ひまわり
 
 
 幸福な一歩
 
 
 
 いれたてのホットミルクに口を付けながら、ぼんやりと外から聞こえてくる音楽に耳を傾けていた。日曜日の朝は広場に大勢ひとが集まるため、絶えず大道芸の類がやってきては、賑やかにしていってくれる。それが菊にとって楽しみでならない。
 毎朝早くに起きなければならないギルベルトは、日曜ばかりは太陽がすっかり昇ってから眼を覚ますため、まだ起きてきていない。見えもしない窓の外を眺め、嬉しそうに頬を緩めた。
「おはよ」
 寝室の扉が開くのと同時に、欠伸交りのギルベルトの声がする。正確な位置は解らないけれど、声の方を向いて挨拶をすると、左頬にチュッと軽い音を立てて柔らかな感触が当たった。
 大きな欠伸をもう一つすると、ペタペタ足音をさせながら彼は台所へと向かう。音を立てて火が灯り、いつものコーヒーをひき始め、ギルベルトの朝の薫りが部屋に充満する。空になったマグカップを机に置くと、菊は少しばかり身を乗り出して窓の向こうを覗きこむ。
 光景は何も見えないが、当たる風が雄弁に今日という日がどんなものなのか教えてくれる。春先の暖かい心地がふんわりと包み、うっとりと一つ溜息を吐きだす。
「おら、あんまり乗り出すなよ」
 お腹に腕を回されて引っ張り戻されると、椅子に戻される。ただ背もたれと菊の間にギルベルトが割り込んで座っているため、追いやられて前の方にちょこんと座るしかない。
「すげぇ人だな」
 窓の下には八百屋の屋台が軒を連ね、人々が活気に満ちて行きかっている。頭の上から漂うコーヒーの香りを嗅ぎながら、広がっているだろう光景を思って再び嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「子供も沢山いますか?」
 音楽の次に子供の笑い声が好きだ。嬉しそうな問いかけに、ギルベルトは体を乗り出し、声に出しながら子供の数を数えて行く。しかし到底数えきれるはずもなく、途中で投げ出して声を上げて笑う。
 ギルベルトは腕を伸ばして机の上にコーヒーが入ったマグカップを置くと、菊のつむじにキスをしてから抱きつき、肩に顔を埋める。
「朝ご飯は?食べるでしょう?」
「ん……」
 ギルベルトの髪の毛を指先で遊びながら問うと、彼は返事しながらも尚菊にくっつき、身を猫の様に摺り寄せた。もぞもぞと菊の腹部の上で蠢く両手に、菊も居心地わるそうに身をよじる。
「今日は、お出かけしなくてもいいだろ?この間は一杯遊んだもんなぁ」
 太ももを撫でられ、菊は小さく飛び上がった。この間の休みは、菊が移動動物園に行きたいというから連れて行った。一日中歩きまわりすっかり疲れ、次の日筋肉痛のまま通勤するはめになったのだ。
 ギルベルトは一度腕を離して窓を閉めると、身を捩って唇同士を合わせる。返事をする時間も無かったのに、菊は少しばかりむくれた様子で抱きしめられるままにしていた。
「今日は一日中二人っきりで居ようぜ」
 耳を食まれながら、されるがままにギルベルトにもたれかかる。ヘソの下を撫でていた両掌が、そのままするすると上に上がり菊の乳房を包み込む。ギルベルトの大きな掌には少し物足りないが、彼好みの綺麗な形をしている。
 やわやわと服の上から感触を楽しんでいると、それまで少しむくれた様子だった菊の呼吸が上がり、ギルベルトのズボンをギュウッと握りしめる。まだパジャマから着替えを済ませていなかったため、布越しにも突起物の感触がありありと判った。
 服の裾から手をさしこみ胸に直接触れると、菊は小さく鳴いて身を捩る。外の楽しげな午前の雰囲気とは裏腹に、お互い薄暗い興奮にすっかり頭をのぼせさせていた。
 やわやわと胸の感触をいつまでも楽しんでいるギルベルトに、もぞもぞと居心地悪そうに菊が体を動かす。一度胸部にいった手は中々下におりてこず、いつもならとっくに次の行程へと進んでいる筈なのだが、いつまで経っても彼の大きな掌は胸部で遊んでいた。
「……ギル」
 身を半分捩って訴えかけると、呑気なギルベルトの声が返って来た。
「お前のおっぱい、やっぱちょっとちっちぇよな」
 ケセケセと笑う声を聞き、菊が完全に固まる。「あれ、もしかして怒ったのか?」と言いわけを言おうと口を開きかけたギルベルトを遮り、勢いよく菊は立ち上がった。先ほどまで暖かで柔らかな物を楽しんでいた掌が空を揉む。
「ち、小さいんですか?小さいとダメなんですか?」
「いや、ダメってわけじゃねぇよ」
 立ち上がった菊の腕に手を伸ばすが、彼女は動かず何か思案するように己の唇に掌を当てている。
「エリザさんの所へ参りましょう」
 不意にだされた名前に、ギルベルトはギョッと目を剥いて嫌そうな顔をした。エリザは幼い頃からギルベルトと知り合いであり、今はやはり知り合いであったローデリヒと結婚し、ローデリヒの趣味で各地にクラシック楽団して巡っている。
 今は丁度この街に来ており、一度会いに行ったところエリザベートと菊は非常に仲が良くなった。ギルベルトは幼い頃エリザベートに恋心を抱いていたことも、そしてローデリヒに口うるさく文句を言われるのを疎ましく思いこともあり、出来るだけ近寄らないようにしている。
「……オレがお前の胸の事言ったなんて、エリザに言うんじゃねぇぞ」
 しかし、菊は一度言い出すと撤回しない、頑固者だという事をしっているため、甘い休日を諦めて立ち上がる。どうせ殴られるのはオレなんだからな、と文句を言いながらも外出用の服を取り出すと菊へと手渡す。
 
 久しぶりの再会に女性陣はキャッキャと声をあげるが、ギルベルトとローデリヒは二人とも不服そうな様子で対面した。ギルベルトがローデリヒの文句を疎ましいと思うのと同時に、ローデリヒは文句を言うことさえ疎ましいらしい。
 菊とエリザが部屋に引っ込むと、無言のままギルベルトとローデリヒは対面して坐った。先に口を開いたのは意外にもギルベルトだ。彼は出された紅茶に口を付け、一息おいて心を落ち着かせてからだった。
「あのさ、お前ガキとか作る気ねぇの」
「子供ですか?」
 予想外の言葉に、ローデリヒは眼鏡の奥の目を細める。
「そうですね……いつかはと思っていますが、いかんせん子供がいたら移動できませんからね」
 ローデリヒ自体子供は嫌いでは無いが、高価な調度品が家に多数あるし、楽器なども子供の手の届かない場所へと移動しなければならない。
「なんです、子供が欲しいんですか?」
「……ん」
 恥ずかしいのを誤魔化すように、ギルベルトは盛られていたクッキーを一枚摘まみ齧る。菊が喜びそうだから、いくらか袋に詰めて持ち帰ろうなどと考えていた。
「ならば定住しなさい」
 きっぱりと言われた言葉に、ギルベルトは眉間に小さな皺を寄せる。「まぁ、そうなんだけど」と口ごもりながら、もう一枚クッキーを齧った。
「……結婚してんの、お前ぐらいしかいねぇし」
 ギルベルトの他の友人を思い出すと、全員ヘラヘラと独身を楽しんでいる人間しかいない。ローデリヒも同様、ギルベルトの友人を思い出したのか、小さく肩を竦めてみせる。窓からは燦々と太陽の光が差し込み、今日一日の楽しみにしていた休みが潰れたのを、ようやく惜しく思えて来た。
 
 紅茶の薫りが高くなるのを感じながら、菊は椅子に座った後そわそわと小さく動く。
「それで?どうしたの、今日は」
 にこにことほほ笑みながら紅茶を差し出すと、菊はもじもじと受け取った。歳はエリザベートよりも上だというのに、姿形も好奇心が旺盛なのも、自分よりずっと年下に思えてしまう。
「えっと……エリザベスさんは赤ちゃん欲しいですか?」
「あ、赤ちゃん?」
 頬を赤くさせた菊が、俯いたまま頷く。ほんの少しの間をあけて、エリザベスはクスクスと喉を鳴らして笑う。
「なに、欲しいの?」
 きゅうっと体を小さくさせ、顔を赤く染めながら菊はコクコクと頷く。少しからかおうと思っていたのだが、そんな姿を見ていると可哀そうになってくる。
「そうですねぇ、出来れば欲しいかな」
 エリザベスの言葉に、途端菊は眼を輝かせて笑う。少女の様な笑顔に押されながら、用意していたココアを手渡し隣のソファに腰を下ろす。マシュマロを浮かせたココアを嬉しそうに口に含み、小さく喉を鳴らして笑う。
「あ、あの、それでですね……」
 再びモジモジと居づらそうにする菊に、いっそわくわくしながら問いかける。言いづらそうに、そして心底恥ずかしそうに、「あのぅ」と小さく呟いてから意を決した。
「胸が小さくても、子供はできますよね?」
「えっ」
 一瞬驚いた後ひとしきり笑ってから、エリザベスはギルベルトの顔を思い出して、思わず眉間に深い皺を寄せる。
「なぁに、ギルベルトの奴に何か言われたの?」
 エリザの声色の刺があるのに気がつき、菊は慌てて頭を振った。しばらくもぞもぞとしていたが、最終的には何も言わずそのままカップを口に付けて黙り込む。
「あのね、菊ちゃん。世の中には菊ちゃんより小さい人もいるし、気にすることじゃないと思うの」
「触らせて下さい」
「……え」
 聞き間違いではなかろうかと聞き返すが、菊はキラキラと輝く瞳でジッと見つめてくる。それは聞き間違いでも冗談でも無いらしい。例えばふざけて触ったりするのならばいざしれず、面と向かって触らせてほしいといわれて差し出すものではないだろう。
 えーと、えーと……と口籠るエリザベスを余所に、菊は小首を傾げて身を乗り出した。
 
 
 
 眠たそうな目を擦りながらローデリヒが弾くピアノの音を聞いていると、控えめなノックの後にエリザベスがそっと顔を覗かせる。次いで菊がピアノの音を嬉しそうな様子で聞いている姿が見え、ギルベルトは頬を緩めて立ち上がった。
「菊、帰るか」
 ようやくこの時間から解放されるのかと思うと嬉しくて、ギルベルトは笑みを浮かべて彼女に近寄る。しかしギルベルトの声が聞こえると、途端にしょんぼりと眉根と肩を落とす。
 あれ、と立ち止まって菊とエリザベスの顔を交互に見やるけれど、エリザはなんだか何とも言えない表情を浮かべている。
「もうお帰りになるのですか?」
 ギルベルトにではなく菊に向かってローデリヒが声をかけると、菊は再びふんわり笑顔を浮かべて一度頷く。礼儀正しい所が気に入っているのか、他人に厳しいローデリヒは珍しく笑顔を浮かべてお土産に包んだクッキーを持たせた。
 時計は既にお昼の時間は過ぎており、朝食も食べていなかったギルベルトは胃が鳴る。楽しそうな家族連れだったりカップルの合間を抜け、沢山の人でごった返す広場を歩く合間にサンドイッチやら菊好みのお菓子を買っていくが、やはりあまり元気が無い。
「……怒ってんのか?」
 怒っている、というのとは少し違うとは思っていたけれど、エリザと喧嘩したという事も考えにくく、恐る恐る聞けば菊はフルフルと首を振る。それから組んだ腕に身を摺り寄せてポツリと呟いた。
「エリザベートさんの胸、私よりも大きかったです……」
 盛大に噴き出すギルベルトと、更にしょんぼりとする菊。エリザの胸部を思い出して「確かに」と頷けば、益々菊は項垂れるものだから、苦笑を洩らしてガシガシとその頭を乱暴に撫でる。
「胸はでかければでかいほど垂れるからな」
「なんですか、その慰め方……」
 組んでいた腕をスルリと抜け出すと、杖を組んでいた右手に持ちかえる。行き場を無くした手を菊の肩に回して抱き寄せると、小さく「歩きづらい」と文句を言うだけで後は大人しく一緒に歩を並べた。
 姉妹らしい子供が楽しそうな笑い声をあげ、二人の横を抜けて行く。菊は見えない目でその子供たちを追いかけるのを見やり、抱き寄せた頭に頬を押し当てた。
「帰って飯食ったら、今度こそ休日満喫すんぞ」
「でもちっちゃいですよ」
「本当馬鹿だな、お前は」
 むくれた菊の頬を潰して、いつも通りの軽い笑い声が耳元で聞こえてくる。まだ少しばかりへそを曲げていた菊も、その笑い声につられて思わず頬を緩めた。