『Schwanesee』
 
 
 
 眼を細めて眉根をキュッと持ちあげた姿は、愛嬌はあれど決して勇ましくは無い。菊は日本国の化身であり、ギルベルトの元へは国家として外国と付き合うための勉強に来た。
 まさしく深窓のお嬢様らしく、プロイセンに留学してきたばかりの彼女は、ほとんど何も知らない状態であった。何を見せても驚きと感嘆の声を上げ、子供の様にどこかへ飛んでいってしまいそうである。正直、彼女よりずっと年下なルートヴィッヒよりも落ち着きが無い。最近では少年の姿のルートヴィッヒが菊と遊んでやっている様にさえ見え、微笑ましいのか情けないのかも良く判らない。
 好奇心が強く、素直なのだが頑固で負けず嫌いのため、西洋の武術などを習っている時は『女だから』と言われるのが何よりも嫌いであった。
「どうか私の事は、男と思ってくださいませ」
 そう胸を張って言うけれど、どう頑張っても男には見えない。更にムキになられても困るから、適当に頷いて見せれば、菊は満足そうにアーモンド型の瞳を細めさせる。
 今日は数度目の休日であるのに、最初に述べたように眉根をキュッと持ち上げ、菊はギルベルトを見上げていた。休日はいつもルートヴィッヒと遊ぶように言っていたけれど、今日は珍しくプロイセンの街並みを見て歩く約束をしていたのだ。
 彼女はいつもの軍服を身にまとい、そのままの姿で町を出歩くつもりだろう。ギルベルトが溜息を吐きだすと、菊は眼を真ん丸にして不思議そうに顔を傾げた。
「そんな格好で街を歩くわけにはいかないだろ。ドレスは?」
 持ってないと知りながら問いかけると、彼女は眉間に小さな皺を寄せて訝しそうに首を振る。こちらに来てからは、短い黒髪を更に縛って女性らしい姿は見たことが無いかもしれない。
「そうだと思って用意しておいたぜ」
「ええ!まさかそんな……お手数をおかけするわけにはいきません」
 背の高いギルベルトに合わせるため、ほんの少しだけつま先立ちして主張するが、鬱陶しそうギルベルトは右手を振る。子供の様な扱いに菊はムッとしながら、それでも素直に足の裏を全て地面に降ろす。
「て、もう買っちまったんだって」
 使節として菊についてきた人々に彼女の身長を尋ね、ギルベルトも使っている王家御用達の職人に頼んでおいた。正直いうと、菊を驚かせたいという気持ちは確かにある。
 「ではお品代を……」と言う菊を無理矢理着替えが置いてある部屋に詰め込むと、メイドを呼んで着替えを手伝うように申しつけた。暫くすると中からコルセットを絞められて上げられる、苦しげな鳴き声が聞こえてきたため、ギルベルトは楽しそうに笑い声をあげる。
 今回頼んだのは今まで流行っていた横幅の大きなクリノリンドレスとは違い、背中の部分がこぶの様に膨らんだバッスルドレスなるものらしいが、流行に疎いギルベルトはあまり詳しく知らない。ただ色だけは白を基調にするよう頼んでおいた。
「あ、あのぅ……」
 ソファに腰深く坐って本を読んでいたギルベルトに、躊躇いがちに声が掛けられる。振り返れば、扉から顔だけを覗かせて、疲れた顔をした菊の姿がある。
 苦笑を浮かべて来い来いと手招くと、おずおずと姿を現す。白を基調に、小さな赤い花の刺繍がいくつも縫われたドレス、そしてワインレッドに白い羽を付けた帽子を被っている。いつもとあまりにも違う格好に、思わず笑い声をあげると、菊は顔を真っ赤にさせて思いっきり頬を膨らませた。
「やはり、これは……」
 むくれてタコのようになった菊は、むくれたまま部屋へと戻ろうとする。その腕を掴んで引き摺りだすと、ポカポカと猫パンチを胸に食らうが、痛くもかゆくも無くケセセと笑い声をたてた。
「ケーニヒス湖に行くぞ。予定は組み終わってる」
「湖……ですか?」
 街中、ときいていたので、その辺をグルリと回るぐらいだと思い込んでいた。そんなキョトンとした瞳に笑いを浮かべ、小柄な彼女を容易に包み込むように肩を組んだ。
 無理矢理肩を組まれ、そのまま馬車の中に詰め込まれた。最初は頬を膨らませていたけれど、窓の向こうに見える景色が次々と変わるのが嬉しくて、やがて目を輝かせて身を乗り出す。落ちないようにスカートの裾を掴んだまま、矢継ぎ早に彼女の口から飛び出す質問を一つずつ解消してやる。
 やがて見えて来た濃い緑に、菊は声も無くうっとりと目尻を下げた。緑色はどの国も変わらず、異国の森さえ菊にとっては懐かしくてたまらない。嬉しそうにギルベルトを振り返る菊に、ギルベルトも頬を緩めた。
 馬車を停めて直ぐ飛び出そうとする菊を留め、先にギルベルトが馬車から降りる。そして戸惑う菊に向かって腕を手を伸ばすと、どうしていいか解らずに立ち竦む彼女の手をとった。
「二時間後ぐらいに来てくれ」
 馬車を運転していた主にそう言うと、さり気なく菊と腕を絡ませる。菊は眼を丸くしてその腕を見やるけれど、海外では女性をエスコートするのは常識であり、癖の様なものかもと一人納得した。
 湖は静かで、人影は一つも無い。遠くに見える山々と青い空、そこに掛るいくらかの霧が、静けさを増している。菊は『誰か』が人払いをしたという考えは微塵も無く、綺麗な光景にただひたすら嬉しそうに目をキラキラと輝かせていた。
 昼飯にと思っていた、サンドイッチを詰めたバケットをまず小舟に置くと、ギルベルトが乗り込み再び腕を伸ばす。微かにオールが軋む音をたて、小舟はゆっくりと湖面の上を滑っていく。羨ましそうに菊はギルベルトがオールを握る姿を見ているが、そうだと知りながらギルベルトは漕ぎ続ける。
 初夏の湖は、噎せるような緑の薫り以上に、水の薫りが高くどこまでも精悍に感じられる。そうだ、一緒に日傘でも買ってやればよかった、と思いながら、じきに彼女は自国へ帰ってしまうのを思い出す。
「静かですねぇ」
 目を細め、嬉しそうに彼女は呟いた。燦々と降って来る日差しは決して強くなく、日向ぼっこには丁度良い程度である。その心地に誘われて、ギルベルトは湖の真ん中で船を止めると青空を仰ぎ、そのまま横になった。
「休める時にゆっくり休んどけよ。お前はちょっと気を張りすぎなんだよ」
 瞼が覆い赤い目が隠れるのを見やり、菊は神妙そうに頷く。今にもメモでもとりそうなその顔に、ギルベルトは苦笑を浮かべて手招いた。
「片方に二人がいったら、沈んじゃわないですか?」
「ねっころがれば大丈夫だって」
 訝しそうな菊を暫く手招いてから、命令だ、といえば、やはり納得しきれない様子ながらに一緒に横になる。空を遮るものは何も無くなり、真っ青な抜ける様な空と白い雲が浮かんでいた。その長閑さに、ついウトウトとし始める。
「お前、いつ帰るんだっけっか?」
「ええっと……八日後です」
 うとうとし始めていたため、少し遅れて菊は返事をする。国の化身にしては、随分長い間海外に居ただろうが、そろそろ帰らなければ国の人々も心配しだすだろう。いかんせん、彼女の国民は非常に心配性なのだ。
 真っ白な鳥が一羽、真っ青で抜ける様な空を横切っていく。甲高い鳴き声が谷間に響き、震えて聞こえた。鳥の声と水の音、それから風が抜けて行く葉が擦れる音、それ以外静かすぎて、菊は溜まらなくなりギルベルトへと顔を向けた。
 ルビーに似た赤紫の双眼が真っ直ぐ菊を見やっていたため、驚き思わず顔を反らそうとするが、体が上手く動かずに彼の瞳を見返す。
「髪切って、軍服着て、胸潰して、お前は男にでもなるつもりかよ」
 喉を鳴らして笑った表情は、眉根を下していつもとはまるで違う。前に笑いながら聞かせてもらったエリザベータの事を思い出し、菊はいくらか胸の奥が詰まった心地がし、誤魔化すために懸命に言葉を捜す。
「女より男の方が、ずっと国民を守れるでしょう」
「……馬鹿だな、お前は」
 ギルベルトの動きにあわせて船が揺れ、景色は四方に動く。しかし菊の目に映るのは、ルビーの瞳と透き通る銀色の髪ばかりだ。
 柔らかな感触が唇にあたり、熱のこもった微かな電気が走って驚きと共にその胸を押し返そうとするが、押し返すだけの力は籠らなかった。ギルベルトの香水が今までよりもずっと深く薫り、頬に当てられた掌は熱い。
 離れると下から真っ黒な瞳がジッとギルベルトを見つめている。感情を読みとることはできないけれど、今のが単純な挨拶のキスなんかとはまるで違うことは、どうやら理解している様だった。
「どうして、今」
 菊の瞳に、薄い涙の幕が張る。しかしそれが粒となって転がる事は無いだろうと、ギルベルトは知っていた。彼女は容易に人前で泣いたりするのを嫌うのだ。
「今しかねぇだろ。お前は直にいなくなる。オレ達は明日どうなってるかも解らねぇ」
「私は、こんな事を望んでいた訳では……」
「お前の話はしてねぇ。オレの話だ」
 低い鼻筋をギルベルトの人差し指がなぞると、怯えと期待を交えた黒い瞳がギルベルトを覗きこむ。その唇にもう一度唇を合わせると、菊は押し返すことも無く受け入れた。
 抵抗されない事を密かに喜んだギルベルトは、数度のバードキスを繰り返す。ギルベルトが動くたびに、船は微かに揺れて静かな湖面にいくつもの波紋を描かせる。掌を合わせて指を絡ませると、菊を引っ張り上げて体をひっ付けてボートの上に座った。
 頬には赤味がさし、黒く潤んだ瞳はどこか遠くを見やっている。ギルベルトは彼女の零れ落ちたいくらかの髪を摘まみ、耳の裏へ通してやる。
「私達は、何か変わりますか」
 絡んだ指先に、いくらかの力が入った。ゆるゆると鳥が囀り、どこにも変化の無い一日が続いている。
「変わらないだろ」
 湧きあがる笑みを誤魔化し、頭を掻きながらギルベルトはぶっきらぼうに応えた。それから不意に「あっ」と、山の合間を指さす。
「な、何ですか?」
 目をキラキラさせて身を乗り出す菊を掴まえ、腰に腕を回し、耳元に音を立ててキスをする。菊は一瞬呆けてから、一気に頬を真っ赤に染めて恨みがましい目線を投げてくる。
「そんな急に来ないでくださいな、これだから此方の方は」
 ポコポコと頬を一杯に膨らませて怒る菊に、ギルベルトはクツクツと喉を鳴らす。
「オレ達にはもう時間ねぇだろ」
 顎を掴まれて顔を正面から合わされ、逃げ場も無くし、仕方なく菊はギルベルトの赤紫色の瞳を真っ向から見つめる。心臓が妙なほどに早まるのを覚えながら、どちらともつかずに溜息を吐く。
「いつ気がつかれたんですか?」
「ケッコー熱い視線送ってたぜ?」
 ギルベルトの言葉に益々顔を赤くしムクれ、無理矢理視線を反らす。その表情に“恥”がありありと表われており、つられてギルベルトまで恥ずかしくなる。
「……お恥ずかしい限りです。年甲斐も無く、人間の様に」
「お互いに想ってんなら問題ねぇだろ。上司がとやかく言える問題でもねぇし」
 菊は「そうでしょうか」と小さく呟き、ギルベルトの肩に頭を乗せる。割と長い時間共に居て、お互い冗談や気の迷いでこういった会話を交わす筈がないと知っていた。それと同時に、こういった思いが最終的に行きつく先を見いだせないのも知っている。
 しかし二人とも、絡んだ指先を離すことも出来ず、ただ青い空を眺め続けた。
 
 
 
 
 後半は倉庫行きにするつもりです(アダルティー)