魚の泪

現代パラレル 女体化 オレンジデイズ(笑)
 
 
 
 取った事を後悔してしまう様なつまらない授業の教室で、初めて彼女を目にした。いつも自分より幾分も早く来て、定位置に座り黙々と本を読んでいる。
 真っ黒な髪に黒い瞳で、自分とは違うがいっそ病的な程白い肌をした少女だ。
 名前も分からなければ何年生かも分からない、まるで赤の他人なのだが、自分は彼女の事が気になってしかたがなかった。幾分いつもより早めに教室に向かい、いつもは二人三人の合間が入るのだが、やっと隣の席に座ることができた。
 近くで見ると、長い長いとは思っていたのだが、黒い縁をつけるかの様な睫毛が酷く妖美だと初めて気がついた。清楚な印象を受けていたのだが、だからこそか黒い色が彼女の存在を引き締める。
 授業もそれなり進み、つまらない教授の話をそれでも彼女はノートに丁寧な文字でメモっていく。カリカリという音が心地良さと同時に、自身に隣に座る彼女を思わせ緊張させる。と、不意に彼女の手の甲が彼女自身の消しゴムに当たり、コロリと転がった消しゴムは机の上から床へと落ちてしまう。
 一度バウンドした消しゴムは机から少々離れた、それでも机の下に潜ればすぐに拾える場所に体を落ち着かせる。
 すぐに拾うのかと思っていたのだが、彼女は少し困った様に眉尻を下げるだけで中々拾おうとしない。暫くその様子を目の端で見ていたのだが、困った顔をする癖に拾う素振りがまるで無いので、やがて自分が机の下に潜り込んで大分小さくなってしまったソレを拾い上げた。
「ありがとうございます」
 自身のその行為に驚いた様だが、素直に潜め声で自分に礼を述べると、手を開き消しゴムを彼女は受け取る。その時、ふと彼女自身の膝にそっと手を置く仕草をするものだから、思わず目線を下げて彼女の足を目にする。と、その細いスカートの裾から覗く足に、何か銀色の棒を見つけて思わず目を少しだけ開いた。
 彼女は彼女で恥ずかしいのか困ったのか、複雑な表情を浮かべて俯く。そこでやっとあまりじろじろ見られたくない物なのだろうと察しがつき、慌てて目線を反らして適当な事が書かれているノートに目を向けた。
 その日の一時間半の授業は、まるで長いのか一瞬なのか分からないままに終了してしまう。
 
 それから次に彼女と会ったのは一週間後、前の授業が休講だった為にいつもよりも早くに教室に向かっていた。そこで長い廊下を歩いている彼女を見つけ、暫く数歩離れたところからジッと見ていた。一緒に歩いていたあまり出てこないフランスが不思議そうな声を上げかけて、目線の先の彼女を見つけて声を飲み込んだ。
 彼女は、廊下に設置された手すりと杖に寄り掛かりながら一歩一歩と進んでいた。この間は聞きそびれたが、やはり足が悪いのだろう。眉間に皺を寄せて頬を上気させて必死に足を動かして前に進む。
「……おい、まじかよ」
 つん、とフランスに肘で突かれて思わず彼に目線をやったとき、ガシャンと大きな音が鳴り響く。驚いて前に目線を戻すと、床に倒れ込んだ彼女が、打ち付けた膝に手を当てて遠くに飛ばされてしまった杖に身を乗り出して手を伸ばしている。
 困った様に曲げられた眉が、上気した頬が、泣き出しそうな瞳が、考えるよりも早く自身を駆り立てた。数歩で駆け寄ると、彼女の杖を拾って差し出す。
「大丈夫か?」
 そう一声をかけると、彼女の瞳が寸分大きく見開かれ、それから伏し目がちに目の前に伸ばされた杖を受け取る。
「ありがとうございます」
 この間の聴講時とは違うシャンとした声で礼を一つ述べると、また懸命に立ち上がろうとする。スカートの裾からまた覗いたその膝が、青あざだらけなのを見やり、思わず眉間に皺を寄せた。それから懸命に立ち上がろうとする彼女の腕を掴み、助力してやる。
「いつも一人で来ているのか?」
 小さく一度お辞儀をした彼女の細い指が、自身の腕に縋り付くことにあからさまに体温が上がった。
「いえ、いつもは送って頂いてます。……あまり、車椅子は使いたくなくて。」
 殆ど預けてきている筈の体重は、驚くほどに軽い。
「同じ授業だったよな。教室まで送ってやる。」
 いつも通りの口調しか出てこない自身を呪い、それでもこの場を感謝し、まだ淡い期待と不安が胸を過ぎった。クリーム色の日差しが窓から差し込み、生徒達の声が響く。
「あの、私、日本って言います。……お名前は?」
 軽く首を傾げコチラを彼女が、その大きな黒い瞳で見やる。ふんわりとしたふ菓子の様な白い肌に太陽の灯りが栄え、この場所を酷く非現実的に染めた。
「イギリスだ。」
 そう返すと、彼女はふんわりと微笑んで「イギリスさん」と小さな声で繰り返す。
 その瞬間、時間が一瞬止まり、鼓動ばかりが大きく鳴り響く。何故か包まれた懐古感と新鮮味に、少しばかり泣き出したい程であった。
 
 
 
  [ 魚の泪 ]
 
 
目の前の顔を眺めるのは不服ながらも、一応文句を言わずに食堂のカレーをつつく。禁煙だというのに、イギリスの真ん前に座ったフランスは堂々と煙草を吸いながら彼は煙と一緒に深い溜息を吐き出した。
「正直どうかと思うがな、オレは。」
 別にお前の意見など聞いてもないし興味もない。そう言おうとして面倒くさくなり口を噤み、代わりに睨む。
「……なんだ、お前でもいっちょう前に他人を差別するのか?」
 鼻でフンッ、と笑って皮肉タップリにそう言ってやると、フランスは眉間に皺を盛大に寄せて唇を尖らせる。差別とは当然、日本の足の事についてだった。……本当は、自身も今まで差別したことが一度も無かったなど、言えるはずもない。一体差別がどこから始まるのかも分かりはしないのだから当然だろう。
「別にそんなくだらねぇ事を言ってるんじゃぁねーよ。」
 不機嫌そうに持っていた煙草を灰皿に押しつけ、思いっきり顔を顰めた。グリグリと押しつけられる煙草を見やり、ほんの軽くイギリスは肩を竦めて先を促す。
「俺たちは幼稚園の頃からの腐れ縁だろ。大学まで一緒となればオレはお前の親よりお前をしってるかもしれねぇ」
「ああ、不服ながらな」
 あながち嘘でもないフランスのセリフを、本当に不服そうにイギリスは眉間に皺を寄せて頷く。
「だから言わせて貰うがな、お前は今の今まで本当に好きな女なんて出来たこと無いだろ。」
 まさに今取り出した真新しい煙草を鼻先に当てられ、数秒キョトンとした後「はぁ!?」とイギリスが片眉を上げて顔を顰める。
「今まで付き合った理由が胸がでかいとか尻がでかいとか女優に似てるだとか、シェイクスピアが好きだとは思えねぇくだらないモンだったしな。
それで今までに無いタイプだから、とか、興味があるからだからっていうので付き合うのはちょっとどうかと思うぞ。」
肩を竦め鼻で笑いながら馬鹿にするようにそういうと、フランスは無精髭の生えた顎をクイッと持ち上げた。対してイギリスは返す言葉を失いスプーンを囓る。何か言いたげな目線をイギリスは寄越すが、結局何も言わずに空の皿を手に立ち上がった。
「別に、お前の意見なんて興味も無い。」
 フンッ、と鼻を鳴らし捨て台詞を吐いてイギリスは学食を後にする。残されたフランスはその後ろ姿を見やり、また溜息を吐き出した。
 
 カビ臭い本の匂いが充満する、いっそその静けさが五月蠅いきがする静閑な地下図書を、靴音を鳴らしながら歩く。特に探している本も無いのだが、この匂いと雰囲気が自分を酷く落ち着かせるのだ。
 と、机と椅子が並べられた小さなスペースの前を通り過ぎかけて足を止める。そこに居たのは彼女で、何やら分厚い本を見知らぬ男の隣で一緒に眺めていた。声を掛けたくとも、勿論声を掛けられずに僅か離れた所に突っ立って二人の様子を眺める。
 金髪をオールバックにした、座っている姿からもう長身だろうと分かるその男と彼女は親しそうに本を指さし何かを喋っていた。そして時折、二人揃って笑う。
 一時間半の中で見られる彼女の表情なんてたかがしれているし、ましてや日本とした会話などほんの微か。何も知らないのも当然だとは分かっているのだが、その情景に不必要な疎外感すら覚える。
 と、机の上に置かれた本を見ていた彼女が、ふとコチラに目線を寄越した。隠れる隙も……否、隙はあったのかもしれないが、コチラを見てくれた事に足が痺れてとてもその場から去ることが出来ずに、ただボンヤリとイギリスは立ち竦んだ。イギリスの姿をハッキリと認識した日本は、一瞬驚いた様子を見せてから、またふんわりと瞳を三日月型にして微笑む。そして、聞こえはしないが確かに「イギリスさん」と彼女の唇が自身の名を呼んだ。
 瞬時、今まで聞いたことも感じたことも無い甘い痺れが胸全体に響き渡り、ただこの場に存在する事の幸福さを噛みしめる。フランスの考えなど、もう自分には彼の杞憂なのだと分かり切っていた。
 日本の視線につられる様に、隣に座っていたオールバックの男も顔を持ち上げる。地顔がそうなのか、それともイギリス登場のタイミングが悪かったのか酷く不機嫌そうな顔をしている。
「同じ近現代史をとっているイギリスさんです。こちら医学部のドイツさんです。」
 にっこりと笑ってそう互いの紹介を済ましたのに、数秒経ってもなぜだか両者動こうとも言葉を交わそうとしない二人を、困ったように日本は見比べる。
「あ、あのぅ」
 と、日本が困った声を上げたが為にやっと二人同時に動き出し、酷くぎこちない動作で適当に握手を交わす。どことなく力が入りすぎてて痛かったかも知れない。
「先程はありがとう御座いました。」
 ニッコリと笑ってそう礼を言う彼女に、「いや」と返しチラリとオールバックの男……ドイツに目線を少しやってみるが、無表情が常なのかあまり感情が読めず再び日本に視線を戻す。ここで二人きりにして立ち去ってしまいたくは無かったが、ここで居座るのもおかしいだろう、と悶々脳内で考えていたその時、素っ頓狂な、そして図書館には大きすぎる声が響く。
「にっ、にほーん!今日は本当にごめんね!寝坊しちゃったんだよぅ」
 向こうから走ってきた男は腕をぶんぶん振りつつ、半泣きなって猛スピードで駆け寄ってくる。いきなりな登場にイギリス一人だけがギョッとした。
「いいえ、私も無理に頼んでしまっている事なので、気にしないで下さい。」
 にっこりと笑い、やってきた男を宥める様に彼女が言うが、ドイツという名の青年は深い溜息を吐き出す。
「違うよぅ、オレが勝手にやるって言ったんだよぅ……あっ!生徒会長!」
 ぐしぐしと鼻を啜って泣いていた男は、パッと顔を持ち上げてイギリスを見つけると、ビシッと指を指して泣き顔を払拭させて叫ぶ。一瞬ギョッとしたものの、高校時代生徒会長を務めていた事を思い出す。が、どう反応していいのか分からず「あ、ああ……」と呟いた。
「オレ、イタリアって言うんだー日本と友達?ドイツと友達?」
 ついさっきまで涙目であった筈なのに、今度はニッコリ笑顔になってほぼ強制的にイタリアはイギリスの手をグッと掴んでブンブン振った。
「に、日本と、友人……だ……」
 まず初めて名前を呼び、そして友人とか言っちゃって、それすらいいものか否か語尾に力が入らずにチラリと日本様子を見る。と、座ったままコチラを見ていてバッチリ視線が合うと、にこっと彼女が微笑む。瞬時、思わずもの凄い勢いで目線を反らしてしまった。
「うわぁーっ!良かったね日本―!お友達出来たんだねっ!」
 キャー!と歓喜の悲鳴らしきものを上げると、ギュッと日本に抱き付く。思わず顔が引きつるのがイギリスだけなのは、恐らくイタリアが普段からそうなのだからだろう。
 イタリアの胸の中でホッコリと日本が笑って「はい」と頷く。
「うんうん、仲良くしてね、生徒会長さん!」
 何故かイタリアにそう言われて頷くと、ふと日本が握っていた携帯が振動する。
「……10分前です。」
 アラームだったのだろう、日本が携帯を見つめてポツリと呟く。と、座っていたドイツがガタリと立ち上がると手元にあった本を手際よく片付け始める。
「日本」
 ドイツがそう呼びかけて杖を手渡すと、日本はそれを受け取り、伸ばされたドイツの腕も掴んで少々難儀そうに立ち上がった。それからイギリスとイタリアを振り返って少しだけ笑う。
「それでは、また。」
 そう一言言い置いてドイツに連れ立って日本がゆっくりと去っていく。完全にその姿が見えなくなると、イタリアがイギリスの肩をポンポンと、酷く嬉しそうな顔で叩いた。
「頑張ってね!」
 一体何をだ、とは怖くて聞けずにただイギリスはその場に立ちすくむ。
 
 一週間がこれほど長いものだというのを、これほどまで強く感じた事は無かった。こうなるなら持ち得る勇気を全て練りだしてでもメールアドレスを取得しておけば良かったのだが、そのタイミングも分からずに今に至る。
 そう悶々としながら、かなり早めの時間から廊下を一人歩いていると、廊下の先に見たことのある後ろ姿を見つけてふと動きを止めた。
 今日は彼女……日本をどうやらイタリアらしき人物が送っているらしい。この間は彼は寝過ごしてしまったのだろう。
 若干歩を早めて二人に追いつくと、声を掛けづらくてそのまま通り過ぎる。と、予想通りにイタリアが嬉しそうにイギリスを見つけて「生徒会長さん!」と叫んでイギリスを呼び止める。
「……出来れば名前で呼んでくれないか。」
 声を掛けてくれる事を期待していたなんて当然言えるはずも無く、生徒会長と呼ばれた恥ずかしさで若干顔を引きつらせながらイギリスが振り返って二人を見やった。
「えぇー、だってオレ名前知らないモン。」
 そうイタリアが渋るものだから、イギリスが眉間に皺を寄せる。と、隣に立ってイタリアの腕をしっかりと掴んでいた日本が笑った。
「イギリスさん、ですよ。」
 そう落ち着いた芯の強い声色で言うと、自身の名前が呼ばれただけで思わず心音が高鳴りイギリスはその様子を隠すためにか思わず俯く。
「そかそか、よろしくね、イギリス。」
 いきなりの呼び捨てを気にしてはならないのだろう、伸ばされた手を思わず握り替えしてイギリスは引きつった笑顔を浮かべる。
「……もしあれなら、同じ教室だからオレが代わろうか?」
 言い切ってからキョトンとする二人の面前で、言ってからもの凄く後悔をしつつ無表情を保つ。と、ちょっとだけ困った顔をする様に眉を歪めて上目遣いがちにイギリスを見やる。
「ご迷惑じゃありませんか……?」
 数秒、コチラを見上げる彼女の表情に思わず動きを止めてから、落ち着きを取り戻す様につとめつつ首を横に振った。それから無言で腕を差し出すと、ちょっとだけ戸惑いながらも彼女の指が自身の腕を力強く掴む。シャンプーの匂いがホワリと香り、心地よい体重が掛かる。
「イタリアさん、有り難う御座いました。」
 イギリスにもたれ掛かったままニッコリと笑ってイタリアにそう言うと、イタリアも嬉しそうに笑って手を振りつつ彼等から離れていった。
 
 まだあまり生徒の居ない教室、二人で並んで座っているとどうにも緊張してイギリスは必死に話題を探していた。まだ彼女の好きな物すら知らないし、話した事すら数えるほどしか無い。
「あの……無理強いしてお友達だなんて言わせてしまったみたいで、すみません。」
 そうコチラを伺う様な視線を投げ掛けてくる日本の声で、悶々と渦巻いていた思いからふと我に返った。そして慌てて彼女を見返す。
「いや……こっちこそ勝手な事を言ってすまない。」
 酷くぎこちない会話だと思いながらそう上擦る声で返すと、一瞬キョトンとしてコチラを見やった彼女が、ふんわりと微笑む。それからハッキリと言った。
「嬉しかったです。」と。
 友人が出来て、とかそういう意味なのだろうが、瞬時心臓が激しく跳ね上がるからおめでたい。が、すぐに「友人少ないので」と言われて思わず表情が固まってしまった。
「……な、なぁ。またイタリアが寝坊したりした時は呼びだして構わないから。」
 出来るだけ視線を合わせないようにしながらそう言うと、コチラをじっと見やっただろう日本から若干驚いた雰囲気が伝わる。
「でも……悪くありませんか?」
 人が入り始めてざわざわとしはじめる教室でも、なぜだか彼女の声は良く届く。
「どうせ移動で通る廊下だからな。面倒ってわけでも無い。」
 自身の語彙から探り出した文字列は、どうしてこんなに柄が悪いのしか選べないのかと、思わず肩を落とす。けれども日本はその白い頬をほんの少しだけ朱くさせて、目を三日月型に微笑まさせた。
「それじゃあ、機会がありましたらお言葉に甘えさせていただきますね。」
 そう言って日本は膝の上に置いていた自身の鞄から携帯を取り出すと、ちょっと気恥ずかしそうに、申し訳なさそうに肩を竦める。
「あの、メールアドレス交換してくださっても構いませんか?」
 心の中でガッツポーズでもしたせいか、酷く動揺したせいか、日本の言葉に思わず手に持っていた鞄を落とす。中身が床に広がるのだが、その中から取り敢えず携帯だけを拾い上げると日本にグイッと向ける。
「アドレス、取り敢えず送るから。」
 赤外線部分をぶっきらぼうに押し当てるイギリスに、床に落ちた物を一緒に拾えない事にもどかしそうにしていた日本が、また笑う。