土日 ※ 土日、パラレル、アラビアンファンタジー、お菊はにょた
 
 
 真っ白な肢体は伸び、シルクの様な触り心地と細い胴体は、本当に自分と同じ人間であるのか疑わしい程である。黒い髪黒い瞳、そして優美という文字をそのまま具現化したかのごとくの身のこなし……
 菊は愛らしくてたくましい。サディクにとって敬愛すら覚える、ただ一人の人物といっても過言では無いだろう……
 が、そんな彼女が今や、まるで口をきいてくれない。宥めど賺せど、やはり菊は一言さえ口をきいてくれない。強情張りだとは、それはもう嫌って言うほどに知っていたのだが、今回はまた訳が違う。
 けれども、そのまま彼女を連れて行こうか否かなんて、微塵も迷ったりはしない。戦場から遠く離しながら連れて行った方が、こんな所に置いていくより幾分も安全だろう。
 今更菊の意見などを聞くつもりは無いし、何と言われても連れて行く。それが傲慢だとは分かっているし、菊自身は望んでいないことも分かっているが、けれども連れて行かなければ自分がどうにかしてしまいそうなのだ。
「菊、明日発つから準備しとけ。」
 背中を向けて座っている主に声を掛けても、彼女はチラリともこちらに視線を送ってきてはくれない。もう、何日もずっとその体に触れては居ない。
 微かな渇きを無理矢理抑え込み、サディクはそのまま立ち上がり、菊から顔を背ける。
 
 
『 Araubian Gece  3 』   - アレイビアン ゲジェ -
 
 
 乾燥地帯を、乗る動物を変えながらも進んでいくと、やがて地面の質が変わってくる。それまでサラサラとした砂が多かった大地に、乾燥しながらも植物らしきものが見えてきたのだ。
 菊は、その一度通ってきた道のりをよく記憶していた為、自分がどこに運ばれているのかのは、勿論分かっていた。けれど文句を言うべき主は、遠く離れた先陣に居るはずで、顔さえ見えない。
 きっと兄は心配しているのだろうと、そればかりが心の枷であった。今回は絶好のチャンスであることは理解していたけれど、未だ自分がどうしたいのか、答えは見つけていない。
 せめて一言、謝罪と御礼が言えればいいのだが、それをサディクが理解してはくれないだろう。否、もしかしたら兄に迷惑をかける結果にだって成り得るのだ。
 今日の野宿先を見つけたとみえ、人々は手早くテントをくみ上げていく。日中と違い、砂漠の夜は寒くなる為か、菊だけのマントには防寒具の類が置かれる。
 肌の見える服装から、一枚上に布を手早く羽織ると、そのまま眠る準備をする。が、テントの外で焚かれたランプに照らされ、一つの人影が、白い布製のテントにハッキリと映った。
 それが誰であるか、勿論直ぐに分かった菊は、その影の主の名前を実に久しぶりに呼び、暗に入ってくるように促す。
「直ぐに出て行く。」
 そう告げた彼の顔には、今日は仮面が付いて居らず、真っ直ぐに瞳が見えた。魅力的だと、その黒い眼を見る度に菊は心の底から思った。
 自身の国の人々とは違い、肌は褐色をして滑らかで、彫りは幾分深くて驚くほどに睫が長い。この国の人々はみな、この魅力的な目元を持っているけれど、彼は特別美しかった。
「帰りてぇのかい。」
 そう問いかけられて、菊は一瞬何と言っていいのか分からなかった。答えを自分でも知らなかったから、何も分からない。
「……私にも、分かりません。けれど、兄の仇とはなりたくないのです。」
 サディクから視線を反らしてそう言った菊の横に、そっとサディクは腰を下ろす。久しぶりに傍に寄ると、相変わらず甘い薫りが鼻孔を掠める。
 香は自国の物を使っていると言っていたけれど、未だ薫りの本体を見たことはない。
「アンタがオレから離れるってぇんなら、オレはアンタを殺してやる。」
 グイと顎先を掴まれ引き寄せられると、そのまま噛み付くようなキスをされた。乱暴ではあったが、怖いとは微塵も感じさせない。
 唇を離すと、ゆったりとサディクは腰を上げ、そのまま組み立てられたテントの出入り口までさっさと歩いてしまう。けれども、出入り口で一度彼は立ち止まり、振り返ることなく言葉を紡ぐ。
「外に馬が繋いである……明日、俺達は祈りがある。日の出から暫くはここから出発しない。」
 そう言い終えるやいなや、直ぐに外へと出て行ってしまったその背中を眼で追いかけ、ようやく菊は彼が何を言いたかったのか、理解した。思わず呼び返そうと外に出たが、既に彼は遠くを歩いていた。
 
 
 翌朝、まだ辺りは薄暗く、ランプをお互い近づけなければ顔さえ認識できそうにない時分、菊はテントを抜け出した。特にいらないと判断したのか、それともサディクに言われてか、テントの警護には誰も当たっていない。
 そしてサディクが言ったとおり、馬が一匹繋がれているのを、直ぐに見つけ出す。この辺りの土ならば、幾分固いから馬でも足首をやってしまうことは無いだろう。
 馬の首に頬を寄せると、それだけでその馬が随分良い値であることが知れる。遠くでうす紫色に輝こうとする、まだ夜の強い広い空を見上げながら、菊は胸の奥が湧き立つ心地を覚えた。
 昨晩彼が言った言葉は、一見脅しである様な気がした。……否、そうだとまで思っていたのだが、やはりそれは違う。もしかしたら独りよがりであるかもしれないが、菊は「行け」と言った気がした。
 菊は馬に飛び乗り手綱を掴むと、一気に走り出す。
 
 
「サディク様!大変です、菊様がいらっしゃいません。」
 たった一人にばかり執着していたサディクの、そのお相手の女性が居ないと分かり、警備に当たっていた男は顔を真っ青にさせてサディクの元に駆け寄った。
「ああ。」
 その男と正反対に、サディクは仮面で表情を隠しながらも、平常心を保った声色で応える。首が飛ぶことさえ覚悟していた男は、その返答にキョトンとした視線を寄越す。
 そう言えば最近相手をしていなかったから、飽きが来ていたのかと思いもしたが、そうなればどうしてわざわざここに連れてきたのかも、納得いかない。
「さて、そろそろ出掛けるぞ、用意しな。」
 肺一杯呑み込んでいた、水煙草の煙を吐き出すと、サディクはそう言い立ち上がる。呆然としていた家来も、そのサディクの動きに驚き、慌てて準備を整えに走った。
 ……菊は賢い。サディクは太陽避けの厚いマントを被りながら、今や馬にまたがっているだろうその姿に思いを馳せる。
 恐らく菊は、見つからないだろう道を選び、少々遠回りをしたのだろう。それでもゆったりと進めば、彼女に追いつくこともない。
 無事に兄の元へ行き、国の危機を伝えれば良い。そして遠く逃げ延びて、どの戦いにも巻き込まれることなく暮らしていけば良い。そうすれば自分は、彼女を殺すことさえ叶わないのだから。
 
 
 果てしないほどに広い砂漠の、地平線の丁度上ほどに動くものを発見し、王耀は微かに眼を細めた。恐らくそれは馬であり、誰かが乗っているのが分かる。
「……敵でしょうか。」
 弓矢の準備をしようとする部下に、王耀は手の平を広げてそれを制する。
「待て、様子がおかしいある。」
 後ろで砂埃が立っている様子も無いし、大きな荷物を持っている訳でも、また武装している訳でも無さそうだ。ただの商人でも無いが、軍人でも無い。
 こうして王耀達が警戒しているのには、勿論訳があった。隣国へ出て行った商人が、偶然耳に挟んだ事だと、王耀へ二つの事柄を密告したのは、今からさほど日数の離れていない日であっただろう。
 一つは、この間商人同士でもめ事を起こして、王耀の国の人間が隣国の商人を殺してしまった事から端を発した、重大な情報である。つまり、もうすぐ隣国が奇襲をかけてくる、というものだ。
 直ぐさま謀に長けた王耀が指揮をとるように命じられ、王耀は巨大な関所である都に陣を張った。
 そしてもう一つの情報は、最近隣国の息子の一人のハレムに東洋の女性が入れられた、というものだ。……最近、菊からの連絡は絶え、彼女の荷物運びとして付けた従者の衣服や装飾品は市場で売りに出されていた。
 けれど、肝心な菊の持ち物の一切は、市場に出てきはしていない。珍しい物はそうであろうが、中にはよく見られる物も在ったはずなのに、一切発見されて居ない。
 ハレムは、聞いた話では謂わば後宮であるという。それが本当ならば……
 別段普段と同様の表情を浮かべたまま、それでも王耀はギリギリと音がしそうな程、奥歯を強く噛みしめた。
 物思いに囚われている内に、馬に乗った誰とも知れぬ存在は、いつの間にか随分と近くに来ている。砂漠独特の厚いマントを深く被り分からなかったが、シルエットでようやくそれが女であると知った。
 目配りでその馬の主を観に行くよう指示すると、馬に乗った一人が駆けていく。やがて、驚いた声色が直ぐに王耀の名前を叫んだ。
「……菊様が!」
 そう上げられた声色に驚き、王耀は馬で近寄り転がるように馬から飛び降りた。ローブを脱いだその顔は、探し求めていた主で、驚き駆け寄る。
 顔は血の気が無く真っ青になり、暑い筈なのに汗は少しも滲んでいない。瞳が虚ろで、王耀はその体を抱き留めると医師を呼ぶ。
「脱水症状だ。」
 恐らく既に意識は無い。そう思い、喜びさえ忘れて声を張ると、キュッと菊の指が王耀の服を掴んだ。
 驚きそちらを見やると、何かを言いたそうに何度か口を動かすけれど、喉が涸れている上に意識さえ曖昧らしく、何も言葉にならない。王耀は下唇を噛みしめると、尚細くなった体を抱きしめた。
「安全な場所に連れて行ってくれ。」
 そう王耀が誰かに指示するのを、菊は遠くなっていく意識の中で聞く。……今すぐに話さなければ。そう思いながら、何も言葉にならないし体も重くて動かない。
 どうにかして争いを止めなくてはいけないというのに、それなのにどんどんと意識は沈んでいってしまう。
 
 
 菊が目を覚ますと、そこは懐かしい木とい草の匂いに溢れていた。寝かされている布団も、着ている服も、全てが懐かしい物で溢れている。
 体が重く、暫くぼんやりと天井を眺めていたのだが、ようやく意識がはっきりしてくると慌てて体を起こす。辺りを見回せば、そこは旅に出る寸前王耀がしつらえた菊専門の部屋であった。
 近くにあった窓から慌てて身を乗り出すと、外が騒がしくなり、そして街の門が閉ざされているのが遠くに見えた。恐らく、被害があまりないだろう場所に移されたのだろう。
 菊は砂漠用のローブを羽織り、そのまま扉の向こうへと飛びだそうとした。が、貧血でスピードがそれほど出ていなかった事もあるのだろう、直ぐに後ろから体を掴まえられる。
「菊様、お願いです、王耀様に言われているのです。」
 必死な声色を聞くが、菊は身を捩らせてその腕からすり抜けると、振り返ることなく走り始める。直ぐに息が上がり、追いかけてくる足尾とが聞こえた。
 やがて辿り着いた強靱の扉を前に、菊はようやっと立ち止まる。肩は激しく揺れ、血の気が無かった頬は、上がった息の所為で頬は赤色に染まっていた。
「もう争いが始まろうとしています。どうぞお戻り下さい。」
 後ろから駆けてきた男の一人が、そう声を掛けると、菊はクルリと向きを変えて彼等と向き合う。息を整えながら、決心を固めるように下唇を噛みしめ、形の良い眉を上げる。
「ほんの少しでいいのです、少しだけ、開けてください。兄様とお話しがしたいのです。」
 サディクは、恐らく誰かの命令で仕方なく出陣したのだろうから、説き伏せる事は出来ないだろうと長い間そう考えていた。けれど兄ならば、確実且つ立派な地位を確立している。
 どうにか出来るかも知れない。などというのは勝手でお気楽過ぎる考え方かも知れないが、いかなる可能性だといってもソレに縋り付きたかった。
「……けれど」と口ごもる男達を前に、菊は拳を握りしめる。
「兄様には、あなたたちになんの落ち度も無かった事を伝えます。……それに私は、絶対に死にません。」
 あまりにも自信に満ちた声色に、男達は狼狽えて顔を見合わせているが、菊はもう一度静かに「お願いします」と繰り返した。
 
 
 予想はしていたが、いつの間に向こうにまで知れていたのか、相手は既に待ちかまえていた。向こうは自分達が攻め込むつもりなのを知っているらしく、勿論彼等は武装している。
 睨み合いは長い間続き、開戦の合図となるものも、連絡を取ろうと動く事もまだ無い。仕方なく、こんな時の為に用意させておいた向こうへの手紙を届けるように示唆する。
 手紙の内容は、読んでいるこっちでも笑ってしまう様な、内容である。殺された商人がそれなり地位のあった者だった事を利用し、関税を上げる事や、一部領地の壌土を要求しているものだ。
 その内容が飲めなければ、勿論、開戦となる。それがコチラの狙いではあるし、だからこそ兵士をここまで連れてきたのだ。
 
 
 やっと、小さな扉を開けさせる事の出来た菊が、その扉を乗ってきた馬を引いてくぐった時、開戦の合図となるラッパの音が響いた。ビクリと体を震わせ、菊は空を見上げる。
 そこから戦場は見えないけれど、立っている土埃で空が霞んでいる一部が見え、そこなのだと菊は直ぐに分かった。