正義を模索する。俺の前には素知らぬ顔をした、かの言葉が散漫して、一体どいつが本当なのか分からない。素知らぬ顔をして、そいつは平気で嘘をつくのだ。
彼女は微笑んで言った。「正義はここに居ります」と。彼女はいつだって、俺を見つめてそういうのだ。彼女は、俺が正義だと信じて疑わない。
その黒い瞳は、まるでこの世界の核。一生探しても見つからないような、黒い宝石。それが例え光を映さない瞳であり、俺の姿形を捉えない瞳であったとしても……。
光の世界
弟は父に愛された。弟は母に愛された。
俺は、誰からもそっぽを向かれた。そう思い込んでいた。
当時、父はこの国の騎士団の隊長であり、その力は絶大だった。それ故、父を成り上がりとして影で笑いながら、それでも腰を低くしてこびを売る貴族達は後を絶たない。
誰も彼もが嘘つきで、醜く、汚いと思っていた。その反面、弟と比べられて育った為のコンプレックスの所為で、既に劣等感を抱き始めていた。既にねじ曲がった性格が形成されつつあった。
そんな中、事件が起こったのはまだ幼い頃、それはまだ10歳もいかない頃だったのだろう。いつものように家族同士で付き合いのあった、近隣の令嬢である菊が遊びに来ていた。が、いつも通りそれを振りほどき、一人で町を歩いていた時だ。
「ギルベルトくん」
柔らかい声色で、幼い頃から彼女は真っ白な笑顔でそう呼びかけてくれた。それでも尚、彼女は自分の事を「可哀想」だと感じているのではないかと思っていた。
父は弟には優しいが、自身には辛くあたっていた。覚えが悪い、態度が悪い、かわいげがない、礼儀がなっていない……それは多岐にわたり、その事を知っている者達はみんな歪に笑う。自分が本当に取るに足らない人間だと思い込んでしまう程、まだギルベルトは幼かった。
「……菊、お前何しに来たんだよ」
その頃の彼女はまだ目が見えていた。爛々と輝く黒い瞳が、一心にギルベルトを見上げ、ふわふわと笑顔を浮かべている。
「あちらに綺麗な花が咲いていました」
そう言いながら彼女、菊が差し出したのは、一輪の見窄らしい花弁の小さな、白い花だった。見るなり鼻で笑い「お前にお似合いだな」と悪態をつくと、それでも菊はいつもどおり、柔らかくふわふわと微笑んでいる。
歳はいくつか菊の方が上だったけれど、お互いに幼い時分、歳などまるで関係が無かった。勿論、彼女にとったら身分さえもどうでもよかったのではなかろうか。
ギルベルトより更に小さい弟のルートヴィッヒが彼女に好意を持っていることは、傍目から見ても容易に分かった。この2人ならば将来さぞお似合いだろうと、母親達は暇つぶしにそんな噂話を楽しそうに交わしていた。
「ギルベルトさん、どこに行かれるのですか?」
それなのに、菊はいつもニコニコしながら自身の後を付いてきた。森の中や花畑、2人で猫を追いかけたり、川へ行ったり、虫を追いかけたり……。思い返せば、ギルベルトのいるところには必ず現れ、どんなに落ち込んでいても笑顔で全てをかき消してくれていた。
「……今日は街に行く」
「え、街ですか……子供だけではダメだと、兄が言っておりましたよ」
困ったように首を傾げる菊に「なら付いてくんなよ」と荒く返せば、決まって菊は慌てて付いてくる。勿論付いてくる事を知っているからこそ、ギルベルトは冷たくそう返し、後ろを振り返ることも無く歩いていく。
街は華やかな通りの直ぐ横道に、風俗店や薬などが蔓延した土地がある。それは工場と都市が非常に近くにある為、低給賃金者が働いているからだろう。菊の兄は自分達よりも大人で、既にしっかりとした体つきをしている。女達が影で騒ぐ程器量は良いのだが、少々シスコン気味なのが問題だ。彼は、こんなに幼い自分達にも目を光らせている。
いつもそんな兄に見守られている彼女も、今ばかりは独占出来る。今この時は、弟も彼女の友人も周りには居ない。午前も終わりを告げる頃、屋敷を抜け出して大通りを歩く。沢山の人間が不思議そうに2人を見やるのだが、勿論ギルベルトはそんな視線を気に掛けたりなどしないし、もう慣れっこであった。
グングン進んでいくギルベルトに、菊は必死に足を動かし付いていく。
「ま、待って下さい、ギルベルトくん!」
必死に短い足を動かしながら、彼女は声を微かに荒げて名前を呼ぶ。その様子が愛らしくて、ギルベルトは益々足を速くさせ、振り返らずにやがて大通りへと出て行く。いつもならば、少し意地悪すれば必ず振り返ったのに、この日は唯歩を進めてしまった。
後ろで何度も何度も名前を呼ばれるのは、悪い気分では無かった。今彼女が頼っているのは、自分の弟でも、彼女の兄でも無い。自分ただ1人なのだ。その思考回路から段々と自身の中へと潜り込んでしまう。そのまま暫く歩いていると、不意に体を強く後ろから押され、ギルベルトはよろけて道路の脇へと転がっていく。
瞬時に菊だろう事は理解できたのだが、菊がそんな事するとは思っても居なかった。街灯に頭を打ち付け、ほんの数秒意識が飛んだ後、人垣が目の前作られているのに気が付きふらつく足でどうにかと立ち上がる。
「……菊?」
小さな体を利用して、ギルベルトは人々の足の隙間から真っ直ぐに駆け出す。ようやく道路が目に入ってきて、そこにはまだ、あまり普及していない高級な自動車と、その前で菊がうつ伏せの状態で倒れている。
ギルベルトのまだ小さい体は大きく震え、歯の奥がガチガチ鳴り出し、うまく噛み合わなくなった。もう一度名前を呼ぶと、どうにか駆け出して菊の体を抱き上げる。細く軽いのはいつもながら、抱き上げた頭からタラリと、額を一筋の血液が垂れた。
「おい、菊!菊!」
反応せずに肢体の力を抜いて、頭を投げ出していたが、ギルベルトに揺すられてぼんやりと真っ黒な目を開き視線をやる。ぼんやりとした様子の彼女は、暫く黙りこんで目線をあっちこっちに泳がせる。
こんな街中で車もそこまで速度を出していなかったのだろう、重傷では無いようだ。思わずホッと胸をなでおろしたギルベルトとは逆に、いつも通り微笑んだ菊は腕を伸ばしてギルベルトの顔をペタペタと触った。
「ぎるべるとくん……良かった、無事ですね。……けれど、どこにいらっしゃるんですか?ここはどこですか?」
ギルベルトの顔を触りながら、小首を傾げた菊の瞳は、ギルベルトに向けられていたのにギルベルトは見ていない。いや、何も見えていない。
その時自動車の助手席に乗っていたのは、公爵家であるカークランドであった。彼は菊が東ながら貴族と知ると、何度も見舞いにやって来て、その習慣は十年以上経った今でも変わらなかった。
一度ギルベルトが白昼王耀の所に訪れた時、日向ぼっこをしている菊を見つけたことがある。声さえ掛けられずに、木陰につったって猫の様に目を細める菊を見つめていた。そこへ訪れたのが、金髪を輝かせたアーサー・カークランドの姿である。
菊の隣に座ると一言三言話をした後、菊の手を取り甲にそっと口づけるその様を見やり、ギルベルトは密かに眉を顰めた。カークランドは東への貿易路を広げたがっていた。だから、菊と婚約を取り付けようとしているのだと社交界では専らの噂である。
本田家は目が見えなくなった娘を恥、朝から晩まで菊を屋敷の一角に閉じ込め、煌びやかな事も楽しみも彼女には与えられない。ただ、フェリシアーノやルートヴィッヒ、それから幾人かの彼女の友人達は絶えず彼女の元へ通い、色んな世界を言葉巧みに菊に伝えていく。菊は海さえ知らずに、世界を遮断された。
「こんばんは、ルートヴィッヒさん……今晩はいやに遅いですね」
間近で見られるのは夜の闇の中ばかり。表だって、名を名乗って菊に会ったことは、あの事件以来一度も無かった。だから、夜中に弟の声色を真似、名前を借りて窓から訪れ、会話を交わす。
寡黙に成らざるを得ず、よく喋るのは菊の方であった。友人の話、花の香りの話、犬の話……空の青さを忘れそうです。と、彼女は悲しそうに微笑んで魅せた。
ここで大声で謝ることが出来れば、どれ程解放されるであろうかと思うけれど、それさえ出来ない。この関係さえ破綻して、会うこともままならない状態になったならば、一体どのようにして生きていけばいいのか分からずに恐ろしかった。
「血の……匂いがしますね」
月の青い光の中、菊は眉尻を下げてそっとギルベルトを見やる。が、実際に菊が見ているのはギルベルトでは無くルートヴィッヒなのだろう。ギルベルトは紅い瞳を細め、脂と鉄の臭いが染み込んでしまった己の事を思う。
今、戦場で指揮を取っていて、血液が衣服や体に付着する。何度洗っても完全に落ちることがなく、それは己の罪悪感に似ていると思った。
指揮を任されるようになってようやく、父親が自身に厳しかったのは、いつか大役を任せるための躾だったのだと痛感させられる。しかし捩じれた性格は直らず、自分自身でも嫌になることがたまにあった。
「……ああ」
応えはいつも、ほんの短い言葉ばかり。いつかばれてしまうのではないかと思うのだが、こうした来訪が無ければ、それこそ遠く離れていなければ菊を見守る事が出来ない。
長い黒髪はシルクの様に流れ、その細い肩に垂れている。頬は白い中に桃色が浮かび、目の縁は黒く彩られるほどに長い睫が生えている。朱を差したような唇に、白く細い肢体。座っている陶器の椅子と、今にも一緒に解け合って彫刻になってしまいそうだ。
「手を」
そう言って両手を伸ばす菊に、素直に右手を差し出すと、悲しそうに目を細めた彼女はそっと己の頬にあてがった。掌に暖かみを覚え、膝の上に残していた左手をきつく握りしめる。戦場の話に及ぶと、菊は彼に良くそうした。
「……あなたは、こんなにお優しいのに」
目を細めて悲しそうな様子で彼女はそう囁く。一瞬心臓が跳ねるけれど、菊が見ているのは自分ではなく、自分の弟だ。頬が当てられた手の平が熱を持ち、心臓が激しく鳴り響き、じっとりと汗を掻く。菊は泣き出しそうな顔をして、見えない目でジッと自身の節くれた手の平を見つめていた。
「ルートヴィッヒさん……私、私、結婚するんです、カークランド様と」
顔を持ち上げた菊は、見えない瞳でジッとギルベルトの顔を覗き込んだ。その黒い光の映さない瞳が、宇宙の様にさえ感じられた。
「……け、結婚?」
一瞬頭の中が真っ白になる。金髪を靡かせる気障で緑色の双眼をした男を思い出し、彼が菊の指先に口づけていた光景がフラッシュバックされた。その瞬間、胸が燃えあがるように熱くなる。
菊の視界を奪ってから、一度だって菊の前に名乗り出て堂々と顔を合わせたことは無い。拒絶されるのが怖かったから。怯えられるのが恐ろしくて、そして笑顔で許されるのが、何よりも怖かった……
「はい。申し込まれました。私は嫁入りいたします」
ギルベルトは返す言葉が見つからず、目を細める菊をただ茫然と見つめた。
「……菊様、どなたかいらっしゃるのですか?」
ノック音とメイドの声が聞こえ、ギルベルトは菊に預けていた手の平を自身へと慌てて引いた。そしてそのまま入ってきた窓からベランダに出ると、柔らかい芝生の上へと飛び降りた。空の上には月が乗っかり、雲が薄く広がっている。
カークランド家は公爵家だ。貴族といえど東の出である本田家が「NO」を出せる筈もなく、またバイルシュミットがカークランドに刃向かうなど、当然出来るはずがない。ルートヴィッヒだって彼女を好いていたはずだ。なぜだか、菊は弟と結婚するのかとぼんやり信じ込んでいた。自分が愛している人間同士ならば、まだマシだと自分を言い聞かせていたというのに……
ルートヴィッヒが菊とカークランドの婚約を知った時、ただ微かに顔を顰めただけだった。今、兎に角地位と金がある男の元に嫁ぐのが美徳とされているし、本田家も願ったりかなったりだろう。
嫁に入るという形だから、婚儀はカークランドの家で行われる。つまり、菊が本田家にいるのも後僅かであるし、一度出て行ったならば二度と戻ってくることは無い。そしてカークランド家は、馬を休み無く走らせたとしても二日はかかる。
王耀は何やら菊に何度も会いに来ているようであったが、菊の両親は一度として娘の元を訪れない。普通ならばもっと祝福されるべき門出である筈なのに、菊がカークランドへ向かう馬車はひっそりとしていた。
早朝、友人数名に挨拶をしてから、菊は馬車に乗り込んだ。それはカークランドが手配したものなのだが、自動車ではなく古風になりつつある馬車を選んだのは、一応の気遣いなのだろうか。そして道中彼女の護衛としての同行を頼まれたのが、ギルベルトだった。
菊とはあまり面識がないと、カークランド側は勝手に思い込んだのだろう。ルートヴィッヒが菊に懸想していたのは知っているようであったし、また、将軍家の跡取り息子であるギルベルトならば、面子も保たれると思っていたのだろう。
寸前まで仕事に出ていた為、夕方頃に合流という形になった。初めての遠出でとあり、既に菊は疲れている様子を見せていて、内心慌てる。向かう途中にある宿はまだ遠い。
「……久しぶりだな、菊」
馬車に乗ると簡素に挨拶を済ませるつもりでそう口を開くと、彼女から一番離れられる場所に腰を落ち着かせる。菊は顔を持ち上げギルベルトの方を見やると、ふんわりと微笑んでみせた。
「お早う御座います……その声は、ギルベルトさんですね」
まともに会話をするなど十数年ぶりで、彼女は絶対に分からないと思っていたのにも関わらず、一瞬で名前を言い当てる。内心歓喜するギルベルトを余所に、帰ってこない返事に彼女は長い髪を揺らして首を傾げた。
「ギルベルトさん?」
「なんで、名前が分かったんだ?」
ギルベルトが尋ねるのとほぼ同時に、ガタンと音が鳴り馬車はゆったりと動き出す。窓の向こうの景色が動く様を肌で感じたのか、菊は一度窓の外を見た後、再びギルベルトへ顔を向ける。
暫く口を閉じていたのだが、菊はやっと決心した様に、その綺麗な声色を露わにした。
「……血の、匂いがします」と。
思わず立ち上がって身を乗り出すが、どうしようも無く再び大人しく席に着く。揺れて軋む馬車の音ばかりが聞こえてくる中、長い間黙り込んでいた。
「いつからだ」
「初めからですよ」
あまりにもすんなりとそう言った菊に、思わずギルベルトは顔を手の平で覆う。初めから、という事はあの事件があってから直ぐ、ルートヴィッヒと名乗って忍び込んだ時だろう。
「でもあなた、知られたくないようでしたし……それに、私もあなたと話をしたかったので」
困った様子で菊が首を傾げると、ギルベルトは固く奥歯を噛みしめる。そして振り向き際に馬を操っている男の元へと続く窓を叩く。すると直ぐに一人の男が顔を覗かせた。
「馬車を止めろ。花嫁の気分が芳しく無いようだ」
「え、ギルベルトさん?」
馬車が止まるのを確認すると、菊の腕を取りそのまま下に降りる。太陽はやっと姿を隠した頃で、辺りは紫色の薄暗くなっていた。
道はうっそうとした森の横を走っており、直ぐ横手に真っ暗になっていた森が広がっている。菊の手を引きながらその森の中へと入っていくと、流石に不審に思ったのか、馬車を操っていた男が声を掛けてきた。しかしそれを振り切り、尚も森の中を目指して歩いて行った。
菊もどうしていいのか分からずに狼狽えていたけれど、ギルベルトに引っ張られると、おずおずとながらも後を付いていく。が、森の中は何かと障害物が多く、何度も転び掛けている。
「あの……ギルベルトさん、私もう……」
菊はまだ数メートルのところでで足を止め、困ったような様子で上目がちにジッとギルベルトを見上げる。ギルベルトは、風が吹く度に揺れるスカートごと菊を横抱きに抱き上げる。キャッと小さく菊は悲鳴を上げ、ギルベルトの体に縋り付く。
「お菊様!」
後ろから男の声が聞こえてくるが、そのままその声から逃げ切る様に、迷いも一切なく走り出す。鬱蒼とした草木を掻き分け、木の合間を何も考えずに奥へ奥へと進んでいく。菊は不安そうにギルベルトの名前を呼ぶけれど、それでもしっかりと首にしがみついて離れない。
「どこに行くのですか?」
「知らねぇよ!」
震えた声色を遮ってギルベルトは苛々とした声色で、そう声を上げた。何かを考えていた訳ではない。本当に衝動だったのだ。
ただカークランドの所へとやりたくは無かった。菊を品物としてしか見ていない、あんな男の、あんな家に。それに比べれば自分は、どれほど彼女を見てきたのか、考えてきたのか、気が遠くなる程だというのに。
「森、ですか?」
不安そうながらも、菊の声は緑の匂いに浮かれていた。家からあまり外出する事が無かった菊にとっては、皮肉なことにこれが初めての森へのピクニックとなってしまったのだ。
「怖いか?」
「少しだけ」
遠くでフクロウが鳴く声が聞こえ、後はギルベルトが進んでいくガサガサという草を掻き分ける音ばかりだ。やがて空には満月が出たらしく、銀色の光が、漆黒に慣れ始めた眼に明るく見える。
やがて湖にたどり着き、やっと抱き上げていた菊を、大きな石の上にそっと座らせる。細い足に滲んだ草木で切ったらしい微かな出血を見つけ、ギルベルトは座りハンカチで傷口を拭ってやる。
「……どうなさるおつもりですか?」
傷口に集中していたギルベルトの頭の上で、菊の声が降ってくる。その問いには応えず、腰に下げた鞄から少々固いパンを取り出し、千切ると彼女の手の中に握らせた。
表情を明るくさせた菊は、嬉しそうにそのパンを頬張ると、にこにこしながらギルベルトに御礼を述べる。
「お前は、カークランドに嫁いでも良かったのか?」
下から見つめながら問いかければ、月を背後に点けた菊は、無邪気に微笑んだ。
「お父様が望むのならば」
お前を見捨てた、父親なのにか。
声を荒げたいが、出来ずに黙り込む。そもそもその元凶を作ったのは自分で、菊の目が見えたのならば、カークランドに目を付けられることも、一つの部屋に閉じ込められることも無かったのだろう。そしてやがて、すんなりと自分と結婚したかもしれない。
「それよりもギルベルトさん、お顔を触らせてください。大きくなったのでしょう?」
やはり無邪気に彼女は手をのばす。ギルベルトは一瞬戸惑ったのだが、素直に菊の手の平をその頬にあてがわさせる。菊は嬉しそうに「ああ、ここは眼ですね。鼻ですね。」と、クスクス喉を鳴らしながら彼女はギルベルトの顔を指先でさする。
ここが唇ですね。そう笑う菊の細い指先が、スルリと滑った。その瞬間、ゾクリと戦慄めいたものがギルベルトの背中に駆け抜けていく。熱い心地が胸の中で破裂したのを覚え、菊の腕を掴み身を乗り出して無理矢理菊の唇を奪う。菊は驚いた様子で眼を真ん丸にして、己の唇を押さえた。
「なんですか、今の?指、にしては柔らかかったです。」
どこまでも無邪気に菊はなぞなぞを受けるかの様に、クスクスと笑う。それは野生を剥きだしにする、ギルベルトの曲がった笑顔が、見えないからだ。
「お前を、カークランドなんかにやってなるもんか」
冷たい声色に戸惑う菊を余所に、もう一度唇を合わせる。ただその頬に自らの意思で触れるという行為自体、十数年間我慢し続けたのだ。もっと話したかった。もっと触れたかった。ルートヴィッヒとしてではなく、己自身として。
理解を仕切れていないのだろう、包み込んだ頬ごと菊の体はカタカタと震えていた。無理矢理交わすキスの合間に、何度も泣き出しそうな声色で菊は叫びを上げる。顔を離すと、青ざめた唇を舐めた。
「な、何を……」
手の甲で己の唇を拭いながら、菊は怯えと驚きで潤んだ瞳で懸命に闇を見つめる。ギルベルトの荒い息が耳の直ぐ傍で聞こえ、思わず体を縮めた。
「なぁ……俺の傍に居ろよ。そんでガキつくってさ……仕方ねぇから、俺がお前の目になってやる。どこにだって連れて行ってやる」
菊の両親や、カークランドがそうするみたいにお前を閉じ込めたりしねぇ。そう柔らかそうな耳たぶに囁きながら、ギルベルトは、昔から自分がそうすべきであったのだと密かに思う。もう笑いかけてくれないのかと思うと、そして自分の所為だと思うと、どうしても出来なかった。なんとも情けなく、苦しい話だ。
事故にあって直ぐに抱き上げた菊は、ギルベルトが無事だと知るや否や、嬉しそうに微笑んだ。赤い血が線のように垂れ、その黒い瞳からは既に光が失われている。少なくともカークランドよりはこの目の前の存在を愛している自信があった。否、愛しているというのとは少し違う。それは執着だ。後悔と罪悪感と、独占欲にまみれた執着である。
「ギルベルトさん……」
怯えた声色を上げる菊に、ギルベルトは優しく笑いかける。けれど勿論、菊が分かるのは冷えたその雰囲気だけであった。
続