魚の泪

現代パラレル 女体化 オレンジデイズ(笑)
 
 
 
 ギュッと目を瞑った日本の顔に、何か生暖かいものがビシャリとぶつかり、驚いてそっと目を開けると逆行の中に見慣れた影が立っていた。日本はそっと自身の顔にぶつかった生暖かいものを震える指先で拭って目の前に翳すと、それはべっとりと張り付いくぬるぬるとした血液だ。
「……日本、大丈夫あるか?」
 影が、兄が微かに微笑むのだが、その手に持たれた木片にベトリと血液が付着しているのに気が付き、思わず息を飲み込む。体が震え、指先が酷く冷たくなってしまった。どうしてこんな所にいるのか、土手の下で肢体は泥と自分の小さな切り傷の所為で出た血が付き、セーラー服も汚れてしまっている。
「兄さん?」
 そっといつもと同様にそう呼びかけるのだが、彼はいつもと違う思わずゾクッとする様な笑みを浮かべ、しゃがみこむ。よくみると兄の顔にも血が少々付いていた。
「お前は我が守ってやる。これからも。」
 日本はそこでやっと周囲に目線をやり、そして伏し目がちのその大きな瞳を更に大きくさせ、息を飲み込んだ。そこには、見知らぬ人が三人、所々怪我を負い、血を流して倒れていたのだ。思わず小さく悲鳴を上げ身を竦めると、中国はそっと身を屈めさせて日本の肩を抱き寄せる。
 震える日本の体を抱きながら「兄ちゃんがずっと傍に居てやるから」と宥める中国に、遂に「それは違う」と、どうしても言えずにただただ夕日が沈むのを崩れる視界で眺めた。
 
 
 
  魚の泪
 
 
 
 大学四年生、もう周りはとっくに就職活動を始めているというのに、部屋でぼんやりと煙草を吹かしながら正面に座るフランスを見やりイギリスはその日もつまらなそうに溜息を吐いた。もうずっと前、ヤンキー卒業からずっと禁煙していたというのに、最近留守電に入っていた懐かしい兄の声の所為でなんとなく手に取ってしまった。日本が来る時までには臭いを消さなければ、と眉間に皺を寄せながら考える。
「で、お前はどうする訳?」
 元々フランスはそこそこ有名な某雑貨ブランドの跡取り息子である訳で、しかも自身と違って家に入ることに何等戸惑いもないのだから、当然この時期になっても暢気を通しているのだ。
 イギリスは空中を見上げ、最後の一本と決めていた煙草を灰皿に押しつけながら煙を吐き出す。それから小さく眉間に皺を寄せた。
「……決めてない」
 そうイギリスが呟くと、真ん前に居たフランスが笑い声を交えながら鼻を鳴らす。
「もういいじゃねぇか。戻ってこいって言ってるんだろ?」
 フランスがそう言いながら手に持った雑誌を捲るのを横目で見やり、イギリスは「んー」と気のない声を出し、また窓の外に目線を送る。本当の事をいうと、もう思考はその問題から離れ、今日これからバイトに向かい、バイトを終えて帰ってきたら日本が合い鍵で中に入ってご飯を作ってくれているだろう、という事にしか頭が回らなくなっていた。
 
「ただいま帰りました……」
 開けた扉から控えめな声と、恐る恐るとした動作で家の中を覗き込む。と、まだいつもだったら低血圧の兄が起きてはいない午前の時分だというのに、玄関先に彼は仁王立ちで立っていて、酷く日本を驚かせた。
「に、にいさん……起きていたんですか……」
 額に汗を垂らしながら日本はそう言うと、中国は意外にも怒ることもせずに唇を尖らせて少しだけ目を細める。
「……お前に手紙が来ていたある。」
 日本が立ち上がるのを手助けしながら、手紙を差し出す。日本は不思議そうにその手紙を受け取り、少しだけ瞳を大きくさせた。
「お前ももう四年生あるね……」
 ポツリと隣で呟いた兄の顔を、驚いて日本は見やると眉をそっと歪め、俯く。
 
 グッタリとしたイギリスの隣で苦笑を浮かべつつ、日本は濡らしたハンカチを差し出す。ベンチには二人しか座っていないし、周りは全員遊ぶことに夢中でコチラに目を向けていない。
「……乗れて良かったな」
 顔を青くしながらも目線を上に持ち上げイギリスがそういうと、日本はふっと笑い「はいっ」と大きく頷いた。
 今日は遊園地にやって来てのだが、存外車椅子の人も多いしそう目立つことも無く、その上最近は大抵の乗り物にも乗れる。故に絶叫系が弱いことが否が応でもバレてしまいベンチでぐったりとしている訳だ。
 車椅子を脇に置き、並んでベンチに座りながらぼんやりと周りの人達が楽しそうに遊んでいる様子を眺めているのも、それはそれで今だからか、結構楽しい。
「イギリスさん、もしお辛かったら横になって下さい。」
 そう言う日本の顔を見やると、若干気恥ずかしそうに頬を朱くさせ自身の膝の上に乗せていた手をどかす。一瞬戸惑って動きが止まってしまったが、無言のまま頷くとゆったりと体を横たえ、彼女の膝の上に頭を乗せた。
 そんな事で今更……なんて思われるだろうけれど、それでも体温が上がっていってしまうのだから仕方がない。彼女が手に持っていた冷たいハンカチを、そっと自身の額に乗せ、その細い指が髪を梳く。
「……また来ような。」
 彼女の顔が見えないままそう呟くと、少しの間があってから「はい」と返事をする声が聞こえた。
 
 最近実家に顔を出したりと忙しく、遊園地に行ったきりあまり日本にも会えなくて、ベッドに横になったまま携帯電話に手を伸ばしながら目を瞑った、その時、バイブ設定にしている携帯電話が突然震える。
 体を起こして慌てて画面に目をやると日本からで、直ぐに耳に当てて電話に出る。が、なぜか声を掛けても暫く沈黙があった。
「……日本?」
 訝しげにイギリスが呼びかけると、やっと電話の奥で彼女の声が聞こえる。
『あの……私達、もう会わない方がいいと思うんです。』
 一瞬日本の言葉が飲み込めずに、イギリスは体を起こすと額に手の平を押し当てて眉間に深い皺を寄せた。もう片方の手で煙草を探すが、煙草なんて吸っていたら話せない事に気が付き諦める。
「なんの話だ。」
 あまりにも突然だったというショックに加えて疲れていることもあってか、若干苛立たしげにイギリスがそう返すと、日本はキッパリと言う。
『そのままの意味です。もう、別れましょう。』
 思わず立ち上がり床を歩き、ソファーに身を落とす。無意識にトントンと床を足で苛立たしげに音を立てていたが、それを止めない。
「……会って話そう。」
『いやです』
 彼女の声が軽く震えている事の意図を読み取ろうと、イギリスは一度強く目を瞑る。
「それじゃあ今からオレがそこに行く。」
 カタリと、落ちつき無く立ち上がると、壁に掛かった時計の下まで行き今の時間を確認する。まだ電車も動いている時刻だし、彼女の返答次第で半ば本気だった。
『……分かりました。では今度会いましょう。』
 
 ファミレスの一席で、周りばかりが楽しそうに話をしているのを聞きながら、イギリスと日本の合間には嫌に重い沈黙ばかりが横たわっている。伏目がちに俯く日本の前に、イギリスは眉間に皺を寄せて顰めっ面をしていた。
「で、どういう訳だ?」
 イギリスはそう促すと、日本はイギリスから目線を外したまま口を開いた。
「もうすぐ卒業ですよね?イギリスさんは自身の会社に入りますし、そしたらあまり会えなくなります。それにそうなったら、もう遊んでなんていられなくなります。」
 日本は小さな声でそう言うと、イギリスは細めた瞳を持ち上げて半ば睨む様に日本を見やる。
「完全に会えなくなる訳じゃ無いだろ。」
 頼んでおいた飲み物をウェイターが置いていくが、重苦しい雰囲気はまるで変わらない。日本は俯き、イギリスにはその表情を確認することさえ出来ない。
「……ちゃんとした理由を言え。」
 イギリスは眉間に深い皺を寄せて、苛立たしさをその表情一杯に出す。そこでようやく日本は顔を持ち上げて、キュッと日本は眉を持ち上げて真っ黒な瞳でイギリスの顔を見やる。
「私、もうあなたの事好きじゃ……」
 そこまで言って日本の瞳が潤んで今にも零れそうになり、また俯き表情が分からなくなってしまう。兎に角彼女が今言わんとしていた事が嘘だという事は、分かった。
「イギリスさんと会ってから、私凄く楽しかったです……だから……」
 語尾を震わせて良く聞き取れなくなってしまった声で日本がそう呟くのを、イギリスは少しだけ瞳を大きくさせて俯いてしまった日本を見やる。イギリスは一度も手を付けなかったお茶をそのままに立ち上がると、日本の肩に手を置く。
「日本、店を出よう。」
 ビクリと小さく体を震わせた日本は、長い髪を伴わせて小さく首を振る。
「……ここで終わりにしましょう。」
 すん、と鼻を鳴らしそう言った日本の横でイギリスは顔を顰めて、誰も座っていなかった日本の隣りの席に座る。日本は目線さえ上げずに、強く自身の下唇を噛んだ。
「イギリスさんは、働き出したら私に構っている暇なんてなくなりますし、いつまでも私と一緒に居るっていう訳にはなくなりますよね。」
「自分の事は自分が決める」
 俯き頬に掛かった彼女の髪を掻き上げその表情を見やると、彼女の赤くなってしまった瞳が戸惑い勝ちに持ち上がり自身を見やった。それからスン、と小さく鼻を鳴らす。
「でも、イギリスさんは会社を後々は継ぐことになるんですよね?そしたら、きっとあなたにはもっとふさわしい方が見つかります。」
 日本が軽く震えた声でそう言うと、イギリスはみるみる顔を顰め、その眉間の皺を深くさせ顔に陰を落とす。
「……誰の入れ知恵だ?」
 低い声でそう問われ、今まで聞いたこともない程怒りに満ちたその声色に、日本はイギリスを見やっていた黒い瞳を軽く震わせた。そしてまた眉を歪め視線を落としかけ、どうにか留まりイギリスを見やったまま口を開く。
「自分で出した答えです。」
 キッパリと言われた一言に、思わずイギリスは机の上に置いていた手をギュッと握り、声を荒げる。
「じゃあなんでオレが最終的には会社を継ぐことまで知ってるんだよ!?」
 思わず大きな声が出て、周りで楽しそうに話しをしていた人々の会話がピタリと止み視線がコチラに向けられるのを感じるが、今はそれどころでは無い。
「それは……確かにあなたのご家族の方から手紙を頂きました。だけど、最終的に決めたのは私です。」
 イギリスを見やっている日本の瞳があまりにも真剣で、言葉を探しあぐねイギリスは結局言葉を見つけ出すことが出来ずに、口を噤んだ。泣き出してしまいそうな程に胸の奥が騒いでいて、何を言っても途中で途切れてしまいそうだった。
「私、沢山夢を見せていただきました。でも、このままだと二人とも嫌な思いをすると、私には思えてなりません。」
 俯いてしまった彼女の瞳はどうやってももう自分を捉えることは無さそうな気がして、イギリスは諦め日本から視線を外すと頬杖をつく。確かに家族が交際を許してくれるとは思えないし、彼女の言うことにも一理あるのかもしれない。このまま付き合っていても、彼女に不快な思いをさせてしまう事が、多々起こってくるだろう。
「……家まで送る。」
 立ち上がり明細を手に取り、隅に置いていた車椅子を引き寄せながらそう言うと、日本は驚いたらしく弾かれた様に顔を持ち上げた。
「お前の言いたいことは分かった。……別れよう。」
 イギリスはそう言うと、様子を見るようにジッと日本に顔を向ける。黒い瞳は微かに揺れるけれど、コクリと一つ頷くとイギリスが差し出した手を取り、立ち上がった。
 
 もう二度と歩くことは無いだろう、彼女の家へと続く見慣れた道のりを互いに無言のまま進み、やがて日本宅の門前までたどり着いてしまう。門を開け玄関先まで車椅子を押していくと、扉の前で止めた。
 彼女の前に回り、しゃがみ込んで視線をピッタリと合わせると、軽く頬を緩めてその黒い瞳を見やる。目が合った瞬間、緩めていた頬が強張り、笑顔なんて作れないと思い知る。
 腕を伸ばして彼女の小さな体を抱き寄せると、暖かな体温が伝わり、それと同時に微かに震えている事に気が付いた。否、震えているのは自身かもしれない。
「……今日一日だけでも」
 そう懇願しかけて、言葉は途切れて無くなってしまう。胸の中で日本が微かに首を振り、自分を見上げてふんわりと泣き出しそうな顔のまま、微笑んだ。
「もう、さようならです。」
 小さく囁かれたその言葉は、掠れていて今にも崩れてしまいそうだったのに、そこに居る彼女はいつもどおりふんわりと微笑んでいる。体を乗り出してその両頬を包み、いつもより幾分も軽く触れるだけのキスを一つ落とし、立ち上がった。
「じゃあな。」
 別れの挨拶としてはあまりにも素っ気ない一言だけれども、言い放つのに胸がつかえて上手く言葉になり損ねかける。
 日本は立ち上がったイギリスに真っ直ぐ視線をやり微笑んだまま、「はい」と頷くといつもの別れの様に、イギリスがいなくなってしまうまで見送るつもりらしく動こうとはしない。
 暫し立ち竦んでいたけれど、やがて踵を返して歩き出すと今度は考えが止まらなくなり、家に帰るまでの道のりさえどこをどう歩いたかすら、家に帰ってからは思い出せなかった。ただただ、彼女と過ごした日々の思い出しか、今の自身の中から出て来ないだろう。
 
 ガチャリと扉を開けると、奥の部屋からパタパタと兄の足音がし、コチラをひょいっと彼が見やった。
「今日は早かったあるな。」
 優しい口調でそう言い、笑いながら日本の腕を取って立ち上がらせてやる。一瞬無表情だった日本の瞳から、腕をとられて立ち上がった瞬間涙がボロボロとこぼれ落ちた。
 別段何があったかなんて説明していないのに、中国は日本の頭に手を乗せると、抱き寄せて撫でてやる。
「今日はお前の好物を作ってやる。」
 優しい声が頭の上から降ってきて、日本は涙を零したままふんわりと微笑んだ。
 
 会わなくなってから何ヵ月も経ち、卒業式でも彼女と話す事はなく、遂に社会人としての生活を始める事になった。通いはじめれば最初は忙しく思えたけれど、慣れてしまえば忙しいけれどその生活のせいで彼女の事を考える暇さえ無く逆に有り難い。
 ある日会社に行く前顔を洗い水滴を拭った時、顔を持ち上げた鏡の中の自身の髪が、窓から射し込む朝日でキラキラ光った。瞬時、彼女が自分の髪はまるで魚の鱗の様だと微笑んだ事を思い出した。
 冷たい水の中を傷つきながら泳いでいる魚だからこそ、美しく光のだと言っていた。だったら自身には彼女の方が何倍も綺麗だろうと思える。あのサラサラと揺れる髪も、自分を見上げる黒い瞳も、言葉の一つだって忘れてなんていないし、もう忘れることも無い気がする。
 そんなこと無いと、フランスは笑って言ったけれど、今は確信さえ持てる。だからといって会いに行く、なんて訳にもいかない。
 人が沢山立った駅の中にもまれて、イギリスはぼんやりと前を向いたまま立っていた。と、ここより人が少ない向き合った反対の下り線オームに、見知った姿を見つけ、思わず目を見開いた瞬間、電車が自身と彼女の間を遮るように向こうから走ってくる。
 イギリスは突然自分の視界を遮った満員の電車内を、扉が開くのと同時に掻き分ける様に進み反対側の窓に張り付いた。非難の視線を背中に感じるが、そんなことどうでもいい。
 薄汚れた電車の窓から見えた彼女は、白い顔に黒い髪、愛らしい顔で相変わらずひどく目立つ。その黒い瞳も、自分をまっすぐに驚いた様子で見ていた。遠く離れているけれど、なぜかハッキリと彼女の様子さえ見える。
 窓に張り付いたまま、彼女の名前を叫びたい衝動にかられた。一言でもいい、昔みたいに話がしたい。けれどもそんなこと当然出来ず、ただ発進される電車の中で、次第に遠ざかり姿が徐々に小さくなる彼女を見つめた。
 ホームに座ったままぼんやりとこちらを見ていた彼女の唇が動き、自分の名を囁く。勿論聞こえた訳ではないけれど、何度も見た唇の動きだから、間違える訳が無い。
 もうその姿が完全に見えなくなった後も、窓に手を置いたまま立ちすくんだ。甘い香りが鼻孔を擦った気がして、かたく目を瞑った。
 
 電車の心地よい振動に揺らされ携帯を片手に握り締めたまま、イギリスはどうする事も出来ずに相変わらず窓辺で俯く。今更連絡を取るわけにま行かないけれど、今見てしまった姿が頭から離れなくなってしまっていた。
 なんであの時、忘れられるなんて思ったのだろうか。こちらを見上げて笑った顔が、一度でも手に入れられたなんて今だに信じられない。
 会いたいと、今すぐにでも彼女に伝えたい。固く拳で握られた携帯電話を見下ろし、イギリスは一度溜息を吐き出すと、祈るような形で携帯を額に押し当てて目を瞑る。
 今更連絡をとったところで、彼女の迷惑になるだろうし、もう自分の代わりが居るかも知れない。それに今彼女と会ったところで、一体自分がどうしたいのか分からない。
 けれど本当は、知っている。ちゃんと知っていた。
 
 向かい側に居た電車を見送り、日本は瞳を真ん丸にしたまま暫く固まってしまい、動けなかった。後ろに居た駅員に「電車が来ますよ」と声を掛けられ、ようやく我を取り戻して頷く。
 彼は……イギリスは電車の中から確実に自分を見ていた。あの緑色の双眼が真っ直ぐに自分に向けられていたし、勿論声など聞こえないのだが、確かに必死めいた様子で自身の名前を呼んだ。
 微かに震える手で車椅子を動かしながら、日本は俯き携帯電話の入っている鞄に目線を落とす。
 けれど今更、こちらから別れ話を切り出したのにどうして連絡などとれるだろうか。それに自分が居たら彼の家族にも今の生活にも悪影響を及ぼす事は、ちゃんと理解したつもりだった。
 少々人の少ない電車の端にポツリと車椅子に座ったまま外を眺めながら、本当は酷く悔しくてたまらなかった事を不意に思い出した。幼い頃からずっと諦めていたのに、本当は悔しくて悔しくてたまらなかったのだ。
 兄は「兄ちゃんがずっと傍に居てやる」と言ったけれど、自分はいつか自分で立ち上がる事を望んでいたのだ。兄には言えなかったけれど、周りには馬鹿げていると言われそうだけれど、本当は彼との未来に、少しだけ希望を持っていた。
 知らずに視界が掠れて、いつの間にかポロリと涙が零れた。驚き慌てて鞄の中を探りハンカチを取り出そうと下を向いたとき、ボロボロと涙がこぼれ落ちてしまうものだからハンカチを探すことさえ諦め、顔を覆って声を出さないように泣き出してしまう。
 電車の窓の外から、溢れんばかりの光りが自分を照らし出すのを感じるのに、顔を上げることが出来ない。どんどん自分だけが、海の底にでも落ちていく様な心地を覚えた。
 
 なんとなく足が向いてしまったというだけで、家族連れや恋人達が居る中で、酷く場違いな心地を覚えながらイギリスは目の前の巨大な水槽を見上げる。大きなマグロがまるで切りもなくクルクルクルクルと水槽の中を、幾重もの光りを作り出しながら泳いでいた。
 折角の日曜日、朝起きてから敬遠している筈だったこの水族館……日本と二人で来た事のある水族館に足を向けてしまったのだ。たった一人で来るところでは当然無く、周りの人々との温度差が痛くてひたすらキラキラ輝く魚の鱗の光りを見上げて歩く。
 館内は薄暗く、当然のことながら前に日本と二人で来たときからそんなに変わっては居なかった。それなのに二人で訪れた事自体がずっと過去の出来事だった気がして、魚を見上げるイギリスは軽く目を細める。
 そうしながら巨大な水槽の横を歩いている時、ふと目の前に見えた姿に思わず足と息を止めて立ち竦んでしまう。水槽の青い光りに照らされて、彼女は先程までの自分と同様に水槽を見上げていた。
「……日本」
 名前を小さく呼びかけると、水槽をジッと見上げていた日本は驚き、イギリスに目線をやり瞳を大きくさせる。一瞬固まったけれど、日本は頬を緩めてフッと微笑んだ。
「……お久しぶりです。」
 そう挨拶をして車椅子に手を当ててその場から去ろうとした日本の車椅子の柄を思わず掴み、逃げようとするのを掴まえる。
「一人か?」
 そう声を掛けると、日本は黒い瞳を揺らして泣き出しそうな顔で暫く黙った後、小さくコクリと頷いた。それから微かに震えた声色で
「この間イギリスさんの事お見かけしたので……ここを思い出してしまいまして。」と呟く。
 俯いた彼女の瞳が動揺で揺れながら、全く自身を見ようとしない様に意図している事がはっきりと分かる。イギリスは思わず口を噤んだままその姿をジッと見つめ、掛けたい言葉さえ見つからない。
「あの……もう失礼します。」
 完全にイギリスに背を向け、微かに体を震わせている彼女のその姿を見ながら、その後ろ姿が思い出より更に小さくなった気がしてイギリスは抱きしめたい衝動に襲われる。が、伸ばしかけた手をギュッと握りしめると、水槽の奥に目線を泳がせた。
「少し、話をしないか?」
 イギリスのその言葉に、日本はハッと目を大きくさせて彼を見上げるが、その緑色の瞳は違う方向を向いていて、意図は読み取れなかった、
「でも……」
 言葉を詰まらせる日本に、イギリスはようやく瞳を向けると小さく首を傾けた。
「少しだけでいい。」
 出来るだけ必死めいた声を出さないようにしていたのに、言葉に出すとどうしても必死めいてしまい慌てて口を噤む。と、日本は暫く視線を泳がせて悩む様な仕草をして俯き、ようやく口を開けた。
「……分かりました。」
 頷いた日本の髪がサラサラと揺れる。
 
 久しぶりに向かい合った日本の姿に、イギリスは呼び止めておいて何を話して良いのか分からずに売店で買ったジュースを一口飲み込んだ。向かい合った彼女は、別れ話をした時の様に俯き下を見やり何も言わない。
「その、変わりはないか?」
 言葉に詰まってそう問いかけると、黒い瞳を持ち上げて日本はイギリスを見上げた。
「実は……海外にいらっしゃるドイツさんから連絡が入りまして、向こうで手術をしたら、もしかしたら自分の足で歩けるようになるかも知れないらしいんです……」
 眉尻を下げた日本と反対に、イギリスは目を大きく見開いた後、パッと顔を輝かせて少しだけ身を乗り出した。
「……本当か?良かったじゃないか!」
 若干大きな声でそう言うと、周りの人と一緒に日本は驚いて顔を持ち上げ、イギリスを見やる。なぜだか泣き出しそうな顔で、黒い瞳が微かに濡れていた。
「でも、数年間向こうでくらさなければいけなくて……兄さんを一人にしてしまうし……」
 先程から浮かない顔をしている理由をその言葉で理解して、イギリスは目を小さく細めてまた俯いてしまう日本を見つめた。
「そんなの、お前が決めることだろ?お前がしたいことをすればいい。」
 そう言ってから、イギリスは思わずそれからの言葉を失い肩を落としてもう一口、甘ったるくて安っぽいジュースを飲み込んだ。日本は目を大きくさせて、今度はジッとイギリスを見やる。
「……オレは、お前と別れてからずっとお前のこと気になってたんだ。」
 ようやく目を合わせてそう言うと、日本は動揺したのか2,3度目を瞬きをさせてイギリスを見やる。
「お前と別れたこと、今でも後悔してる。」
 イギリスの言葉に日本はビクリと肩を震わせて、唇を戦慄かせ日本は再度俯きかけ、「日本」とイギリスに声を掛けられて慌てて顔を持ち上げた。何か言いたそうな顔をしているけれど、日本は何も言えずにそのまま黙り込んでしまう。
「……愛してる。今でも。」
 額に手を当てて、大きく一つ息を吸い込むと、イギリスは思い詰めた様に一言そう言って、俯いた。日本は自身も思わず本心を言ってしまいそうになって、また開き掛けた口を閉じる。今にも泣き出してしまいそうだけれど、どうにか懸命に堪えきる。
 重たい沈黙ばかりが暫く横たわり、イギリスは深緑の瞳を持ち上げて日本の顔を見ようとしかけて、やはり真っ直ぐに見えない。日本は微かに震える手の平をギュッと握りしめ、その膝の上に置いた。
「私も、今もあなたの事はお慕いしております。」
 「だったら」とイギリスが口を開くよりも早く、顔をパッと持ち上げた日本は小さく頭を振って言葉を続ける。
「でも、だからってまたお付き合いしたら別れた意味、ないじゃないですか。」
 泣き出しそうな声色に、イギリスは若干眉間に皺を寄せると、下唇をギュッと噛みしめた。彼女と別れてから、家族からは何も言われることはなかった。自分が一人暮らしをしている最中も自身を監視していたと考えると、本当に胸糞悪かったけれど、折角日本が決心した事を曲げるわけにもいかず、今でも何も言わずに生活している。
 イギリスは家庭を一切顧みない親父が嫌いだった。だからこそ、家が嫌で家を出て一人暮らししたのに、結局はまた家に戻ってしまった。それまで自分と家族がまるで当てはまらない気がして、家の中に居場所を見出せなかった。だからこそ「学校を卒業したら帰ってこい」と言われたことに、実は嬉しかったのかも知れない。
「家の方はオレが説得する。」
 キッパリと言い放たれたイギリスの言葉に、日本は驚き顔を上げると泣き出しそうな顔で首を振る。
「そんな……折角ご家族と和解出来たのに、今更私、出て行けません。」
「オレはお前の気持ちを聞きたいんだ。」
 直ぐに返された言葉に、日本は戸惑い瞳を震わせてイギリスに目をやった。ジッと自分を見つめる緑色の双眼から目を反らしたいのに、どうしてか中々離せない。ちゃんと拒絶したい筈なのに、言葉が出てこない。
「オレは、お前と一緒に居たい。ずっと一緒に、居たい。」
 強く目を瞑り、随分思い切った様にイギリスがそう言った。彼の組んだ指先が、ほんの少しだけ震えているのが見える。
 
 結局答えを出さずに、見慣れた彼女の家へ向かう道乗りを車椅子を押しながら歩いた。まるで何一つ変わっていないように、このまま学生の頃に住んでいたアパートの部屋に戻って寝れば、あの頃に戻れる気さえする。
 別れようとした瞬間、後ろから急に声を掛けられ振り返れば、彼女はあの黒い目で自分を見上げ、微かに微笑んでいる。
「今日、あなたに会えて良かったです。」
 そう言う彼女の真意は分からないけれど、イギリスは眉尻を下げて笑うと、「オレもだ」と一言告げて歩き出す。向かう場所はあの頃の寮ではなく、寮より大分広く不便でも無いし、隣りに住んでいる酒飲みが突然部屋に乱入してくる事も無い場所だ。
 それなのに、歩きながら不意にイギリスはその大学時代の自身の部屋が、恋しくてならなくなった。ずっとそのまま生きれたなら、こんな思いさえしなくても良かったのだろう。
 
 兄のお手製の料理を食べた後、いつものように二人でぼんやりソファーに座ってテレビを眺めていた。一応日本も働く様になったのだが、イギリスと会わなくなったからか、前より一緒に居る時間が長くなった気がする。
「……あの、兄さん。」
 不意に日本が声を掛けると、中国は雑誌に向けた視線を戻すこと無く気のない声で「んー?」と一言だけ返す。が、日本は中国のそんな態度はまるで気にせずに言葉を続けた。
「先日ドイツさんから手紙を頂きました。リハビリ次第で私の足、もうちょっと動くようになるそうです。」
 そこでやっと「え?」と中国は驚き顔を持ち上げ、日本の顔を見やるが、日本はわざとそうしているのか、中国と視線を合わせようとはしない。ただジッとテレビの画面を見つめ、無表情を装っている。
 ただ微かに、テレビを見つめる日本の黒い瞳だけが震えてた。
「お前……なんでそれ直ぐ我に言わなかった?」
 眉間に皺を寄せてキツイ口調で中国がそう言うと、やっと日本は中国の方へと視線をやる。眉尻を下げてやはり無表情なのだが、その目だけが泣き出しそうだ。
「だって、言ったら兄さん、行けっていいますよね?」
「そりゃあ……」言う、と中国が言うよりも早く、日本がキュッと眉を持ち上げて「だからです。」と直ぐに返した。
「歩けるようになるっていったって、たかが知れているだろうし……それに……」
 日本は手を揉んで俯くと、一度大きく瞬きをして肩を落とす。
「昔、兄さんは私に『いつも守ってやる』って、言って下さいましたよね?……それで、本当にずっとそうして下さった。」
 日本の声色が上擦り掠れ、中国は目を窄めて泣き出しそうな彼女の前に身を乗り出し、微かに首を傾げた。顔を覗き込みたいのだが、日本は深く俯いてしまっているので、中々顔をのぞき込めない。
 まだ日本が女子校の中学二年で、中国が高校一年生の時分、中国は学校で三年間風紀委員をしていた。少々手荒なことをしたりして一部から反感を買ったりもしていて、日本の元彼氏をボコッた事があるのもその一つだ。
 その時学校が近いこともあって時折一緒に帰っていたのだが、ある日いつもの様に車椅子を押しながら土手の上を歩いているとき不意に後ろから友人に委員会の事で声を掛けられた。それで不承不承日本に一声掛け、その場を離れた。
 ぼんやりと茜色の空を眺めながら日本が中国の帰りを待っていると、急にその景色がブレて「あれ?」と思う間もなく気が付けば土手の中腹でぼんやりと空を見上げている。草で切ったのか、小石にぶつかったのか、全身に小さなヒリヒリ痛む傷を持って、横たわっていた。
 結局それが後ろから押された所為だというのに、人が日本の視界の中に入ってくるまで気が付かなかった。土手の上から車椅子ごと押され、ブレーキを掛けていた所為で体が投げ出されてしまったらしい。
 中国に恨みがあるらしい事を言っていたが、頭を打ったのかぼんやりとしていてよく分からないまま腕を引っ張られ体を引き起こされ、橋の下の方へと引きずられるのが分かる。それでも足は動かないし、頭は働かない。
 と、日本が目線を上げて逆行になった一つの影を見やれば、その後ろで誰かが棒の様な物を大きく振りかぶる影を見つける。思わずギュッと目を瞑った日本の頬に、生暖かく、鉄臭い液体が飛んだ。
「あれは我の所為だったから、お前が気にすることねぇある。」
 中国がそう言うと、日本は深く俯いたままフルフルと長い髪を揺らし、首を振った。
「もっと私が、自分の身を自分で守れたらあなたにこんなに迷惑を掛けなかった……」
 日本が顔を持ち上げれば、意外にも潤んでいるだけで涙は流れては居ない。小さい頃は何でも直ぐに泣いてしまう子だったけれど、こんな時不意に、自分の知らない間に育っていく姿を見つける。
 篭に入れる様に慈しんできたつもりだったけれど、気が付けば心身ともにどんどん成長している事を、彼女自身が、一番知らないのだろう。
「私、今も昔もあなたが一番大切です。本当です。だから……私ばかり我が儘を言いたく無いんです。ずっと、あなたの役に、立ちたかったです。」
 声を張り詰めていたのだが、そう言った瞬間不意に彼女の潤んだ瞳から、涙がこぼれ落ちた。二人の前に置かれたテレビから笑い声が漏れるが、その音はずっと向こうからやってきているかの様に聞こえる。
 幼い頃にそうしていた様に、腕を伸ばして彼女の頭に手を置き、そっと撫でてやる。小さくて、華奢で、それなのにいつだって一生懸命だという事を、彼女の周りの彼女以外の人は、全員知っているだろう。中国は思わず苦笑を漏らした。
「我は別に、何か返して欲しくてお前と一緒に過ごしてた訳じゃぁないある。」
 その頭を引き寄せ、彼女の頭に頬を寄せると、右の手で掴んだリモコンでテレビの電源を落とした。急に室内は静かになる。
 亡くなった両親の分もどうにかしなくてはと、学生服のまま日本の学校イベントなんかに出たこともあった。それが日本にとって本当に嬉しい事かなんて、本当はいつだって不安だった。
「お前はお前の幸せを見つけるのが、我にとっては一番ある。お前が後悔しないなら、我はなんだってする。」
 抱き寄せられた暖かな中国の胸の中でその言葉を聞き、涙ぐんでいた日本は、その瞳からボロボロと涙が零れたが、拭う事もせずにただ俯く。喉元から微かに声が漏れ、まるでずっと幼い頃に戻ってしまったかの様だ。
 心なしか日本の頭を撫でる中国の手つきも、どこか小さな子をあやしている様で、思わず日本は泣きながらも頬を緩ませる。オモチャを壊してしまい泣いたときも、転んで泣いたときも、どんな時も兄は自分を撫でてくれた。
 それから泣きやむ頃に、いつだって彼特製の暖かなお茶を一杯、煎れてくれるのだ。
 
 
 二度のベルが鳴り、彼が少々焦った声色で電話口に出た。もう二度と電話も掛けることなど無いと思っていたし、今この場でも心臓が酷く騒がしい。
『……日本か?』
 電話の向こうでイギリスがそう訪ねるから、日本は電話相手だというのに笑顔を浮かべ、「はい!」と言いながら頷いてしまう。遠くで兄の中国がシャワーを浴びている音がする。
「夜分に失礼かと思いましたが、どうしても話しておきたいことがありましたので……」
 日本が申し訳なさそうにそう言うものだから、電話口のイギリスは慌てて『いや、そんな事ないぞ』と言及した。待ちに待ったり、掛けようかと迷いに迷ったりしていた電話番号から掛かってきたのだから当たり前だ。
『それで、どうしたんだ?』
 イギリスの言葉に日本は慌てて居住まいを正して座り直すと、キュッと眉を持ち上げた。
「あのですね、私、ドイツさんの所に行くことにしました。さっき兄さんと話し合いました。これもイギリスさんとお話ししたお陰です。」
 電話口でも、日本が彼女独特な笑みを浮かべているのが目に見える様だ。ただそれだけでイギリスの気持ちが和らいでしまうのだから、情けない。
『そうか……良かったな。』
 良かったな。と言いながら、また会えるチャンスが減ってしまうのが本当は嫌だったりする訳だけれども、いつだって自身の足の事を気にしていた彼女に自身の我が儘は言えない。
 続く日本の言葉をイギリスは待つのだが、中々言葉が返ってこず、ただ沈黙ばかりが合間に入る。思わずイギリスが声を掛けると、そこでやっと日本の声が電話を通して聞こえてきた。
「……私の足が、今より良くなったら、イギリスさんのご家族の方に認めて貰えるでしょうか?」
 思い切った日本の声が聞こえ、思わず目をハタリと大きくさせ、イギリスは手で弄んでいた雑誌が床にばさりと落ちるのを見やった。それは一体どういう意味か、その真意を聞きたかったのだが、声が中々出てこない。
 言葉に詰まって思わず小さく彼女に向かい呼びかけると、声は聞こえないが電話の向こうで日本が苦笑するのが分かった。あの黒い瞳が揺れるのを、今この場でリアルに思い出せる。
「……すみません。変な事を聞いてしまいましたよね。それでは、これで用件も言い終えましたので……」
 日本が電話を切ろうとする気配を感じて、慌ててイギリスは彼女の名前を、声を張り上げて呼んだ。一瞬間があったが、彼女もイギリスの声に驚いたのか再び電話に耳を付けたらしく、驚いた声色で自分の名前を呼ぶ。
「日本、会いたい。今お前の家に行ってもいいか?」
 終電まではまだ随分あるし、夕食はもう済んだ。少々今の家から遠いけれど、行こうと思っていけない距離では無い。
『え……でも……』と、電話口で慌てている彼女の声を無視し、コートとサイフだけを引っ掴むと玄関を慌ただしく飛び出した。
『今度のお休みの日にでも……』
 そう困った声色の彼女に「今度じゃ遅い。今家に居るよな?もう電車に乗るから、切るぞ。」と言い置き、強引に電話を切ってしまう。彼女は今、酷く狼狽しているだろう事は、確かに理解していたけれども、それでもジッとなどしていられない。
 発車しかけていた電車に飛び乗り、黒い闇が落ちている街が、各々の柔らかな家の灯りを灯しているのを横目にその家々に帰るのだろう人々が詰まっている満員電車は動き出す。
 イギリスは走った所為も少しはあるのだろう、心臓が酷く高鳴りジッとしているのが苦しくて、ただジッとその過ぎゆく家々の明かりをジッと見やっていた。いつだって、いつか自分もあの暖かな明かりが似合う家に住みたいなんて、思っていた物だ。
 
 チャイムが一つ鳴り、風呂から出たてでほかほかと湯気を立てていた中国と、先程から一切テレビの内容が頭に入ってきていなかった日本は同時に顔を持ち上げて、玄関の方へと視線を向ける。
「こんな夜中に非常識あるなぁ……」
 唇を尖らせて中国がそう言いながら立ち上がるのを日本は慌てて制して、半ば泣き出しそうな顔で「私が行きます!」と立ち上がり、玄関へと向かう。いつもだったら夜中の訪問者に日本を出す事は無いのだが、なぜか今日は日本の勢いがあまりにも凄くて、思わず中国は無言のまま頷いてしまった。
 玄関に行く合間チャイムが鳴らないのは、やはり玄関先で彼が自分を待っていてくれているからだと、そんな確信を抱きながら、酷くゆっくりと廊下を手すりにしがみつきながら日本は歩く。一人で歩くと凄く短い廊下さえ、今はどこまでも続いている様な錯覚を覚えた。
 玄関前で一つ大きく息を吸い込んでから、そっと玄関の鍵に手を掛けた。完全に開けて軽く扉を押した瞬間、グイと力強く扉が引かれ、自然扉に体重をかけて体を支えていた日本の上半身は大きく揺らいでしまう。
 が、開け放たれた瞬間、誰かが倒れかけた日本の体をギュッと抱き留めて日本の体が倒れてしまうのを防いだ。懐かしい薫りと目の端で揺れる金髪を見つけて、日本は分かってはいたのに思わず目を大きくしてしまった。
「オレにとっては、お前程完璧な人間はいない。」
 彼の小さな、掠れた声色が耳元で聞こえ、走ってきたのかその肩は微かに上下している。その瞬間、どうしてか不意に日本は自身の視界が歪み、また泣き出してしまいそうな予感を覚えた。
 強く抱き留めてくれる彼の腕を背中に感じながら、日本も腕をイギリスの背中に回して、震えそうな、懸命に耐えている足を支えてやる。
「私に言って下さった事、信じてもいいですか?……ずっと一緒に、居たいって……」
 耐えようとしていたのに、自分の声が上擦りまた涙が零れてしまう。開いたままの扉から冷たい空気が入ってきて自分の顔を強く吹いていくけれど、それでも顔は酷く熱かった。
 ゆっくりとイギリスは体を離し、それでも日本をきちんと支えながら、お互いの顔を合わせる。イギリスは、走ってきた所為か若干顔を赤くして、それから眉尻を下げて笑う。そしてその手の平が日本の頬を拭った。
「オレは、お前が望むならいつだってお前の足になる。帰ってきたら、結婚しよう。」
 目に一杯の涙を溜めていた日本が笑うのと同時に、またその涙が白い頬を伝った。それからまたキュッと体をイギリスに引っ付けると、頬をイギリスの胸元に寄せる。
「……はい。」
 涙でちゃんと言えたか良く分から無いながらそう言うと、暖かな手の平が自分の頭に降ってくる。先程自身を撫でてくれた兄と同じ手つきで、その暖かさから優しさが滲み込み自分の心を温めてくれるのが分かった。
「ダメでも帰ってくればいい。オレはお前が居ればそれで良いから。」
 優しい声色に、日本はただコクコクと頷き、背に回した掌でギュッとイギリスの服を掴んだ。開いた扉の向こうで、オレンジ色の大きな月が優しい色で光っていた。  
 
 
 
 
 会社が終わるといつも飲み等に一切参加せずに帰って行く彼を、誰もが付き合いにくい奴だと例えていた。仕事中だっていつも真面目で怒った顔ばかりしているし、笑顔で冗談を言っているのもあまり見たことがない。
 そんな中誰かが言った。「愛妻家らしいですよ」と。そしてそれこそ冗談だろ、と、一同が酒屋で大爆笑している頃、当の本人は帰り道を足早に歩いていた。
 
「林檎、安かったから買ってきた。……オレが食いたいから買ってきたんだぞ。」
 イギリスが自分の言葉に慌ててそう付け足すと、玄関先で、まだ杖は手放せないけれど、それでも一人で立っている日本は黒い瞳を細めて笑う。
「分かってます。……良い匂い」
 赤い林檎に鼻先を近づけて彼女がふんわり笑うのを、玄関前に立っていたイギリスは、室内を飾る柔らかな色と夕食の薫りを感じながら頬を緩め、見やる。
「……ただいま」
 後ろ手に扉を閉めながらそう言うと、林檎の袋を抱えて微笑んだ彼女が顔を持ち上げ、イギリスを真っ直ぐに見やって笑う。
「おかえりなさい」    
 
 
 
 
 お わ り !なげえぇ!!