光の世界

 

 

『Schatz』
 
 
 
「んだよ、本当に一部屋も空いてねぇのか?」
 不機嫌な夫の声に驚き、ギョッとして菊は声の先を見上げた。菊には見えていないがホテルの従業員も驚き、思わず一歩退いた。
「ええ、すみません。列車に乗っていた乗客さんがみんなお見えになったんで……」
 列車が故障で止まってまだ一時間程度しか経っていないけれど、小さな貧しい街の宿屋は既に乗客で満員になってしまったようだ。引っ越し中だったギルベルト達の両腕には既に沢山の荷物が抱えられ、連れの菊にはありありと疲れの色が出ている。
「チッ、行くぞ」
 眉根を下して心配そうな表情を浮かべていた菊の腕をとり、宿を後にした。太陽は傾き始め、街中の噴水には途方に暮れた人々が腰をかけている姿が目にとまる。
 街中では治安やゴミを漁る野犬が心配だ。第一菊は懐妊中でまだ安定期にさえ入っておらず、今日は菊の兄が出張で近場に来ていたから会いに行くはずだった。本来ならば豪勢な部屋のふかふかなベッドで盛大にじゃれ合い(恐らく耀に邪魔される)、眠る予定だったのに……
 その上空には雨雲が立ちこみはじめ、空を薄気味悪く染め始めている。もうひとつ舌うちをすると、菊の腕を引いて黒い影を落としている森の中へ足を踏み入れた。熊の類が出るという話も聞かないし、止まることの多い列車と聞いていたために一応簡易テントも用意している。
「菊、体は大丈夫か?」
 騎士団時代に培ってきた手早さで野宿の準備を終えると、テントの中に毛布を敷きつめテントの前の土をならし、火をおこす。街中で買ってきた魚に塩ふり枝で串刺し、パンをテントの中にいる菊へ手渡した。
 菊は疲れの色はあれど、笑顔で一つ頷きパンを受け取った。ハーブを入れて捏ね、真中に山羊のチーズを入れてある。相当おいしかったのか、菊は途端顔を綻ばせた。
「明日のは朝には直すっつてたから、朝一で行ってゆっくり寝ようぜ」
「はい」
 楽しげに笑う菊に笑顔を返し、焼けた魚を菊に手渡し自身も齧りながら、明日の朝のためにスープを拵えた。魚も食べ終えた頃には長旅に疲れた菊はうとうととし始め、火を土で消すとギルベルトもテントの中に入る。
 大体もとよりギルベルトはこの旅行に反対だった、いや、今も反対だ。耀はギルベルトが菊をさらった事を快く思っている筈も無く、いじいじといびられるのは眼に見えている。その上菊はまだつわりもあるし、体を壊せば流産だってありえる。
 一人もだもだと考え始めたギルベルトの服の裾を引っ張り、仰向けにねっ転がっていた菊が不思議そうに見上げていた。体を動かしギルベルトの膝に乗りかかると首を傾げる。
「寝ないんですか?」
「……寝る!」
 ぐしゃぐしゃと頭を撫でると、持ってきた一つの毛布に二人で入る。少々肌寒いけれど、くっつけば風邪などひかなくて済みそうだ。
「ほら、もっと寄れって」
 背を軽くたたくと、嬉しそうな様子でピッタリとギルにくっつき目を細めた。ランプの火を落としてほんの数分、大分疲れていたのか暗闇の中直ぐに彼女の寝息が聞こえてくる。
 目をつむって菊の寝息と外の物音に耳をすますこと数時間、雨音にまぎれて聞こえてくるざわめきに顔を持ち上げる。同様、菊も目を覚ましジッと耳をすまし、テントの外を窺う。
「いいか、絶対喋んな。毛布の中でちっちゃくなってろ」
 頭を撫でてから暗闇の中探って唇に指を押し当てた。表情は解らないが、新しい命を宿しているために自己防衛本能が上がっているのか、彼女は素直に頷き毛布を手繰り寄せる。その姿を見届けてからテントのチャックを開けた。
 テントの外に出ると闇に目が慣れていたギルベルトには強すぎる光が差し込み、思わず目を細めてから前方を睨む。数人の男達がランプを持って立っている。一見すれば見回りだが、各々手に持っている物と人柄を見れば物騒な内容だと直ぐに解る。
「列車が停まるたびにこんな事してんのか?」
 護身用に持ってきた愛刀を引き抜き鞘を地面に投げ捨て、挑発的な笑みを浮かべて身構えた。貧しい街では、旅行客から奪うのも大きな収入源となるのだろう。
 テントを背に男の数を数え、素早く射程距離の中へ踏み込む。ギルベルトの早さに驚き怯んだ男の鳩尾に拳を入れ、ヒラリと身をひるがえして今度は剣の背で一人なぎ倒す。強く踏んだ枯れ葉は舞い、驚いた男の手からランプが落ち、足元の枯れ葉が燃え上がる。
 所詮は何の訓練もしていない男達だ、ギルベルトの動きにはついてこられるはずもない。赤子の手を捻る、なんて言葉が頭の中に閃き思わず笑みを浮かべ、次々になぎ倒していく。悲鳴を上げて逃げ惑う男達を目の端で追いかけながら、追いかけるべきか一瞬考えほっておくことにした。
 闇は深いが、じりじりと立つ炎が辺りを照らす。じっとりと汗が滲み、久しぶりに握った剣のために掌は微かに痛むが、爽快感に心は弾む。きっとこんなギルベルトを菊は悲しむだろうと思いながらも、また一人地面に沈めた。
 残りの人数も片指におさまる程になり、思わず手の力も緩んだ瞬間、聞きなれた声色が小さくギルベルトを呼んだ。動きを止めたギルベルトの前に、ナイフの切っ先を喉元に当てられた菊が身を縮めて眉根を下している。
 再び舌うちをすると、立ち竦んでいたギルベルトは剣を投げ捨てて両腕を上げる。
「……金はオレの腰に付けてある」
 腰にくくりつけた袋を示すと、近場に居た男が恐る恐るギルベルトに近寄ると、腰に括りつけられた袋に手を付けた。荷物には分けておいた財布の中のお金があるし、耀に言えばいくらか貸してもらえるだろう。
 一つため息を吐き出しながら、捕まったままの菊を見やる。当てられたナイフの切っ先が白い首筋に当たり、うっすらと赤い線が滲んでいた。
 離れ際に頬を思いっきり殴られ、意識が一瞬飛び地面に倒れ込む。口の中が切れて鉄の味がし、唾を吐き出し口の端を拭う。
「ギルベルトさん!」
 悲鳴が響き慌てて立ちあがるが、衝撃でまだ足が立たずに地面に手をつける。目線の先には、先ほどの男の腕の中に抱きあげられた菊が両足をばたつかせていた。
「おい、金はやっただろ!」
 声を荒げたギルベルトの首根っこを掴み、今度は腹部を思いっきり殴られ思わず声を漏らす。菊が何度もギルベルトを呼ぶ声が、頭がぼんやりとしてその声も遠くに聞こえる。焦りでそのまま痛みも遠のき、全身に冷たい汗がじんわりと滲む。
 ギャッと声が上がり、そちらを見やれば菊が思いっきり男の腕に噛みついている。慌てて男は腕を離すとそのまま菊は地面に落ち、直ぐに立ちあがる。
「菊、こっちだ!」
 痛みも何もかもを忘れて叫ぶと、一間の躊躇も無く菊は駆けだす。一度つまずき状態を揺らすけれど、どうにか立ち直して駆け抜けギルベルトの腕の中に飛び込んできた。きゅうっと抱きしめると、彼女を背中に隠し地面の剣を掴んで身構える。
 男達は一瞬戸惑った様だが、残りももう数人しか残っておらずギルベルトとの戦気ももう無いらしい。散り散りになる男達を見送り、構えていた剣を下してようやく安堵のため息を吐き出した。
「金、取られちまったな」
 地面に落ちている眠った男達を見やり笑いながら言うと、しょぼんと菊は項垂れて「ごめんなさい」と小さく呟いた。
「いや、言っておくけどお前のせいとかじゃないかんな。んなことより大丈夫か?」
 頬についていた汚れを擦って落とし、首筋傷跡に指を這わせた。指の先に血が少し付着して、ギルベルトの腹の中を一気にムカムカとさせる。そんなギルの様子に気づかず、菊は笑顔を浮かべて一つ頷くものだから、ギルの心をようやく和ませる。
 もう一度抱きしめると、互いに汚れた衣服を着替えてテントを畳む。地面に倒れた男達は未だ気を失っているが、仲間が様子を見に来る可能性は高い。日はまだ上がっていないが、時間からしても空が白ばみ始めてくる頃だろう。菊の手を引きさっさとその場を後にした。
 始発までほんの三十分程度で、既に数人列車を待つ人と一緒にベンチに腰掛けた。疲れが出たのか、ギルベルトの隣に座っていた菊はうとうとと体を揺らしている。肩に腕を回して引き寄せる、一瞬菊は驚き目を覚ましてから小さく笑って、犬ねこの様に身を擦りゆったりと目をつむる。
 
 
 
 忙しいチャイム音が聞こえ、召使いの類よりも速く玄関へ駆けだすと、扉を勢いよく開く。が、浮かべていた笑顔は瞬時に消え、ぽかんと立ち竦んだ。
「ベッド借りるぞ」
 挨拶もせず、靴も脱がず、何だかぐったりとした菊を横抱きにしたまま、ギルベルトは耀宅へと入って行った。
「って、菊どうしたアルか!?」
 毛布が掛けられているために顔が見えず、ぴょんぴょん跳ねる家主の耀を置いて部屋へと勝手に進んでいく。
「疲れが出てんだ。寝れば治る」
 列車の中でも固い椅子に座りっぱなしで疲れたらしい、着いた頃には立ちあがれなかったわけではないが、気分がすぐれずにギルが抱きかかえて耀の家まで連れて来た。耀は未だ飲み込めていないらしいが、茫然としたまま客室へと案内した。
 大きな部屋に大きなベッドが置かれ、何やら彼女のためらしき衣服も置かれている。カーテンを引いてベッドの布団をめくるとベッドの前で靴を脱ぎ、彼女の靴も脱がして二人揃って潜り込む。いい加減ギルベルトも疲れて、ひと眠りしたかったところだった。
「ギルベルトさん……着いたんですか?」
「ああ、着いた」
 薄暗い中目を覚まし、ぼんやりとした黒い瞳がギルベルトを覗きこむ。布団を引き寄せて寝床を作りながら、黒く艶やかな髪を撫でて目をつむると直ぐに眠気が訪れる。
「兄さんは?」
「ん、後でな」
 ぼんやりとした声色で呟く声に、自身もぼんやりとした言葉を返して背を撫でた。
 
 目を覚ますとここがどこか、更に何時かも解らずに上半身を持ち上げる。途中絡みつくほどに抱きしめられていた腕を取り除いたから、ギルベルトと一緒に眠っていたことは解る。これで夫と一緒で無かったら、それはそれで大問題だが。
「んー、起きたか……」
 眠たそうに目を擦りながら、ギルベルトが大きく伸びをするのが解る。「おはようございます」なんて返すけれど、時間も解らないから言ってから小さく首を傾げた。
「もうじき夕飯か?何か食べられそうか?」
「そうですね……少しお腹空いたかも」
 照れて笑うと菊の腰に腕がまわり、強い力で立ちあがらせられる。髪と衣服を整えられ、腕をとって歩き出す。廊下へ出ると直ぐに誰かが駆けてくる音が聞こえ、ワッと声が聞こえぎゅっと抱きしめられる。思わず腹部を護るが、懐かしい心地に警戒を解く。
「菊!体、大丈夫アルか?どこか痛い所ないか?」
 子供のころの様に頭を撫でられ、おいしそうな夕食の香りが漂ってくる。