卿菊

 

 『朝の夢』

 

 

 保健室登校児だった本田菊がクラスに顔を出すようになって三カ月、どうにかこうにか溶け込む……自ら影になって目立たなくなり、ようやく苦痛が減っていた。それでも玄関先に座り込んで、立ち上がるまで毎朝気合いを入れなければならない。そんな姿を、ハラハラしながら耀が見守っている事を知っているからこそ、菊は深い溜息と共にどうにか歩き出すことが出来る。
 高校へ入学し、菊が『兄』と呼んでいる人物が本当の血縁者でない事、両親から手を離されている事などを知られ、一気に周りが引いていくのが解った。小・中学生の頃も友人は少なかったけれど、それでも多少は味方になってくれる人はいた筈なのに、地元から数駅離れた高校に味方は誰も居ない。
 いじめと命名するほどに酷い事はされなかったが、無視や陰口は、繊細な菊の心を容易く折ってしまった。それでも兄が心配するだろうと、毎日制服を着て学校まで行くが、靴を替えた辺りで息が上がり眩暈や腹痛のため保健室へ行っていた。保健の先生がそれを受任してくれたがため、どうにか学校へ毎日通えた。
 そんな菊を教室へ引っ張り出したバッシュ・ツヴィンクリは、クラスメイトの中でも一番浮いた存在で、私用な会話はまずしない。笑っている姿を見たことある人さえおらず、特定の人以外は彼に関わろうとせず、間を置いて過ごしていた。成績も良く運動神経もよく、他者にも自分にも容赦ない性格の彼を、人々は畏怖の目で見ていた。
 菊に対して無視や悪口をしていた人々は、バッシュと彼女が会話をしている姿を見て、あからさまな態度をしてくる事は無くなった。このままずっとそれが続けばいいと、その日もお弁当の豪華な海老をつつきながら思う。
「はじめまして、俺ね、フェリシアーノっていうの」
 不意に声を掛けられて、弾かれるように顔をもちあげると、鳶色の瞳をした優しそうな男が満面の笑みを浮かべて見下ろしている。一ヶ月間、会話といえばバッシュ以外とは殆どしていなかったため、直ぐに言葉は出てこず、数度唇を戦慄かせただけだった。
「よろしくね」
 出された右手に目を何度も瞬かせ、箸を丁寧に弁当箱の上に揃えると、待っていた右手を掴んで握手する。柔らかく笑うフェリシアーノに、御愛想の笑顔を返して首を傾げた。
 お昼休みになると、いつも隣の席は不在で、困っている今も当然誰も座っていない。フェリシアーノはバッシュの椅子を引き、そのまま座ってしまった。
「あのねー、俺ね、美術部なの。それでね、モデルが欲しくて」
 一応何度も頷きながら聞いていたが、彼が何を言いたいのか解らずに眉根をおろして再び首を傾げる。にっこりと笑ったフェリシアーノも暫く口を噤んでいたけれど、どうやら菊が理解していないことに気が付き、手に持っていたデザイン帳を捲った。
 そこに描かれた見たことのある横顔を、思わず伸びた掌が隠す。そこには、真面目に黒板を見つめる自分の姿が描かれている。
「えっいつ見てたんですか……」
 慌てる菊にウインクを送ると、デザイン帳はそのまま閉じてしまう。泣き出しそうな顔に喉を鳴らして笑い、「それでね」と身を乗り出した。
「菊のこと描かせて欲しいんだ」
 初めて呼ばれたのが名前であることが、言葉の意味と重なって衝撃となって、何も言えずにただオロオロとする。返事が無いことを肯定と思ったフェリシアーノは、一度大きく頷いて颯爽と席を立った。
「それじゃ、放課後美術室で待ってるから。あ、今日の放課後は大丈夫?」
 無言のまま頷いてしまい、背中を見送りながら心の中で激しく後悔する。帰ってきたバッシュに胡乱な様子で眺められたが、何も言えずに小さくなって頭に入ってこない本を読み始めた。
 
 吹奏楽部の音を遠くで聞きながら、暫く美術室の前で右往左往する。どうやって断ろうか、意地悪の類じゃないのか、そればかりがグルグル頭の中をめぐって、胃に差し込むような痛みを覚えてしゃがみこもうとした時、美術室の扉が開いた。
 現れたフェリシアーノは、顔を輝かせて菊が何かを言う前に美術室へと引っ張り込んだ。静かな美術室は油絵具の匂いで満ち、全て木製で造られた机と椅子が並び、窓からは微かな光が差し込んでいた。石膏は部屋の四方に置かれ、彼らの視線は部屋中に投げられている。
 保健室登校児だった菊は、初めてここに入ったため、雰囲気に呑まれて断りの言葉までもが飲みこまれてしまった。2、3歩入ってから、教室にもう一人いることに気が付き、小さく飛び跳ねてフェリシアーノの後ろに隠れる。
 非常に恐ろしい顔をしたオールバックの男性がこちらを睨んでいて、取り敢えず優しい顔立ちで数度会話したことのあるフェリシアーノを盾にした。が、彼は「ヴェー」っと鳴いて恐い男性の元へと駆けていく。
「ルートヴィッヒ・バイルシュミットだ。美術部員では無いんだが、フェリシアーノに誘われて……」
 今にも泣きだしそうな様子で怯えている菊に向かい、立ち上がり戸惑いながら右手を差し出した。出入り口で暫く震えていたが、差し出された手を無視する事が出来ず、涙目のままでサッと近寄りサッと手を握って飛退くように離れる。
「あはは、お前恐がられすぎ。大丈夫、ルッツはムキムキだけど優しいから」
 招かれて震えながら勧められた席に座り、二人の目が見られずに俯き自身の指を見つめる。
「……あの、私、その、モデルなんて……」
 小さく小さく喋る言葉を、身を乗り出して二人は懸命に聞こうとするが、直ぐに飽きたフェリシアーノは鼻歌を歌いながら自らのデザイン帳を広げた。犬や猫、街を行き交う人々、多くの建物が沢山描かれているのを見つけ、俯いていた彼女は顔をあげる。
 菊の懸命な主張が終わり、目を輝かせているのにようやく気が付き、フェリシアーノは柔らかな笑みを浮かべて彼女へとデザイン帳を差し出す。暫くおずおずとしたが、腕を伸ばして受け取り、目を細めて楽しそうに眺めた。
「絵、好きなんだ。そうだ、菊を描いたのもあるんだよ」
 鼻歌を歌いながら、彼女に見えるように数枚捲ると、そこには柔らかな笑顔を浮かべている姿が居た。その隣には、いつも通り無表情なバッシュの姿がはっきりと描かれ、一瞬で体の中が沸騰する。
「お前が男を描くのは珍しいな」
 瞼を伏せがちに、バッシュは懸命に話をする菊に耳を傾けている。あまり人の目を見ることが出来ないため、彼が一体どんな様子で話を聞いてくれているのか知らなかった。
 真っ赤に染まっている菊をチラリと見上げると、今にも泣き出しそうな顔のまま固まっている。それが一体何を示唆しているのか、勿論フェリシアーノだけには解っており、目を細めてにっこりと笑う。
「ねぇ、モデルになってくれたら、これあげるよ。ね、お願い」
 両手を擦り合わせる姿と、絵の中に佇む彼の姿を数度見比べてから、無言で頷いた。途端フェリシアーノは飛び上がり、そそくさと絵を描き始める準備を整える。教室の中心に二つ机を向かい合わせ、真っ白なページを捲って鉛筆を滑らせ始めた。
「もうちょっと顔あげて、笑ってよ」
 満面の笑顔を浮かべて言われても、人と目を合わせることさえ出来ない菊は、俯いたまま動けなくなってしまう。フェリシアーノとルートヴィッヒの二人は、顔を見合わせて目で合図をしあい、席を立った。
「今日は初めてだし、どっかクレープでも食べに行こうか。俺、おごってあげるよ」
 口の中で「いや、でも」とうろたえていたが、そのまま腕を引っ張られて立ちあがらせられ、あれよあれよと言う間に気が付けば駅前のベンチで苺のクレープを手に座っていた。
 思えば、友人?と買い食いなど生まれて初めての出来事で、ドキドキしながら一口噛んでみる。甘い味を喜びと共に味わいながら、漫才の様な二人の会話に思わず頬を緩めた。結局帰る頃には夕方になっており、玄関前まで送ってもらうこととなる。
「じゃあね、菊。今度からよろしくね」
 大きく手を振って去っていく彼らに、控えめに手を振って笑顔で家へと入って行く。廊下の向こうで、複雑な表情を浮かべて兄がジッとこちらを見やっているのを無視し、二階の部屋へと駆け上がった。
 
「……最近フェリシアーノと仲が良いな」
 不意に声を掛けられて見上げると、箒の柄に顎を乗せた彼の、コバルトグリーンの瞳がしげしげと見つめている。菊は一瞬で動きを止め、何度も瞬きを繰り返して思わず俯いた。
 掃除係だというのに、残りの人々は二人以外全員そそくさと帰ってしまった。学校帰りにそのまま塾へいかなければならないという言いわけを、菊は半ば諦めながら、バッシュは興味の欠片もなさそうにそっぽを向きながら聞いていた。
「えっと、絵画コンクールで私をモデルに……したいって、変な方ですよね」
 断りたい反面、友人が出来たことの喜びに押されてモデルになるため、何度となく美術室へ向かった。暫くノートにデッサンしていた彼は、やがて大きなキャンバスを取り出し、菊の前に配置し始める。そこでようやく事情を聞くと、彼が描きたかったのは小さな絵画コンクールの画題なのだという。
 今更断ることも出来ず、そのままズルズルとモデルを引き受けているが、地味で面白味も無い自分をモデルにしてコンクールで出品など、やはりどう考えてもばかげているとしか思えなかった。
「あいつは女好きである」
 しかしコンクールの事などには一切触れずに、バッシュは吐き捨てるように、忌々しげに言い放った。いつも女の子を見かけると飛び跳ねていくのを知っているため、『女好き』は勿論知っていたけれど、自分が対象になるだろうなんて思ってもみなかったため、バッシュの言葉の本意がわからない。
「それにルートヴィッヒも、あいつは油断ならぬ奴だ。趣味も際どい」
 いつも以上に眉間に深い皺をよせ、親戚の一人であるルートヴィッヒを想い浮かべた。そして同時に、彼の五月蠅い兄を想い出し、更に眉間に深い皺がよる。偶々彼らの実家に出向く機会があり、その際、やはり偶々彼らの所蔵物である如何わしく衝撃的なものを発見したことがあった。
 もしも妹であるリヒテンがそれらを見つけたのなら、恐らく恐怖のあまり失神したまま数年間寝込んでしまうだろう。そういったアブノーマルの塊であることを述べようにも、妹と同じ性質を匂わせる彼女に説明することは出来ない。
「……人の事をそんな風に言っちゃ、ダメです」
 まるで小さな子を叱りつけるような口調でそう言われ、眉間の皺は益々深くなり、菊は山脈を想い浮かべてしまった。
「ならば勝手にしろ」
 それまで顎置きに使っていた箒を放り、足音も高くそのまま歩き去る。追いかけようと数歩出たが、何も出来ずに床に転がった箒を拾いあげた。
 
 自身と同じ、濃い若葉色した瞳が覗き込んでいて、思わずビクリと体を震わせる。真っすぐに見やってくる視線を見つめ返し、冷めかけていたミルクティーにようやく手を伸ばす。
「お兄様、何かありましたか?」
 小鳥の様な澄んだ声色が、不安げに問いかける。思えば近頃、気が付けば何でもないのにぼんやり、苛々、そして時折喜びさえ覚え、いつもの落ち付いた毎日が上手くいかなくなってしまっていた。しかしその理由も解らず、小さく肩を竦める。
「なんでも無いのである」
 深い溜息を吐きだしながらミルクティーを飲みこむと、もう一度溜息が込み上げてくるがそれもミルクティーと一緒に呑みこんだ。
「そうでしょうか、最近なんだかちょっと変です。まるで……恋でもしてるみたいです」
 目をキラキラさせて、まだ恋をしらない彼女は少女マンガでも思い浮かべているのか、うっとりとした様子で「恋」に力を入れた。バッシュに向けて放った言葉のはずなのに、詩でも読んでいるようだ。
 先程飲みこんだはずの溜息が再び零れ落ち、今度は耐えきれずに片肘付いて己の額に掌を当て、自身を支えた。
「そんなのではない。一人、知り合いに自分を持っていない奴がいるのだ」
 人々の前でオロオロし、焦り、泣き出しそうな様子で佇んでいる菊の姿をありありと思い出した。二人で話している時は楽しそうにしているというのに、他人になるとそれが上手く出来ず、簡単に他人の意見に乗ってしまう。
 そこまで考えて、フェリシアーノとルートヴィッヒにも楽しそうに笑いかけている姿を思い出す。そうやって、仲良くしてくれるのならば誰でもいいかのような態度が、やはり気に食わないのだ。
「まぁ、珍しいですね。お兄様が他人に興味を示すなんて」
 相手は男だと思い込んだのか、リヒテンシュタインの興味はそれで終わった。取り残されたバッシュは、彼女の言葉に電撃が走ったかのような衝撃を受け、益々自分の感情の正体が解らなくなる。
 
 数日かけてどうにか笑顔を保つようになっていた筈なのに、その日の菊に笑顔も無く、哀しそうに眉根を下げて座っていた。色を乗せていたフェリシアーノは、困った様子で本を読んでいるルートヴィッヒへ視線を投げる。
「ねぇ、どうしたの、菊」
 暫し戸惑ってから声を掛けると、長い黒髪を揺らして彼女は顔を持ち上げ、黒曜石の様な瞳を哀しそうに揺らして二人を見やる。
「いえ、その……この間バッシュさんを怒らせてしまって」
 膝の上に置かれていた手が、紺色の長いスカートをギュッとつかみ、声色を震わせながら呟く。今にも泣き出しそうな様子に、再び男二人は視線を交わしたけれど、女性に殆ど触れ合わないルートヴィッヒはただオロオロするだけだった。
 飛び出したフェリシアーノがしゃがみ込んで顔を覗き、艶やかなシルクの頭を優しく撫でる。泣くのかと思っていたけれど、向けられた深い宵の目は渇き、潤んでもいない。
「どうして怒っちゃったの? あいつ、いつも怒ってるし大丈夫だよ」
「その、バッシュさんがフェリシアーノ君は女好きでルートヴィッヒさんは、趣味趣向が際どいっていうので、そんな事言っちゃだめだって言ったら……」
 周知の事実である女好きはまだいいが、趣味趣向が際どいと言われたルートヴィッヒは、小さくくぐもったうめき声をあげて固まる。しかし全く否定することなど叶わず、二人の会話に入ることも無かった。
 しかしフェリシアーノは顔を輝かせ身を乗り出す。近づいた顔に驚き、少し背中を反らしながら、彼の嬉しそうな表情を不思議そうに見やる。
「ヤキモチだよ、菊!」
「やきもち?」
 キョトンとして動かない菊に、立ち上がった彼は人差し指を立てて得意げに大きく頷く。頷く動作につられて、アホ毛も大きく動き頷いた。
「きっとバッシュも菊の事が好きなんだ」
 すき。と口の中で一度繰り返して、血液が一気に沸騰する心地を覚えた。全身から汗が吹き出し、慌てて首を横に何度も、大きく振る。
「そ、そんなわけ……それに、“も”って……」
 まるで私がバッシュさんを好きみたいな言い方。という言葉が喉元までせり上がってきたけれど、寸前で、果たして否定するのが正しいのかわからず、そのまま出てこなかった。
 綺麗に尖った鼻、金の睫毛に縁取られた、宝石を想わせるような瞳、自身とはまるで違う、輝かんばかりの金髪。付せ目勝ちに菊の話を聞く姿や、細く筋張って、少し血管の浮いた白い指が綺麗に本のページを捲る姿を想い出し、益々倒オンがあがっていく。
 自覚したのと同時に、彼に相手にされることは絶対にあり得ないと、既に失恋を覚えて一気に目の前が潤むのを感じた。楽しそうに喋っていたフェリシアーノは、菊が泣き出したことに驚き、ポケットに押し込まれていたハンカチを慌てて広げる。
 
 
 絶対に脈ありだというフェリシアーノの言葉は微塵も信じられず、出来ることなら傷つくことなく過ごしたい。そのため、する行動はひとつ、バッシュを避けるだけだ。
 彼と会話するのは大体決まっており、朝と移動教室と掃除の時間。朝はぎりぎりに学校へ着くようにして、移動教室ではフェリシアーノとルートヴィッヒへ声をかけ三人で移動するようになった。掃除の時間は、出来るだけ話しかけることをせずに殆どの時間を俯いて過ごした。
 聞くから話しかけることが無ければ会話をすることもなかったのがよく解る程、二人の接触はパタリと消えた。時折射抜く様な視線を投げかけてきたけれど、一年生も残り一カ月とあって、そのまま春休みへと入って行った。
 コンクールは春であるため、春休みの間も何度かフェリシアーノとルートヴィッヒには会っていたけれど、バッシュは連絡先さえ知らない。二年生になるとクラスも変わり彼とは違う教室に通うようになり、保健室登校児であったという事をみんな忘れ、友達も沢山増えた。
 時折、校庭で体育の授業を受けている姿や、廊下を歩いているシルエットを見かけることはあったが、学年が一つあがってからは、一度として会話を交わすこともなくなった。
 フェリシアーノの絵は大会で良い結果を残し、全校生徒の前で表彰までされ、彼の絵は美術室の目の前の廊下に飾られることとなった。キャンバスの上で笑っている自分の姿は美しく、到底自身がモデルになっているとは思えず、菊は他人を描いた物ものだと思い込むこととした。
 毎日は平穏に過ぎていき、遅れていた学習もどうにか追いついた夏休みひとつ手前の昼食中、今日は異様なほど静かだったフェリシアーノが、くわえていたストローを離してようやく口を開いた。
「あのね、さっきバッシュを見かけたんだ」
 最近めっきり聞いていなかった名前に、びくりと体を震わせて菊は体を硬直させた。忘れていた綺麗な金髪と、濃いグリーンの鋭い瞳をありありと思い出し、箸を持った手が微かに震える。
「美術館の前の廊下で、菊を見てたよ」
 “菊を”と言った事に一瞬混乱するが、直ぐにあの絵だと気が付く。柔らかな笑顔を浮かべ、美術室のひっそりとした雰囲気の中椅子に座って前を見ている。あの絵の前に立つと、ジッと見つめられているような不思議な気分に陥るのだ。
「あの絵は、綺麗ですもの」
 まるで「自分とは違う」と言いたげな口調に、鳶色の瞳は大きく瞠られる。その、影の無いキラキラした瞳に見やられると、無い筈の罪悪感を覚えて胸が苦しい。
「俺が描いたのは菊だよ、だからあの絵も菊なのに」
 人の殆ど通らない、暗くカビ臭い廊下の一角に飾られた絵の前で、うす汚いその中で綺麗な金糸を輝かせて彼が真っすぐ背を伸ばして絵を見上げている。菊とバッシュが視線を合わすことはもう無くなって久しいけれど、絵の中に描かれた自身は彼と対話をしているのだろうか。
 思えば、その絵を見ようと思わない限り、絵の前に立つ事は無い程にそこは閑散とした校舎の端っこ、一体彼はどうしてそこにいたのだろう。
 胸が締められるような、今まで経験したことのない感覚に、熱くなった体から冷たい汗が溢れる。ジッとこちらを見上げているフェリシアーノ瞳が、菊の心の中を見透かすように細められた。
 
 放課後、クラス委員を押しつけられた菊は大量のプリントを持って廊下を抜けて行った。夏の暑さに息があがり、首筋から額までじっとりと汗をかきはじめたことに気が付き、拭いたいのに拭えないもどかしさに少しばかり苛つく。
 クラス委員を押しつけられたと知れば、バッシュは烈火のごとく菊を叱咤するだろうと思わず頬を緩めたあたりで、音も無く思考の中に居た彼が姿が現れた。手の中にある本の表紙を見つめていた若葉色の瞳が、不意に菊の存在に気が付き持ち上げられる。
 視線が交わる事自体、半年以上無い事で、射抜かれて暫くその場に茫然と立ちすくむ。しかしやがて目の前にくるだろうことに気が付き、無視されるのではないかという思いが、考えるより先に菊の踵を返させた。
 いち、に、さん枚のプリントが走り出した衝撃に空を舞い、視界の端から消えていく。遠くから聞こえてくる蝉の声の中、日差しが入ってこない廊下の踊り場まで駆けていくと、壁に額をくっつけるように息を整える。廊下の影は幾分涼しくて、熱くなった体温がゆったりと通常に戻って行く。
 こちらを向いた鋭い瞳を想い出した時、強い力に引っ張られて壁から引き剥がされた。思っても見ないほど近くに、何度となく思い描いたその瞳があり、体が固まって見上げたまま動けない。いや、壁に縫い付けられるように肩を抑え込まれているのだからもとから動けはしない。
「なぜ逃げる。追いかけてしまったではないか」
 言い逃れを許さない厳しい口調を聞きながら、腕の中から一枚と残らずプリントが零れ落ちていく。しかし二人とも今はそれどころではなく、視線を合わせたまま時間がとまったかのように口元以外は動かない。
「お、怒るかと」
「吾輩を避けているからか」
 考える暇さえ与えられずに投げかけられる言葉に、ゆるゆると首を横に振るがそれ以上セリフは出てこない。長い沈黙の後、小さく息を吐いてようやく菊の肩から手を離し、落ちたプリントへと手を伸ばす。
 無言のまま二人でプリントを拾い終えると、彼は何事も無かったかのようにそのまま階段をおりていった。その後ろ姿に声を掛けようか戸惑い、何も言えずに蟠りが胸の中に張り付き、そのまま見送ってしまった。それが二年生において最初で最後の接触だった。
 
 春が来て、校門の周りに植えられた桜からは雨の様な花弁が大量に舞い、どこもかしこも甘い季節の薫りで溢れかえっている。しかし教室に向かう菊の足は重く、今にも立ち止まってしまいそうだ。
 校門に張り出されていたクラス表には、自分と同じクラスに一年の頃から仲の良いフェリシアーノやルートヴィッヒの名前と一緒に、バッシュの名前までが連なっていた。正直喜びも大きかったのだが、それ以上に重苦しい心地に苛まれる。
 教室の黒板をみやって更なる衝撃を受けつつ、懐かしい彼の隣の椅子をひいた。片肘ついて本を読んでいたモスグリーンの瞳がチラリと菊を観察し、再び文字の羅列へと戻って行く。
「きっくー!」
 突然飛び出してきた者にそのまま思い切り抱きつかれ、衝撃に耐えてから苦笑して彼を見上げる。見慣れた鳶色のフェリシアーノの優しい瞳が柔らかく揺れ、満面の笑みを浮かべた。
「フェリシアーノ君、また同じクラスですね」
「うん! よかったぁ」
 人好きのする笑顔につられて笑うと、彼は楽しそうにポケットから飴玉を一つ取り出して、小さな掌に握らせる。三年生ともなれば、小さな学校の同学年なら殆ど知っているし、今更いじめられる心配もないだろう。
 礼を述べる菊にもう一度とびきりの笑顔を浮かべると、そっと「バッシュが隣でよかったね」と耳打ちする。真っ赤に染まった彼女の反論を聞くことも無く、そのまま飛び跳ねるようにルートヴィッヒの所へと駆けて行った。
 
 席替えまでの数カ月、単調な会話はなんとかほぼ毎日交わした。最初は菊から避けられたのは、バッシュがフェリシアーノとルートヴィッヒの事を批判したせいだと思っていたが、一度踊り場に追い詰めた時彼女は「怒る」からだと言った。
 そんなに普段怒っているだろうかと、己の眉間についた皺を親指で戻す。先程から全く進まない本を枕の隣に置き、時計を見ればリヒテンシュタインはとっくに夢の中だろう時刻を指示している。
『これからさ、高校を卒業して大学に行くでしょ。そしたら、もう二度とお前は菊とは会えないよ』
 無邪気な口調でそういった男を思い出し、再び眉間に深い渓谷を刻む。いつもぼんやりとして、何を考えているのか解らない抜けた男だと思っていたのに、不意に突き刺さるような事を言われ、思わず呆然と立ちつくした。
 彼の描いた絵がコンクールに入選し、美術室の前に飾られたと聞いた時は興味の欠片もなかった。いっそ腑抜けな姿を嫌っていたぐらいなのだが、モデルに描かれているのが菊だと小耳に挟み、帰る前に立ち寄ってみたことがある。
 選択授業で美術は選択していないため、行ったことさえ無い美術室の廊下は暗く、静かで、物音は遠くから聞こえてくる吹奏楽部の演奏だけだった。その暗い一角で、バッシュを見つめながら彼女は穏やかな頬笑みをたたえて静かに座っている。避けられるようになってからは見ていない笑顔がそこにあり、妹の言葉が胸の中でもう一度響いた。
『まるで……恋でもしているみたいです』と、うっとりとした可愛らしい声が、何度も何度も蘇り、そしてようやく胸中でわだかまっていた物事がストンと落ち付いた。一度納得してしまえば簡単なもので、自分には全く関係の無いと思っていた色恋がこんな近くに転がっていた事に驚きを隠せない。
 廊下で彼女に逃げられる、ほんの数日前のことだった。
 
 夏休みが終わり、クラスは受験勉強のために授業自体がなくなった。人々は各々に学校へ来たり自室にこもったりする中、いつもフェリシアーノ、ルートヴィッヒの三人で勉強する菊はいつも通り学校へと来ていた。
 数人のクラスメイトが勉強しているのを横目に席に着き、引き出しを引いてピタリと行動が止まる。机の中には簡素な一枚のメモが貼られ、綺麗な文字が並んでいた。
「なぁに、果たし状?」
「見慣れない字だな」
 ルートヴィッヒには見慣れない文字の列でも、一時彼から勉強を習っていた菊にとっては、見慣れたバッシュの文字だった。『火曜日の四時に美術室の前で』とだけ書かれており、意味は解らないものの体中が熱くなっていく事がわかり、真っ赤になった菊にフェリシアーノが不思議そうに首を傾げた。
 その日の勉強は殆ど入ってこず、火曜日に二人を先に帰させてそそくさと美術室へと向かった。既に嗅ぎなれた油絵具の独特な香りはいっそ心地よく、浮かれていた心地が落ち付いていくのが解る。
 フェリシアーノの絵の前で壁に背をもたらせ、腕組をした彼は瞼を閉じて立っていた。相変わらず綺麗な横顔だと、感嘆のため息を漏らしてからそっと近づいた。
「お久しぶりです。同じクラスなのに、全然御見かけしませんでしたね」
 そっと声を掛けると、眠っているのだと思えるほどしっかり閉められた瞼が開き、真っすぐに菊を見やる。
「吾輩は人を笑わせるのが苦手だ」
 挨拶も無しに発せられた言葉に驚き、何度も瞬きを繰り返して首を傾げた。懸命に彼の言葉の意味を手繰り、次に言うべきセリフを模索する。
「えっ……と、私も苦手ですよ」
 なんのアドバイスにもならない言葉を言ってから、観察する様な瞳に出会って慌てて言葉を付けたす。
「あ、じゃあ笑ってみればいいんですよ。いつもそんなにムスッとしてるから」
 笑いながら冗談のつもりで言い、いつも以上に眉間に皺を寄せた顔を見つけ、笑顔のまま口を閉じた。怒らせただろうか、そっと見上げた彼はやはり無表情のまま菊を見つめ、不意に口を開く。
「好きだ」
「……はっあ、え?」
 あまりにも意外な言葉が飛び出してきた為、どうしていいか解らずに慌てて訊き返すが、やはり彼は無表情のまま菊を見……いや、睨んでいるといった方が正しいほど、きつい目をしている。そんな彼から愛の告白など受けるはずがないと、混乱しながら菊も彼を見やった。
「特に、笑顔が。だから吾輩はダメなのだ」
 笑わせる事が出来ないから。そう付けたされ、ようやくこれが愛の告白なのだと気が付いた。足の爪先から頭の先まで、一気に熱があがっていくのを感じながら、言葉にならない言葉を喋ろうと無言のまま数度口を開け閉めする。
 モスグリーンの輝いている瞳にジッと返事を待たれ、今度こそ口を開く。
「一番最初」
 ぽつりと呟くと、静かな廊下に意外なほど響き、一瞬怯んだがまた直ぐに目線を持ち上げてバッシュを見やる。
「何があっても私の事を『絶対に嫌いにならない』って仰ってくださって、私、本当に嬉しくて嬉しくて嬉しくて……」
 感情がコントロール出来ずに、目の前が霞んでポロポロと涙が零れた。そういう人間臭い感情の制御が出来ない事を彼は嫌がるだろうかと思いつつも、止めることが出来ずに伸ばした右手が彼のシャツを掴んだ。
「わ、私も、す、すきです……」
 鼻をすすりながらどうにかそういうと、伸びてきた腕がガッシリと頬を包んで上を向かされる。涙で頬がぐちゃぐちゃな事を思い出すより前に、真っすぐ見やる端整な顔が目の前にあることに思わず固まる。心臓が酷く暴れるのを感じながら、彼の動きをジッと観察した。
「よし、ならば帰って勉学に励め。確か吾輩と同じ大学を第一志望にしてたな。落ちてもらっては困る」
 緊張していた菊とは裏腹に、いつもの様子で淡々と述べるとポケットから取り出したハンカチを菊へ差し出し、腕を掴んで歩き出す。暫し茫然と彼の後に付いていたが、体の力が抜けてその場でしゃがみ込んだ。
 昔、保健室から引っ張り出した際にそうしてしゃがみ込んだことを思い出し、顔をしかめながら振り返ると、間の抜けた笑顔を浮かべた彼女がそこにいる。
「なぜ笑う」
「なんだか可笑しくて」
 一緒にしゃがみ込んで顔を覗き込むと、絵の中と同じように柔らかく笑う菊がそこにいる。濃い茶色と深い黒の瞳は、先ほど涙の所為で輝きを宿し、綺麗だと思わせた。黒く長いシルクに似た髪や、白い肌、初めは地味なだけの見た目だと思ったが、彼女を知れば知るほど深みを増していく。
 身を乗り出して首を少し傾けて唇を合わせると、目の前の宵の瞳が驚いた様子で何度も瞬く。キョトンとした様子に思わず頬を緩め、腕を引っ張り立ちあがらせた。
「笑えるじゃないですか」
「笑っていたか?」
 足を止めずに振り返って聞くと、彼女は満面の笑顔を浮かべて「はい」と嬉しそうに言った。やはり笑う姿が一番だと、ぼんやりと思う。