チェンジング・オフ

※ この小説は暴力シーンが入ります。パラレルと女体化。大丈夫、未遂設定だから!(本文の後書き・笑)
書いててほんとうに申し訳なくなりました。本当こんな事ばっかりしてごめん、菊。強姦魔は無期懲役〜、でいいと思うんだ。 
 
 
 

物語は六年と六ヶ月前にまで遡る。
 
 
 

CHANGING OFF E
 
 
 

 アーサーが家に来ると約束した一時間も前に、菊の家のベルが鳴った。食事の下ごしらえを終えた菊が顔を持ち上げ、少々訝しげに扉の方を見やる。アーサーは早めにやってくる事もあったが、大抵菊が声を掛けない限り、約束の時刻まで家に入りづらそうにしていた。それが“ムコウ側”の礼儀なのだろうかと思っていたが、この間アーサーから紹介された彼の友人である、フランシス曰く、そんなマナーはありえないと笑われた。フランシスはアーサーが変にプライドが高いのだと言っていたが、菊にはいまいちその意味がくめずにいた。
「はぁい」
 パタパタと駆け、玄関の覗きをつま先立ちで見て、菊は思わずハッと息を飲み込んだ。玄関前に立っていたのは、アーサーでは無く“コチラ側”のマフィアの頭領である、イヴァンの姿だったからだ。元々彼とは面識があったものの、あまり話をしたこともなかったし、彼と話をしたのは大抵“ムコウ側”の大学に行ってしまった兄の方だった。
 けれどもその兄も、イヴァンにはあまり近付かない様にと言い聞かされていたし、こちらも不気味であまり話しかけたくは無かった。けれども今更居留守を使ったら、それはそれでとても恐ろしい気がして、菊は玄関から数歩退いて「何かご用ですか」と訪ねた。と、ほんの数秒の沈黙の後、パンパンパンと甲高い発砲音と共に玄関のノブが半壊される。
 思わずしゃがみこんでしまった菊はノブを見やり、慌てて立ち上がると部屋の奥に設置されているタンスに入っている筈の拳銃に向かって走り出した。こんな田舎に、わざわざ強盗も入るまいと思っていた為にチェーンもかけていなかったので、たったの数回蹴られただけでやわい扉は蹴り壊され、大きな音を立ててイヴァンはその巨体を現した。いつもの様に穏便さを装った笑顔で、灰色の微塵も笑っていない瞳を時折覗かせる。
「……何の用ですか?」
 微かに震える手を必死に抑えながら、兄が残していった拳銃をギュッと握りしめ背筋を伸ばして真っ直ぐにイヴァンを睨んだ。が、彼は全く気にしないらしく笑顔で土足のまま家の上にまで上がりグングン菊の目の前で歩を進める。その距離が2メートル程になった頃、菊はその拳銃を両手でしっかりと握りしめイヴァンに向ける。それでも彼は笑顔を止めずに遂に菊の目の前にまでにこやかな笑顔のまま近寄る。
 それこそ“コチラ側”に住んでいるものなら誰でも知っているだろう彼等の噂は、勿論相当に酷いものだった。けれども大抵が麻薬の噂で、家に押し入って強盗を働いたなんて聞いたことも無かったのに……心臓が信じられないほど早くなり、一人の人間と向き合っているだけだというのに、息が上がってカタカタと全身が震えた。それでも、確かに菊は立ちはだかったイヴァンに向かって引き金を引いた、が、訪れた感触は衝撃では無く、何かが詰まっているかの様な重い感触。思わず目を見開いた菊の拳銃を、イヴァンは鷲づかみにしてからニッコリと微笑む。
「よっぽどお兄ちゃんに大切にされたんだね……安全装置も知らないなんて。」
 言うが早いか、イヴァンが掴んだ菊の拳銃を思いっきり自らの右下に叩き付けた。当然、それにつられて菊もイヴァンの足下に倒れ込む。菊の手から離れてしまった拳銃が、カラカラと音を立てて床を滑ってドンドン菊から遠ざかった。床に叩き付けられた菊は、息苦しそうに軽く悶え自らの胸を押さえた菊に素早くイヴァンは馬乗りになって、グッと菊の喉元を掴み上げる。苦しげに菊の顔が歪んだ。
「ごめんね、僕にも色々あるんだ。」
 笑ったまま、三日月型開かれたその目の奥の灰色の瞳が少しばかり揺らいだ気がした。が、その感情を菊が考えるよりも早く、イヴァンのもう片方の手が菊の襟元に差し込まれ、腹部まで一気に服を音を立てて引き裂かれる。瞬時、何が起こったのか分からなかった菊は肌が外気に晒されてようやく服を裂かれた事に気が付いて首を抑え付けられた事も忘れ去って両手をイヴァンの頭に向かって手を伸ばしたが、届かない。
 懸命に声を張り上げ抗議をするものの、首を押さえられて、しかも力では全然適わないとなればいよいよ無力だった。抑え付けられた首を抑えたイヴァンの右手甲に思いっきり爪を立てるも、彼は少しも動じる事も無く手早くブラジャーを外す。ねっとりとした生暖かい感触が胸元に落ちてきて、気持ち悪さに全身が強ばるのを感じた。足をばたつかせるものの、馬乗りになったイヴァンは重くてビクともしないし、抑え付けられた首は締め付けられて酷く苦しい。
 勿論菊の脳裏に浮かんだのは一人の人物であり、彼以外の人間にこんな行為をされるのなんて、吐き気がする。ボロボロと悔しさで涙が溢れ、いっそ舌でも噛み切ってやろうかと思いながら、もう一度アーサーの名を叫んだその時だった。バンッ、と甲高い発砲音が一つ鳴り響き、驚いてイヴァンが顔を持ち上げた。その目線の先には、眉を吊り上げて銃を構えたアーサーの姿がある。
「殺してやる」
 アーサーが吐き捨てる様にそう言うと、イヴァンはニッコリと笑って拳銃を菊に向けると、なんの躊躇もなく一発撃ち込んだ。菊の頬を掠れて床に撃ち込まれた弾に、思わず菊は体を強ばらせて目を見開いた。
「菊っ!」
 あまりの事に驚いてアーサーは思わず構えていた拳銃を降ろし菊に走り寄る。菊に馬乗りになっていたイヴァンはスルリと彼女から降りると、そのまま半壊した扉の向こうへと素早く身を翻す。駆け寄ってきたアーサーをみとめると、菊は慌てて破られた服を手繰り寄せて胸元を隠すが、ガタガタと体中が震えて中々手も言うことを聞いてくれない。アーサーに背を向けて小さく屈み込み、流れる涙を懸命に拭う。
「み……見ないで、下さい」
 上擦って震えた声色で菊がそう言うのを、アーサーは菊を見下ろしながら聞いた、が、直ぐに菊の細い腕を掴んで無理矢理立たせると、半ば引きずるように歩かせてそのまま小さなお風呂場に連れ込まれる。直ぐにアーサーが蛇口を捻ると、上に掛けられたシャワーから一斉にお湯が噴き出して二人を濡らす。
 怒ってしまったのか、と恐る恐るペタンと風呂場で座り込んでいた菊が視線を上げてアーサーを見やると、彼は眉間に深い皺を刻んでジッと菊を見やっている。ギュッと胸元が潰れる様な思いがして、再び涙が目に浮かぶ、が、不意に菊の両肩を掴んだアーサーは、菊が考えていた事とは全く違うセリフを口にした。
「菊、一緒に“ムコウ側”へ行こう」と。ザアザア音を立ててシャワーが当たっていたためそう聞こえたのか、そう思い込んだ菊は思わず聞き返した。が、アーサーはもう一度同じセリフを繰り返す。
「……何故ですか?」
 思わず呆然となりながら菊がそう訪ねると、アーサーは困った様に顔を歪める。
「その方が、まだ安全だからだ。」
 イヴァンが父親と密接な関係を持っているという事を、アーサー自身は理解していたし、そうなればもしかしなくとも自分の父親の差し金だろう。父はアーサーが菊に思いを寄せていることが気に入らないのだ。そうなればいっそ一緒に“ムコウ側”へと行ってしまった方がまだ彼女の安心は保たれる。確かに物珍しい目でみんなが彼女を見やるだろうが、今更彼女を一人この場に残して去りたくは無い。そしてまた一人、あの無機質な世界で暮らしたくはない。
 本当は、何もかも捨てて逃げ出したかったが、それがどんなに儚い夢なのか、アーサーにはもう分かっていた。ザアザア当たるシャワーの水を当たりながら、じっとコチラを見上げる彼女の頬に己の頬を寄せる。シャワーの水温は暖かいというのに、恐怖からか彼女の体温は酷く冷たかった。
 
 
 
 失敗してしまったなぁ。と、溜息を一つ吐き出してイヴァンは家の扉を開けた。家に帰るまでの道のりで、誰も彼もが彼を避け道を開けた。一体誰が自分を『ペチーカ』の頭だという認識以外で見るのだろう、そう考えると、祖父と彼女の兄である王の事しか思い出せなかった。溺愛していた妹に手を出したとあったら、きっと今度こそ王は本気で怒り狂うだろう、と、思わず少しだけ口元に笑みを浮かべかけ、すぐに消した。
 初めてこの依頼を貰ったとき、当然凄く嫌だった。麻薬云々の注文だったら喜んで聞くのだが、一応そういった事はしたくはなかった。しかも相手が彼女だとなると、その嫌悪感はただ重くなる。あの細い体も髪も小さな体も、自分が乗ったら直ぐに壊れてしまうだろう。
 けれども彼は、イヴァンが言うことを聞かないとこれ以上麻薬の売買に手を貸さない、とそう言ってきたのだ。イヴァンにとっては利益の三割を持っていってしまうクソ野郎なのだが、それでも今は立派な商売仲間であり、そしてイヴァンが抱く計画の要でもあった。今のイヴァンにとって、絶対に金だけは手に入れなければならない……
 だから彼女まで組み敷いた。孤児院で働く一人のただの少女だというのに。イヴァンは胸中で盛大に舌打ちを一つ打ち、家の前まで大股でズンズン進む。
「ただいま」
 扉を開けると、夕飯の薫りが鼻孔を捉えて、そして台所からいつもの三人が顔を出した。そして一際眉を歪めている一人の金髪の少年が、困った様に口を開いた。
「イヴァンさん、お疲れ様です……あ、あの……」
 ライヴィスが舌っ足らずな口調でおどおどとそう言うのを、イヴァンは一瞬だけ目を向けると近場のソファーにどかりと腰を下ろす。
「失敗したよ。」
 首に巻き付けたマフラーをとりつつそう言うと、あからさまにライヴィスの顔がパッと喜びで輝く。菊に恋心を抱いていた彼だから、それは当然の反応であるのだろうけれどもイヴァンには腑に落ちきらない。自分は商業だと、やらなくてはならない事だと断腸の思いで割り切って引き受けた仕事だというのに。
 苛々と眉を歪め始めたイヴァンに気が付いたのか、後ろに居たトーリスとエドァルドが慌ててライヴィスの肩をひっつかまえて台所に連れ戻す。
 
 真夜中、けたたましい電話の呼び出し音で『ペチーカ』の人々は目を覚ました。受け取ったイヴァンに向かい、今日のクライアントが口汚くイヴァンの失敗を責めてわめく。イヴァンはちょっとばかり受話器から耳を離し、しかめっ面を作ってから、少しだけ口元を歪めて相手に向かって先程から考えていた計画を喋り出した。その歪められた口元は、彼にとって小さな闇だったのにも関わらず、人々はそれを彼の笑顔だと受け取った。
 
 暗闇になるとただひたすら考える。一体何が自分を苦しめ、一体どうして自分だけがこうして喜びにばかり背を向けなければならないのだろうか、と。イヴァンは確かにこの世界を愛していた。そこに巣くう人間も、馬鹿げた悪徳も、悩み苦しむその心さえ。
 
 
 
 アーサーが菊という名の一人の“ムコウ側”の女を“コチラ側”に連れ込んだというニュースはあっという間に広がり、人々は口々に言いたい事を言っていた。フランシスが初めて菊を見たとき、アーサー好みの胸がでかい女でも無いし、勿論財産も地位も無い。初めはあの生真面目なアーサーが遂にグレて女遊びに走ったのでは……!などと思ったのだが、作り笑いや皮肉な笑い、それから無表情しかしないあのアーサーが、菊を見るときは柔らかい瞳をするし、何も作り替えずに笑った。
 そんなアーサーの事を確認すると、安堵と共にちょっとした悔しささえ覚えるほどに彼等は幸せそうだった。が、“コチラ側”で菊が認められる筈も無いし、実際結婚は出来ない、社交界はおろか外もまともに歩けないだろう。
 真実、菊が“コチラ側”に来てから、アーサーの別荘に一日中閉じこもっている様な状況になっている噂を聞いて訪ねていった。が、意外にも彼女は自分から家事をやったりしてそれなりに楽しんでいた。けれどもそうして一生を暮らすのは、あまりにも可哀想な気もする。結局アーサーは誰かと結婚させられてしまう訳だし……そう思っていたからこそ、アーサーに「菊と結婚するつもりだ」と言われた時は正直本当に驚いた。
 車を待たせたまま、別れ際で向かい合った彼に思わず身を乗り出して聞き返す。
「いつ?」
 自分は相当吃驚した顔をしているのだろうけれど、アーサーはいつもの様にキリッとした顔のまま立っている。
「二ヶ月後に。父様にはもう話した。」
 勿論、結婚となれば両親に話さないわけにはいかないから当然な事なのだけれども、思わず再びフランシスはギョッとした。
「許したのか?」
「まさか」
 アーサーは軽く肩を竦めてみせた。相当どやされただろうに。
「……気を付けろよ。」
 車の扉を開け、乗り込みながら一言だけそう忠告すると、彼はうっすらと微笑んで「ああ」と返す。やがて発進した車から、直ぐに彼の姿は確認できなくなった。
 
 
 それから随分と月日が流れ、仕事が中々忙しいためにアーサーの元には暫く行けなかった。が、それでも“コチラ側”を激震させたカークランド卿一人息子の婚約騒動を噂として聞かない日はなかった。と、そんなある日噂の的であるアーサーの父親であるカークランド卿がフランシスの元を訪ねてきた事から、全てがひっくり返った。呼び出された部屋に向かって一人の初老の男を見やり、フランシスの脳裏に幸せそうに笑う二人の姿が浮かんで、そしてすぐに消えた。
 
 
 カークランドという家は、“コチラ側”でも指折りの名家であり、フランシスの家もカークランド家と肩を並べているといっても良いほどの名家であった。つい最近までは。“コチラ側”で商売人として名声を勝ち取り続けてきたフランシスの父親は、近頃心臓を悪くして入院してしまっていた。仕事は全てフランシスが背負う事となり、元々才能にも恵まれていた事もあって物事は全て順調だった……が、それはあくまで父親が築いた土台の上の事であり、そしてその父親が多くの家と結んだ契約にあった。
「君の家には確か、まだ幼い妹さんが居るらしいな」
 彼が笑ってそう言った。そしてそこで渡された一枚の紙を、今度はフランシスが笑顔を偽って菊に手渡す。偽の笑いを作るのが、フランシスとっては昔からの一番の得意技だった。敵を作らない様に、その場をやり過ごす為に、ただそんな悲しい状況が作り出してくれたそのフランシスの笑顔を、菊は本当に嬉しそうににっこりと微笑んでフランシスにお礼を述べた。
 その紙片は、詳しくは訪ねさせてくれなかったのだが、確かにオペラの劇場へのチケットであった。カークランド卿本人から手渡すでも、彼自身も彼の部下も一切を菊に寄せ付けない様にしているアーサーがいるので渡せないから、フランシスが彼女に渡せ、と言ってきたのだ。
 ただ笑って「たまには息抜きが必要だ。」といって菊に渡せば良い、と。アーサーには気付かれない様に。
 当然、初めはフランシスも断ろうとした、が、断ったら一体自分達の家がどうなるのかといえば、それは分からない。自分一人の問題ならばいいのだが、病に倒れた父親も、すぐに泣いてしまう母親も、幼い妹さえも、この家が潰れてしまえばいきなり“向こう側”へと押し出されてどんな一生を送るか目に浮かぶ。
 だから彼は菊に向かって笑った。フランシスにとっての精一杯の正義が、その笑顔だった。
 
 フランシスが家に着いて、ただ刻々と劇の始まる時間が近付くだけで、フランシスは何本もの煙草を付けては消してを繰り返す。劇が始まってから20分が経った頃、劇場から結構離れているフランシスの家にまで何かが破裂する音が聞こえてきた。みんなが一様に首を傾げて驚いているのに対し、ハッと息を飲み込んで、大きく目を見開いたフランシスはピクリとも動けずに固まった。
 遂に来たのだ……早鐘の様に打ち出される心臓が痛み、数回の爆発音を立ち竦んだままフランシスは聞いた。不安げに皆がモクモクと黒い煙を上げだした空を眺めるのに対して、思わずフランシスは車庫に向かって駆け出した。数人が自分の名を呼んだが、今のフランシスにとってはそんな事どうでも良い。急発進をし始めた車は、数カ所ぶつかりながら逃げ出している車で一杯の車道に飛び出す。車線一杯に逃げ出す車で埋まっていて、思わずフランシスは車から飛び降りると高級車を放置し、人波に逆らいながら一心に黒い煙の立ち上る劇場に向かった。
 まだ随分あるというのに、耳をつんざく様な発砲音、悲鳴、そして酷い火薬の薫りがあたりに立ち込めている。けれども今のフランシスにとってはそんな事は重要な事で無かった。ただ、あの心から笑った菊の笑顔が脳裏を過ぎる。自分の家庭教師は“向こう側”の人間は無教養でつまらない人間だといっていたが、作り笑いしかしない自分と彼女とを比べたら、ちゃんとした勉学を受けたからといってどうして自分の方が人間として優れているといえるだろうか。
 ずっと昔から“コチラ側”に疑問を抱いていた癖に、どうしても“ムコウ側”に行けなかった自分は、どこかでアーサーが羨ましかったのかも知れない。
 
 人波を逆らう事に思った以上に体力が奪われ、ゼエゼエ息を切らしながらフランシスはやっと劇場の前に走り出た。中で銃声と声が未だひっきりなしに聞こえていたが、中に入ろうとしたフランシスの肩を、誰かが強く掴んだ。
「フランシス!?何やってんねん!」
 振り返るとそこにはアントーニョが真っ青な顔でフランシスの肩を掴み、フランシスが劇場内に飛び込むのを押しとどめている。彼とはアーサー同様旧知の仲であったし、お互い腹に何も含まず話せる数少ない友人であった。が、当然アーサーと菊についてはフランシスからは何も言ってはいない。
「離せ!」
 あまり見せないフランシスの剣幕に、一瞬アントーニョは驚いたのにも関わらず、フランシスを羽交い締めにして劇場に入らせない様にと奮闘する。
「何アホぬかしてんねや!近付いたら撃たれて終いや!」
 確かにアントーニョの言うとおり、護身用の拳銃一丁しか持ってきていないフランシスにとって、菊を連れ出す事など確かに不可能だろう。それ以前にまだ彼女が生きているかどうかさえ分からない。けれどもフランシスにとっても問題はソコでは無かった。ただどうしても自分が作り上げた笑顔を取り壊したかったのだ。
 その時、一発高い銃声が辺りに響き渡る。その音は今までの物とまるで変わらないものだったのだが、思わずフランシスはハッと息を飲んで暴れるのを止めた。不思議そうな声でアントーニョがフランシスの名を呼ぶが、その次に聞こえた誰かの叫び声でアントーニョも顔を持ち上げて目を見開く。
 今まで幼い頃から何遍も聞いてきた、フランシスの親友の叫び声だった。彼女の名を叫んだのだ。それだけでフランシスの心臓は一瞬凍て付き、朝口に下物を全て吐き出してしまいそうだった。
 開け放たれた劇場の扉から、彼等の姿が小さく見えた。抱えられ力の抜けた、見知った少女の体が、血が、髪が、そしてその彼女を抱える親友の姿が。なぜそこにアーサーが居るのか、それは分からなかったが、ただ既に自分が間に合わなかった事だけは直ぐに理解出来た。グラグラ頭が揺らぎ、急に力が抜けたフランシスを、不思議に思いながらアントーニョはやっとフランシスの体を離す。実際にそうなのか否か分からないが、もうフランシスの耳には何の音もしない。“コチラ側”で家族を守るためだったらなんでもするつもりだったというのに、ただ胸にキリキリと痛む様な絶望感が射し込んだ。
 こんな己でも、幼い頃はただ純粋だった。それなのに汚れきったこの地を這い回っていくうちに、いらない物ばかりが体にこびり付いて離れなくなってしまう。アーサーも自分も、きっと“コチラ側”に住む誰もがそうであり、そのことに劣等感を抱いているのに気が付かない振りをし続けていた。けれどアーサーだけは気が付いたのだ。彼女の存在に。
 ゆったりと上体を崩して、フランシスはへたりとその場に座り込んだ。アントーニョが慌てて声を掛けたが、フランシスは蒼い瞳を前方に向けたまま、一切の動きを無くす。真っ黒な煙が、信じられない程に青く晴れ上がった空に吸い込まれていく。
 
 そしてフランシスは一通の手紙をアーサーに宛て、姿を消した。誰も彼を見ないまま、遂に六年の時が流れる。