ海と耕したばかりで土の匂いが立ち込める畑、そして唯一の同居人であるギルベルトを思い出した。「帰りたい」と言いたいけれど、その言葉さえ音にならず下唇を噛みしめる。
 アーサーはそれ以上何もいわなかったけれど、言葉も解らない彼の国の人々は菊を恐れているのは解った。沢山の視線に晒された事が殆ど無かった菊にとって、あからさまな敵意は初めて体験することで、恐ろしくてならない。
「菊、いるかい?」
 ノックも無く開いた扉から、アルフレッドが顔を覗かせ、クリッとした空色の瞳が恐る恐る二人を見上げた。そして菊を見つけるや否や、顔に満面の笑顔を浮かべ駆け寄る。
「部屋にいろって言っただろ」
 苛立たしげに告げるよりも早くに立ち上がると、菊の足元に佇んでいたアルフレッドを抱き上げた。名前を呼ばれるけれど返すことも出来ずに、閉まる扉を見やって項垂れる。
 隠し持っていた唐紅をそっと取り出して頬に押し当てる。込み上げてくる涙を慌てて拭い、しとしとと雨が降ってる窓の外へと視線を投げた。風邪などで声が出なくなったことはあったけれど、その場合天気は菊が歌を歌っていない時と同じだった筈だ。
 
 菊を見せたのは間違いだったか。部屋から止まない雨の所為で水量を増している川を見下ろしながら、煙草に火を点けると肺一杯に吸い込む。
 「魔女に違いない」という人々の声をかわしたのはいいものの、このままでは菊を見つけ出したアーサーにまで火の粉が飛んでくるだろう。アーサーはともかく菊と仲の良かったアルフレッドにまで言いがかりをつけてきている。
 取り敢えず菊をここから違う場所へ移動させた方がいいのだろうが、雨は国境を越えても降っているらしく、連れて行ける場所も解らない。恐らく船旅に出せば雨の所為で海が荒れ、船などあっという間に転覆させてしまう。陸路は戦争中で容易に抜けることも出来ない。
 手放すには惜しい。しかし手元に置いておくにはデメリットが大きすぎる。溜息を一つ吐きだし、机に置かれていた紅茶に口をつけた。
 
 停戦が決まってからも降り続ける雨の所為で、道路にまで水が迫り山間では土砂崩れなどが起こり始めている。ギルベルトは各地の状況を噂で聞きながら、密かに眉間に皺を寄せた。
 お陰で朝から溢れだした川や、湿気によって食べ物が腐ったりしないようにする対策などに追われていた。一日中厚い雲に覆われているため、一体今が何時なのかも判らず、ついつい眠り過ごしてしまうこともある。
 その日も3時間しか眠っていないことに気が付いたのは、深夜に時間が回ってからだった。大きな欠伸を噛み殺し、少し仮眠をとろうと立ち上がったところで、ノックの音が聞こえる。直ぐに来客を告げるメイドの声を聞き、容易に客の姿を想像させた。
 深夜の客など、普通の客であるはずがない。また夜に来るとなれば、周りの眼が気になって日中訪れる様な人間ではない。
「直ぐ行く」
 緩めていた襟元を締め直し、客間へと足早に向かう。そこで待っていたのはやはりアーサーで、いつも通り感情をにおわせない無表情を浮かべている。
「よお、よく来たな」
 嫌味を込めて笑顔を浮かべると、彼は数度瞬きをするばかりで言い返してくることは無かった。小さく鼻を鳴らし、彼の前に腰を下ろすとようやく来訪の理由を尋ねるために口を開く。
「で、菊を連れてきたのか?」
「……そうだ、連れてきた」
 予想していた通りの答えが返ってきたというのに、一瞬にして頭に血が上った。頭のどこか深くで、プツリと理性が切れる音が聞こえ、気がつけば机の上のティーカップをなぎ倒して身を乗り出し、彼の胸元を掴んでいた。数センチ先にある若葉の瞳はそれでも冷めており、観察するような視線をやめようとしない。
「おい、勘違いすんなよ。俺は菊を助けてやったんだ」
 飄々とした物言いに、ギルベルトの奥歯がギリギリと鳴った。殺気に満ちた赤紫の瞳が、怒りで詰まった言葉の変わりに雄弁に物を語っている。
「兄さん、どうしたんだ!」
 カップが割れる音を聞きつけ入ってきたルートヴィッヒが驚きの声をあげ、羽交い締めにしてどうにか二人を引き離す。直ぐに振りほどかれたが、再び殴りかかったりする様子もなく、思わずルートヴィッヒは一歩退いて二人を見やる。
「彼女は人身御供にされるところだった、だから助けたんだ。そのかわり、少しだけ手伝ってもらった」
「てめぇ、よくそんなことを……」
 額に青筋を浮かべ、腹の底から怒りで煮えた声色を絞り出す。二人の間はやはり日本語だが、後ろで見ていたルートヴィッヒには、その内容が彼女のことだと直ぐに判った。
「菊に会わせろ」
「そのつもりでここまで来たんだ」
 立ちあがると、先程掴まれて歪んだ襟元を綺麗に正す。立ち竦んでいたルートヴィッヒに、アーサーの邸宅へ向かうことを告げると、勿論彼は顔色を変えた。止める声も聞かず荷物も持たずに、そのまま彼の馬車へと乗り込んだ。
 既に馬車が走れるような道は数本しか残っておらず、殆どの移動は船となっている。水の量は増えたが荒れているわけではないため、比較的に悠々とした移動時間を得ることは出来たが、二人の間にまともな会話がなされることはなかった。
 こうなった経緯や、菊が立たされている状況など詳しく聞いて、最初は腹がたったというのに徐々に怒りより喜びが勝っていることに、ギルベルト本人も驚いた。数ヶ月間焦がれた恋人に直会えるという事実は、驚くほどに自分を浮つかせる。彼女自身はそれどころではないと、勿論理解していたけれど。
 
 一週間程度の旅行を終えて辿りついた彼の屋敷は相変わらず大きく、家に入るとまず真っすぐに小さな男の子が二人に駆け寄ってきた。青い瞳に金色の髪をした、まだ5歳程度の幼い子だ。
「お帰り! ……誰だい?」
 大きな瞳をぱちくりと瞬きさせ、ギルベルトを見上げる。その小さな体をアーサーは抱き上げ、愛おしそうに頬へ挨拶のキスをした。
「ただいま。菊は?」
「……部屋さ。泣いてるよ」
 問いかけと違う答えを述べても、少年は気にする様子もなく素直に答える。その表情は今にも泣き出しそうで、遠い世界につれてこられた彼女も、ただ辛い思いをしていた訳ではないと知った。
 その部屋は一番高く奥まった場所に存在しており、アーサーはポケットから鍵を取り出すと、強固なそれをこじ開ける。いつも穏やかな太陽に照らされて幸せそうに微笑んでいた彼女は、薄暗い部屋に一人、ベッドに顔を埋めて小さくなって泣いていた。
「菊、飯は食べていないのか? 体を壊すぞ」
 呼びかける声色は柔らかで、それに一瞬胸の奥がチリッと燃えたが、顔を持ち上げた彼女と眼が合った瞬間、全てがどうでもよくなった。顔を涙でぐしゃぐしゃにし、濡れた黒い瞳でジッとギルベルトを見やってから不思議そうに唇を動かすが、声は出ない。
「菊!」
 体裁も全て投げ捨てて駆け寄ると、更に小さくなってしまった体を抱き寄せる。涙で溺れた瞳は、驚きと喜びが綯い交ぜになってギルベルトを見上げた。黒い瞳と真っすぐに向き合うと、彼女を孤島から連れださなかった選択はミスだったと悔やまれる。
「……朝にまたくる」
 一つ言葉を残してアーサーは扉の向こうへ姿を消した。残された部屋では、消え入りそうな小雨の音と寒々しい暗さばかりが残っている。
「何もされなかったか?」
 ベッドに二人で座って、出来るだけ静かに問いかけると、無言のままひとつ頷いた。先ほどまで際限無く零れ落ちていた涙はようやく止まり、それでも不思議そうな様子は解こうとはしない。頬にあてがわれた大きな掌に、自身の掌をあてがって眼を細めた。
 なぜ、と音も無く問われ苦笑を洩らし、先程から声を無くしている唇をなぞった。懐かしいその全てが、遠く離れてしまって二度と今まで通りに成らない様な気がして、胸が潰れそうだ。
「無理矢理でも連れて行けばよかった」
 腰に腕をまわして抱きしめると、おずおずと細い腕が頭へと回され抱き寄せられ、その胸元に顔を埋める。懐かしい感触と香りが懐かしく、抱き寄せたまま何度も名前を呼んだ。
 
 
「それで、なんで俺を呼んだんだ。俺にどうにか出来ると思ってたのか?」
 朝、太陽が昇るだろう時間に尋ねると、菊は眠りギルベルトは窓際でぼんやりと外を眺めていた。カークランド自慢の薔薇園は、溢れだした水でダメになってしまっている。
 アーサーを振り返った彼が、淡々とした口調で尋ねた。アーサーは顎で部屋の外へ出るように無言のまま指示すると、抗うことは無く、椅子にかけられていた自身の上着を持ってアーサーの後についていく。
「……そうか」
 妙なほどあっさりと言われた言葉に、思わずギルベルトは眉間に皺を寄せ、眼の前を歩く男の背中を睨む。初めから諦めていた、とでも言いたげな口調に違和感を覚えた。
「なんで俺を呼んだんだ……まさか」
「俺はそんなつもりは無い。ただ……」
 振り返った翡翠色の瞳には焦りが滲み、違和感が確信に変わる。
「噂は聞いただろ? 見せたのは完全に失敗だった」
 天候を操る魔女が、世界を水浸しにしている。全く持って嘘いつわりの無い噂話は今や貴族だけではなく、民衆の間でも実しやかに囁かれていた。彼らが本当に菊に牙をむくことは、十分に予測できる。
 アーサー自身は手にかけるつもりは無い、と否定したが、結果的に迎えるのは結局ギルベルトが一番恐れてやまない事だ。大体、この天候を直せる唯一の人間を殺してしまっては、解決するものも出来なくなってしまうのではないだろうか。
「俺が連れて帰る」
 ギルベルトのセリフに、瞬時にアーサーは顔を顰めた。
「連れて帰る? ハッ、俺がてめぇを呼んだのはあくまで菊の護衛をさせるためだ。この屋敷にも、菊のことを魔女だという奴が沢山いる」
 沢山いる、と言ったが、アーサーとアルフレッド以外は全員そうだ。出来るだけ迅速に、かつ、菊をちゃんと護衛しきる人間が必要だった。勿論、力の事を詳しくしっている人物であり、また唯一彼女が心を許しており傍にいてもストレスを感じないとしての選出だ。
 アーサー自身はギルベルトを呼ぶなど、心底嫌だったが、もうそんな事を言っている場合ではないのだと、ようやく腹を括った。
「屋敷を用意した、そっちに移れ……菊を連れて家になど帰れないだろ」
 ギルベルトの屋敷でも天候の魔女の噂話は蔓延し、噂で出てくる東洋人の少女を、やはり長い間東洋の孤島で住んでいたギルベルトが連れ帰ったとなれば、結果は目に見えている。かといって実家以外に帰る場所も無い。
「……解った」
 頷くギルベルトに内ポケットに入れていた鍵を取り出し、彼の掌に握らせた。