Miss,cherryblossom
 
 
 日本と同じ品種である桜が植えられた公園が大学のすぐ近くにあった。何年も頑なに咲かなかったその木の花が咲き乱れた時、その地域では話題になり、アルフレッドも一度見に行ったのだが、期待に反して桜の花は地味だった。
 まるで白いティッシュが枝に一杯付いている様で、多色を好むアルフレッドには少々物足りなかったのだ。なぜ日本人はこんなもの有り難がるのか、理解出来なかった。
 と、ある日知人のアーサーと二人連れ立ってその公園内を歩いている時だった。チラチラ散る雪の様な花びらを横目に歩いていくと、不意に隣を歩いていたアーサーの足が止まる。
「……どうしたんたい?」
 訝しげにそう尋ね、彼が見ていた方向に目線をやり、思わず黙り込む。桜の根に腰を降ろした一人の少女が、黙々と本に視線を落としていたのだ。東洋人らしく、黒い髪に黒い瞳、そしてとても小柄である。
「君、知り合いかい?」
 そう何となしにアルフレッドが尋ねると、アーサーはチラリと緑色の瞳を一度アルフレッドに向けた後、また少女に視線を戻した。
「……先に行ってろ。」
 憮然としたままアーサーはアルフレッドにそう言うから、アルフレッドは眉間に深い皺を寄せて顔をしかめる。が、「分かったよ」と一言言い置くと結局一人で歩き出し、幾分行った所でふと振り返ると、大きな桜の木の下で何やら二人が親しげに話しているのが遠くに見えた。
 それから暫くして、数ヶ月前からアーサーが東洋人と付き合っていた、という話を聞く。それまで別段興味のない話題だからただ聞き逃していたのかも知れないが、あの彼がまさか東洋人と付き合うとは思ってもみない事だったのにも関わらず、そこまで不思議に思わなかったのはあの少女とアーサーが親しげに話しているのをみたせいだろう。
 
 それからもあの菊っていう女の子(名前もうわさ話で耳にした)度々桜の木の下に居るのを見て、「アーサーと知り合いなんだ」と声を掛けたものの、人見知りが激しいのか中々打ち解けない。よくもまぁ、アーサーはこんな内気な子とつきあえるなぁ、なんてちょっぴり感心してしまった程だった。
 
 それからどのぐらい経った時か、家でぼんやりつまらないテレビを眺めていたとき、夕食時だというのに電話が鳴る。数回コールを聞き、アルフレッドは少々億劫そうに立ち上がると受話器を取り上げそっと耳に当てた。と、まず何の挨拶もなく
『菊知らないか?』
 と、電話の向こうの相手がひどく憮然とした様子で一言そう言ったのを、アルフレッドは眉間に盛大に皺を寄せて聞いた。
「菊?菊って君の彼女だろ?いないの?」
 アルフレッドがそう言うと、暫しアーサーは沈黙し、それからおもむろに『いや、何でも無いんだ。』と言い直ぐに電話は切れる。
 それからアルフレッドはしばらく切られた電話を耳に付けていたのだが、やがて離すと受話器を戻す。そしてちょっとばかり天井に視線をやってから、鍵を握り部屋を出た。そして暗い道を真っすぐにあの桜の木に向かう。
 
 公園内は暗かったけれども、微かな月の光ですぐに目的の少女が葉桜になりかけている桜の下に立っているのを見つけた。太くごつごつしている幹に顔を向け俯き、その表情は分からない。
「君の国は平和って聞いたけど、この国の夜はとても危険なんだ。」
 アルフレッドがそう声を掛けると彼女は驚き顔を持ち上げた。その黒い瞳が涙に濡れきって、その頬も濡れた跡がついている。
「……アルフレッドさん」
 多少の戸惑いを孕んで菊は小さく、目の前の人物の名を呼んだ。酷く震えて怯えたその声色に、アルフレッドは一つ大きく頷くと、小さく首を傾げる。
「どうしたの?アーサーと何かあったのかい?」
 そのアルフレッドのあまりに直球な物言いに、思わず菊は怯んで瞳を大きくさせたが、深く俯き日本語で「人はいさ、心も知らずふるさとは……」と小さく呟いた。勿論意味を分かりかねたアルフレッドは大きく首を傾げて聞き返す。けれども返ってきたのは彼女の返答では無く、黒い瞳に溜まっていた涙がポロポロ零れた事だった。
 驚きあわてて口を開いたアルフレッドは、しゃくりを上げながら泣く菊へと、懸命に言葉を探す。が、その言葉が出るよりも早くに菊が口を開いた。
「この国では恋人が居ても違う女性と性行為をなさるんですか?」
 呟かれた言葉にアルフレッドは目を大きくさせ、しばらく考えてから大げさに肩を竦める。
「道徳とか人柄の問題だと思うけど……君の国と変わらないと思うよ。」
 菊はアルフレッドのその言葉に、涙をほろほろ零しながら何も言わずにアルフレッドに視線をやった。と、アルフレッドはしばらく考える顔をして黙り、「えっ」と顔を持ち上げる。
「いや、ソレはないよ!」
 そんなにアーサーがモテる訳ないじゃないか!と失礼極まりない事を叫ぶが、菊は俯くだけで黙り込んでしまう。あまりにも悲しそうなその顔に、さすがのアルフレッドも口をつぐむ。
 しばらく二人とも黙っていたのだが、やがて重い雰囲気を一変させる口調でアルフレッドは声を上げた。
「ねぇ、オレさ、すっごくおいしいホットドック屋さん知ってるんだ!食べたことある?ホットドック。」
 あまりにも急に話題がそれるものだから、菊は戸惑いながら小さく首を振る。この国に来てから情けないがすぐにホームシックになってしまい、ずっと出来る限り和食を作ってきたから、あまりこの国の食物を口にしていなかった。
「あんなにおいしいのに食べたことないなんて!それは今すぐ食べに行かないとね。」
 アルフレッドの言葉に目を大きくさせると、菊が何かを言う前にグイと菊の腕を引っ張り歩き始めた。後ろで困った声を菊は上げるが、気にせず引っ張りやがて電灯がたくさん灯った明るい道に出る。まだ沢山の人がひしめき合い、楽しそうな笑い声を上げていた。空は暗いが、まだ夜の七時なのだから当たり前かも知れない。
 ふとアルフレッドは立ち止まると、手慣れたように路上のホットドック屋の人間に手を上げて挨拶をした。
「はい」
 そうアルフレッドから受け取った食物に目線をやり、それから困った様にチラリとアルフレッドを見上げる。そして彼がホットドックを齧りながら軽く肩を竦めるのを見やり、やっと一口齧った。夕飯を食べていないせいもあるのか、菊にとってひどくおいしかった。
「腹ごしらえをしたら次は何しようか?オレはさ、こういうときはやっぱりお酒が一番だと思うんだ!」
 菊が感想を言うよりも早く、アルフレッドは菊の腕をとり颯爽と歩き始めた。菊にとってはすごく大きかったホットドックも、彼はペロリと平らげてしまう。
「……でも」と戸惑う菊をまったく気にしないらしい彼は、グングン人波を掻き分けていく。やがて着いたコンビニで、彼は安いアルコールをどんどん籠に詰め込んでいき、呆然とする菊を尻目にお菓子まで詰め込むとレジに並ぶ。
「どうせ君、家に帰れないからあそこに居たんだろ?」
 困って声を上げた菊に、アルフレッドはそうケロッと言った。確かにアーサーと同じアパートで合鍵まで持たれてたから帰るに帰れなかった。向こうがどんな反応をするにせよ、今は顔を合わせたくない。
「だから今日はオレの家に泊まりなよ。」
 アルフレッドの言葉に、菊は驚き顔を持ち上げ目を真ん丸にした。その菊を見やってアルフレッドはいつもの笑みをたたえたまま肩を竦める。
「見た様子カバンさえないじゃないか。大丈夫、何もしやしないよ。夜になったらオレは隣に泊めてもらってもいいしね。」
 ニコニコ笑うアルフレッドに菊は小声で「でもそれじゃあご迷惑では……」と口籠もる。
「何いってるんだい。ヒーローなんだから当たり前じゃないか!」
 と楽しげにアルフレッドは片手を持ち上げた。目が痛くなる様なネオンの中で笑う彼を見、思わずふと菊は頬を緩めて笑う。
「何だ、笑えるじゃないか。」
 頭の上に降ってきたそのアルフレッドの言葉に、思わず菊はまた表情を固くした。と、アルフレッドは肩を竦める。
「悲しい事があったってさ、楽しければ笑えばいいんじゃないか。その時は忘れられるだろ?」
「そう、ですね」
 明るく言われた台詞なのに暗く返されて、アルフレッドは瞳だけをチラリと戸惑っているのか俯いている菊に向けた。白い人工灯に照らされた彼女が酷く小さく見えて、思わず息を飲み込み、そして微かに慌てたように笑う。
「だからさ、笑いなよ。」
 グイと腕を引っ張られ驚き声を上げる菊を、ヒョイとアルフレッドは抱え上げると、アルフレッドの腰少し上程の高さの桟橋手摺りに彼女を綺麗に置いた。
「や……あ、危ないです。降ろしてくださいっ」
 一瞬キョトンとしてから、彼女は慌ててアルフレッドの肩に手を置いて泣き出しそうな声を上げたのだが、アルフレッドは嬉しそうにハッハッハッと笑い声を上げて全く菊に言葉に耳を貸そうとしない。
「そこが橋のサンだと思うからいけないんだよ。普通の場所だと思えばいいんだ。」
 無茶言わないで下さい、と、後すんでのトコで叫びかけて菊は声を震わせたまま「もし落ちてしまったらどうするんですか?」と問う。そこまで高くないから死にはしないかも知れないが、落ちたら必然的に川に落ちてしまうという事だ。
「そしたらオレも飛び込むよ。」
 なんの解決にもなっていないが、当たり前だろ?という口調に思わず一瞬菊も納得しかけてブンブンと首を振る。
「こんな事してどうするんですか?」
 泣き出しそうな菊の声を聞き、アルフレッドは楽しそうな顔を持ち上げて「高い所ってなんだか愉快じゃないかい?」なんていうものだから、瞬時菊の脳内に「馬鹿と煙はなんとやら……」という言葉が過ぎった。
「いいからちょっと歩いてみなって。オレ、絶対手は離さないから。」
 手の平を掴まれて体を離された物だから、変なところで真面目な菊はこのまま降りてしまってはいけない、なんて考えてしまい眉間に皺を寄せて前をグッと見据える。ネオンがバックに見えるから、存外足下は明るかった。
 自国で合気道と剣道は少々やっていたのだからバランス力は勿論悪く無いから、見間違えて踏み間違えなければ落ちることは無いのだけれども、怖々と足を出す物だからほんの短い橋に長い長い時間がかかる。
 その間ずっとアルフレッドは酷く楽しそうにニコニコと菊の手の平を握っていた。
「アーサーは絶対にこんなのことしないだろ?」
 どこか得意そうなそのアルフレッドのセリフに、思わず頬を緩めて菊がそちらを見やり頷いた時、視線を彼に送っていたせいかガクリと足下が滑りバランスが崩れる。全身の血の気がサァッと引き、思わず短い悲鳴を上げた瞬間にアルフレッドが力強く自身に引き寄せた。
 バランスを崩して落ちかけた菊が無事に地面に足を降ろすと、暫く呆然と震える手足を見やった後、グッと顔を持ち上げてアルフレッドを睨め上げた。
「もう絶対こんな事はしません!」
 泣き出しそうな声でそう訴える菊に反して、一瞬驚いた顔をしてから酷く愉快そうにアルフレッドは笑い声を上げ、菊の頭の上に手を置く。
「なんだ、怒ったりもするんだ。」
 そう笑うアルフレッドに、頬を膨らませて菊はフイと顔を背け「当たり前です」と怒った声を出し、それから少しだけ頬を緩める。
 
 体が小さいのとアルコールに強いか否かは、まるで関係など無いんだな……。なんて、アルフレッドは机にグッタリと突っ伏したまま思った。彼の前に座っている彼女は、当然素面という程でもないしそれなり酔っているのだけれど、アルフレッドと比べられないほどの量をしこたま飲んでいるにしては平気そうな様子だ。
「オレもう飲めないよ……」
 ぐったりと酔いつぶれたままそう小さく呟くと、菊は真っ赤に染まってしまった顔を少しばかり綻ばせて笑いながらまたアルコールを口に含んだ。
「なんだってそんなに飲めるのかい?」
 ヒョイっと、赤らんだ顔を持ち上げてアルフレッドがそう問うと、彼女は大きな瞳を微かに、懐かしそうに細める。
「兄がよく飲むんです。それに付き合わされて、今ではこんなに強くなってしまいました。」
「兄が居るんだね。」
 それにしては男勝りでも無いし……と、何気なくそうアルフレッドが聞き返すと、一瞬嬉しそうに笑った彼女の顔から、直ぐさまその笑顔が消え去ってしまう。思わずへたっていたアルフレッドも体を持ち上げてずれていた眼鏡を定位置に持ち上げる。
「……はい、それで、一週間前にたまには帰ってこいって言われていたから、少しばかり里帰りしていたんです。」
 最初アーサーも唇を尖らせていたが、念願の里帰りという事であまりにも菊が嬉しそうだからお土産に自分専用のお椀を頼み、笑顔で送り出してくれた。帰ってくるときは言っていた日にちより一日早い便を取り、泣きながらハンカチを振る兄に手を振り飛行機に乗り込んだ。
「それで、帰ったら……」
 菊は言葉を詰まらせ、その代わりにか、彼女の右の瞳から一粒だけポロッと涙が零れるのだが、彼女は慌てて落っこちた机の上の水滴を袖の裾で擦って消してしまう。それから「すみません」って照れたように小さく笑った。
「現場をおさえちゃったの?」
 相変わらずズバッと物を言うアルフレッドにもう菊も慣れたのか、狼狽えること無くコクンと頷く。そして黒く潤んだ瞳をアルフレッドに向ける。
「……知らない女の方と寝てました。その時、お椀も鞄も落としてきちゃいました。」ガシャン、と、お椀が床に叩き付けられて割れる音が菊の耳の奥で響く。
 小さく告げられたその言葉に、アルフレッドが若干顔を顰めた。何がいやかって、もしかしたらアーサーが実はモテるんじゃないかっていう認識が出来上がってしまいそうなのが、嫌だ。
「本当に?もしかしたら相手は男だったかもしれないよ?」
 方を竦めてから、近くにあったビールに手を伸ばして一口グイと煽るとアルフレッドは大仰な動作で手の平を広げてみせる。対して菊は「そっちの方が嫌ですよ。」と笑いかけ、出来ずに泣き出しそうな顔で俯いてしまう。
「……泣いちゃいそう?」
 机に殆ど伏したまま、菊の顔を見上げてアルフレッドが何と無しにそう問うと、大きな黒い瞳を揺らしながら菊は困った様に少しだけ唇の端を持ち上げて微笑する。
「じゃあ泣けばいいよ。泣くなんて、全然大したことじゃないんだからさ。泣くくらいオレだってできるものね。」
 何故だか胸を張って偉そうにそういうアルフレッドを、思わず菊は顔を綻ばせてしまう。と、同時にポロッとまた涙がこぼれ落ちて慌てて手の甲で拭おうとするのだが、それよりも零れていく早さが早くて、終いには手の平で顔を覆ってしまった。
 あまりにも静かに泣く物だから、少しだけ心配になってアルフレッドはそっと菊の傍に近寄る。宥めるつもりでその肩に手を置き、親が子供にするようにもう片方の手でその背中をさすってやった。その時ふと、あまりにも彼女の体が小さいからそのまま消えてしまうのでは無いかと、少しだけ恐くなる。
「ねぇ、菊、君が泣きやんだらオレのとっておきのお菓子をあげるよ。青いんだぜ!クールだろ?それ食べて寝たら次の日にはやなことなんて全部忘れちゃうんだ。本当だよ?」
 酷く楽しそうにそう言ったアルフレッドの言葉に、菊は涙を拭きながらも頬が緩んでしまう。確かに今彼からその体に悪そうなお菓子を手渡されたら、魔法の食べ物と勘違いしてしまいそうだ。
 その菊の顔をアルフレッドは覗き込むと、同時に顔を緩めて笑った。それからスックと立ち上がると戸棚から小さな毒々しい包装が成されたお菓子らしきものを取り出し、未だ顔を涙に濡らしている菊は狼狽えながらも手を伸ばして受け取る。
「ソレ食べたら嫌な事だけみんな忘れちゃうんだよ。だからまた一からやり直せるよ。」
 酔っぱらって楽しそうなアルフレッドの言葉を聞きながら、菊は包装を丁寧に解いていくと、中から青く口に含むには少々大きなあめ玉が一つコロンと出てきた。思わずしげしげと暫くみやって、そっと指で摘み上げて目の前に翳す。
「それを食べたらさ……」とアルフレッドな言葉を言いかけたとき、あめ玉を口に入れようとしていた菊がふと言葉を紡いだ。
「……アーサーさんと初めてお会いした時、私はこの国の言葉があまり上手くなかったんです。それで、友人も一人も居なくて……だからアーサーさんから声を掛けてくださったとき、嬉しくて……」
 「道に迷っているのか?」と、一人慣れない校内をキョロキョロしている所に後ろから声を掛けられた。振り返ると目も痛くなる様な金髪と、緑色の双眼がジッと自分を見ているアーサーがそこに立っていた。その光景は今でもまざまざと思い出せる。
 そう告げると、菊は手に持っていたあめ玉を綺麗に残っている包装紙の上にそっと乗せ、瞼を伏せてしまう。菊の意図を何となくにしか掴めずに、アルフレッドは机に頬杖をしたまま眉尻を下げて菊のその様子を暫し窺っていた。
 どのぐらい無言が続いたのか、不意に扉のノック音が鳴り、二人は同時に顔を持ち上げてそちらを見やった。それからアルフレッドが酷く重たそうに立ち上がると、千鳥足のまま玄関に向かう。
 
 扉が開けられた瞬間、部屋の主は思いっきり不機嫌そうな顔をしてみせる。いくらなんでもそんな顔をしなくても……と、心に痛手を負っているのにも関わらず追い打ちをかけられた気がして、アーサーは眉間に皺を寄せた。
「……なんの用?」
 酔っぱらっているのか、赤ら顔を不機嫌そうに顰めて憮然とそう言われて物だから、逆になんだかアーサーは腹立たしくなる。
「ちょっと近くに用事があったから、寄っただけだ。」
 アルフレッドはアーサーのその言葉で瞬時にあの桜の巨木を思い出し、小さく「あー」と頷いてからにんまりと笑ってやった。
「まだ彼女見つかってないのかい?」
 アルフレッドからしたら、アーサーが探している少女はこの部屋に居るのだから当たり前の事なのだが、アーサーはピクッと体を震わせて、小さく目を伏せる。その顔があんまりにも可哀想だから、ちょっとばかりアルフレッドも眉尻を下げた。
「君、彼女の知り合いに片っ端から電話掛けているみたいなのにね。……でもこの国で夜一人で出歩くなんて、危険すぎるなぁ。」
 一応奥に聞こえるように言ってやるのだが、それよりも目の前のアーサーの顔色が青くなっていく。それがちょっぴりアルフレッドには楽しくもあったなんて、絶対口には出せないだろう。
「でも君の浮気なんだろ?」
 肩を竦めてそういうと、俯いていたアーサーは顔をガバッと持ち上げて首をフルフルと大きく振る。
「あれは、前夜にみんなで酷く酒を呑んでいて……酔っぱらってたんだ。」
 なんだか酷く恥ずかしそうに顔を片手で覆うと、アーサーは絞り出す様にそう言った。と、アルフレッドは無邪気を装う顔で小さく首を傾げてみせる。
「それで酔って連れ込んでやっちゃった訳?」
「いや、酔っていてあまり記憶は無いが服は別段お互い乱れてなか……ってなんでお前はオレの浮気だって決めつけるんだよ」
 覆っていた顔を持ち上げて、不愉快そうに顔を顰めながらアーサーはアルフレッドの方を見上げると、アルフレッドは小さく肩を竦めて後ろを振り返った。
「だってさ、どうする?」
 そうアルフレッドが言った方向にアーサーも顔を向けると、何時の間にソコに居たのか、アーサーがずっと探していた少女が所在なげに立っている。
「菊っ!なんでお前ここに居るんだ?」
 思わず室内に上がろうとするアーサーを、アルフレッドが手を伸ばして制すと、「オレが拾ったんだよ。だって外を女の子一人で立ってるんだもん。」と飄々と言ってのけた。
 返す言葉が無く、思わず黙り込むアーサーの代わりにアルフレッドの後ろでジッとアーサーを見やっていた菊がアルフレッドの服の裾を掴んだ。
「……カークランドさん、女の方抱きしめてました。」
 頬を膨らませる菊の前で、ファミリーネームで呼ばれた事にアーサーは戸惑い狼狽える。が、やがて平静を取り戻した振りをして一つ咳払いなんかしてみせる。
「あれは、その、寝ぼけてお前と間違えたというか……」
 というか、というかその言葉の通りなのだが。アーサーは顔を朱くさせ伏せ目がちに、今にも恥ずかしそうで死にそうな顔をしているアーサーを、楽しげにアルフレッドは観察しながら菊の顔を見やる。
「どうする?」
 もう一度そう問うと、若干戸惑いながら菊は一歩進み出て玄関先に立った。
「今日の所はもう帰ります。わざわざ迎えに来て下さったし……」
 目を細めた彼女に、アルフレッドは笑顔を送ると「気を付けてね」と手を振る。そして泣き出しそうな顔をしているアーサーに、「それでは帰りましょうか、カークランドさん」と、『カークランド』を強調して菊が笑顔を浮かべるものだから、思わずアルフレッドは小さく噴き出した。
 この分だと家に帰ってから更に苦労するのだろうな、と、遠ざかっていく二人を玄関先で見送りながらぼんやりとそう考えた後、部屋に戻り適当な場所で寝転がり、腕を伸ばしてそのままに置いてある筈のあの青いあめ玉を探る。
 それからコロンと口の中に転がすと、粘り着く程甘ったるい味が口中に広がり、そっと目を瞑る。そして次に目が覚めた頃には、きっとなんでも忘れられるさ、と、夢うつつにそう思った。