魚の泪

現代パラレル 女体化 オレンジデイズ(笑)
 
 
 
 日本との約束一日前、朝電話のベルが鳴る音で目が覚めた。まだハッキリしない頭で、布団に埋もれながらぼんやりと天井をしばし眺める。と、不意に燻っていた意識が急に上昇し、そこでやっと電話が鳴っているのだと明確に気が付きベッドから這い出た。
 普段だったら無視を決め込むのだが、もしかしたら日本からかも知れないなんて思うと這い出ずにはいられない。けれども電話機の前まで来て、そのディスプレイに表示されている番号が見知らぬもので、思わずベッドから這い出た事を恨み顔をしかめる。学校が再開してからの折角の休みだというのに、こんな朝っぱらから一体誰だよと、苛立たしげにイギリスは受話器を握った。
「……もしもし?」
いの一番に聞こえたあまりにも懐かしい声に、逆にイギリスは眉間に皺を寄せ顔をしかめる。いつ以来から聞いていなかったかさえ、あまりハッキリとは覚えていない。
「なんか用か?」
嫌な予感でぶっきらぼうになってしまいそうな声色を懸命に抑えて問うと、電話口の彼女は相変わらずだと、小さく喉をならして笑った。
 
 
 
魚の泪
 
 
 
「はい、分かりました。では午後からですね。」
 日本は挨拶をしてからイギリスからの電話を切り、時計を見上げる。イギリスからの電話は、午前からの約束を午後に移してほしい、というものだった。今日はもう着替えてしまったし、身仕度みきれいに整えてしまった。後は出掛けるだけなのだが、いきなり午後からとなると勢いが削がれてしまう。
 あまり気は乗らないのだが、時には一人で出掛けろという事なのかもしれない。日本は小さく気合いを入れ直し玄関のドアノブを握りガチャリと開くと、目の前に見知った人物、ギリシャが林檎が沢山入った袋を抱えてそこに立っていた。
 日本の姿を見つけると、ギリシャはニコッと笑ってその袋を差し出す。
「出掛けるの?これ、田舎から送ってきたんだ……」
 日本はパッと表情を輝かせてその袋を受け取り膝の上に乗せると、ギリシャ同様ににっこりと笑い笑顔を浮かべる。
「ええ、ちょっと時間が空いていたので、車椅子で一人、出掛けたこと無かったのです。」
 ちょっとばかり照れてそう言うと、ギリシャは逆に少しだけ眉間に皺を寄せた。
「……危ないよ。オレ、今日暇だから近くにだったら一緒に行く。」
 ギリシャのそのセリフに、「でも」と日本は口ごもるが、断るにも彼がとても楽しそうだからそんな事も言えないし、確かに自分一人では心細いこときわまりないし……
 ちょっとだけ考えた後、日本はコクンと頷いた。
 
 
「これで、いいんだよな」
 イギリスは懐かしき顔を見やりながら、自分の家のテレビの裏に転がり埃をかぶっていたピアスを差し出すと、相手は嬉しそうに受け取り、ごめんと手を合わせて申し訳なさそうに笑う。
 とても大切な物だったのだが、どこでなくしたか分からなくなっていたし、わざわざ別れた人に電話するのもし辛かったらしくてここまで伸びてしまったのだと言っていた。イギリスはイギリスで、特にやましいことなど無いのに(有るとしたら日本に「友人とどうしても会わなくてはいけなくて」と言ったことだろう)、微かな背徳感もあり取り敢えず早く終わらせてしまいたい。
 日本の約束を午前だけだが潰してしまったのが、とにかく気が咎められてならない。引っ越すから今しか時間が無いなんて、確かに家に来られるよりは随分ましではあるが……
 昔いつも待ち合わせに使っていた場所を今回も使ったのだが、駅前という事もあり人通りも気になるし、もしここでフランスなんかに会ってしまったら……と、そわそわしていたまさにその時、
「……イギリスさん」
 あまりにも聞き慣れた声に、瞬時にして脂汗が全身から流れ、サッと血の気が引きすぐには振り返られなかった。変な沈黙が流れ、わざわざ「呼んでるよ」と一声かけられてからゆったりと振り返る。
 いつもは見たくて溜まらない姿なのに、今ばかりは絶対に目にしたくは無い愛らしい姿がキョトンとこちらを見ていた。ああ、しかもギリシャとかいう青年と一緒に居るし……
 
 気まずそうなイギリスと正反対に、キョトンとした日本的には普通にイギリスの友人は女の方だったのか、としか思っていなかった。どちらかというと日本の後ろに立っていたギリシャが「あーぁ」と目を少しだけ細める。
 けれどもイギリスの前に立っている女性の耳の片方とその片方の手に、見たことのあるピアスが光り、思わず目を少しだけ大きくさせた。それから膝に載せていた手をキュッと握りしめる。
「そちらの女性はどなたですか?」
 ちょっとだけ沈黙してから、いつもの様にニッコリと微笑んで聞いてくるものだから、イギリスは逆に動揺して不自然に目を逸らして空笑いを浮かべた。
「え……えっと、その、これは何でもなくて…」
 しどろもどろするイギリスの返答に、日本はふふっと笑ってからちょいちょい、とイギリスに向かい手招けば、それに釣られる様にイギリスは日本の傍に歩み、少しばかり身を屈めた。
「もう少し屈んで下さい。」
 そう、日本が笑顔を浮かべて言うがまま、イギリスが身を屈めて日本と真っ正面に向かい合ったその時、バチン!と鋭い音が走った。日本がその頼りなく細い手のひらでイギリスの頬を強く打ったのだ。
 あまりに急な事で、思わず言葉を無くしたイギリスが瞬時に赤くなった頬に手を当てて恐る恐る日本を見やった。彼女は自分を叩いた方の手を、もう片方の手で包み込むように握りしめ、微かな震えを懸命に抑えている。泣き出しそうな表情でイギリスから視線を外すと、長い睫を伴わせて目をキツク瞑り、そして深く俯く。
「ご…ごめんなさい……」
 震え、掠れた声で日本が小さくそう謝罪を述べた。イギリスは慌てて手を伸ばして日本の頬に触れようとして、そして小さく身を捻るようにして日本がその手から逃れる。
「……日本」
 彼女の名前を呼びかけても、俯いた日本はイギリスに顔を向けないし、黒髪が邪魔してその表情さえかいま見えない。が、震えた声色で小さく言葉を紡ぐ。
「今日会おうって、イギリスさんから言いましたよね?」
 その日本の言葉に、イギリスが何か言おうと口を開く。が、その前に更に日本は言葉を続ける。
「友達に会うって、言ってましたよね?」
 痛いところを突かれて、思わず言おうとしていた言葉さえ失い、イギリスは黙り込んで小さく俯くと唇を軽く噛んだ。日本は、少しだけ顔を持ち上げる。
「“元”彼女っていうのも嘘なんですか?……あなたが今まで私に言って下さった事、全部嘘だったんですか?」
 こちらを見上げてそう言った彼女の顔があまりにも悲しそうで、その台詞とその表情に、イギリスは弾かれた様に顔を持ち上げる。
「ち、違っ……」
 首を振って懸命に訴えようとするのだが、それよりも早く、日本は後ろに立っていたギリシャに合図を送った。
「もう行きましょう。」
 そう吐き出された日本の冷たい声色に、若干ギリシャも戸惑いながら車椅子を押す。んべ、と舌を出してみせたギリシャと日本の姿は、ただ呆然と立ちすくんだイギリスからはすぐに見えなくなってしまう。隣に立っていた女が、哀れんだ瞳でイギリスの肩にぽんと手を置いた。
 
 いくつも過ぎていくコールを聞きながら、着信拒否にされていなかった安堵と同時に、出てくれない不安に眉を歪める。やっと繋がったと身を乗り出しかけ、それが留守電と気が付き肩を落とす。
「……オレだ。さっきのこと、ちゃんと会って話したい。このままおまえと、別れたく無いんだ。……頼む。」
 そう一言言い置き、数秒待ってから通話を切った。いたたまれずにボスンとベッドに顔を埋め、深いため息を吐き出す。『絶対に嫌われた』と、彼女のあの泣きだしそうな顔を思い起こすだけで絶望感と罪悪感に苛まれる。せめて、そう、せめて誤解だけは解きたかった。
 
 
「……電話、いいの?」
 鞄の中で鳴るコールを無視し続ける日本に、ぽつんとギリシャは尋ねるが、相変わらず日本はギリシャ宅のソファーに座ったままうんともすんとも言わない。出された紅茶にも一切手を付けず、ただ俯いていた。
 家まで送ったのだが、帰りたくないと首を振られたので招き入れた。共稼ぎの為夜まで親は帰ってこない。
「……ねぇ、日本」
 そっと彼女の名前を囁くが、沈んでしまった彼女の視線は上がらない。あまりにもその顔が白いものだから、右手を伸ばし彼女の柔らかな頬に触れてしまい、そしてやっと彼女の体温を知る。
「そんな顔しないで。ね?今日はもう帰った方がいいよ」
 そう言いながら立ち上がり紅茶の入ったコップを持ち上げたその時、「……帰りたく、無いです」そう、ポツリ、と漏らされた日本の言葉に、立ち上がったギリシャの動きがピタリと止まった。
「前にギリシャさんがおっしゃった事、本当ですか……?」
「日本?」
 思わず眉間に皺を寄せて聞き返すが、日本からは答えがかえってこない。その代わりに、ギリシャが応えた。
「……オレは、日本にそんな顔させないよ。」
 また元の所にカップを戻し、身を屈めて日本の顔を覗き込む。今なら、彼女を手に入れることが出来ると、瞬時にそう頭に浮かんだ。けれどもどこか心は弾まずに、ねっとりとした暗くもいっそやらしい喜びが心の奥に広がる。
「……オレに、する?」
 そっと、小さく問い掛けると、日本は目線を外したまま、やはり動かない。手を伸ばし、もう一度右手を彼女の頬に当てた。身を乗り出し、お互い鼻が付くほど傍に寄るが、それでも日本はただ口をつぐんで何も言わない。
「何か言って……?このままじゃ、オレ、手、出しちゃうよ……」
 口調こそ弱々しいが、顔を持ち上げたギリシャの黒い瞳は真剣な光が灯る。日本は何か言う代わりに、ギリシャが触れている右手にそっと己の手のひらを重ねる。そして訪れた数秒の沈黙の後、ひどくゆったりとした動作で唇を重ねたが、日本はまったく抵抗することもなくギリシャを受け入れた。
 今回は前と違い、暫く唇を押し当てたまま動かない。やがて離すと、微かな息を日本が漏らす。二人は向かい合うが無言のまま、ギリシャは体を乗り出してもう一度キスをし、服の上から日本の胸をまさぐる。小さく身を捩らせる日本の白い太ももへと、スカートの裾から侵入させてその滑らかな肌をそっと擦る。
「……日本」
 興奮で擦れる声色でその名を囁き、甘い薫りのする彼女の首筋に顔を埋める。ブラウスの下から手を差し込み腹部に指を這わせながらもう一度ギリシャは日本の名を呼んだ。そうして暫し、愛撫していた彼の動きが止んだと思った瞬間、スルリと服の中から手がぬかれる。
 ちょっとばかり目を見開いて日本がギリシャに目線をやれば、彼は自分の顔を両手で覆っていた。日本が首を傾げて彼の名を呼ぶよりも早く、小さくギリシャは呟いた。「……見て」と。
 目を見張らせた日本の前で、ギリシャは祈るように、ひざまつくように、そこに居た。
「……こっちを見て、日本」
悲しそうなその声で紡がれた言葉に、日本は目線を合わせようとしなかった事を言っているのだとようやく気が付き、大きく瞳を揺らす。
「……ごめんなさい」
 日本がそう謝罪の言葉を述べた瞬間、我慢し続けていた涙が遂にボロッと崩れ落ちて頬を滑る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 頬を流れる涙をそのままに、身を乗り出してギリシャの頭を包むように抱え込んだ。その抱擁は、どこか欠けた二つのピースが合わさる様だと、ギリシャは密かに感じた。窓の外から溢れ込んでくる夕日によって、動きを止めた静止画であるかのごとくその存在が世界に溶け込む。
 
 
 三日後になっても、日本から留守電の返事はこなかった。本当の所は、日本がイギリスからの留守電を聞けずにいたのだが、イギリス本人は当然その事は知らない。
 ただ三日、会えば視線を逸らされ、電話をしてもとってくれない。そして昼食はいつもの買いべんへと戻ってしまった。
 苛々とした様子の彼に近寄るモノは減り、その不機嫌さには思わず茶化しにきたフランスも閉口せざるをえない。せめてもの救いは、別れを決定的にさせる言葉を言われていない事だけだ。
「まぁ、自然消滅とかありえるけどな!」はっはっはっ、と笑うフランスを、じろりと酒を飲んでいたイギリスは顔をあげ、にらむ。
「別にもういい。疲れた。」一瞬身構えたフランスを見やってから、イギリスはため息を吐いて、そう吐き捨てる。と、フランスは学食の奧に目線をやり、体を少し伸ばした。それから快活に「よぉ!日本ちゃん!」と声をあげると、瞬時にイギリスは背筋をのばす。が、この時間にイギリス達がここに居ると知っている日本がわざわざ来るはずもなく、フランスは引っ掛かったイギリスをシラッと見やった。
「……意地張るのはいいが、後悔しない様にした方がいいんじゃねーの?お前、珍しく本気だったろ。」
 がたり、と椅子を引くとフランスは立ち上がり、片手を上げてイギリスを残しその場を後にした。
 
 ほんの数日前までは短かった筈の廊下が、一人となると頭がクラクラする程長くなった。
 日本は溜め息を吐き出して手摺りにしっかとしがみつく。と、目の前の道を見てまた深い溜め息を吐き出し、眉間に皺を寄せる。ずっと続いていくと思っていた廊下が、途中で階段に繋がっていて、手摺りの付いたのが途中で少しばかり中断されていたのだ。
 日本は決心すると杖を握り直して一歩踏み出す。言うことを聞いてくれない足を懸命に動かすが、足は震えるばかりでうまく行かない。そしてやっと半ばまできてちょっと息を吐き出したその時、向こうから来た人とすれ違いざま、軽く肩が触れ合った。
「あ、ごめんなさい」
 と相手かたの女性が日本に謝罪を述べ、日本も「いえ……」と応えようとした、が、日本の視線が大きくぶれ、世界が遠退いていく。もう見えなくなってしまった女の人の悲鳴を聞いた瞬間、右肩に強い衝撃が走り意識をパッと手放した。
 
 三限の授業が空き、毎週そうしていたように、その日も大概漏れず図書館へと向かった。もうあの事件から一週間は経つというのに、いくら経っても静かな場所へ行くと、どうしても日本の事を思い出してしまう。
 並んだ図書の合間を苛立たしげに抜けていくと、あまりここで人に遇うことなどあまり無いのにも関わらず、不意に人の気配を感じて顔を持ち上げた。そこに立っていたのは、いつか見たギリシャという名の青年で、彼は真っすぐにこちらを見やっている。
「……この時間、いつもここに居るって、フランスから聞いた……」
 随分離れた所に立っていたのだが、彼はひどくゆったりとイギリスに歩み寄る。その光景にイギリスはどこか既視感を覚えて軽く瞳を細め、それがあのドイツの時と同じなのだと気が付きハッとした。
「なんの用だ」
 イギリスがそう、ひどくぶっきらぼうに尋ねると、ギリシャはその瞳を細め、苛立たしげに眉間に皺を寄せる。
「フランスから色々聞いたんだけど、もし本当に誤解なら、そのこと日本に言わないの?」
 イギリスは、お喋りな自身の悪友を思い出し盛大に顔をしかめる。
「話したくても、むこうがとりあってくれなければ意味も無いだろ。」
 ギリシャから顔をそらし、吐き捨てるかの様にイギリスはそう言ってから小さく目を細めた。そしてギリシャから目をそらしたまま、
「それに、オレはもういい。どうせこれ以上どうにもならないなら疲れるだけだし日本も迷惑だろ。」
 メールも電話も出てくれないし、話し掛けようにも明らかに避けられているこの状況にもうそろそろ嫌気がさしていたし、彼女から直接「もうあなたなんて嫌いだ」と口に出されたら、きっともの凄いショックなのだろうことは容易に想像がつく。
 イギリスはギリシャから視線を外したままギリシャの横をすり抜けようと歩きだして、一歩彼から離れた瞬間、ギリシャが口を開く。
「さっき、日本が階段から落ちたんだ。」
 そのギリシャの言葉に、通りすぎかけていたイギリスは足を止め、目を見開き思わずギリシャを振り替える。
「……それで、日本は……?」
 眉間に皺を寄せ、恐々と尋ねるイギリスにギリシャはいつもの、全く感情を見せない表情で目線を送った。
「もういいんでしょ?」
 けろっと言われた一言に、イギリスは眉間に皺を寄せてその翡翠色の瞳を釣り上げ睨む。
「そういう問題じゃないだろ!?オレはまだ……」
 語尾を震わせたイギリスのその声は、静かな図書館にひどく響き、わずかに居た人々の目が一度二人に向けられる。ギリシャは軽く首を傾け、小さな沈黙の後ようやく口を開いた。
「……右肩と頭を強く打って病院に運ばれたよ。まだ意識も戻ってなくて、重傷だって。」
 目を細めて告げられたその言葉に、イギリスは瞬時にして心臓に冷や水を当てられた気がして目の前がクラクラ揺れ、思わず隣にあった本棚に手を掛けて俯く。
 本棚についた手と反対の手を額に当てたその瞬間、いきなり冬に待ち合わせ場所で待っていた彼女の赤い頬の体温を、あの甘い薫りを、自分の名前を呼ぶ声を、笑顔を思い出し、その情報量のせいで胸が苦しくなるのを感じる。
 もしも人がいなければ、その場でうずくまってしまいたい衝動に襲われて、イギリスは息さえ突っ掛かるその気管で小さく
「嘘だ……」
 と呟くのが精一杯だった。本当の事を言うと、少しばかりこれからもチャンスがあるのでは無いか、と考えていた。いつかもっとちゃんと話し合えるのではないか、とか。なのに……
 もしあの日にちゃんと元彼女に会ったりしなかったら、否、会っていた事を変に誤魔化そうとしなかったら、今日の教室移動にも出来るだけつきあっていただろうし、日本が階段から落ちることも無かったのだ。
 どんどん重くなる心臓に、息すら吐き出せなくなる。だからか、不意にギリシャが
「うん、嘘。」
 と発した言葉に、瞬時に反応出来ずに眉間に皺を寄せてギリシャを見上げ、思わず「なんだって?」と聞き返す。
「だから嘘。階段から落ちて右肩打ったのは本当だけど、軽い脳震盪起こしただけだって。もう目、覚ましたし学校の保健室で寝てる……」
「なっ……」
 飄々といってのけたその言葉に、思わずイギリスは食って掛かろうとするのだが、逆に言葉を失ってしまう。
「だって、悔しいんだもん……」
 ギリシャのその言葉に片眉を持ち上げてイギリスが問い返すと、相変わらずの無表情さで一度彼は頷く。言っていることとその表情がまるで合わないけれど、きっと彼は本気なのだろう。
「オレ、あの後日本とキスしたんだ。」
 先程と全く同じように、彼はケロッとそう言ってのけた。一瞬時間が止まった後、イギリスが声を上げる間もなくギリシャは言葉を続ける。
「……でも、オレじゃぁ日本は笑ってくれないから……まだ、ね。」
 最後の言葉を一番強調して、ギリシャはその切れ長な目の丸い瞳をイギリスに向け、軽く首を傾けた。いつもと同じ表情なのに、どこかその目線は挑戦的だ。
「……行かないの?保健室。それならそれで、別にいいけど…」
 ギリシャを睨め付けていたイギリスは、その言葉に小さく舌打ちすると、ギリシャから目線を外し慌てて駆け出した。途中、イギリスの腕の中から本が一冊転げ落ちるが、全く気にする様子も無くそのまま後ろ姿は小さくなってしまう。
 誰も居なくなり静かな図書館内、ギリシャはそっと身を屈めてその本を拾い上げ、年季の入った本の表紙をそっとなぞった。
 
 
「日本!」
 廊下を走りぬけ、保健室の扉を開け放ってその名を呼んだ。室内に居たフランスが顔を持ち上げてやってきた人物を見やる。
「……日本は?」
 肩で息をするイギリスがそう尋ねると、フランスは軽く肩をすくめてカーテンの向こうを指差した。
「保健医は昼休みにでてる。……話がおわったらメールしろ。」
 フランスはそう言い残し立ち上がると、イギリスの立っている方向、つまり扉にむかった。
「……悪い」
 すれ違いざまイギリスはフランスに謝罪を述べると、フランスはニッと笑って顔を持ち上げ己の友人を見やる。
「昼飯一週間分奢れよな。」
 一言そう置いたフランスが扉の向こうに消えて、ようやくイギリスはカーテンを引いた。不幸中の幸い、軽い脳震盪と右肩の強打だけで済んだらしい彼女は、すでに起き上がって、イギリスが居る反対側に設置されている窓の向こうをジッと眺めている。
 顔は見えないのだが、久しぶりにこんなに近くその姿が見れて、イギリスは胸の奧がいっそつぶれてしまいそうな心地さえした。
「……その、大事が無くて良かった。」
 こちらを見てくれない事に微かな絶望を覚えながら、ようやくイギリスは口を開く。核心にはどうすれば触れられるのか、イギリスは懸命に言葉を選んでいく。が、押し黙っていた日本は不意声を上げた。
「何の用ですか?」
 あまりにもそっけなく冷たい声色に、イギリスは思わずムッとしたが抑える。そしてこれ以上とやかく言うより、一番言いたかった事を言ってしまおうと口をあけた。
「……あのな、言い訳にしか聞こえないかもしれないが、あいつの事は……昔付き合ってたから、その、会うって言いづらかったんだ。だから……」
「もう良いです。」
 イギリスの言葉途中に、日本は弱々しい声を上げてそれを中断させた。
「もう、いいです。聞きたくありません。……私の事は気にして下さらなくて、結構です。」
 吐き捨てる様に言われ、イギリスは盛大に眉間に皺を寄せる。本当に言いたいことが何一つ伝わらないもどかしさで、苛立ちとも悲しみともとれる何かが胸の奥で突っかかり、どうにも感情が抑えられなくなりそうだった。
「そんなこと誰も言ってないだろ。」
 思わず声を荒げると、窓の外を見ていた日本の肩がビクリと震え、黒い髪が揺れた。
「悪い。……でも、信じてほしいんだ。」
 イギリスはパッと顔を持ち上げて申し開きをしかけるが、どうしたら伝わるのか分からなくなってしまいまた俯いてしまう。
「……ずっと、あなたの言ってくださった事、全部信じてきました。今もあなたのこと信じたいけど、そうしようとすればするほど、私どんどん醜くなっていってしまう。信じれば信じるだけ、嘘だったらとどうしようと思うと、怖くて……」
 どうしてこんなことになってしまったんだと、イギリスはただぼんやりと立ち尽くす。これ以上聞きたくなかったが、ここで終わらせたくも無い。日本は深く俯くと、線の細い肩をカタカタと震わせ、紡ぐ声まで微かに震えているのだが、その表情は見ることさえ許されないのだ。
「……ごめんなさい。あなただけのせいじゃないのに、こんなに責めてしまって……」
「お前のせいでは、無いだろ。」
 日本の言葉に、すぐそう返すと彼女は軽くフルフルと首を振る。それから酷く掠れ、震える声色で言葉を紡いだ。
「だって、私がこんなだからイギリスさんは愛想を尽かしてしまったんですよね。……昔からどれだけ頑張っても、私じゃダメなんです。みんなに迷惑をかけてばかりで…いっそ、私…」
 最後にポツリと付け加え様とした言葉に、イギリスは思わず身を乗り出し肩を掴もうと腕を伸ばした。
「お前っ、お前が階段から落ちたって聞いて、どれだけオレが心配したと……」
 ギリシャに嘘を吐かれたあの瞬間の、まるで気絶する瞬間の様な気の遠くなる絶望感を思い出し、イギリスは半ば怒りで感情が高揚していくのを覚える。グイッと、日本の怪我をしていない方の肩を掴み引くと、彼女の黒い瞳と久しぶりに向き合った。するとその黒い瞳も頬も涙で濡れ、目とその大きな目の下は痛々しく赤く染まっている。そしてイギリスと向き合ったその瞬間にも、またボロボロと涙を零した。
 う、とイギリスは思わず声を洩らして戸惑ってから、腕を伸ばして日本を、ほとんど意図する間もなく抱き締める。相変わらず小さな体は、簡単に胸に納まってしまう。
「いやっ、離して下さいっ」そういって精一杯腕の中でもがく日本を、更に強く抱きしめる。
「すまない。悪いのはオレだけだから、お前には一つだって非なんかない。」
 ベッドにのしかかり、ふとおとなしくなった日本の首筋に顔を埋めると、黒髪から懐かしい彼女の甘い薫りが香った。
「……もう二度とそんな顔させないから、傍に居てほしい。」
 クスン、クスンと鼻を鳴らす日本を抱き締めながら、なぜだか気が遠くなる心地がした。
「嘘」微かに震える日本の声を聞き、彼女の首筋に顔を埋めたままフルフルと首を振る。
「嘘じゃない」
 イギリスがそう言い切るのを聞き、日本が「ふっ」と声を洩らし、泣きだす。その背をそっと撫でてどうにか落ち着かせようと出来るだけ優しい声をかける。
「……ごめん、悪かった。」
 そう言ってからしゃくりを上げて泣きだした日本から少し体を離し向き合い、濡れたその頬を手で包んで涙を拭う。
「ホントにお前一人だけだから……許して、くれないか……?」
 ゆったりとした口調で尋ねると、戸惑う様に彼女の瞳がゆれ、日本は目蓋を伏せて困り口籠もった。
「でも、私、ギリシャさんと、その……あなたの事、忘れられると思って……」
 眉を歪めた日本の大きな瞳からまたボロボロと零れていく透明な液体を、イギリスは自身の袖でそっと拭いながら、思わず自嘲気味にその頬を緩める。
「知ってる。」
 そのイギリスの返答に驚き、日本は顔を持ち上げて小さく首を傾けた。
「日本が、もうそんな事しないって言うなら、オレはそれを信じるから。……だから、っていうのは虫が良いかもしれないが、オレの事ももう一度信じて欲しい。もう何も嘘は吐かない。秘密も持たない。」
 日本は息を漏らし、きつく結ばれたその瞳からまた涙がボロボロとこぼれ落としながら、一つ頷いた。震えた細い腕が伸ばされ、イギリスの胴回りに回されるとギュッとしがみつく。
 イギリスはそっとその頭に手を置き、滑らかな日本の髪を優しく撫でると、「ごめんなさい」と呟くくぐもった彼女の声が聞こえる。頷く代わりに自分も日本の肩に腕を回し窓から外を見やると、薄暗くなった遠い空の向こうから、目も痛くないほど微かなオレンジの光りを見つけた。
 深い深い海底から、まるで二人きりで明るい世界を見ているような、そんな錯覚を覚える。