魚の泪

現代パラレル 女体化 オレンジデイズ(笑)
 
 
 
 クシュン、と一つくしゃみをした後、横に置いておいた市販の、あまり香り高くない紅茶を啜った。昨日の所為で風邪を引いたかも、と、軽く眉間に皺を寄せながらイギリスは考える。
 昨日、まさしく日本と二人きりで水族館に行く、なんていう、世間一般ではまるで『デート』と呼ばれそうな事をしてしまった。これで風邪を引いても、いっそ本望な気すらする。そうイギリスは一人ニヤニヤしながら読んでもいない本に目線を落とす。
 暫くそうした後、もう一つクシャミをした直後、すぐ前でもう大分聞き慣れた声がした。
「どうしたんですか?もしかして昨日の所為で風邪を……」
 日本の、柔らかいその声色にパッと顔を持ち上げると、そこには心配そうに眉を曲げた彼女と、相変わらずまるで感情が読めない不機嫌顔のドイツが彼女を支えて立っている。
「いや、たいした事じゃない。」
 首を振ってそう答えると、それでもまだ心配そうな気配をさせながら日本は軽く首を傾げた。綺麗な黒い髪がその動作につられてサラサラと揺れる。
「……あの、もしよろしかったら次の授業開始時間までご一緒してもよろしいですか?」
 小さく首を傾げたままの彼女にそう問われ、考えるよりも早くに大きく一度頷いた。
「……じゃあ日本、後で迎えに来る。」
 一瞬沈黙してからドイツは淡々とした口調でそう告げ、イギリスの真ん前の椅子を引っ張り出して日本が座るのを手伝う。慣れた様子に、思わずイギリスはジッと見つめたまま動けない。
 
 教室に向かって歩いていくドイツをジッと見送った日本がイギリスと向かい合うのを待ち、口を開く。
「ドイツとは……いつからの付き合いなんだ?」
 どういった関係なんだ、と聞きかけて止めた。知り合ってまだ数週間で、あまりにも馴れ馴れしい気がしたから、口から出た問いは若干遠回しになってしまう。
「ドイツさんは、私が小さい頃から通っている病院の院長さんの一人息子さんなんです。だから、幼い頃から知り合いでした。」
 そう笑って言う日本に、彼に対する感情を聞きたいのに聞けずまた紅茶に手を伸ばした。と、日本が顔を持ち上げてその紅茶に目線をやる。
「紅茶、お好きなんですよね。イギリスさんいつも紅茶の良い香りがします。」
 良い香りならお前には負けるよ、と内心呟きつつイギリスも真っ直ぐに彼女を見返した。
「私も紅茶好きなんですが、あまり自分だとうまく煎れられないんですよね。」
 どうしてかなぁ。と呟き、先程ドイツが教室に向かう前に置いていった真新しいお茶の湯飲みに、そっとその朱い唇を押し当てる。
「紅茶を煎れるにも色々手順があるからな。今度教えてやろうか?オレの部屋になら葉も揃って……」
 そこまで喋っておきながらふと壮大に後悔をした。いくら自分の得意分野の話題だからといって調子に乗りすぎた、と思わず額に冷や汗を掻きながら言葉を探す。いきなり部屋に誘われたら鈍感な彼女も流石に引くだろう。どん引きだろう。と、青くなるイギリスをよそに、一瞬キョトンとした日本はまた笑う。
「そうですね。いつか教えてくださいね。」
 そんな本気か社交辞令か分かりにくい言葉を言って、また湯飲みにそっと唇を当てた。
 
 
 
 
 魚の泪  
 
 
 
 初めて見た時はどう思ったかだなんて覚えていないけれど、彼女は泣きもせずちょこんと車椅子に座っていた。たった一人きりで病院内に残されて、これから此処で暮らしてください。なんて言われて両親が部屋から出て行ってしまったら、大抵の六歳の子供なら泣き叫ぶだろうけど、彼女はただぼんやりと白いベッドを眺めていた。
 実際両親は医者から(つまり自分の父親だ)更に詳しい事を聞いているのだろう。先程からジッと彼女の様子を扉の隙間から窺っていたのだが、恐らく酷く大人しそうな彼女は、『いかないで』というたった一言の我が儘さえ親に言えなかったのだ。
 彼女の事はずっと前から知っていた。小さな個人医院だから、入院している患者はおろか、常連さんの事なら大体知っていた。子供が出入りする様な所では無いと言われているのだが、それでも誇りに思っている父親の仕事現場は自身の興味を酷く引いた。だから自分と同い年の彼女の事は、それこそ通院する誰よりも知っていたかも知れない。ただ、話しかけたことは一度も無かった。
 今回は足の手術らしいが、詳しいことは良く分からない。恐らく、彼女自身だってあまり理解しきってはいないのだろう。それなのに彼女はやはり車椅子に座ったままぼんやりとしている。
 なぜだかこれ以上盗み見るのがいけない事な気がして、カタリと音を立ててドイツは扉を開けた。驚いたにしてはいやにゆっくりと、彼女がコチラに目線をる。
 対峙は自分達らしく、無言で始まった。ただジッと相手を観察する。
 お互いその存在自体はずっと前から知っていたのだろうが、こうして面と向かって会うのはほぼ初めてだった。口切りは日本で、ふと頬を緩めると「こんにちは」と澄んだ声で一言言った。
「……寂しく無いのか?親は帰っちゃうぞ。」
 子供だからこそだろう、真っ直ぐな質問を投げ掛けると、日本は大きな人形の様な瞳を尚大きくさせ少し驚いた様子を見せる。が、すぐにフルフルと頭を振った。
「大丈夫です。」
 そう、子供にしては嫌に力強く言った彼女の瞳は、今にも零れてしまいそうな程涙で潤んでいた。
 
 一枚の紙を見つめながら、ドイツは食堂で一人コーヒーを啜る。イタリアはまだ来ないし、日本は今週同じ授業に出ているあのイギリスという男と昼食を摂ると言っていた。
 前、イギリスと二人で水族館に行ったと聞いたが、詳しいことは聞いては居ない。ただ、どうあれ経験も警戒心も著しく他人より欠如している彼女だから心配せずにはいられ無い。
「ドーイツッ!」
 後ろからイタリアの声がし、急にガバリと抱き付かれ、慌てて手に持っていた紙を裏返す。
「……遅かったな。」
 そう声をかけると、イタリアはにっこり笑ってドイツの横の椅子に座る。
「なんか話し込んじゃってね。……ドイツ、何見てたの?」
 グイッと首を伸ばしてドイツが持っていた紙を覗き込もうとするが、ドイツは鞄の中に直ぐさま仕舞い込んでしまった。
「何でもない。日本の送りは?」
「イギリスが行くってさ。さっきそこで会ったの。最近あの二人仲良しさんだから。」
 ニコニコしながら鞄の中からパンの包みを取り出し、開けた。それから一口パクリと齧り付いた後、ジッとドイツの顔を覗き込む。
「心配?」
 もふもふパンを囓りながら尋ねると、ドイツは鋭い瞳をもっと鋭くさせてイタリアを見返した。
「なんでオレがそんな心配を。」
 そう、眉間に皺を寄せると、イタリアはクスクスと喉を鳴らしカフェオレで口内のパンを下す。
 
「日本っ」
 不意に声を掛けられ慌てて振り返ったせいかバランスを失いかけ、隣りで彼女を支えていたイギリスが腕を添えて支え直す。
「あ、ありがとうございます、イギリスさん。」
 少々頬を染めてイギリスを見上げて礼を述べ、それからそんな二人を見やっていたイタリアに目線をやって笑った。
「どうしました?イタリアさん。」
 一瞬言葉を失ったイタリアは、すぐさま笑顔を作り二人に歩み寄る。
「えぇっと……あのね、今日は帰りどうする?」
 そうイタリアが言うと、日本が声を出す前に隣りに立っていたイギリスが先に口を開く。いつもの様に涼しげな表情だ。
「今日は二限で終わりだからな、映画に行ってくる。家まではオレが送っていく。」
 特にイギリスの偉そうな口調はあまり気にならないらしいが、今日も日本と一緒に帰れないのが不服なのか唇を尖らせ眉を歪めた。
「……ごめんなさい、イタリアさん。今度一緒に紅茶の見に行きましょうね。」
 申し訳なさそうな顔で、両手を合わせて日本がそう言う隣で、イギリスが少々不機嫌そうに眉を顰める。
 
 図書館の最奥、薄暗い本棚の合間からお目当ての本を探していた時、背後からカツンカツンと靴の音が聞こえてきたのに気が付き顔を持ち上げた。と、そこには小さな窓から差し込まれる光を左側から浴びたドイツが立っている。光に当たった彼の金髪は、いっそ神々しい程に輝いていた。
「ちょっと、いいか?」
 直接話しかけられたのはその時が初めてだったろう。威圧的とも感じる程に彼の声は低く、重い。イギリスは何も答えず、かわりとでも言うかのように軽く肩を竦めて見せた。それをOKサインとみたのか、ドイツが再び口を開いた。
「もし本気では無いのなら、あの子に近寄らないでくれ。」
 いっそ懇願じみた声色の癖に、彼はその鋭い瞳をより鋭くさせてそう言う。が、イギリスはまるで気にもせずに眉間に皺を寄せた。
「なんでお前に口を挟まれなければならないんだ。」
 ムッとしてそうとげとげしくイギリスが返したものの、ドイツは相も変わらず涼しげな表情だ。
「オレが今こうしてここで医学を学んでるのも……元を正せば、日本のお陰だ。彼女のお陰で医療の現場に立ち触る程の興味を持てた。感謝をしているんだ。それに……」
 そこまで言ったとき、幼い頃の涙を目に一杯溜めて笑う日本の姿を思い出し言葉を詰まらせた。……また、あの笑顔をさせたくは無い、とその時にはなぜか言い切れずに少しばかり俯く。図書館特有のカビ臭い香りが辺りに満ちている。
「……オレは、来学期になったら留学するつもりだ。」
 それまで無表情を保っていたドイツが、ほんの少しだけ、長い付き合いの人間にしか分からない程度に表情を崩した。だが、勿論ドイツの表情の変化などまったく気が付かないイギリスは、突然の告白に、盛大に顔を顰めさせた。なぜ自分にそんな事を言うのか、到底見当さえつかないのかも知れない。
「今までオレが日本の車椅子を押してきたんだ。……これからは、お前が押してくれるのか、それを聞きに来たんだ。」
 重低音の声色でドイツがそう言うのを、イギリスは眉を潜めたまま押し黙って聞いていた。
 
 久しぶりの検診にやってきた日本を支えながら、こぢんまりとした医院の廊下を歩いていく。窓の向こうから見える木々が紅葉をはじめ、既に秋特有の侘びしさが見え隠れしていた。
 先程までいつもとまるで同じ、取り留めもない話をしていたのだが、その会話も突如途切れてしまう。ただ、日本の杖の音ばかりが廊下に響く。昔となんら変わらない場所だというのに、ただ自分が大きくなったというだけで全て変わって見える。もうあの頃には戻れないのだと、無理矢理にでも再認識させられた。
「なぁ……日本。」
 不意に名前を呼ばれ、日本がその幼い顔をドイツへと向ける。いっそ仰ぐ、と書いた方が二人の身長差からあっているかもしれない。
「なんですか?」
 いつもどおり、柔らかな口調でそう述べると、パチリと一度長い睫で縁取られた瞳を瞬きさせた。
「……イギリスの事なんだが、その……好き、なのか?」
 意を決して問いかけると、一瞬日本はキョトンとしてからまるでマンガの様に顔を真っ赤にさせ、泣き出しそうな顔で眉を歪めて俯く。
「そ、そんな……は、恥ずかしいです……」
 肯定も否定もせずにそう言って照れる彼女を見やり、不意に目に涙を溜めた彼女の幼い頃を思い出す。あれから何年も経った。あの頃と比べれば、多少足は動く様になった。が、自分が抱いている望みには到底届かない。
 自分達は年月が過ぎるその瞬間ごとに大きくなり、そしていつか限界があることに気が付かなくてはいけない。自身の体が大きくなれば大きくなるだけ、その限界と対峙し、見つめなければならなかった。
 けれど、どれだけ経っても、日本だけは、いつだって細くて小さくて、支えてやらないとならない気がするのだ。否、支えている様で支えられているのは自身の夢かもしれない。
 日本が幼い頃泊まっていた部屋の前、大きな窓の向こうでは大きな銀杏の木がその纏っていた葉を黄色に変えているその場所で、その小さな日本の体を抱きしめた。細く、力をいれたらすぐにでも壊れてしまいそうだ。
 訪れた無音の中、ただカシャーン、という彼女の杖が床に転げ落ちた音だけが響く。
「あ、あの、ドイツさん……?」
 焦って上擦った彼女の声を胸元に聞くが、日本の背に回した腕を解かずに彼女の耳元に口を寄せる。
「すまんが……暫くこのままで聞いてくれないか?」
 もぞもぞと腕を動かし、ドイツの胸を小さく押そうとしていた日本が、そのドイツの言葉に動きを止めて顔を上げた。見えたのは窓の外ばかりであったが。
「実は、留学するんだ。帰ってくるのは二年先、いや、もっと後かもしれない。」
 ざわざわと、外の木々が一斉に鳴いた他、まるで音はなにもしない。ただ、日本が「え?」と、小さく呆けた様に声を漏らす。
「来学期にはもう行くんだ。手続きは全部済ませたんだが、どうしてもイタリアとお前に今まで言い出せなかった。」
 抱き留めた日本の体が微かに震えるのを覚えながら、それでもドイツは言葉を続ける。
「向こうに行って本格的な勉強をするつもりだ。……帰ってきたら、また足を診てやる。」
 そこまで言って体を離す。と、彼女の大きな黒い瞳からボロボロと涙が零れていた。思わず言葉を詰まらせ動きを止めたドイツの代わりに、日本はゴシゴシと袖で涙を懸命に拭き取る。
「す、すみません……お祝いしなきゃいけないのに、泣いてしまって……」
 すんすん、と鼻を鳴らし上擦ったたどたどしい口調で彼女がそう泣く。
「今まで散々お世話になっていて……ドイツさんが居なくなっちゃうと、寂しいなんて……勝手、ですよね……」
 鳴き声で掠れきったそのセリフに、ハタとドイツは瞳を大きくさせる。
「いや……そう言ってもらえた方が、オレはここに居れて良かったと思える。」
 そう微笑して日本の頭を撫でると、幼い頃とまるで変わらない彼女も少しだけ頬を緩めて、微笑んだ。
 
 校門前のベンチに座ってぼんやりと空を見上げていた彼女の名前を呼ぶ。驚いてこちらに目線をやった日本は、その黒い瞳でまっすぐに自分を見やった。
「……イギリスさん」
 今日はドイツと約束をしていた筈なのに、と、表情を見やってその考えを読み取ったかの様に、イギリスは小さく肩を竦める。
「用事が出来たらしい。」
「そう、ですか……」
 昨日話した話が話なだけに、納得しきらずに日本が小さく頷く。が、もやもやとしている間もなく、イギリスに促されて事務に預けておいた車椅子の上に移動した。
 大学を出ればすぐに高いビル群があるのだが、その合間から夕日が輝いている。
「なぁ、今度の休みどこか行きたい所とかあるか?……暇だからな。」
 誘う、というには大きな態度でそう言った後、照れて付け足した言葉に日本が思わずどういう感じでクスリ、と喉を鳴らす。
「そうですね。そしたら雑貨屋さんに行きたいです。紅茶の煎れ方教えてくださるのなら、やっぱり道具を揃えないとですよね。」
 ふふふ、と楽しそうに彼女が笑うのを、思わず頬を緩めてその後ろ姿だけ見やる。白い肌の彼女を染め上げる夕日は、まるで目に刺さる様に痛い。