普日で喧嘩お題5 ただ普日♀が喧嘩している様が見たくて書いた小説群(になる予定)

 

 

 01:悪口を言う
 
 
「おいブス、飯食いに行くぞ」
 騒がしい教室の一角、ふてびてしい態度でギルベルトが声をかけると、座っていた一同はギョッとして彼を見上げた。
「な!兄さんなんて事を言うんだ!」
 言われた菊ではなく、その前に座っていたギルベルトの弟ルートヴィッヒが思わず声を荒げる。衝撃に菊とフェリシアーノは眼をまん丸にして固まったままであった。
 ギルベルトと菊はカップルであり、二人で食事に行くのは日課である。しかし、昨日までは暴言は多少吐けど、基本的に恋人を大切にする兄であった筈だ。それが突然「ブス」呼ばわりとは、あまりにも非道の所業。
「だってこいつが自分の事『ブス』だっつーから、オレもそう言ってやってんじゃねぇか」
「そ、そんな事言ってません!」
 珍しく顔を真っ赤にさせてポコポコ怒る菊の鼻を、ギルベルトは眉間に皺を寄せながらキュウと摘まんだ。菊は思わず目をつむり、パシパシとギルベルトの腕を叩く。しかし彼はその手を外そうとしない。
「いーや、言ったね」
「やめてくらはい」
 摘まむのを諦めないギルベルトに、菊が折れて唇を尖らせるに終わる。瞼を伏せてそれ以上反抗しない菊に、ギルベルトはつまらなそうに眼を細めて見せた。
 どうやら二人は喧嘩をしたらしいのだが、いつものように口を利かなくなったり避けたり、という訳ではないらしい。周りも最初は咎めてみたけれど、二人にしか解らない何かがあるのだろう段々口を出さないようになった。彼女の兄以外は。
「我の可愛い菊がブスなはず無いアル!菊は世界一可愛いアル!」
 ギルベルトと菊がお付き合いする時も、最終的に殴り合いの喧嘩にまで発展した、そんな菊の兄の王がギルベルトに食ってかかった。世界一はあまりにも言い過ぎだと思いながら、菊はハラハラしながら二人の動向を静かに見守っている。
「ちげぇって、オレが言ったんじゃなくてコイツが自分で言ったんだって。オレはブスなんて思ってねぇよ。こいつの意思を尊重してやってるだけだ」
 完全にヤンキーに戻っているギルベルトと兄の喧嘩を横目で見やりながら、菊は深いため息を吐き出した。事の発端は今から一週間前、ギルベルトが「ブス」と連発する前日の事。
 
 
 菊はよく転んで危なっかしいという非常に不名誉な理由により、その日も菊とギルベルトは手をつないで帰宅していた。最初はお互い数分ともたなかったのだが、最近は当たり前過ぎて普通に手をつなぐようになった。
 元々幼馴染だった二人は、お互いの幼いころを十分に知っていた。ギルベルトの初恋を菊は知っているし、菊が昔生徒会長に仄かな恋心を抱いていた事をギルベルトは勿論知っている。しかしお互い無意識的にその話題を避けていた。
 しかしお互いの初恋の相手と同じ学校に通っていれば、出くわすことは良くあること。事に生徒会長のアーサーは時折校門前に立っているため、出くわす確率は高い。その際何気なく手を離す菊を、ギルベルトは気に入らない。
 因みに近所に住んでいるエリザベートとの遭遇率も高く、その際ビクリと手を放るギルベルトを、菊は横目で見やりながら唇を尖らせていた。そして必ず言うのである。
 西洋の方は体つきもしっかりしていますし、顔立ちも綺麗ですね。と。
 何が言いてぇんだよ。と頬を摘まむと、菊は眉根を下げて困ったような表情を浮かべる。そんなことが何度が続いた後、ギルベルトが遂に「そんなに自分に自信がねぇのかよ」と詰めよれば、やはり菊は困ったような表情を浮かべるだけだった。その次の日、突然ギルベルトは菊の事を「ブス」と呼び出したのだ。
 
 
 帰り道「ブス」というギルベルトに、菊は思わず歩を止めて恨みがましそうにギルベルトを見上げた。
「あまり苛めないでくださいな。エリザさんに比べたらブスなのは十分わかってますから……」
 最後は泣きそうな声な菊を見下ろしながら、ギルベルトは眉間に盛大な皺を寄せた。三白眼なギルベルトの目線が怖く、思わず菊はうつむく。遠くで聞こえてくる楽しそうな生徒達の声がうらやましい。
「お前さ、俺が『ブス』って呼んで肯定した奴いたかよ?」
「いや、それはいませんけど……でも」
 うまく返せずに口の中でモゴモゴ喋っていると、パチンと後頭部を軽く叩かれる。驚きに「キャッ」と声を上げ顔を持ち上げれば、更に怖い顔を浮かべているギルベルトが仁王立ちしていた。
「お前ほんとなんも解ってねぇな!勝手に自分を卑下すんじゃねぇよ」
「ギ、ギルベルトさん……」
 スタスタと前を歩き始めるギルベルトを追いかけ声をかけるが、中々振り返ってくれない。相当お怒りになってしまったのかと、心配そうに首を傾げて顔を覗きこもうとする。しかし見えるのは頬の端ばかり。
「怒ってらっしゃるの?」
 心配そうに声をかければ、伸ばされた左腕が菊の首にまわり、引き寄せられる。強引に引き寄せられ足がもつれるが、しっかりと抱き寄せられているために転ぶことは無い。
「……お前さ、あんまりオレの好きな奴の悪口言うんじゃねぇよ」
 ポカンとしてギルベルトを見上げていると、彼の頬と耳が段々と真っ赤に染まっていく。その様子に思わず笑みを浮かべると、逆にキュウと抱きついた。
「ああ、もう、くっついてないで早く帰ろうぜ、菊」
 そう言いつつも無理にほどかない彼に、菊は苦笑を浮かべながら赤い頬を見上げる。
 
 
 
 
 02:大嫌いと言う
 
 
「もう、ギルベルトさんなんて大っ嫌いです!」
 昼休みの騒がしい教室に、いつもはフワフワおとなしい少女の声が響く。全員が眼をまん丸にしてそちらを見やれば、やはり眼をまん丸にしたギルベルトとポコポコ怒っている少女が居る。
 元より少女、菊は教室の隅で黙々と本を読んでいるような少女であった。それが粗暴の代名詞であるギルベルトと付き合うとなったとき、彼女に癒され密かな甘い心地を抱いていた男子達は枕を濡らし、女子は「本当にギルベルトでいいのか?」と訝しそうに菊に問い詰める。
 ギルベルトは眼つきが悪いという理由から、昔からよく喧嘩を売られる人物であった。そしてそれを片っ端から殴り倒し、あまり宜しくない名声ばかりを高め続け、更に初恋に敗れてからは彼方此方の女子に手を出している。毎回性格の不一致で振られながらも、顔が綺麗だから新しい女子がいくらでも引き寄せられてしまうらしい。
 特にギルベルトと仲の良かったフランシスとアントーニョに「本当にいいのか?」と詰め寄られ、癒しオーラ全開の笑顔で頷いていた。それか数日、予想よりは幾分早いながらやはりやってしまったかと、待機していたアントーニョとフランシスは立ち上がる。理由は解らないが、勝手な想像としてギルベルトを殴るために。
「……は?」
 席を立ちあがる菊に対して、未だに状況が解らずに座りこんだギルベルト。背後についたアントーニョとフランシスに頭を軽く叩かれ、彼は涙目で振りかえり眉間に皴を寄せにらむ。
「あかんよギルちゃん、何したん?」
 いつもの朗らかな笑みではなく、少々黒い影を落としながらアントーニョが首を傾げた。
「うるせーよ、しらねぇよ!
 あいつずっと卵焼き残してたから、オレ様が食べてやっただけだぜ。でも卵焼きっつたら甘いはずだろ?だからしょっぺぇっつったら怒った」
 卵焼きは塩っ辛いのが好きなんです。にーにが作った卵焼きは本当においしくて、でもにーにはお仕事で忙しいから、たまにしか作ってくれないんです!そう熱弁する菊を思い出し、フランシスは大きくため息を吐き出した。
「俺も前、ロヴィのトマト食うたら怒られたわぁ」
 浮気やなんやらでは無いと解ったのか、アントーニョは呑気に笑った。
「いいから早く謝っておいでよ」
 菊が座っていた席に放置されていた空の弁当箱を仕舞いながら言うフランシスに、ギルベルトは嫌そうに眼を細める。
「なんでオレが謝るんだよ、意味わかんねぇ」
 しばし菊の箸を眺めていたフランシスの頭にチョップを食らわせながら、ギルは唇を尖らせた。
「いやぁ、そんなことで菊ちゃん怒るなんて思えへんな」
「そーお?菊ちゃんグルメだから、案外本当に怒って嫌いになっちゃったかもね」
 ふふん、と鼻で笑うフランシスに、相変わらずの仏頂面でギルベルトは顔を持ち上げる。
 
 廊下を歩きながら菊は熱い顔を覆った。恐らくみんなが菊たちの事を見ただろうし、思わず出た言葉を聞いただろう。
 卵焼き一個で騒ぐ女なんて、みんな変に思ったに違いない。ギルベルトのキョトンとした顔を思い出し、再び顔が熱くなるのを覚える。泣きだしそうになりながら、慌てて女子トイレに駆け込んだ。
 しかし、兄がお弁当を作ってくれるなんて本当に珍しいし、とてもおいしい。仕事で疲れてるだろうに、朝早く起きて台所で立っている姿を見つけ、数年ぶりの卵焼きが食べられるのだと飛び上がったというのに。ああ、やっぱり酷い、酷いですギルベルトさん!それを「しょっぺぇ、まずい」なんて!下らないと思いながらも悔しさが込み上がり、菊は個室で座り込み顔を覆った。
 ……取りあえず恥ずかしすぎて、しばらく顔も合わせられない。ギルベルトには確実に食い意地の張った女と思われただろう。恥ずかしすぎる。
 昼休みの間中籠城を決め込んだ菊は、チャイムと共に抜け出し、少々授業に遅れて教室へ入って行った。教科書を揃えながら横目でギルベルトを見れば、彼はふてくされた様子で他方を見やっている。やはり、食い意地の張った奴だと思われたのだろう。いや、怒っているのかもしれない。
 そのまま時間も過ぎて、下校時間へと突入した。いつもならば一緒に帰宅するのだが、気がつけば既にギルベルトの姿は見つからない。……やはり呆れたか怒ってしまったのだろうと、思わずしょんぼり項垂れながら、カバンに荷物を詰めていく。
「おい、菊」
 不意に菊の名前を呼んだのは、帰ったとばかり思っていた主である。眼をまん丸にして驚き顔を持ち上げれば、目の前には菊が愛してやまない購買のメロンパンが浮かんでいる。考える間もなく捕まえた後、ようやくそれを持っていたギルベルトを見上げた。
「ギルベルトさん……帰ったのかと思っていました」
「これ買ってきただけだ」
 茫然と立ちすくんだ菊に、ギルベルトはグイと右手を差し出す。大きく広げられた手のひらに何か乗っているのかと、しげしげと見やれば彼はしびれを切らした。
「ほら、帰るぞ!手ぇ出せよ」
 苛々としたギルベルトの口調に、それまで考えてもいなかった怒りが不意に込み上げ、菊は唇を尖らせ下から彼を睨みつける。よくよく考えれば(いや、よく考えなくとも)勝手に菊のお弁当を食べてしまった彼に非があるのでは?と、ギルベルトが呆れているわけではないと解った途端、唐突に思い当ったのだ。
「言うことがおありじゃありませんか、ギルベルトさん」
 表面的に怒る事があまり無い筈なのだが、言葉は思ったよりもスムーズに菊の口から飛び出す。そのことにギルベルトは当然ながら、菊も驚き二人して眼を丸くした。
「……は、え、だ、だからメロンパン買ってきてやったんだろ!」
 一瞬驚きに声を詰まらせてから、ギルベルトはギャンギャン声を上げる。
「え、これそういう意味だったんですか?解り辛すぎます!だめです!」
 菊は抱えていたメロンパンを見やり、眉間にしわを寄せた。校庭からは楽しげな部活の声が響いてくるが、教室内はとっくに人影は二人以外居ない。
「う……わ、悪かったよ」
 長い長い間をもって、最後は尻すぼみになったけれど、ギルベルトは確かにそう呟いた。それは外の声に潰されてしまうほどの小さな声だった。
「でもお前だって普通あんなに怒るかよ!食い意地張りすぎだろ!」
 顔を赤くして怒る、いや、恥ずかしがるギルベルトに両頬を摘ままれて菊は苦しそうにパシパシギルの腕を叩く。言うことのきかない子供が自ら謝ったような、そんな感動さえ覚えていたというのにこの仕様。やはりギルはギルかと、頬を伸ばされながら菊は小さくため息を吐いた。
 
 
 
 
 03:さようならと言う(上記二つとは違うお話、しかもシリアス。)
 
 
 菊はアジアの小国から家の都合で越してきており、高校から大学まで慣れない環境に苦戦しながら、懸命に暮らしていた。初めてギルベルトと出会ったのは高校時代で、クラスからの好奇の眼に耐えかねず、彼女はいつも部屋の隅っこで本を読んでいた。
 ギルベルトが声をかけると、サッと不安の色をその顔に顕わしたけれど、ギルベルトは気がつかないふりをしてそれから何度も話かけ続けた。きっかけは、そこだけどんよりとクラスが沈んで見えたからというのと、弟が彼女と会話をしていたのを見て、興味が湧いたからだ。
 後から聞いた話、道に迷っている様子だったから話しかけ、偶々一緒にいたフェリシアーノが持ち前のコミュニケーション能力を発揮し、そのまま仲良くなったらしい。確かにフェリシアーノ達と一緒に居る時の彼女は楽しそうであった。
 時間をたっぷり使って知り合いになり、友人になり、恋人となったのは中々自然な流れだったようにギルベルトには思われる。告白したのはあまり雰囲気が良いとも思えない、雷雨の日の、菊とギルベルト以外誰もいない大学の教室内であった。大きな教室の真ん中、雨が止むのを待っている間に我慢できなくなり申し込んだところ、彼女は笑って受け入れてくれた。
 そして、しかしどうしても言わなければいけないことがある、と切り出した。雨の日独特な、あの薄明るい教室の中で、彼女は言葉を切りながらもう一つ大切な告白をした。黒い瞳の中に水たまりが出来上がり、遠くの方で雷と雨の音が鳴っていたことが、ぼんやりと思いだせる。
 彼女達家族が海外に引っ越してきたのは、菊の心臓に問題があるからという事。普段普通に暮らすには問題無いが、激しい運動は命に関わる可能性がある事。そういえば、高校時代彼女はいつもみんなから外れ、独り体育館の端で座っていたな、と当時それほど大きく考えなかった光景がパッと浮かんだ。
「それでも良いのなら、一緒に居てください」
 それはギルベルトが振り絞った勇気以上の勇気を使った、告白だっただろう。いつものようにガシガシと頭を撫でると、俯いていた彼女の瞳から音を立てて滴が落ちた。
 周りから特別扱いされるのを恐れてだろう、誰もそのことを知らないようだったから、ギルベルトも誰にも菊の秘密を洩らさなかった。周りには恋人だと宣言をしたけれど、二人が出来るのは手をつないだり、ひっそりとしたキス程度だ。
 ギルベルトは菊にも自身にも気付かれないように、彼女を、彼女の心臓を何よりも恐れていた。そして触れたいと思い、いつかそうしてしまいそうな自分自身を恐れていた。ただ指先を絡め、時折唇を合わせるので満足出来ない自分が、許せなかった。
 菊もそれに気が付いていたのか、ギルベルトが浮気をしたと気がついた時も彼を責めなかった。ただ悲しそうに座り、涙さえ流さない。その様子があまりにも可哀そうで「もう二度としない」と言いながら、本当にそう思った。しかし、一緒にいる時間がまた長くなり、触れるばかりのキスを繰り返す程に、醜い欲望は肥大化していく。
 一人では抑えきれずに、彼女と似た肌に似た髪を持つ女性を何度となく連れ込んだ。菊にばれる事もあったけれど、ほとんどは上手く隠し通した。それもほんの今だけ、もうじき彼女の心臓は成長しきり、手術のドナーも見つかるまでの事だと、自分の罪悪感を誤魔化した。
 それは菊が病院で帰ってこない、雷雨の夜だった。元々約束を交わさない限り会うことも無いため、その日も名前さえ知らない女を家に上げていた。
 風呂場へ通して居間でぼんやりとしていた時、燻ぶる雷の音の合間にチャイムが鳴り、ギルベルトは不機嫌を露わに玄関へと向かった。最近友人達もギルベルトの女癖に嫌な顔をするから、彼らだとすれば玄関先で追い返さなければならないだろう。
 チャイムに応えると、数秒の間をおいて、聞きなれた声が自分を呼んだ。慌てて扉を開けるとびしょ濡れの菊が立っていた。黒髪からはまだ水が滴り、今にも泣き出しそうな様子でギルベルトを見上げる。
「お前、なんて格好してんだよ!早く風呂でも……」
 言い掛けて、ギルベルトは慌て口をつぐんだ。風呂には今違う女がいる。名前も知らない女が。仕方なくその場で上着を手早く脱ぐと、頭から掛けてごしごし拭う。彼女の肌に指先が触れると冷たく、ギルベルトに恐怖心を植え付けるた。
「家まで送る」
 体を捻って傘に手を伸ばした時、空いた胸元にぎゅうと彼女が抱きついた。服も髪も全てがじっとりと濡れていたため、直ぐにギルベルトの服も濡らす。
 驚きと間近な距離感に驚き、一瞬ギルベルトは動きを止める。雷の音も雨の音も、どこか遠くへ吹き飛んでしまい、ただ菊の髪の先から垂れる雨水が、玄関先のタイルに落ちる音ばかり嫌に耳につく。正気を取り戻し 「……抱いてください」
 菊から漏れた声は震えていたがしっかりとしていて、冗談には聞こえない。笑い飛ばそうと口角を持ち上げかけたギルベルトの表情は瞬時に強ばった。肩を抱き寄せた指先は震え、それ以上動かない。
「……出来ない」
 絞りだした声色は情けなくも小さく、怯えていた。
「他の女性にはできるのに?」
 彼女がいっているのは、今までバレた浮気ではなく、今家にあげている女の事だと直感的解った。いや、今だけではない。恐らく、彼女はずっと前からギルベルトが家に他の女を上げていたのに気が付いていたが、彼がなぜそうするのか知っていたからこそ、何も言わなかったのだ。
「……悪い、もう絶対こんなことしねぇ。な、だから元気になってからにしようぜ」
 宥めるように頭を撫でても、菊はしがみつく強さを緩めようとはしない。胸に顔をひっつけてギルベルトにもその表情は解らないけれど、菊の体は小刻みに震えている。
「死んでしまうのに」
 簡単にかき消されそうな小さな声色は、雷雨の音の中しっかりとギルベルトの耳に届いた。
「え?」
 真っ赤な瞳の三白眼が、零れ落ちそうなほど見開かれた。思考に入るよりも早く、体中の血液がスッと覚めていくのを感じる。例えば二人でじゃれている時でも、その一言だけは絶対に口にしてはならない。それがいとも簡単に彼女の口からすべり落ちた。
「手術しても、助かる可能性なんて、ずっと低いんです。術中にも死んでしまうかもって」
 擦れ震える菊の声以上に、ギルベルト自身も震え上がっていくのが解った。激しさを増す心臓は、そのまま凍えて止まってしまいそうだ。
「でも、お前、助かるって……」
 ギルベルトの言葉に、菊はふるふると首を振る。そして涙で濡れた瞳を持ち上げ、ギルベルトを見上げて笑った。びしょ濡れでも解る程はっきり、彼女の頬に涙が伝う。
「きっとあなた、嫌がると思ったんです。だから……」
 菊が言葉を切った瞬間、風呂場の扉が開く音がする。次いで、不思議そうにギルベルトを呼ぶ声がした。 痛いほどにしがみついていた菊の指先は滑り落ち、ギルベルトから飛び退いた。冷めて蒼い顔はより蒼く、痛む程の感情がギルベルトの胸に射し込んだ。
「……邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
 彼女の声は抑揚の無い、機械じみた声だった。無理して絞りだしたのが直ぐにわかる。
 もう一度ギルベルトの名前を呼ぶ声が風呂場から聞こえ、菊は弾かれるように駆け出した。菊が走る姿を、長い付き合いながらその時初めてギルベルトは目にした。一瞬惚けてから、裸足のままマンションの廊下へと飛び出す。
「おい、菊!走るな!」
 ほとんど運動をしたことない菊に追い付くのは、あまりに簡単だった。しかし振りほどこうと藻掻く彼女を押さえ付けていいのかと、腕が、体が一瞬戸惑う。
 しかし向き合った黒い瞳から際限ないように降り落ちる涙を見たとき、何かが吹っ切れたのを感じた。そのまま菊の小さな体を抱き寄せると、自身の胸にぎゅうと押しあてる。暴れていた菊は動きを止め、再びギルベルトにしがみつき、ワッと声を上げて泣いた。子供のように泣く姿は、今までギルベルトが見たこと無い姿だ。 ギルベルトがそっと頭を撫でれば、まだ雨に湿っている。
「……手術の日取り、決まったのか?」
 泣き声が収まったのを見計らって声を掛けると、菊は顔を上げずに抱きついたまま声を上げた。
「ええ、来月の頭。執刀の先生がいらっしゃるのが、短期間だそうで、急いで決まったらしいです」
「……早いな」
 来月の頭といえば、数週間程しか時間が無い。きっと決まったのはずっと前の事だったのだろうが、言えずに居た事を考えると彼女にも自分にも腹が立つ。どうやら菊の恋人でありながら、一人蚊帳の外に居たようだ。
 
 菊が泣きやんだのを確認すると、待っておけと重々言い聞かせておき、ギルベルトは一人部屋へ引き返して行った。暫くして戻ってきた彼の頬には、しっかりと紅葉型のビンタ跡が残されている。
 部屋には既に誰もおらず、着替えの服を用意し濡れている服は皺にならないようにつるす。湯を張っていなかったから溜めなおし、菊は冷めた体を風呂の中でゆったりと温める。
「お前が見たがってたDVD、この間買っておいたんだ」
 菊の髪をドライヤーで丁寧に乾かしながら、ギルベルトが整然と並べられているDVDの列を指さした。そこには菊がチラっと名前を挙げただけのDVDが、しっかりと列に並べられている。ギルベルトと菊のデートといえば映画や軽いショッピング、読書などが主であり、彼は菊が好みそうな物をチョイスし用意しておいてくれていた。
「……ギルベルトさんは、私に手術を受けて欲しいですか?」
 ギルベルトが家に常備されている菊の薬を取りだしているのを見やりながら、菊はポツリと尋ねた。もしも手術を受けなければ、爆弾を抱えながらも一年は生きていくことが出来る。手術が成功すれば人並み、失敗すれば最悪その場でお陀仏。
「お前の人生だ、お前が決めろ」
 薬と水を手渡してから、ギルベルトは手早くDVDをセットした。もっと会話をして彼の真意を聞きたかったため、菊は微かに落胆する。
 映画は老夫婦が辛い生活に耐えかね、強盗を繰り返して逃亡する物語だ。それまでそれほど仲の良いわけではなかった夫婦が、絆を見直し慈しみを思い出し、一緒に年を取っていく喜びを思い出していく。
 淡々と進んでいく物語は、思ったよりも暗くてそれほど斬新なものではなかった。派手なアクションを好むギルベルトはとっくに寝てしまっただろうと盗み見ると、彼は意外にもあの赤い瞳を光らせ、画面を真っ直ぐに見詰めていた。ブラウン管の中からゆったりとした音楽が流れ、二人は皺だらけな手を合わせて踊りだす。
 ソファーの上に投げておいた掌に、ふと温かみを感じてそちらへ眼を向ければ、ギュウッと強く繋がれる。先ほどまでテレビに向けられていた瞳を、真っ直ぐ菊を見つめていた。その表情が、泣きだすのを耐えた子供の様であり、菊は体を硬直させる。
「ギルベルトさん……」
 空いていた掌で左の頬を撫でると、俯いた彼の瞳からボロリと涙がこぼれる。友人達にからかわれて半泣きしている姿はよく見るけれど、本気で泣いている姿は初めて見た。困惑する菊を余所に、彼は頬に当てられた菊の掌をとって、己の唇にあてがって俯く。
 ギルベルトの頭を抱えるように抱きしめると、腰に腕を回して菊の首元に額を押し当てた。強く抱きしめながらしゃくりを上げ、何度も菊の名前を呼んだ。
 
 
 気がつけばギルベルトに抱きしめられたまま眠っていたらしい。朝方の薄暗い空を横目で眺めながら、テレビがノイズ音を上げているのを聞く。ギルベルトは深く寝入っているらしく、寝息が耳元で聞こえるが体を捩じっても顔を見ることは出来ない。
 ルートヴィッヒに抱きついたフェリシアーノが「あったかーい!」とはしゃぐのを思い出し、ムキムキはやはり暖かいのかと、ギルベルトにすり寄るとやはり暖かい。けれど暫くその温かみを楽しんでいたが、クシュンとくしゃみがひとつ出た瞬間、それまで寝ていたギルベルトが勢いよく体を起こした。
「風邪引いたか?!」
 慌てて毛布を手繰り寄せて菊に掛けると、菊は思わず苦笑を浮かべた。
「ギルベルトさん、瞼腫れてます」
 泣いたまま眠ったからか、ギルベルトの眼もとは腫れぼったくなってしまっている。蒸しタオルをつくってやろうと立ち上がると、ギルベルトもぼんやりとした様子で菊の薬が入っている棚を開けた。
「……兄さんが心配しているだろうから、始発で帰ります」
 時計を確認すると、後三十分程で電車が動く時刻だ。携帯もカバンも持たずに家を飛び出した菊を、きっと彼は悶えるほどに心配していることだろう。
 ギルベルトは生返事を返し、いつもの様子で菊へ薬を差し出した。受け取った薬を掌で暫く転がした後、口の中に放る。錠剤は嫌だと子供のころは何度もぐずったけれど、その度兄は懸命に宥めすかして菊に薬を飲ませた。耀はそれでも菊に手術を受けてほしいと、眼に涙を溜めて訴えた。
「家まで送る」
 寝ぐせをなおすためにいつもつくる蒸しタオルを仕上げると、彼の頬に当ててやった。彼は心地よさそうに眼を細めると、礼を呟いて菊からタオルを取り、乱暴に顔を拭う。
 
 家の前まで来ると、早朝の誰もいない道路で触れるだけのキスをし、それから親子のようなハグを交わして別れた。白い光の中で菊は手を大きく振り、笑って言った。
「さようなら」と。
 
 
あれ、喧嘩してなくない?した?
 
 
 
 04:やきもちを焼く
 
 
 シャワーを浴びタオルで髪の水滴を拭いながら出てくると、菊は既に寝息を立てていた。胸には結構大きな傷跡がはっきりと残っていて、ようやく抜糸を終えたと解る。
 菊がシャツの胸元を開けてギルベルトに傷跡を見せながら、泣きだしそうな様子で眉根を下げた。その顔があんまり可哀そうなものだから「ついでにシリコン入れればよかったじゃねぇか」と言えば、菊は頬を膨らませて暫く口を聞いてくれなかった。
 彼女の心臓手術は見事成功し、ギルベルトの元へ帰ってきてくれた。しかしブランクが効いているのか、中々手が出せずに昨日ようやくそのチャンスが訪れた。初めて触れる柔肌には、童貞卒業する時以上に緊張して手が震え、途中からあまり記憶が残っていない。
 しっとりと根元が汗で濡れた髪に指を通すと、小さく唸って菊は身を捩る。起こしてしまわない様に布団を掛け直してから、冷蔵庫からビールを取り出しタブを開けた。小気味良い音と共に、泡とビール独特の苦い匂いが鼻をかすり、口に含めば久しぶりの味に頬が緩む。
 菊は元々病気のためにアルコールの摂取は少量のみで、そのため菊と付き合ってからはアルコール摂取量は確実に減っていた。それから菊の手術が決まり、願かけのためにギルベルトも大好きなビールを絶っていた。菊が眼を覚ますまでの三日、夢うつつな状態であった彼女を待ち続け、ビールなんて飲んでいる暇も無かったが。
 今でも時折、菊が死ぬ夢を見る。彼女こそ、未だに捉われているだろうに……
 それでも心地よさそうにスヤスヤと眠るさまを見やり、思わず頬を緩めて彼女の額に掌を当てて撫でると、眠っているのに微かに微笑む。何か良い夢でも見ているのかと呼びかければ、菊は「ふぁい」と小さく呟いたものだから、思わず噴き出す。
「菊ー、なんか良い夢みてんのか?オレ様出てるか?」
 家に居る飼い犬を思い出しながら、起こさないようにそのまま頭を撫でた。微かな間を空けて、再び菊が呟く。
「……アーサーさん」
 ポツリと漏れた言葉に、その場の空気もギルベルトも固まった。
 アーサー・カークランド。高校時代から菊とそれなり仲の良い、外ッ面ばかり良いお坊ちゃんだ。そして、菊に密かなる懸想を抱いているのを菊以外のほとんどが知っている。
 その名前を、寝所で、しかもギルベルトのベッドの上で呼ぶのは、流石に怒ってもいいだろうか……
「おいこら起きろ!」
 低い鼻をつまむと、数秒置いてから苦しそうに眼を覚ました。それでも離さないギルベルトの手をパシパシ叩きながら、寝ぼけた声色を出す。
「もう〜、なんれすか?」
 寝ぼけ眼を擦りながら起き上がり、睨んでいるギルベルトを胡乱な様子で眺める。
「お前今どんな夢みてたんだよ!」
「へ?夢?……寝てみる、夢ですか?」
 とぼけているのか寝ぼけているのか(恐らく後者だろう、いな、そうであってほしい)、菊は眼を瞬かせてギルベルトを見やった。それからしきりに首を捻り、パチンと手を打つ。
「覚えてません」
 いっそにっこりとほほ笑む菊に、「そんなわけねぇ!」と肩を揺さぶられて菊は面倒くさそうに唇を尖らせた。
「そんなこと言われたって……ああ、なんか昔の事を夢見ていたような……」
 首を捻りながら呟く彼女に、ギルベルトの苛々は頂点へ達する。口元をひんまげて不機嫌になっていくギルベルトに、菊はどうしてこうなったかも解らないまま懸命に記憶の糸を辿る。しかし夢なんてものは起きれば直ぐに忘れてしまうもの、どれだけ思い出そうとしても思い出せない。
「お前が思い出すまで口きかねぇからな」
 むっつりと口を噤むギルベルトに、「まぁなにをそんな子供っぽい」と愚痴りながらそっと顔を覗きこむ。しかし目線を他方に投げる姿に、冗談ではないのかと少し焦り出した。
「思い出せないってことは、そんな大層な事じゃないんですよ、きっと」
 だから機嫌を直してくださいな、と言ってみてもギルベルトはそっぽを向いたままだ。仕方ないのでため息ひとつ吐き出すと、先ほどまでそうしていたように、布団の中に寝転んだ。
「って、何俺様残して寝てんだ、おめぇは!」
 先ほどまで口を利かないと言っていたのはどの舌か、ギルベルトは寝入った菊の肩をゆするが、菊は鬱陶しそうな声を上げてギルベルトの腕を右手で叩く。
 ギルベルトは忌々しそうな舌うちを一つし、仕方なさそうな様子で布団へと潜り込んだ。菊の細い項に鼻先を押し当てると、漂ってくる菊のシャンプーの匂いを胸いっぱいに吸い込み、腰に腕を回して抱き寄せた。
 正直寝苦しそうな様子を見せるが、菊は大人しくギルベルトに抱きしめられるままにする。指先が長い心臓の傷跡に触れるけれど、体温と相まってそれすら彼女が生きている証であり、愛おしかった。
 
 
 未だに不機嫌なギルベルトを見上げ、菊は小さくため息を吐き出した。しっかりと手を握ってはいるものの、顔は他方へ向けられている。何度も名前を呼んだけれど、それでもギルベルトの顔はこちらへ向いてくれない。
 改札へ向かう、お洒落な雑貨屋が並ぶ通りを二人で通り抜ける最中、ふと菊は足をとめた。口を利かない、と言ったのにもかかわらず、突然止まるものだからギルベルトは思わず彼女の名前を呼ぶ。
「思い出しました」
 菊の前にあるのは最近人気のパン屋で、そこには若い男女が数人、楽しそうに自分の順番を待っている。昼時ということもあり、パン屋からは芳ばしい香りが漂い知らず腹が鳴る。
「夢の内容か?」
「ええ」
 嬉しそうな様子で頷く菊をギルベルトは訝しそうに見やった後、菊が指さしているガラスのケースへ視線をやった。そこに整然と並べられていたのは、黄金色をしたスコーン。
「あ」
 と、声を洩らしつつギルベルトの脳内に、菊の退院祝いを思い起こさせた。友人が集まったパーティーにアーサーが持ってきた小箱、その中身に入っていたスコーン……らしきもの。
 輝かしい笑顔を前に菊は蒼くなりながらも、貰いものを捨てるわけにはいかまいと、意を決して食そうとしたところにギルベルトが飛び出した。菊が持っていたスコーンのような木炭、いや、木炭のようなスコーンを取り上げて口いっぱいに放った。そして歯がかけるかと、本気で思ったりした。
「なんでそんな事思い出したんだよ……」
 未だにスコーンを見ると「うっ」と思うほどにトラウマになっている。あの時心配してくれたのは菊ばかりで、そのほかの悪友たちの楽しそうに笑っていたこと。
「私あのとき、結構感動したんですよ」
 嫌そうに顰めた顔をしたから覗きこんで、菊はニコッと頬を緩めてほほ笑めば黒い瞳は半月を描き出して、彼女独特の優しさが伝わってくる。
「……ま、そーゆーことなら仕方ねぇから許してやるよ!」
 小さな間を空けてから、カラカラとギルベルトは大きく笑い声を上げ、菊の頭をグシャグシャと撫でた。キャッと小さく悲鳴を上げてから、急いで乱れた黒髪を手櫛で整える。
 それまでの不機嫌っぷりはどこ吹く風、楽しげに鼻歌なんて歌いだす。楽しそうなギルベルトを横目で見やりながら、菊は己の胸に手を当ててほうっと安堵の息を吐き出した。しかし、やきもちは焼けど焼かれたことはないから、そこまで悪い気もしないなんていえば、彼は怒るだろうか。
 
 
 
05,仲直りをする
 
 
 大学卒業後、菊はドイツでの就職先を見つけ、ギルベルトも安定した職場に就いた。お互い社会人となったため、会える時間は狭まり下手すれば二週間も時間が経ってしまう場合もままあり、一度喧嘩なんかしてしまえば、会う機会も謝る機会と同時に減ってしまう。
 携帯の前で唸る兄を見つけ、ルートヴィッヒは小さな溜息を洩らしてソファの上に座る。アパート一室借りて一人暮らしを始めたというのに、ギルベルトは事あるごとに実家に帰ってきては一人で何やら喋っていく。
「……ルッツ、聞いてくれ」
「なんだ、兄さん」
 頭を抱えたまま呟く兄に、多少の面倒くささを覚えながらもルートヴィッヒは聞いてやった。すると嬉々としてギルベルトは顔を持ち上げ、今回の被害者は自分であることを富に主張し始める。
 その主張は口げんかの発端から過程を事細やかに伝えられ、ルートヴィッヒは上の空のまま適当に頷く。どうせ一カ月もしない内に元の鞘に収まり、今回の喧嘩のことも忘れてしまうのに違いない。今更別れる筈も無いのだから、一々喧嘩などしなければいいのにと、胸やけさえ覚えた。
 それまで大人しく聞いていたルートヴィッヒは、読んでいた本をパタンと音を立てて閉じると、ため息混じりに立ち上がる。
「明日、フェリシアーノ、本田、三人で昼食をとる予定なんだが……」
 菊の昼休みに時間を合わせ、短いながらも一緒の時間を持とうと思ったらしくフェリシアーノが声を挙げたのだ。ギルベルトは唇を尖らせて暫く逡巡していたが、溜息を吐きだし冷蔵庫へと向かう。
「ほんじゃ、フェリちゃんによろしく」
 裸足の足音を鳴らし、そのまま部屋へと引っ込んでいった後ろ姿を見送り、明日菊とどんな会話をしようかなどと頭の中で探る。
 
 フェリシアーノと菊がじゃれ終えるのを狙って挨拶をすると、彼女は少々気まずそうにそっと目を伏せた。その仕草にルートヴィッヒまでも気まずくなり、フェリシアーノが不思議そうに首を傾げる。
「あの、今日はちょっとお伝えしたいことがありまして……」
 フェリシアーノが口を開くよりも早くに、菊が言葉を紡ぐ。二人は微かに首を傾げて目を合わす。
 
 仕事を終えてだるい体を引き摺り家に着くと、玄関に向かっていやに重量感のある足音が聞こえてくる。出迎えてくれるなんて何年以来だろうと感動する間もなく、弟の機嫌が非常に悪いのに気がつき、靴を脱いでいる大勢のまま固まった。
「ええっと、なんだよ」
 原因を頭の中で探るけれど解らず、眉根を下げて手を挙げて見せた。ルートヴィッヒは眉間に深い皺をよせ、小さく首を振る。
「本田の話は聞いてるか?いいや、聞いていないだろうな」
「菊?」
 自分から連絡出来ないため、間接的にルートヴィッヒを通して伝えようとしたのだろう。お互い頑固で恥ずかしがり屋だから面倒くさい。
「菊がなんだよ」
 菊の持病の事も相まって、食らいついてくるギルベルトを押し返し面倒くさそうに手を振った。
「本田はこれから日本に帰るらしいぞ。父親が倒れたらしい」
「……はぁ?オレ聞いてないぞ!」
 踵を返すルートヴィッヒを慌てて追いかけても、弟は「それ以上は知らない」と、眉間の皺を更に深くさせて唸る。普段であれば帰宅後真っ先にシャワー室に行く筈のギルベルトは、携帯を掴んでそのまま自室へと引っ込んだ。
 数度躊躇ってから掛けると、いくらかのコールの後に菊の声がする。十数日ぶりの声に安堵をおぼえながら、しかし出てくる言葉は前の喧嘩の延長戦のようなものばかりだ。
『もう、用が無いなら切りますよ』
「いや、ていうかお前オレに言うことあんだろ」
 電話の向こうに居る菊が、盛大に顔を顰める姿が目に浮かぶ。出来れば直々にその頬を摘まんでやりたいのだが、距離も喧嘩している今の心境も遠く会いに行けない。
『日本に帰るっていう話ですか?だって、この間ギルベルトさん、私とは別れるって言ってたじゃないですか』
 電話の向こうでパチン、パチン、と爪を切っている音が聞こえてくる。これは相当怒っていらっしゃると気がつき、隠れてそっと蒼くなった。
「言葉のあやとか、そういうのあんだろ」
 ギルベルトの弁明に、電話の向こうで菊の重い溜息が聞こえる。
『日本には帰りますけど、直ぐに帰ってきますよ。私にもお仕事がありますしね。……では、明日も早いので』
 仲直りの隙間も与えずに、電話は無情にも切られた。非常にドライな仕打ちに涙目になりながら、携帯をベッドの上に放り投げる。いつ発つのか、いつ帰って来るのかさえ不明瞭のまま切られてしまったけれど、いつ発つのかぐらいはルートヴィッヒでも知っているだろう。
 しばらく布団に顔を埋めて固まっていたけれど、ようやく顔を持ち上げると放った携帯へ腕を伸ばした。
 
 大勢揃ったメンバーを見やりながら、菊は眉根を下して照れ臭そうに笑う。たかだか里帰りに、よくもこんなに揃った者だと半ば呆れながら、彼らが持ち寄ったプレゼントやら手紙やらを受け取る。
 最後に立っていた恋人を見やると、彼は非常に不機嫌そうな様子で菊の好物であるお菓子を差し出した。しかも淵が空いているのに全員が苦笑をする中、菊も苦々しく笑ってそれを受け取る。一応、立派な仲直りの印のつもりらしい。
「いいか、機内で食えよ」
 憮然とした言葉に曖昧に頷くと、ギルベルトはもう一度先の言葉を繰り返す。持ち込みのバッグに押し込み、挨拶もそこそこに菊は搭乗口へ向かった。
 みんなが手を振るのに、一人そっぽを向くギルベルトが多少気がかりではあったけれど、日本に着いたら真っ先に電話をしてやろう。いい加減、つまらない口げんかをしているのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
 持ち物検査を終えて搭乗、離陸してからなんとなしに皆から貰った物を取り出す。フェリシアーノからのブローチ、ルートヴィッヒからのぬいぐるみ。アーサーから貰ったスコーンは危険物としてひっかかる可能性があったのでトランクに詰め込み、フランシスから貰ったマカロンは搭乗を待つ間に食べてしまった。
 最後にギルベルトから貰った飴の袋に手を突っ込む。突っ込んで直ぐに、指先が異質なものを撫でた。取り出して眺めれば、それは慣れない、けれども見たことのある小箱である。
 直ぐに胸が跳ね上がるのを覚えたけれど、どうにか落ち着いて小箱の蓋を押し開ける。静かで暗めな機内と打って変わって、眼の前には綺麗な銀の指輪がちょこんと収まっていた。小さなダイヤモンドが一つ、キラキラと輝いて菊の目にうつった。
 小箱の中に一緒に押し込められていた紙片に気がつき取り出すと、紙一杯にギルベルトの几帳面な文字が並んでいる。
 
『Bitte Heiraten Sie Mir.』
 
 思わず溢れ出そうになる笑みを押し殺すと、小箱から抜き取って左の薬指に通して見る。11時間後、彼にどんな言葉で承諾の電話をいれようか、そればかりで胸が一杯になった。
 
 
 
 
みんなが忘れ去った頃の、敢えての更新どやぁ!!……すみません、忘れてました。