魚の泪

現代パラレル 女体化 オレンジデイズ(笑)
 
 
 
 早くも今学期は残りわずかと、後は12月の数日と正月明けの数日の授業が残されるのみとなった。今学期が終わり同じ授業が無くなってしまったら・・・(大学三年の今の今まで同じ授業をとったことがなかったということは、学部も違うのだし当たり前といえば当たり前。そしてまた、来学期に同じ授業をとることの可能性の低さも示唆していた。)
 イギリスは憂鬱気に玄関を出ると、それと同時に隣の扉が開き、酷く眠たげなフランスが出てくる。それからイギリスと目が合うと、重たそうにその右手を上げた。
「お前、もう二限目の授業始まるぞ」
 確か同じ授業をとっていたのに、フランスは今まさに寝起きという風体だ。
「なんだよ、お前だってちょぉっと前までは授業なんてでてなかった癖に・・・」
 顔を顰め、無精ひげが生えた顎をぽりぽりと掻く。その様子から見るに、また女でも連れ込んだのかもしれない。
「しかしアレだなぁ・・・お前、もうすぐ今学期終わっちまうなぁ」
 いやににやにやとしながら、フランスが弾んだ声色でそう言う。思わず外で軽やかに囀る鳥でさえ、その嫌味に声を詰まらせた気がイギリスにはした。
「・・・だからなんだ。休みに入るだろ。嬉しいじゃぁねぇか。」
 フンッと鼻を鳴らしてそう言うと、イギリスは無理に笑う。勿論、フランスは嫌味っぽく笑った。
「そうだ、クリスマスの休みだ。つまり、恋人の季節だな。お前はまた一人か?」
 去年のクリスマス・・・フランスは当然の様に女とで出掛け、セーシェルはバイト、あのアメリカもパーティーでいなかった。(ちょっとまて!そういえば何で俺呼ばれてないんだ!?)面倒くさい女とは付き合わない、が信条だった為か、当日に一緒に居られる人もなく、結局いつもと変わらない休日の様だった。
「お前にとやかく言われたくはねぇよ。」
 顔を思いっきり顰め、そのまま学校に向かおうとしていたのだが、フランスはニヨニヨとした笑いを絶やさずにイギリスを見やる。
「いいのかぁー?そんな事言ってたら他にとられちゃうぞぉ。」
 いやに楽しそうなフランスの声を背に、眉間に皺を寄せたままイギリスは彼を無視して歩み出す。
 最近ずっと一緒に居るし、よくメールも交わすようになった。それでもなぜか告白するとなると気持ちが折れる。どうしても折れる。立冬ということで、嫌に冷える空気の中、両手を擦りながらようやっとイギリスは真っ直ぐ前を向いた。
 
 
 
 魚の泪  
 
 
 あくびを噛み殺しながら閑散とした廊下をイギリスは歩く。大学独特なのだろう、なれ合う雰囲気がまるで無く、やはりソコはイギリスにとってはやりやすい空間ではある。と、不意に背後から聞き慣れた声で名前を呼ばれて、振り向く。そこにはハンガリーがいつもの笑顔を浮かべ、見知らぬ長身の男を後ろに付けて立っていた。
「……何か用か?」
 訝しそうにそう尋ねると、ハンガリーは少しだけその形の良い眉を歪め、困った表情を浮かべてみせる。
「ええ、こちらギリシャさんとおっしゃるのですが、訳あって日本さんを探しているらしいのです。それで、もしかしたらイギリスさんが知っているのでは思ったのですが……」
 予想していなかった人名が出てきた物だから、それまで表情を一切付けていなかったイギリスが、ふと片眉を上げた。それからハンガリーの後ろに立っている男に目線をやると、彼もフイっと顔を持ち上げて、まさしく黒曜石の様な瞳をイギリスに向けた。
「いいや、今日はまだ会ってないが……彼女がどうしたんだ?」
 顔を顰めながらそう問うと、ギリシャと呼ばれた青年は手徐に持っていた自身の鞄をゴソゴソと探りはじめ、やがて一個の携帯電話を取り出す。それは、いやという程に見慣れた物だった。
「日本、朝、家に携帯置き忘れてっちゃったの……」
 無表情で飄々とそう言った彼の顔を見上げたまま、イギリスは硬直したまま今彼の口から出た言葉の意味を汲み取ろうと必死に自身の脳内をフル活動させる。
 黒い髪、黒い瞳は彼女と同じ色だが、何から何まで彼女の親族らしからぬ風体から、取り敢えず親族という可能性は除外された。ではなぜ、突然の登場をはたした彼はなぜ、彼女の携帯をその手に持っているのか……
 ぐるぐると色んな考えが頭の中に回りすぎて、完全に固まった頭のてっぺんから煙が吹き出した。気がした。
「わ、分かった……会ったら伝えておく。」
 思わずよろける足を踏み止めて、平静さを装ってそう言うと、半ば逃げるように踵を返して自身の授業を受ける教室と反対方向、つまり見たくない存在に背を向けて足早に歩き始める。出来ることならこのままどこかに逃亡したい。
 
 と、いうかなぜ自分はその場で尋ねる事が出来なかったのだろう、と、肩を落としながら上の空で聞き続けた授業の教室を後にしながら思った。彼女が絡むと、どうにも今までの自分が保てなくなる傾向にあるのかもしれない。
 一つ、深い深い溜息を吐きながら少々離れた教室の扉を開けた。窓から正午の光を一杯に取り込んだ教室内が、ぽかぽかと暖かな色に包み込まれている。その中に一人、既に誰も居ない教室の真ん中に座った彼女、日本が、入ってきたイギリスを見つけてニコリと微笑む。
「……すまない、少し遅くなった。」
 その笑顔を見ると、どうにも頬が緩んでしまうからいけない。謝罪を述べながら教室内に足を踏み入れるイギリスに、慌てて日本はフルフルと首を振った。
「いえ、わざわざ迎えに来て下さってるのにそんな……」
 そう、困らせて俯かせてしまったのかと思ったのだが、彼女はなぜだが少しだけ下に顔を向けて嬉しそうに、照れるように少しだけ頬を染めて笑う。
「あの、今日はここでお食事にしませんか……?実は私、その、余計なお世話だったかもしれませんが……イギリスさんのお弁当、作ってきたんです。」
 酷く不安そうに、様子を窺いながらそっと上目勝ちに彼女がこちらを見やる。大きな黒い瞳と長い睫、それから白いなだらかな頬が、柔らかい光にテラされて美しく栄えていた。
 思わず見とれて固まったイギリスを見やっていた日本は、やがて悲しげに目を伏せる。そこでようやく我に返ったイギリスが若干身を乗り出した。
「そ、それはありがたく貰うが……オレが貰って、いいのか?」
 泣き笑いな表情を浮かべてそう尋ねると、彼女はそのサラサラと揺れ動く真っ黒な生糸の様な髪を伴わせて、小さく首を傾げてみせる。
「だって、イギリスさんの為に作ったから……あ、でも中身は私のと同じなんですが……」
 ちょっとまだ不安そうな色を残しながら、日本はその唇にいつもの微笑を浮かべたままくるまれた弁当包みを取り出した。細い指に持たれたその箱は、自身にとってはいっそ玉手箱か。この箱によって年を取るのなら本望か。
 わなわな震えかける腕を伸ばし、その弁当を受け取る。ずっしりした重さに、中身は煙でしたー! なんて事も無さそうだ。そしてしっかと受け取り、近場の机を彼女の座っている机に向かい合わせて、そこに座る。ここが小教室で良かったと、顔に出さずにも心底感謝した。
 と、そこで急に朝会った男の顔がちらつき、浮かべていたニヨニヨ笑いを消し去る。
「……あの、な。」
 小さくなってしまう声色でそう呼びかけると、弁当包みを解いていた日本がその顔を持ち上げた。
「ギリシャ、って誰だ?」
 日本が一度、大きく瞬きしてみせた。そしてはっきりと、そしてケロッと言った、
「お隣さんです。最近あまりお会いしてませんが……」と。
 不思議そうな様子で彼女は驚いて目を瞠るイギリスを見やりながら、タコさんウィンナーを一口噛んだ。イギリスは日本の視線から逃れるように下を向き、手渡された弁当の包みを開ける。自然緩みかける頬を引き締め、平素を装った。
「今朝会ってな、家に携帯電話を忘れていたから届けたいと言っていたが。」
 日本は箸の先を咥えたまま大きな瞳を、また瞬きさせて少しだけ首を傾げる。
「きっと兄が頼んだんですね。今日は帰る時間も分かってるからそんなに必要ないのに……」
 後半、独り言の様に不満めいた事を呟き、彼女は少しだけ唇を尖らせる。
「心配なんだろ?」
 一気に機嫌が上昇したイギリスは、いやに弾んだ調子でそう言ってから、ようやっと弁当箱のフタを持ち上げた。綺麗に並べられた、細工が沢山施されたおかずがすぐにその姿を現す。思わず、数秒言葉を全て飲み込んでしまう。
「……料理、上手いんだな。」
 前々から知ってはいたけれど、こうして並べられた品々を目の前にして思わずイギリスはそう呟く。
「それぐらいしか取り柄が無いんです。」
 瞬時、照れたように笑い、小さく俯いてしまう。その日本にチラと目線をやってから、イギリスはそっと崩さないようにこの間貰った卵焼きを口に含む。
「うまいな」
 素直にそう言うと、益々彼女は気恥ずかしそうに俯いてしまう。その姿を見やっていると、なぜだか急に今朝フランスが言っていた『そんな事言ってたら他にとられちゃうぞぉ。』という言葉が脳内に響く。
 そのせいで思わず咽せそうになるのを懸命に止めて、もう一度なんでもなさそうに彼女の名前を呼ぶ。返事をして顔を持ち上げた彼女の黒い瞳が、やっとこちらを向いてくれた。
「今度雑貨屋行くだろ?その帰りに寄りたい所があるんだが、いいか?」
 そう切り出すと、不思議そうな色を瞳に称えたまま、微笑んで彼女は一度頷く。柔らかな光を一身に浴びて。
 
 
 人のあまり乗っていない電車は心地がよい。車椅子に乗っている、というだけで意識を向けられてしまうのに、ただ田舎に向かうがらんとした電車内は、旅に向かう事に胸を弾ませることが出来る。
「イギリスさん、どこへ向かっているのですか?」
 先程から何度も尋ねているのに、目の前に立つ彼は相変わらず何も答えず軽く肩を竦めるばかりだ。どうした事か、今日はいつもより口数も少ない気がして、日本は少しばかり不安になる。ただ、胸元に抱いた先程買ったマグカップがカチャカチャ鳴って日本を安心させてくれる。
 最近よく一緒に遠出をする様になり、元来あまり家から出なかった、否、出られなかった日本にとって、嬉しくて仕方が無かった。一緒に居ると、なんだかホコホコする。
 先程駅員に行き先を告げなければならない時地名を聞いたものの、一体目的地はどこに向かっているのかいまいち分からない。目的の駅に着くと酷くのどかでここだけ時間がゆっくりと動いてるんじゃないかと、思わずそう感じてしまう。
 無言で車椅子を押し、住宅街を歩いていくイギリスを時折チラと見上げるのだが、全くその翡翠色の瞳をこちらには向けようとはしない。
 怒っているのか、と知らず不安にならずにはいられない。けれども彼が怒る理由なんて当然分からず、日本は下を向いた。第一どこに向かっているのかさえ分からないから、不安はただただ募るばかりだ。
 と、一つの角を曲がった瞬間イギリスの動きが止まる。不思議に思って日本は顔を持ち上げ、思わず小さく息を飲み込んだ。
 眼前には様々な色彩が敷き詰められた、巨大なコスモス畑が広がっている。数人の親子やカップルがベンチに座ったり、花の合間を走り回っていた。風が吹く度にそれらの花たちは一斉に首をもたげ、まるで波のように揺れ動く。
 目を瞠ったまま動かなくなってしまった日本を、怖々とイギリスは身を屈めて覗き込む。風にふかれて揺れる黒髪以外、まるで動きを止めた日本の横顔を不安そうに見やる。
 数秒固まっていた彼女は、ようやっと顔を持ち上げてイギリスを見やると、泣き出しそうな笑顔を浮かべて一言、
「綺麗」と囁いた。
 フランスが、何だかんだ言って女の子が喜ぶ場所だと言って教えてくれた、というただ一点だけが口惜しいが、それ以外は完璧だ。と、日本の声色に頬を緩めてイギリスも彼方を見やる。
 
 コスモス畑に入り込む為の通路はあまりにも小さく、その上土である為に車椅子だと何かと不便だったので、車椅子の上に先程購入したカップを置き、代わりに杖を取り出した。が、懸命に杖とイギリスの腕を掴んで歩く彼女を見やり、足元ばかり見て花など観られない事に気が付く。
「ちょっといいか、日本」
 突然名前を呼ばれて日本は驚いてこちらに目線をやる。聞き返されるよりも早く、ちょっとだけ身を屈めると、ヒョイっと彼女の体を抱き上げた。驚いた彼女の掌から杖が落ちるが、イギリスは全く気にも止めない。
「あの、大丈夫ですから……」
 顔を朱くしてそう訴えるのだが、「あれじゃあ見られないだろ」と、ケロッと一蹴されてしまう。日本は顔を朱くしたまま彼から視線を外す。見えうる限りに咲き乱れた花々が、風が吹く度に揺れ動き、まるで波だと思った。
 と、日本の存在自体に気を取られていたイギリスが少しだけ土の盛り上がりに足を取られ、軽く揺らぐ。その時、思わず日本が驚きで小さく声を漏らしてひっしとイギリスにしがみつく。その所為で、折角バランスを取りかけていたイギリスが、動揺で足下を覚束なくさせてしまった。
「きゃっ」と一つ日本の悲鳴が聞こえるか聞こえないかの瞬間、世界がひっくり返って目の前には白い雲がかかった真っ青な空が広がり、その縁を薄桃色のコスモスが飾る。
「大丈夫ですかっ?」
 イギリスの体の上に乗っかる形のまま上半身を持ち上げ、日本は彼の顔を覗き込んで慌てた声を上げる。コスモスと空の中に、不安そうな顔をした彼女が突如飛び込んだ。
 大丈夫だ、と返すよりも早くに、どうしてだか思わずフッ、と、噴き出してしまった。そのイギリスを不思議そうに見やっていた日本も、少し頬を緩めてクスクスと喉を鳴らした。
 イギリスがゆっくりとした動作で上半身を起こし、座ったまま日本と真っ直ぐに向き合う。風が吹き抜けていくと、一斉にコスモス達がザワザワ鳴き声を上げた。瞬時、クラクラするほどに、この世界が愛おしくて溜まらなくなってしまう。
「あの……あのな、日本。今日は、その、頼み事があってな……」
 笑うのを止めると、言葉をつっかえながら懸命にイギリスは言葉を紡ぐ。その合間も肌寒いが、いっそ清々しい風が吹き渡った。日本は不思議そうな表情のまま、小首を傾げてじっとイギリスの顔を見やる。
「だから……これから、長期の休みに入るだろ?」
 チラリと日本に目線をやると、ちょこんと座った彼女はその滑らかな髪を揺らしながら微笑んでコクリと頷く。
「その間、お前の車椅子をオレがさ、押してやると……いや、違う……押させて、欲しいんだ。」
 太陽が大分下がりはじめた午後の3時、その太陽に照らされて、照れて朱くなり下を向くイギリスを、日本はキョトンとしながら見つめる。彼の言わんとしている事を理解しているのかしていないのか、感情の読み取れない表情でじっと耳を傾けていた。
「つまり、その……ずっと傍に、居て欲しいんだ。……こ、こ、恋人に、なって、欲しい……」
 自信なさげな声色でそう言い切ってしまった後、若干の沈黙がはしる。下に目線をやっていたイギリスが、怖々と彼女に目線をやると、日本は完全に動きを止めていた。
「……本気ですか?」
 小さく呟かれた問いに、イギリスは先程までの弱気を吹き飛ばす様に「本気だ」と力強く言い返す。黒く大きな彼女の瞳が微かに震え、一寸伏せ目がちにさせてから、もう一度イギリスに視線を戻した。
 それから、泣き出しそうになりながら微笑む。彼女の背後に咲き乱れたコスモスが、一斉に頷く。
「私なんかで良いのなら、よろしくお願いします。」
 その花々の頷きに合わせるように、彼女がそう囁く。笑う彼女の姿が酷く美しくて、グッと身を乗り出し、触れるか触れないか程に唇を合わせた。ざわざわ、ざわざわと音を立てるコスモスの中は、まるでそこだけの世界の様だった。