卿菊

ギル菊 小話
 
 
 立っているだけで汗が噴き出す八月の中旬、空は相変わらず近く、蝉は叫び続けている。いつの間にかコンクリートジャングルと化したこの国では、下から照り返してくる熱気も凄まじい。
 ため息交じりに、ようやくたどり着いた邸宅を前に、呼び鈴を押す。左の人差し指が、灼熱の太陽に長い間晒されたプラスチックに焼かれ、あわてて手を離す。自身の国とはあまりにも違う気候には、それこそ世紀をまたいでも慣れはしない。
 いつもだったらすぐに聞こえてくる足音も返事も聞こえず、玄関先でギルベルトは首をかしげた。
 熱いのを我慢して数度呼び鈴を押し続けると、聞こえてくるのはカチャカチャとフローリングをかけてくる、愛犬である筈のポチの足音だ。やがて扉を前足で開き、ポチの小さな顔がギルベルトを心配げにのぞく。そしてギルベルトだと気が付き、即座に小さな耳を伏せてはしゃいだ。
「おお、ポチ、ご主人さまはどうした」
 カギもかけずに、いたところを見ると、家の中にはいるらしい。ポチに招き入れられ、中に入っていくと、窓は全て開け放たれていて意外と涼しい。名前を呼ぶが、蝉以外の声が一切しない室内に紛れ、返事も聞こえてこない。
 ズボンの裾をポチが遠慮がちに噛み、ギルベルトをどこかへと導こうとする。
 今を抜けて仏壇も通り、彼女の寝室を覗き込んで思わず声をあげた。スーツのままうつ伏せでいる姿は、どうみても生き倒れだ。
「おい、菊!」
 うつ伏せをひっくり返して抱き上げると、ダラリと体を垂らすが、うざったそうに微かに唸る。体を揺すって何度か呼びかけると、不意に腕が伸びてきて、ギルベルトの髪を優しく撫でた。
「うーん……ポチくん、あとで遊んであげるから……」
 完全にポチ扱い(というか寝ぼけてポチだと信じ切っているのか)され、安堵より腹立たしさが勝って、菊の頬を両側からつまみあげる。その痛みでようやく目を覚ました菊は、数度瞬きをしながらしげしげとギルベルトを見やった。
「あれ、ギルベルトさん……」
「あれ、じゃねぇ! 今日はちゃんとアポとっといただろうがよ!」
 軽くではあるが頭突きをして、声を荒げると、黒曜石の瞳を何度も瞬きさせ、納得してうなずく。
「まぁこんにちは。でも、今日はもう、御覧のとおりで……」
 崩れた化粧にしわくちゃなスーツ。客人が来るときはしっかりと準備を整える彼女とは思えない姿に、昨日夜遅くまで仕事で駆け回っていたことは、容易に想像できた。まだ何か言いたげにギルベルトの口は動くが、昔は自身も仕事に追われていた身としては何も言えず、菊を床に下ろすと立ちあがった。
 
 
 立ちあがった気配がすると、素足でペタペタと歩く音が聞こえる。居間でテレビでも見るのかと思ったが、彼の足音はあちこちを歩き回り、やがて外へと出て行った。
 ああ、帰ってしまわれたか。と内心で思うけれど、体が重くて立ちあがることもままならない。八月の中旬、この時期は公務がグンと多くなり、その上精神的にも非常に辛い。
 ギルベルトもその時期を狙ってやってきているのだとは解るが……
 次に意識を取り戻すと、アブラゼミの声よりもヒグラシの声が大きい。お盆も終わり、暑い中ゆったりと日本は秋に向かっているのだと、それだけで解る。部屋を抜けていく夕焼けの中の風も涼しさを孕ませ、心地がよかった。
 そこでようやく、畳の上ではなく布団の上に寝ていることに気がつく。服もスーツではなく浴衣を着ていたが、左前の上に帯がぐちゃぐちゃに結んである。
 立ちあがると長い間寝ていたかふらつき、壁に手をついて廊下へと出ていく。障子の向こうから小さなテレビの音が聞こえてきて、菊は顔をのぞかせる。机の前に座った彼は、ビールを片手にテレビを見やっていた。
「ギルベルトくん」
「おお、起きたか」
 当然怒ると思っていたのだが、ギルベルトはいつも通りの様子で菊を振り返る。手招きされるがままに彼とポチの横に座ると、バラエティー番組で大口あけて笑っている芸人を見やった。
 サラダに、ポテトのホイル包み、枝豆のスープと牛のもも肉のステーキ。随分と作ったものだと思ってから、自身の分も並んでいることに気がつく。
「顔色もよくなってんな」
 ほんの少しだけ目を動かしそう言うと、もう一口ビールをあおる。いくつか空き缶が並んでいるのを見ると、料理中から飲み始めていたのだろう。
「御蔭さまで……今日はすみません」
 軽く笑ってから小さく謝ると、後頭部をはたかれる。
「思ってんなら最初っから働きすぎんな、たまにはさぼれ」
 百年経っても変わらない物言いに、思わず笑みをこぼしてうなずく。なに笑ってんだ、と頬をつままれても笑うと、彼は諦めて隣のぽちへとちょっかいを出し始める。
「ああ、あと風呂沸いてるから」
 ポチの鼻先をつつきながら言う声に顔をあげると、部屋の端っこに洗濯物が積み上げられているのを見つけた。
「洗濯物まで済ましてくださったのですか」
「お前いつもは地味な下着なんだな。 なんか安心したぜ」
 驚いて声をあげる菊に対して、赤い瞳を意地悪に光らせて笑う。普段ギルベルトと会う時は服装も下着も選び抜いている(特に下着は彼の拘りが強く、仕方なく派手なのを買っていた)のを、彼に気付かれたのが恥ずかしくてならなかった。
 一瞬で顔を真っ赤にさせた菊を覗き込みながら、くつくつと喉を鳴らして笑う。その視線に耐えかねて立ち上がり、タオルと寝巻を掴んだ。
「一緒に風呂入ることで、今日の事ちゃらにしてやってもいいぜ」
「……髪、洗って下さるのならいいですよ」
 勿論直ぐに却下されると思っていたのだが、菊の言葉はその反対を告げる。一瞬呆気にとられてから、背中を向けて歩く菊へ走り寄った。
「隅々まで洗ってやるよ」
「それは遠慮します」
 抱きついて肩口に噛みつくギルベルトを押しやりながら、彼が洗濯したタオルがあまりにきっちりたたまれているのに気が付き、思わず頬を緩める。