短編
ゆったりと目を醒ますと、辺りは真っ白な世界へとなっていた。白、というよりは光の世界であり、その眩しさに驚き、目を瞑ってしまう。
そして二度目にそろそろと目を開けたとき、いつの間にやら、目の前に一人の男の顔があり、ギョッとして菊は固まる。菊が固まっているのが不思議なのか、目の前の青年は、その首を傾げた。
茶色の髪に白い肌、灰色の大きな瞳。少々子供っぽいけれど、容姿は整っていて美しい。
「初めまして、菊!おめでとう、君は選ばれたんだよ!」
目を真ん丸にしている菊に対し、彼はにまーっと笑うと、手に持っていた金色のベルをガラゴロと慣らして見せた。この世界では、鐘の音は何度も響きながら聞こえてくる。
「え、選ばれた……?」
掴めずに菊が困った表情を浮かべると、青年はだぶついた真っ白な自身の服の袖を探り始めた。そこに何やら入っているらしく、暫く奮闘する。
そして出てきたのは、お菓子の包みと共にグシャグシャになった、一枚の紙であった。
「うん、実は宇宙の中で一日に一人だけ、死んだ後、どこかを旅する権利が与えられるんだよ。」
つまり旅行だね!と嬉しそうに笑う彼に、菊は一瞬キョトンとしてから、ギョッと目を大きくさせた。
「待って下さい!待って下さい!私死んだのですか!?」
声を荒げた菊に、青年は「?」を頭の上に浮かべ、「知らなかったの?」と逆に驚いている。
「君は夕飯の買い物に行って、信号無視の車に轢かれたんだ。まだ死んでないけど、時間の問題だよ。それよりもどこに行く?俺のお薦めはやっぱりオリオンの方かなぁ。星が生まれる瞬間は綺麗だよ〜」
一人ふわふわ笑っている青年を余所に、菊は真っ青になって己の頬を包み込んだ。ああ、まだまだやりたい事もあったのに、自分が死んだことさえ分からないなんて……
こんな特権にあたったからって、手放しで喜べるはずが無い。大体、今日の夕飯は誰が作るのだ、誰が。
「菊?菊?聞いてる?俺フェリシアーノっていうんだ、よろしくね。一応天使なんだよ。ほらほら。」
青ざめる菊を余所に、フェリシアーノは背中についた羽をバタバタさせてみる。ちょっと良い風が来るばかりで、そんな事実、今の菊にはどうでも良かった。
「……あの、旅行は良いですから、今の私の状況見せて下さいませんか?」
取り敢えず、まだ死んでいない筈だ。
立ち上がってそう声を掛けると、青年は不満そうに口を窄める。
「ええええーそんなのつまんなよーどうせ見たって変わらないんだもん。」
両手を広げる彼に、菊は泣き出しそうな真っ黒な瞳で見つめた。暫くはそのまま固まっていたが、フェリシアーノは「いいよいいよ」って、直ぐに笑顔を作る。
「あああ……なんか、不思議ですね。」
病室で本当に寝ている自身の姿を見つけ、思わず菊は脱力する。頭に包帯を巻き、絆創膏を頬に貼られ、口に呼吸器らしきものが設置されていた。
心音が鳴り響く室内に、穏やかな様子で彼女、否、自分は眠っている。
「死ぬ……ん、ですよね。」
眉尻を下げてそう問いかけると、フェリシアーノは元気に「うんっ」と頷いた。
思わず溜息を吐き出して立ち上がると、菊は置かれたソファーに腰を降ろす。なんて穏やかに、暢気に眠っていることかと、もうすぐ死ぬのだという自分自身に、思わず唇を尖らせる。
「菊は家族居ないの?」
誰も見舞いに来ていないのに、フェリシアーノがそう尋ねると、菊は思わず苦笑を浮かべた。
そんな聞きづらいだろう事を、なんと飄々に尋ねてくるだろうか。だけど彼だからこそ、悪意も他意も無いことは分かる。
「いえ、一緒に住んでいるのは兄が一人だけ。両親は早くに亡くして、他の兄妹とは来年から一緒に暮らそうと、約束していました。兄は、恐らくいま会社ですね。」
花瓶と共に置かれた新聞を見つけ、自分の記憶から既に三日経っている事に気が付く。どんな速度で今まで時間が進んでいるのか分からない。
兄は家賃も稼がなければいけないし、こんな真っ昼間から病院に来られるはずもなく。
「……兄は、少しホッとしているかもしれませんね。」
「え?」
ポツリと呟かれた言葉にフェリシアーノが反応すると、菊は曖昧な笑みを浮かべて「何でもありません」と首を振った。
兄は家族を養うため、朝から晩まで働きづめだ。菊は良いと言ったのに、大学にまで進学させてくれた。
己の生活やお金を全て犠牲にして。
そう思うと、こんな事になってちょっと良かったのかも。なんて余裕が出てくるから不思議だ。
第一、こんな脳天気な天使が居る天国ならば、そんな堅くならなくてもやっていける場所なのかもしれない。
菊が段々と前向き……否、自棄になっていると、菊の寝顔を覗き込んでいたフェリシアーノがクルリと振り返った。
「菊は恋人居ないの?」
「えっ……急ですね。」
眉間に皺を寄せて狼狽える菊に、ジッと、真摯な瞳をフェリシアーノは向ける。菊は真っ赤に染まると、もじもじと身を縮めて見せた。
「じ、実は、先週出来たばかりで……」
真っ赤になる菊に、女子高生の様な楽しそうな声を上げ、フェリシアーノは身を乗り出す。
「名前は?どんな人?」
「えっと……少し、不思議ですが、吃驚するぐらい綺麗な人で……名前は、バッシュさんです。」
あ、でも、私から告白したのですが……その、恋人というか……とまごつく菊の後ろの扉がガラリと開いた。
高校生に時知り合い、それ以来顔見知りのようになっていた。
いつも一緒。なんていう言葉は勿論当てはまらないし、他の人より少し多く喋る程度だった。何度か帰り道を送ってもらったこともあるが、あれは帰りが遅かったから。
だから、告白は玉砕覚悟であった。ただ、高校を卒業してしまったら、それから会う機会が減ってしまう。否、もう無いだろう。
小心者であったのにも関わらず、友人のエリザベータに背中を押されて、菊はやっと告白した。
「ずっとお慕い申しておりました!お付き合いしてして下さい。」
そう言って頭を下げると、一瞬、彼のコバルトブルーの瞳が陰ったから、ああ、やはり玉砕だ。と心の底から思ったものだ。
が、一言「うむ」と言った。
「えっと……それは、okって事でいいのですか?」
そう菊が首を傾げて尋ねると、バッシュはもう一度、それこそ無表情で「うむ。」と頷いた。
嬉しかったのだが、その「うむ。」という簡素な返事に気が抜けてしまう。ああ、彼にとったらそんなモノなのか、と思った。
ずっと綺麗だと思っていた。くすみのない金髪、そして宝石の様な瞳。羨ましいと思っていた、その意志の強さ。
「バ、バッシュさん……!」
病室の扉を開けた主を見やり、菊はギャッと小さく体を跳ねさせてから、思わずフェリシアーノの後ろへと逃げる。が、当然彼には自身を見えていないらしく、そのままベッド横の椅子に座った。
グッと身を乗り出して己の顔を覗き込むものだから、慌てて菊はバッシュの後ろで声を上げる。が、勿論聞こえない。
「菊、聞こえてないよ。」
「分かってます!分かってますけど……」
慌てて伸ばした菊の腕が、バッシュの体をすり抜ける。
あまり近くで見られたくない一心であったけれど、鼻先があう程近くで、彼はジッと菊の顔を覗き込んでいた。
「ていうか、今、平日だよね。」
窓からは太陽の光が燦燦と輝いているのが見える。時計は昼の二時を指し示していた。
「……バッシュさんは、大学生なので。」
そう答えながら、授業などに元々出ていなかったことを思い出し、思わず心配になってしまう。頭は吃驚するほど良いのだけれど……
人が居るところを嫌う性質だし、病室は割合彼の性に合っているのだろうと、菊は一人納得した。
確か今、妹さんが彼の所に来ていると聞いていたが、その妹さんも学校に行っているのだろう。
ふ、と。突然にして自身が自己にあった瞬間を思い出した。その日は、本来だったらバッシュと会う約束をしていたのだが、妹さんとの先約が会ったのを思い出したらしく、キャンセルとなった。
それで買い物に出掛けた帰り道、車に轢かれたのだ。
急に現実味を帯びてきて、菊はしょんぼりと俯く。その様子を、心配そうにフェリシアーノが覗き込む。
「……私、死ぬんですよね……」
「……うん。」
バッシュから一度連絡を入れたのにも関わらず、どんなに待っても彼女から返事が来なかった。最初は怒っているのかと思ったけれど、そんな事で怒ったりしないのは、ずっと昔から知っていた。
初めて知り合ったのは高校の頃で、殆ど学校にも行っていなかった自身を心配してくれていた。そんな人間は良く居たけれど、菊は見てくれだけで自身を見ていないのが解り、嫌な気分はしなかった。彼女はただ、一生懸命なのだ。
時折見掛けると、いつでも小さな体をあっちへそっちへ動かし、人に気が付かれないような小さな仕事をいくつもこなしている。
彼女が本当は強いのだと、自分が一番分かっている気がしていた。何があっても、ずっと笑っているのだろうと思っていた……
「……菊。」
しっかりと閉ざされた瞼は、呼びかけても開かない。病室には心音が鳴り響き、遠くで小鳥が鳴いている。
あまりにも返事が来ず、再び電話を掛けると、菊の兄が出た。内容を聞き、慌てて駆けつけると、肉親が殆ど居ない彼女の手術室の前には、兄妹達と仲の良い友人が立っていた。
何でも轢かれそうになっていた子犬の為に飛び出したらしい。いかにも彼女らしくて知らず緩みかけた頬が、それさえ出来ずに引き攣った。
出てきた医師は言った。
『大変残念なのですが、目を醒まさない可能性もあります。覚悟して欲しい。』と。
一体何を覚悟しろ、というのか。覚悟など、出来るのか。
なぜなら、何一つとして伝えていないのだから。本当だったら、もっと前に伝えるべきだったことが、何一つとして。
「菊、聞こえてるか、菊。」
眉間に皺を寄せて問いかけるが、勿論返事は無い。ただ心音ばかりが鳴り響く部屋は、ただ一面に白くて眩暈がする。
額に掛かっている髪を持ち上げ、そのままジッと額に手を当てる。いつもより冷たいながらに、そこにはしっかりとした体温を感じる。今にも目を開けて、にっこりと微笑んでくれそうなのに、彼女の瞼は固い。
「話があるのだ。だが……目を開けるまで、話せない。」
シーツの上に投げ出された手の平を掴むと、その手に力を入れる。が、やはり返事は皆無だ。
思わず溜息を一つ吐き出すと、背後の扉が開く気配を感じ、握っていた手の平を離し、後ろを振り返る。そこには、すっかり憔悴してしまっている彼女の兄が立っていた。
「あいや、お前来ていたあるか。」
昨夜寝ていなかった所為か、今正に起きた様子で、彼は目を擦りながら病室に入ってくると、バッシュの隣に腰を落ち着かせる。
「まだ起きねぇあるか。他の奴より働きすぎあるからね。」
思わず笑顔を零し、微動だにしない妹の姿を覗き込む。赤味が差していた頬は、今や血の気は一切見られず、点滴だけで過ごしている為か、その頬は若干痩けて見える。
浮かべていた笑顔を薄めると、王耀は重い溜息を一つ吐き出し、己の額に手の甲を押し当てた。
真っ黒な瞳が潤んでいる事に気が付き、フェリシアーノはあわあわと辺りを見やる。病室は重い空気がのしかかっているし、菊は黙り込んでただ泣き出しそうな瞳をしているばかりだ。
「菊、泣かないでよ、菊。」
菊の横で、逆にフェリシアーノが泣き出しそうな顔をして、潤んだ黒い瞳を覗き込む。
どんなに声を上げても、疲れた兄に触れようとしても、存在さえ気が付かれずに終わってしまう。それが悔しくて、悲しくて……このまま死んでしまうのであれば、せめて一言でも何かを伝えたい。
遂に我慢できずに、その瞳から涙が零れたモノだから、隣に立っていたフェリシアーノは肩を震わせて汗を垂らす。が、菊はそのまましゃがみ込んで、蹲ってしまった。
「あああ、もう分かったよ!でも俺がこういう事するのは、ほんとーにほんとーにごく僅かなんだからね!」
そのフェリシアーノの言葉に、菊は不思議そうな様子で顔を持ち上げる。と、彼はにんまりと笑って見せた。
「俺ね、失業するまではクピド(キューピッド)やってたんだよ。キリスト教が入って来ちゃって仕方ないから今は転職したんだけど……」
天使やクピドも職業だったのですか……。呆れて涙も止まってしまった菊を余所に、フェリシアーノはウィンクをしてみせると、グイと菊に身を寄せる。
菊は一歩下がるけれど、そこに壁があるためそれ以上進めない。どうやら人間に触れようとしても通り抜けてしまうけれど、無機質なものだと通り抜けられないらしい。
「本当は君を俺のプシュケにしようと思ったんだけど……でも女の子が泣いちゃうよりは良いよね。」
にっこり笑うフェリシアーノに迫られ、心臓がバクバク鳴り始める。後ろで兄やらバッシュやらが騒いでいる声が聞こえるけれど、今はそれどころでは無い。
顔を近づけると、菊は思わず避け、フェリシアーノの唇が菊の頬に落ちてくる。
「ほらほら顔を背けないで。」
菊の頬を両手で押さえるフェリシアーノに、菊は両腕を伸ばして押し返そうとする。けれど、そのまま瞼と鼻先に唇を落とされた。
「ちょ……何なさるんですか。」
「だってぇ、こうしないと生き返れないんだもん。」
え、生き返れる……!?顔を近づけるフェリシアーノから必死で顔を背けていた菊が、驚き顔を持ち上げるその瞬間を狙い、唇を合わされる。
恋人が出来てまだ間もない菊は、思い人とさえもこんな行為をした事が無かったから、そのまま凍り付く。そのまま唇を合わせたまま、数秒が過ぎた後ようやく離される。
頭に血が上った所為か、顔を真っ赤にさせていた菊は、そのままクラクラと頭が揺れるのを覚え、意識が遠のく。
「でも、ただ生き返るだけじゃつまらないよね?」
いえ、それだけで十分です。と、返す間もなく自身の体から完全に力が抜けていく。抱き留められながら不安で思わずフェリシアーノの名前を呟くと、ストンと意識が何処かに抜け落ちた。
それまで一定だった心音が乱れた事に気が付いたのは、二人ともほぼ同時だった。俯いていた王耀は、ガバリと慌てて顔を持ち上げると、椅子を倒して立ち上がる。
死ぬ前に心音が乱れるのは良く聞く話で、耀は慌ててナースコールに手を伸ばすが、バッシュは先程からの体勢を崩さない。否、崩せずに居た。
バタバタという足音が聞こえてくるけれど、彼等がここに立ち入るよりも早く、心音の動きが完全に停止した。横にいた耀が、大きく息を呑み込んだその音を聞く。
「……き、菊?菊!目を覚ますある!」
ベッドに片手を付いてそう呼びかけるけれど、相も変わらず菊は安らかに寝入っている。王耀は扉が開いたのを確認すると、そちらに駆け出す。バッシュは王耀と場所を変わり、ようやく立ち上がり菊の顔を覗き込んだ。
室内には簡素な音が鳴り響くばかりで、勿論、彼女が死んだという意識は微塵も抱けなかった。菊の名前を呼ぼうとするが、声が上擦りうまく呼べない。
色の薄れて冷たくなる頬に手を当て、力が抜けると共に顔を寄せると、その頬に一瞬朱が混じったかと思うと、先程確かに停止した心音が、再び鳴り始める。
バッシュや王耀がキョトンとする後ろで、寧ろ走ってきたナースの方が動揺している。
「……フェリシアーノ、さん……」
ポツリと漏らされた懐かしい声色に、呆然と立ち竦むバッシュの目の前で、ゆったりと黒に縁取られた目がゆったりと瞬きした。黒いメノウの瞳が、ぼんやりとバッシュに向けられる。
「き、菊?」
呼びかけると、しばしぼんやりとしていた菊は、バッシュをみとめて数度瞬きすると、ふんわりと微笑んだ。懐かしい笑み、懐かしい雰囲気、そして懐かしい、懐かしい……
立ち尽くすバッシュを押しのけ、王耀は菊の顔を覗き込んだ。その鋭かった瞳は涙で潤み、頬は紅潮していて声は引っ繰り返っていた。
「菊!お、お前……」
今にも零れるほど涙を目に溜め、細くなった菊の手を取り王耀が感極まっていると、菊は相も変わらずにこにこと微笑んでいる。
菊が目を醒ましたと言うことで、その日の午後には菊の友人、兄妹が病室に集まっていた。もう絶望的だと言われていたのにも関わらず、目を覚ました後の経過は順調で、彼女は直ぐに話せるようになった。
医者には驚異的で、その上頭を強く打った割には障害も残って居なかった。たった一つを除いて。
喜び目に涙を溜めて並んだ人々を見渡し、菊は非常に申し訳ない様子で、一人一人に声を掛けながら、ふとバッシュに顔を向けて軽く首を傾げて見せた。眉根を下げて菊は困った様子を見せる。
「どなたか存じませんが、わざわざ来て下さって有り難う御座います。」なんて、微笑んだ。医者からは、頭を強く打った為でた障害では無いか、なんて言われたが、バッシュのみ丸々忘れてしまうなど、普通では有り得ないらしい。
直ぐに治るといわれたけれど、結局三日経っても菊はバッシュを思い出さなかった。
綺麗、だとは思うけれど、怖い。菊は目の前に座っている主を見やりながら、居心地が悪そうに身を縮める。
金髪にコバルトブルーの瞳、通った鼻筋。それに対して自分は黒い瞳に、痩せこけて見窄らしい体、それに頭の治療の為に髪は無い。それを誤魔化す為に兄がニット帽を買ってくれたが、やはり見窄らしい。
しかも何だか不機嫌な様子だ。それというのも、菊が彼、バッシュの事をすっかり忘れてしまっているからだろうけれど、どれ程頑張ってもバッシュの事は微塵も思い出せない。
「思い出せないのならば、吾輩が話して聞かせてやる。」
そう腕を組んだ彼は、あまりにも偉そうで菊は顔を強張らせて、恐る恐る上目勝ちにバッシュを見やった。
話を聞くと、どうやら高校の頃から顔見知りで、菊自身が彼に懸想して、そして告白に至ったという。そんな話題を、彼は淡々と話して聞かせるものだから、菊は恥ずかしくなり俯く。
「分かったか?」
話し終わった彼が、あまりにも堂々としていて、更に菊は身を小さくした。
「わ、分かりました。……つまり、私が勝手に貴方を好いてしまって、ご迷惑をお掛けしてしまった様ですね。」
据わりが悪そうな菊に対し、バッシュは益々眉間の皺を深くさせて菊を睨む。否、本人からしてみれば睨んでいるつもりは無く、ただ地顔なだけだ。
けれども菊はバッシュの厳しい表情が怖く、もっともっと身を縮めてキュッと手の平を強く握り、震える。暫く菊を見やっていたけれど、一つ重い溜息を吐き出したモノだから、菊は再びビクリと肩を震わせた。
「一体何を聞いていたのだ。」
語調を強めるバッシュに、菊は泣きたい心地になる。早く兄が帰ってこないものかと、思わず時計を見上げるけれど、今だ誰もココへ来られる時間帯では無い。
カタカタ震える菊に、バッシュは再び溜息を吐き出しどうしたものかと頭を逡巡させる。
「ご、ごめんなさい。」
項垂れた菊の為に買ってきたケーキも、今だ箱に入って冷蔵庫の中だ。開けるタイミングを失って、喜ぶ顔を見たい一心で買ったのに、彼女が好きなチーズケーキもそのまま。
病室に置かれた薔薇の花やら何やらが、彼女の交友関係と恋敵を物語っている。何故よりによっても自分だけを忘れてしまったのかと、本日何度目かも分からない溜息を吐いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
小さくなって何度も謝罪を述べる菊を見やりながら、段々と可哀想になってくる。が、ここで思い出しても貰わないと、どこかへ行ってしまう気がした。
仕方なく、フルフル震えている彼女に向かって、意を決したようにバッシュは口を開いた。
「……目が覚めたら、言おうと思っていた事がある。」
不意にそう声を掛けると、怯えた黒い瞳が恐る恐るバッシュに向けられた。怯える幼子の様なその瞳に、少しばかり戸惑う。
「本当は吾輩が言う筈だったのだ。」
「何を、ですか?」
菊は若干目を大きくさせると、恐怖より好奇心が打ち勝ったのか、微かに身を乗り出してバッシュの顔を覗き込んだ。
「……吾輩は貴女を好いている、という事を。」
バッシュのその一言に、菊は顔を赤く染め、どうしていいのか微かに俯く。恋人だったと説明されてから、懸命に思い出そうとするのだが、どうしても思い出せなかった。
それにしても、こんな自分にこんな恋人が居たなど、やはり信じられない。何やら黙って考え込んでいる男の顔を盗み見しながら、菊は目を細めた。
「あの……どうして私を好いてくださっているのでしょうか?」
上目勝ちに覗きむ。吃驚してしまう程整った容姿、そして堅実そうなその性格ならば、女性にもてただろうに。容姿も普通で、身体にはそれほど魅力がない菊を選んだ事が、分からなかった。
顔を持ち上げたバッシュは、微かに眉間に皺を寄せて訝しそうな様子を見せた。それは本当に不思議そうな様子で、菊は動揺を覚えて首を傾げる。
「理由など分からない。」
目を細めた彼が身を乗り出す。その顔がやはりあまりに綺麗だから、菊は困った様子で体を縮めてみせる。
「貴女が吾輩を好いてくれるよりも前から、吾輩は貴女を愛していた。」
飄々と言ってのけるその言葉に、菊は尚顔を真っ赤に染め上げると動揺と共に俯く。が、伸ばされた指先に俯く視線を無理矢理上に上げられた。
バッシュはしげしげと菊の顔を見やった後、頬に貼られた絆創膏にそっと指を這わせた。怯えた様子で菊は微かに肩を震わせ、心配そうにバッシュを見つめる。
「吾輩と貴女はまだ一度も口付けさえしたことが無かったな。」
ポツリと漏らされたその言葉に、菊はゆるゆると目を大きくさせた。と、ゆったりと彼の顔が落ちてくるのを、なんと綺麗な顔だろうかと感心しながら見やっていた。
「嫌か。」
問いかけるというよりは有無を言わせぬその物言いに、菊は何も返せなくなる。耳の奥で、どこかで聞いた鐘の音がガランガランと鳴った。
固まってしまった菊に、そのまま唇を合わせた。ピヨピヨと、窓の外で鳥がさえずっているのを、ぼんやりと聞きながら何も出来ずに菊は固まっている。
ようやく離れてジッと不思議そうな様子でコチラを伺うエメラルドグリーンに、菊は目を大きくさせて黒い瞳で一心にバッシュを見つめ返す。何の反応も無く、バッシュは珍しくも心配そうに眉間に皺を寄せた。
暫く見つめ合っていたのだが、瞬時菊の頬がポポッと赤く染め、慌てて顔を手の平で覆った。更に縮こまりながらも、菊は体をフルフルと震わせる。
「……菊?」
心配そうに声を掛けるバッシュに、顔を持ち上げた菊は潤んだ瞳を向けた。
「だ、大丈夫です……ああ、どうして私、貴方の事を忘れていたのでしょうか。」
頬を包み込んでオロオロする菊に、バッシュは一瞬息を呑み込んで、小さく首を傾げる。
「思い出したのか。」
「ええ、ええ、申し訳ありませんでした……」
「そうか。」
泣き出しそうな表情を浮かべる菊に対し、バッシュは穏やかな声色で頷くと、そのままやんわりと頬を緩める。こんな急展開にも関わらず、取り敢えず他人に取られるより結果オーライである。
真っ赤になった菊の後ろに花瓶が置かれ、そこにさされた真っ赤な薔薇の花が見え、思わず鼻で笑う。
「ところで、フェリシアーノとは誰なのだ?」
実はずっと気になったことを問うと、菊はようやく不思議な夢の内容を思い出した。中々不思議な夢を見たものだと、小首を傾げる。
「夢を見ていたのです。不思議な。」
「夢?」
死んだら何処へ行くのか。それは長い間議論の的であるのだが、少なくとも菊は、死んだらフェリシアーノにキスされた。
夢は己の願望とも言うけれど、知らない男の子にキスされたい。などという怪しげな願望は無いつもりだ。……そもそも、それを夢とすませてしまってもいいのか分からないけれど。
「彼が私を生き返らせてくれたのですよ。」
本当に居たら、友達になれそうです。なんて笑う菊の背後の扉が、ガラッと音を立てて開き、病室にはあまりにも大きな声が響き渡る。
「菊ー!元気ー?」
わぁーい!なんて言いながら、すっかり夢の中の登場人物だとばかり思っていたフェリシアーノが飛び込んでくる。
ポカンと口を開いた菊、そして訝しそうなバッシュを余所に、フェリシアーノは「コレ菊と同じ名前だし綺麗だったから!」なんて言って、菊の花を差し出してきた。
「……あの……えっと、フ、フェリシアーノ君?」
「そうそう、実は失業しちゃって……ていうか、あんな事したら帰れないもん。」
バッシュに「詰めて詰めて」と席を詰めて貰いフェリシアーノは座り込み、置いてあったお菓子を一つ摘み上げて口の中に放り込んだ。
「菊、誰だ。」
不可解そうなバッシュに対し、菊もオロオロとしてどう応えて良いのか分からない。確かに、先程もバッシュの事を思い出すのと同時に、彼が先程まで持っていた鐘の音を思い出す。
「ていう事で菊、よろしくね。」
にっこりと微笑んで手を伸ばしたフェリシアーノの前で、菊は目を真ん丸にして、引き攣った笑みのまま固まった。当然、バッシュの顔も思いっきり顰められた訳なのだが。