土日
※ 土日、パラレル、アラビアンファンタジー、お菊はにょた
ノック音で目を醒まし、もう随分高くに上がった太陽の光を、小さな窓から差し込まれる景色をいの一番に、菊は目にする。まず起き上がろうとするけれど、体が重くて中々その気になれない。
「飯はちゃんと食ったのかィ?」
先程のノック音を発した主らしき声を聞き、取り敢えず菊は長く絡みついてくる髪を押しのけそちらに顔を向けた。彼はいつからそこに居るのか、この想像さえ出来ない巨大な建物の主が、口元に笑みを浮かべて立っている。
若きことは素晴らしきことかな。どうして彼だけがあんなにも元気なのか……菊は少しばかり唇を尖らせてから、ベッドの上に座り直して、長い髪を纏め近くの髪留めで留めてしまう。
「いいえ、今日はあまり調子が良くないので……」
「調子が良くねぇって、いつも食ってねぇじゃねぇか。」
病院から出てから、菊にあてがわれた部屋は信じられないほど大きな部屋で、そこにはいつでも果物やらお菓子やらが置かれていて、少々小腹が減ればそれらを摘めば事が足りる。だからこそ、あまり食事を摂ろうとする事も無かった。
立ち上がるほどの元気が無く、ベッドの上でぼんやりとしている菊に、サディクは大股で近付いてくる。やがて菊の腕と腰を持ち、床に抱えるように降ろす。
「あとたまには部屋の外にでろぃ。友人だって出来るかも知れねぇぞ。」
グイと押されて、菊は乗り気でない表情を浮かべてサディクを上目勝ちで見やる。
大体それが嫌なのだ。ここには自分以外に120の女性が居るらしいし、自分が来る以前に彼のお気に入りであった人も四人、居たはずだ。この部屋で暮らせる女性の人数は四人、というのだから、自分を良く思っていない人が沢山居るのだろう。
その中に放り込まれるのは、元々人付き合いが苦手な菊にとってはあまり好ましいことでは無い。第一、どんな施設があるのかさえ良く分かっていない。
「なんでぇ、そんな顔して。」
ムニ、と頬を引っ張られ、菊は益々唇を尖らせるとサディクの腕を押しやる。
「……分かりました。今日は出てみます。」
第一、ハレムに入った女にはまず教育を施すのが通例だろうに、サディクは歌は菊の国の歌を、踊りも菊の国の踊りを、立ち振る舞いもそうしろと言われ、結果菊は困ってしまった。
そんなの、浮いてしまうじゃないか。そう怒ってみても彼は聞いてくれないし、仕方なくサディクに本などを借りて読んでみた。そこそこの知識を付けてこの国に来たのはいいけれども、やはり実際に目の当たりにする現実は違う。
そんな菊の思惑を余所に、引き籠もりの子供がやっと部屋から出るのを喜ぶごとく、サディクはまた顔をパッと明るくさせる。
「そうかぃ。それじゃあオレは後から行くから、目立つとこに居るんだぜィ。」
そう言うと、酷く楽しそうにサディクは菊の右頬に唇を落とすと、楽しそうに鼻歌を歌いながら菊の部屋を奴隷を連れて出て行った。一人残された菊は、行ったこともない場所の、どうして目立つところが分かるだろうと、密かに小さく腹を立てる。
ノック音で目を醒まし、もう随分高くに上がった太陽の光を、小さな窓から差し込まれる景色をいの一番に、菊は目にする。まず起き上がろうとするけれど、体が重くて中々その気になれない。
「飯はちゃんと食ったのかィ?」
先程のノック音を発した主らしき声を聞き、取り敢えず菊は長く絡みついてくる髪を押しのけそちらに顔を向けた。彼はいつからそこに居るのか、この想像さえ出来ない巨大な建物の主が、口元に笑みを浮かべて立っている。
若きことは素晴らしきことかな。どうして彼だけがあんなにも元気なのか……菊は少しばかり唇を尖らせてから、ベッドの上に座り直して、長い髪を纏め近くの髪留めで留めてしまう。
「いいえ、今日はあまり調子が良くないので……」
「調子が良くねぇって、いつも食ってねぇじゃねぇか。」
病院から出てから、菊にあてがわれた部屋は信じられないほど大きな部屋で、そこにはいつでも果物やらお菓子やらが置かれていて、少々小腹が減ればそれらを摘めば事が足りる。だからこそ、あまり食事を摂ろうとする事も無かった。
立ち上がるほどの元気が無く、ベッドの上でぼんやりとしている菊に、サディクは大股で近付いてくる。やがて菊の腕と腰を持ち、床に抱えるように降ろす。
「あとたまには部屋の外にでろぃ。友人だって出来るかも知れねぇぞ。」
グイと押されて、菊は乗り気でない表情を浮かべてサディクを上目勝ちで見やる。
大体それが嫌なのだ。ここには自分以外に120の女性が居るらしいし、自分が来る以前に彼のお気に入りであった人も四人、居たはずだ。この部屋で暮らせる女性の人数は四人、というのだから、自分を良く思っていない人が沢山居るのだろう。
その中に放り込まれるのは、元々人付き合いが苦手な菊にとってはあまり好ましいことでは無い。第一、どんな施設があるのかさえ良く分かっていない。
「なんでぇ、そんな顔して。」
ムニ、と頬を引っ張られ、菊は益々唇を尖らせるとサディクの腕を押しやる。
「……分かりました。今日は出てみます。」
第一、ハレムに入った女にはまず教育を施すのが通例だろうに、サディクは歌は菊の国の歌を、踊りも菊の国の踊りを、立ち振る舞いもそうしろと言われ、結果菊は困ってしまった。
そんなの、浮いてしまうじゃないか。そう怒ってみても彼は聞いてくれないし、仕方なくサディクに本などを借りて読んでみた。そこそこの知識を付けてこの国に来たのはいいけれども、やはり実際に目の当たりにする現実は違う。
そんな菊の思惑を余所に、引き籠もりの子供がやっと部屋から出るのを喜ぶごとく、サディクはまた顔をパッと明るくさせる。
「そうかぃ。それじゃあオレは後から行くから、目立つとこに居るんだぜィ。」
そう言うと、酷く楽しそうにサディクは菊の右頬に唇を落とし、楽しそうに鼻歌を歌いながら菊の部屋を奴隷を連れて出て行った。一人残された菊は、一体どうして行ったこともない所の目立つ場所が分かるだろうかと、またもや小さく唇を尖らせる。
『 Araubian Gece 』 - アレイビアン ゲジェ -
部屋を出て廊下を歩く際には、最近仲良くなりつつあった奴隷の女性の手を引かれて出なければならなかった。それほど廊下は広く、そして複雑であり、菊の目にはどこもかしこも同じに見えてしまう。
女達が沢山遊んでいる広場に着くと、中庭には大きなプールが設置され、燦燦と注ぐ太陽の光から少しでも体を冷やす様に、数人の女達が楽しそうに遊んでいるのが見えた。
広場は大理石で作られ、壁は殆ど作られていない設置になっている。複雑な装飾が施された柱が数本立ち、その向こうには広く草木と華が埋められている庭があり、やはり何人かの女が日傘を差して庭を散策している。
汚れている箇所は一つも無く、女達の造形は自分とは明らかに違いグラマラスであり、神話の女神がそのまま出てきたようにしか見えない。
建物内に作られたプールには、華が浮かべられて綺麗に飾られている。緑やら紫やらの宝石が配置され、菊が動くだけで宝石がキラキラと輝き、まるでこの場所全体が一つの宝石の様だった。
大理石は足の裏に冷たく心地よく、風邪は絶えずに入ってきて涼しく、心地よい。あの部屋では感じられなかった、久しぶりの緑の薫りが菊の中に一杯満ち、光は肌に心地よい。
「キク様、アイスとって参りますね」
ぼんやりと魅入っていた菊の後ろから、女奴隷が遠慮がちに声を掛けると、菊は驚き顔を持ち上げた。菊が礼を述べると、一瞬周りにいた女達がざわつくのを感じ、知らず菊の心臓が冷えるのを覚える。
「久しぶりだな、サディク」
会合室に来ていた主は、久しぶりにあったのにも関わらず、全く変わりのない様子で彼は淡々とサディクに向かい手を挙げる。
「久しぶりじゃぁねぇか。何してたんだィ、グプタ。」
口数の少ないグプタは、サディクの言葉にはただコクリと頷くだけで済ます。サディクもそのままグプタの前に座り込むと、皿の中に用意してある菓子を一つ摘む。
「慎重なる思案を。」
ポツリと漏らすグプタの言葉に、サディクはボリボリと頬を掻きながら「相変わらずカテェ野郎だィ。」と、呆れなのか喜びなのかよく分からない様子で笑う。久しぶりに会う友人が変わらないことほど、愉快な事は無いかのように。
そんなサディクの笑顔を壊すためのように、グプタはあまり間を開けずに直ぐ、また口を開く。
「最近、随分と東の女に入れ込んでいるそうだな。」
それまで笑っていたサディクの口元から笑みが消え去り、仮面の奥に潜んでいる彼の瞳がギラリと光った。長年の付き合いであるグプタさえ、その殺気立つ光が苦手で、直ぐに血生臭い匂いが辺りに立ち込める気さえする。
野生の獰猛さが瞬時に彼の周りに取り憑くと、先程の気さくさなど微塵も見せない笑みを、変わりにサディクはその口の端に浮かべてみせる。
「随分と面白いうわさ話が出回っているみてぇじゃぁねぇかい。一体誰に聞いたんでェ?」
きつくなるサディクの口調に、グプタは若干の焦りを覚えつつも、鍛錬の極めか完璧なるポーカーフェイスを貫きながら旧友の顔を見やった。その目の色には、今のサディクに似た色が光る。
「否定はしないのか……しからば、一体何故だ。」
睨み合ったのは数秒であり、それまでグプタを睨んでいたサディクは不意に顔を緩め、口元に笑みを浮かべ、そして小さく肩を竦めた。
「東の国の事を知るためにゃぁ、東の国の人間に聞くのが一番良いに決まってるじゃぁねぇかい。」
クツクツと喉を鳴らし、サディクはグプタから目線を反らすと水パイプを咥え、心地よさそうに仮面の下の目を細める。再び訪れた沈黙は一瞬で、けれどもその静けさが、周りの待機している人間には酷く重い。
「……そうか、ならばいい。」
目的を完遂する為に必要なのは情では無いというニュアンスを含めている事をサディクは感じ取り、微かにその顔を顰めさせてから、もう一度肺の奥まで煙りを飲み込んだ。
久しぶりの会議らしき事にサディクはグッタリと重いからだを引きずって、ハレムへと向かう。結局自分の考えなど殆ど纏める事が出来ず、ただ、一度手に入れてしまった物を手放すつもりはもう無い。
本当は少しだけ毛色が違うのを面白がって連れてきたのだが、今では彼女ばかり囲っていたから、力の強い臣下達が若い女を幾人も買ってきては自分のご機嫌取りの為にハレムに入れている。……目先のことばかり追いかけて、全く持ってばからしい話だ。
面倒くせぇなぁと、溜息を吐き出しハレムの扉を開けると、大理石のキラキラとした光がサディクの目の中に差し込み、思わず仮面の奥で眉間に皺を寄せる。
いつもだったらサディク専用の部屋に行くまで、女達は全員駆け寄り頭を下げるというのに、その日は数人、何かに熱中するようにサディクに気が付かずプール際に立っていた。まだ泳ぐには寒く、水に触れれば若干の間を持って指先が痺れる。
だというのにだ、水が跳ね、誰かが藻掻く音が確実に聞こえる。その不穏さに、廊下を歩きながら何気なくそのプール際を見ていたけれど、やがて無性に気になってそちら側に足を踏み出す。
そこでようやくプール際に立っていた女がサディクを振り返り黄色い声を上げるが、目の前を隠すように立っていた女達を乱暴に掻き分け、プールの前に出る。
黒髪が水に漂い、自分が手配してやった高い服も、宝石もプールの底中に、浮かべられていた華と共に沈んでいた。彼女はまだ藻掻いては居たけれど、水の中だからか酷く青ざめている。
「おい、菊!」
慌ててプールの中に飛び込むと、自身の胸元まで水は張っていて、出ようと思えば菊でも抜け出ることが出来るだろう。誰かに押されなければ。
冷えた体を抱き上げると、菊は咳き込み痛む喉を押さえ、苦しそうに顔を歪めている。その背中をさすりながら、クルリと振り返ると、立っていた女達は気まずそうに顔を背けた。
水を沢山飲んだせいか、腹部が重たく肢体に力が全くといって入らない。グッタリと横たわって天井を眺めていると、不意に故郷が眼前に見えた気がして、目の前が少しばかり霞む。
家はどうなっているのか、あの男は、知り合いは……何より兄は、元気だろうか。出られないならいっそ受け入れてしまおうと割り切った癖に、今でもこんなに懐かしい。
「起きてるかぃ?」
不意に声を掛けられて菊はゆったりと顔を持ち上げて、扉の前に立っているサディクを見やる。いつの間にそこに居たのか、いつもいつも気配をさせない人だと菊は小さく肩を竦めた。
「動けるか?」
サディクにそう声を掛けられ、菊は上半身を持ち上げるがそれ以上何も言わずにサディクと向き合って座り込む。
「今日はもう……」
胸の奥が詰まっているように心地が悪いし、到底若い彼の相手が出来るとは思えない。微かに目を反らした菊の傍に、それでもサディクは数歩で彼女に近付くと、グイと菊の腕を掴む。
もう一度菊が何か言おうとするが、それよりも早くに抱え上げるようにサディクは菊を立たせると、そのままグイグイと引っ張られる。もう一度反抗しようとするけれど、こうなると言うことなど聞かないことを、最近は良く分かってきた。
菊は小さな溜息を一つ吐き出すと、諦めて菊は縺れそうになる足を動かし、サディクに付いて歩く。昔はこんなに体力が無かった筈は無いのに、最近は歩くのさえかったるい。
ハレムの端にある、人が入れないようにしっかりと錠を下ろしていた扉を開けると、ポッカリと開いた白い大理石で出来た、不可思議な丸い小部屋に出る。上に付いた窓からは光が入り込み、静かでどこか神秘的であった。
その部屋の真ん中には二つの袋が置かれていて、奇妙な雰囲気がそこから醸し出されている。最初は部屋の雰囲気に飲まれていたのだが、その奇妙な袋が気になって菊はサディクを無言のまま見上げた。
「あの袋が気になるかィ?」
口元に笑みを浮かべてサディクがそう訪ねると、コクリと一度頷きサディクを見やる。彼は満足そうに笑うと、グッと菊の腰に手を当てて体を寄せた。
「あの袋の中には、お前を落とした女が詰めてあるんでぇ。」
クツクツと喉を鳴らして笑うサディクと反対に、菊は背を震わせて目を大きくさせ、「え?」と言葉を返す。
「そんな……どうなさるんですか?」
眉間に皺を寄せてそう訪ねると、菊が顔を強張らせているのが不思議なのか、納得いかない様子でサディクは小さく首を傾げた。そしてとことん不思議そうな声を出す。
「海に落とすに決まってるじゃぁねぇかい。」
「海にって……死んでしまうじゃないですか。」
菊は手を伸ばすと、キュッとサディクの服を掴んで体を乗り出した。纏められていない黒髪が揺れ、必死めいた色を込めた瞳をサディクに向ける。
「殺すに決まってるじゃぁねぇか。」
当然の事の様に言ったサディクの言葉に菊は眉尻を下げると、泣き出しそうな表情を浮かべて菊はキツク唇を噛みしめた。菊は肩を震わせてサディクにキツイ目線を向ける。
思わずサディクは一歩後退し、菊の視線から逃れ様と身を捩った。
「そんな、私はそんなの望んでません。」
食い付くように声を荒げてそう言った菊に、サディクは仮面の下でも分かるほどに顔を顰めた。機嫌を損ねた子供の様にサディクは口をへの字に曲げるが、菊の頑固さを知ってか、それとも言い返す言葉が見つからないのか黙り込む。
「今すぐ出してあげてください。」
今まで大人しくおっとりとしていた彼女が、眉を吊り上げてそう頼み込む、というよりも命令するようにサディクに向かい冷静な声色でそう言った。命令されるなど、当然された事が無いにも関わらず、なぜか腹が立つというよりもキョトンとしてしまう。
だがそれも一瞬で、サディクは直ぐに仮面の下の顔を顰めて菊に顔を寄せる。
「オレが、気にくわねぇからやるんでぇ。」
菊の頬を両側から包み込むと、サディクはグイと自身の方へと向けさせた。彼女の敵意をむき出しにした表情など久しぶりに見た物だから、思わず背筋がゾクリ震える。
そう、彼女の気に入った一番の要因はこの表情だったし、自分に逆らうその性格が酷く気に入ったのだ。
「突然私のような人間が出てきたんです。腹が立つのも当然でしょう。」
サディクの手を掴んでそう声を荒げ、菊は眉を大きく吊り上げてサディクにくってかかる。カッとしたサディクは手を上げようとしかけて、そのまま頬から手を離した。
「殺されかけたんだぞ。」
サディクは怒鳴り声に近い声を上げたけれど、菊は一歩も後退することなくキュッと下唇を噛みしめてサディクに楯突く。
「死んではいません。だから、殺す必要は無いじゃないですか。」
戸惑うかするだろうとは考えていたけれど、これほどに食って掛かるとは思っていなかったサディクは、もし彼女が相手ではなかったら、恐らくとっくに菊を地面に叩き付けていただろう。
菊は腕を伸ばすと、サディクの顔を覆っていた仮面に触れ、ゆっくりとした動作でそれを外してしまった。顕わになったサディクの表情は、戸惑いと微かな怒りを混じらせて菊を見やっている。
「おねがいです。」
宥めるような声色で、懇願を込めて菊がそう言うと、サディクは顔を歪めて一度舌打ちをし、菊の手の中から仮面を奪い取った。
「……だが、ここにゃぁ置いておけねぇからな。」
ギリと奥歯を強く噛みしめてからサディクはそう吐き捨て居ると、また仮面を付け直し、足早に扉へと向かう。菊は慌てて彼の後を追いかけ、その背中に向けて、ふんわりと柔らかな声を掛けた。
「……ありがとうございます。」
思わず振り返って菊の顔を見やると、安心してかふんわりと微笑んでいて、先程の勇ましい表情とは正反対である。そのまま一人で部屋を出てしまおうと思っていたのだが、サディクは彼女の姿を見つけてから踵を返し、その腰に腕を回すと片腕を上げて宦官に合図を送った。
扉で一度室内を振り返り、二つの袋が小さくモゾモゾと動くのを見やり、菊は小さく溜息を吐き出す。
「オメェのそういう所が気に入ったんだが、やりづらくって仕方ねぇな。」
声を掛けられてそちらに目線をやると、サディクは子供っぽく拗ねたように唇を尖らせている。その様子を下から見やって、思わず菊は笑って肩を竦めた。
「今日の事でよく分かった。やっぱりオメェは一緒に連れて行く。」
部屋に帰りなり言われた事が理解出来ずに、菊は顔を持ち上げて、長い髪が揺れるのも気にせず、傾げる。仮面を付けている彼は、一体何を考えているのか、ハッキリとは分からない。
「連れて行くって……どこにですか?」
基本的にハレムの女性は外に出る事は禁止されていて、側に置かれている女性なら尚更そうだと聞いたのだが……菊は不安げな色その目に宿す。
今日一悶着起こしたのが、このまますんなりと終わるとは思っていなかったけれど、それで何かが大きく動くとも思っては居なかった。
「東の国を攻め落とす事になったから、オメェも一緒行くんだ。」
一瞬サディクが何を言っているのか分からずに、菊は息を飲み込むのと同時に言葉も飲み込み、固まる。大きな黒い瞳が震えて、怒りとも戸惑いとも、そして悲しみとも取れる色にその瞳が染まった。
なぜか、サディクはそんな菊の様子が見られずに、仮面の下で彼女にばれないように思わず目を反らす。彼女が何を思い、そんなにも悲しげな顔をしているのかが直ぐに分かったからだ。
「だから……私が東の人間だから、私を囲っていたんですね。」
震えた声色で菊はそう言い、その細い肩を震わせる。大きな瞳にはゆらゆらと水の膜が張り、今すぐに泣いてしまうのではと危惧をしたけれど、そこから涙の粒はいつまで経ってもこぼれ落ちない。
それ以上顔を合わせていられずにサディクは立ち上がり、彼女から顔を反らす。違う、とたたみかけてみてもきっと無駄だろう事は分かっていたし、そのつもりでココに閉じ込めたのだ。
「兄さんが居るんです。私は、協力なんかしません。」
怒っているには妙なほど冷静な声色で彼女がそう声を上げ、自身を睨んでいる気配が読み取れた。彼女なら、例え殴っても蹴っても脅しても、それこそ食べ物を与えなくても絶対に兄の不利になる事は喋らないだろう。
「それでも、アンタは連れて行く。」
顔を見ずにそう告げると、それ以上菊の声はサディクを追ってくることは無い。不穏な無言が重く、そのままサディクは部屋をあとにした。