きょーきく ※ この小説は菊女体化のギル菊パラレル小説となっております。


『空を見る』

 粗暴で、五月蠅く、軍事顧問として働いている時は厳しく、酒癖が悪い。飲み屋で働く女性を無遠慮に見やり、意外に潔癖症で細かい事を気にする。本気で怒ると逆に静かになって怖い。
 軍の少佐として働いていた彼、ギルベルト・バイルシュミットが士官学校の教官として派遣されたのは四月の事で、今は学校の寮の教官部屋に住んでいる。生徒がその部屋へ入ることは固く禁じられており、それは弟であるルートヴィッヒでも変わらなかった。
 優等生で通っていたルートヴィッヒは、兄が学校に派遣されてからというもの、益々勉学と技術に磨きをかけていた。まだ幼い14歳程の弟を、それはそれは可愛がっているのと同時に、厳しく躾ている。
 明日からクリスマスの一週間の休暇という放課後、寄宿所の門限までの数時間、暫く離れて暮らす友人たちとルートヴィッヒは町中をのんびり歩いていた。フェリシアーノ、ロヴィーノ兄弟とティノは例外に漏れず実家へ帰る。多くの子供たちと同様、ルートヴィッヒもまた実家への汽車の切符は購入していた。
 ルートヴィッヒは将来上官となるための騎馬クラスに属しており、クラスメイトの多くは同じように良い家の出であったり、軍を持っている大きな家の子息だ。しかしヴァルガス兄弟はプライドというものを殆ど持ち合わせておらず、毎日楽しく好き勝手に暮らしている。
「明日、ルートヴィッヒも家に帰るの?」
 フェリシアーノはキャラメルを包んだクレープを食しながら、楽しそうに喋り出す。兄のロヴィーノは、一人で行動したくないものの真面目なルートヴィッヒが苦手で、ティノと二人で少し離れてついてきている。
「ああ、朝一番の列車で帰るつもりだ」
 「俺もだよー」とのんびり言いながらも、部屋は散らかり放題になっているフェリシアーノとは対照的に、ルートヴィッヒは既に荷物をきっちりまとめていた。懐かしい我が家に帰るのは、幼い少年たちには待望の事で、誰もが浮足立っている。
「あ、じゃあギルベルトと一緒に?」
「いや、兄さんは」
 フェリシアーノの言葉に首を振ったところで、いつの間に隣に移動していたのか、ロヴィーノが遮るように口を開いた。
「そういえばあの野郎、超機嫌悪かったな」
 ギルベルトに特別可愛がられているヴァルガス兄弟に対しても、今日のギルベルトは不機嫌を露わにしていた。今日はまだ二人で会話をしていないために、一体何をそこまで怒っていたのか解らないが、ルートヴィッヒには大体の予想がついている。
「大方女にでも振られたんだろ」
 まだ幼い癖に、既に(相手いわく)微笑ましいナンパを繰り返しているませたヴァルガス兄弟は、ケラケラと笑い声をたてあってから、本屋へと入っていく。尊敬している兄について笑われて嬉しいわけもなく、ルートヴィッヒはむっすりとしたまま三人のあとに続いた。
「気にしなくていいですよ」
 ティノは相変わらずの柔らかな笑みを浮かべ、フォローをいれてからヴァルガス兄弟のあとを追いかける。兄弟が好いている書籍は大抵決まっており、芸術書か写真集へと向かう。
 映画はまだサイレントで、写真も荒っぽいものの、それだけで見慣れない物であるし映画館にさえ行けない子供たちには、写真は物珍しく非日常へ連れて行ってくれるものだった。
「ねぇ見て兄ちゃん!すっごいベッラだよ」
 不意に弾んだ声が聞こえ、そちらに眼をやるとフェリシアーノが雑誌を持っている。表紙には女性が振り返っている写真であり、肩と背中の大部分がはだけて、長い睫毛に黒い垂れ目、黒い髪に赤いだろう唇。むっちりとした肢体と豊満なバストが布の上からでもはっきり解る。
 ヴァルガス兄弟はきゃっきゃと嬉しそうな声を無邪気にあげているが、その本が一体なんであるのか理解したルートヴィッヒは顔に熱があがっていく。隣を見やると、ティノも大きな瞳を丸くして、少し恥ずかしそうにしている。
「おい、いい加減に」
「んー、何見てんだ」
 顔を真っ赤にして雑誌を取り上げたところで、更に上からひょいと持ち上げられる。眼をまん丸にして見上げる弟を見おろし、ギルベルトはにんまりとげひた笑みを浮かべた。元々赤くなっていたルートヴィッヒの顔が益々赤く染まる。
「おうおう、思春期じゃねぇか。お兄様が買ってやるよ」
 ケセセっと笑い声を立ててパラパラ紙を捲るギルベルトに、フェリシアーノは「買ってくれるの?」と喜びロヴィーノは怯える。残り二人は恥ずかしそうに立ち竦む。
「表紙のお姉さんが綺麗なんだよ」
 フェリシアーノが指差した先を見やり、ギルベルトも赤い瞳を嬉しそうに細める。
「飲み屋のアデーレに似てるな」
 ギルベルトがあげた飲み屋は、生徒達も出入れしている街で一番大きな飲み屋だ。そこのアデーレはマドンナ的存在で、生徒も教師も街の住人も彼女に会いに行くために飲み屋へと行っている様なもの。
 アデーレの名前があがった瞬間、ヴァルガス兄弟は嬉しそうな声をあげてぴょんぴょん飛び跳ねた。
「に、兄さん! ねえさんに恥ずかしいとは思わないのか」
 ルートヴィッヒの言葉に銀色の眉がピクリと動く。先程の授業同様、一気に不機嫌を露わにさせて雑誌から視線を外したところで、本屋の扉の鐘が勢いよく鳴る。
「あ、ギルちゃんやっぱりここにおったぁ」
 同僚のアントーニョの声が聞こえ、不機嫌な表情のまま振り返り、眼を丸くして固まる。いつも一緒につるんでいる同僚の隣に見知った人物を見つけ、手に持っていた雑誌を慌ててルートヴィッヒへと押しつけた。
「ギル君」
 黒いアーモンド型の瞳を細めて、嬉しそうに名前を呼び、小さな体を跳ねさせながら駆け寄ってくる。
「……菊、来られなくなったんじゃないのか」
 固まってから嬉しそう笑い、駆け寄ってきた女性の頭を乱暴にガシガシと撫でた。少々慌てながらもぼさぼさの頭のまま笑う女性と、本を抱きしめるように彼女を見上げるルートヴィッヒを、フェリシアーノは忙しなく見比べる。
「お手紙出してから来られる事に成って……まあ、ルート君もお久しぶりです。本、買ってあげましょうか」
 見上げる瞳に気が付いて声を掛けると、ようやく自身が抱きしめている雑誌はいかがわしい物だということを思い出し、表紙を隠すように抱えて頭を横に大きく振った。幸い裏表紙しか菊には見えておらず、そこには肉料理にかけるソースの宣伝が一面を占めている。
「これは……その、買うつもりでは」
「遠慮なんてなさらないでくださいね。そのぐらいのお金はあるんですから」
 遠慮と勘違いして益々菊はルートヴィッヒが抱える本を買ってやろうと腕を伸ばすけれど、本を抱えたまま俯いた顔が赤く染まり押し黙る。助けを求めるために兄を見やるけれど、意図的なのかそうではないのか、ギルベルトはアントーニョと会話をしておりこちらを見てはいなかった。
 暫く真っ赤に染まった友人と、突然現れた女性を見比べていたフェリシアーノが声をあげる。
「これはね、ギル先生が買うって」
「ちょっ、フェリちゃんっ!」
 やはりわざとだったらしく、それまで友人とじゃれていたギルベルトは悲痛な様子で叫ぶ。生真面目でしっかりもののルートヴィッヒが怪しい物を欲しがる筈がないと信じ切っていた黒い瞳が、途端訝しそうにギルベルトへと向けられる。
 いつもにこにこして優しい姿しか知らないため、険しい表情を浮かべる菊に驚き、考える間もなく手に持っていた雑誌をそのまま渡す。柔らかな筈の瞳を尖らせ、無言のまま暫く静かに表紙を睨みつけていると、飛び跳ねながらフェリシアーノが一緒に覗きこむ。
「先生はね、この人がアデーレに似てるんだって。あ、アデーレって飲み屋の……」
 途中で口を覆われて言葉を遮られるが、にっこりと笑うギルベルトへ笑顔を返し、手に持っていた大きな鞄を手渡した。解放されたフェリシアーノは笑顔で「ヴェー」と小さく鳴く。
「冬物の衣類と、保存食です。ではお一人を満喫なさってくださいね」
 踵を返した菊に対し、鞄を抱えながら慌てて追いかけ店外へと出ていく。二人を見送った後、アントーニョはケラケラと笑い、くっついてきたロヴィーノの頭を撫でた。
「……血のつながったお姉さん、じゃ、ないですよね?」
 ティノが固まっているルートヴィッヒにそっと声をかける。結婚指輪もしていなければ、周囲に女性の気配を纏わせていないため、結婚していることは誰にも知られていなかった。実際は、高いリングが傷つくことと、日常生活の邪魔になる事を恐れてあまり装着していないだけだが。
 隠していた訳ではないし、ギルベルト本人は教諭陣にはちゃんと伝えてある。言いたくないのはルートヴィッヒと、バイルシュミットの家で、本来連れて行けるはずなのに単身赴任という形を無理矢理とらされていた。
「義姉さんとは三年前に結婚したんだ」
 普段、飲み屋で楽しそうに女性に対して囃したてていたりするため、既婚者である事はなるべく言いたくは無かった。浮気をしている様子はないものの、赴任先で女性に対し鼻の下を伸ばしているなど菊が可哀想だったのだ。
 ギルベルトが菊を連れてきたのは本当に急なことで、東方の戦地に赴いた折り伝染病にかかり、当初の予定より二ヶ月遅れで彼女と一緒に帰国した。真っ青な顔で随分痩せていたけれど、いつもより上機嫌で両親とルートヴィッヒに菊を紹介した。
 彼は出会った経緯をルートヴィッヒに語ることは無かったけれど、両親は二人の結婚に反対した。一つ目の理由は、戦歴を持ったギルベルトに良い家の婚約者を貰おうと根回ししていたため。二つ目は、彼女が敗戦国の人間で、人種が違うことは一目で判ることにあるのだろう。
 ルートヴィッヒ自身は、仲睦まじい二人を素直に歓迎していた。態度の割に物事を熟考している兄が、色呆けで伴侶を決めるはずもないし、菊は厳しい一家の中で唯一とことんルートヴィッヒを甘やかして、母に殆ど甘えたことのない彼を本物の弟の様に接してくれた。そんな彼女を嫌いになれるわけもなく、一緒に過ごせるのは嬉しかった。
 ただ、一緒に過ごしたのはこの学校に入るまでの二年間で、兄は一年前に派遣されていたため、新婚生活一年で二人はバラバラになった。ギルベルトが家にいない時、菊は家事をこなし、まるで召使のように一日中クルクルとよく働いていた。
「ルートヴィッヒさんはおねえさんが好きなんですね」
 ティノににっこりと問われ、一瞬の間を置いてから一気に顔の熱が上がっていくのを感じる。真っ赤になったルートヴィッヒを、ヴァルガス兄弟は嬉しそうに囃したてた。


 大股で歩く菊の後ろをついて歩く。短い足ではどれほど大股で歩いてみても、ギルベルトが踏み出す一歩よりもずっと短く、彼は涼しい顔で着いてくる。
 道はやがて大通りから小道へと逸れ、街の中心地から少しばかり離れた。人も少なくなり、空は夕暮れに染まって、裏道は薄暗く足元は陰ってくる。遠くで子供たちが家路に急ぐ声が聞こえ、どこからともなく夕飯の匂いが流れ込む。
「……なぁ、菊。この辺りはあまり治安も良くねぇし、そろそろ寄宿所帰ろうぜ。ホテルとってもいいぞ、高いとこ」
 ケセケセ笑うギルベルトに向かい、ようやく立ち止まって振り返った。眉根をキュッと持ち上げ、撫肩をいからせている姿は一生懸命怒っている体をしており、益々頬を緩める。
「良いです、一人で泊まりますから」
「そんな金あんのか?」
 勝ち誇ったような笑みを浮かべたギルベルトに、益々目を吊り上げて「なら帰ります」とポコポコ怒る。赤紫の瞳が涼しいままジッと見られると、段々目線は下へと落ちてきて、そのまま俯いてしまった。相変わらず小さな彼女のつむじを見やり、前髪をそっと持ち上げる。
「久しぶりだな、元気だったか?」
 最後に会ったのは前の休み、夏休みで半年も前のこととなる。その時は約一カ月の長期の休みであり、両親の文句を聞き流して田舎に家を借りて、逃した新婚生活をゆっくりと満喫した。
 立場は違えど戦地で多くの時間を過ごしてきた者同士、平和な田舎の景色は毎日見ても見飽きることはなく、一カ月はあっという間に過ぎる。己を殺すことで自己を保ってきた彼女は、我がままの一つさえ言えずに、送りのために駅にポツリと立って泣き出しそうな顔で手を振っていた。
 見上げる黒い奥の深い瞳は、その時歪められたそれと変わらずに光っている。足元に荷物を置いて抱き寄せると、首に腕をまわして体をぴったりとくっつけた。ギルベルトの頬をくすぐる、張りのある見た目とは違った、柔らかな短い黒髪を撫でる。
「……本当は、勝手に出てきたんです。荷物を急いで詰めて、買い物へ行くふりして」
「なんだそれ、じゃあ帰れねぇな」
 軽い笑い声をたてるギルベルトに、菊は抱きついたまま固まった。そろり、と離れて俯いた顔は真っ青になっている。
「帰らなきゃいいじゃねぇか。もういいだろ」
 どうにか御両親と仲良くなりたい。と、言ってきかずに、家に残った彼女を、無理矢理に連れだせなかった。家族が居ない菊にとっては、どうにかギルベルトの家族の一員になれないだろうかと思っていたのだろう。しかし三年頑張ってみても結果は芳しくない。
 元々は出張も菊を連れ出すつもりで引き受けたというのに、なぜか一人で行くはめになった。とても可愛がっている弟がいなければ、途中からでも断って帰国していたに違いない。
「……でも」
 勝手に家から出てきたり、決めた時は頑固で譲らないというのに、自分以外の人が関わるような事は一人で決めることが出来なかった。誰かに背中を押してもらわないと動けない、今の様に。
「そろそろの俺の相手をしやがれ」
 片手で彼女の頬を摘まみ、口の端っこに唇を落とす。一瞬キョトンとしてから周りを気にして、誰も居ないことを確認すると小さく喉を鳴らして頬を緩めた。
「取り敢えず今日はアデーレさんのお店に行きましょう」
 ようやく隣を歩き始めた菊は、にっこりと満面の笑みを浮かべて言い放つ。やましいことなど無いと言うのに、普段下品な会話や素行をしている場所に妻を連れていくのは気が引ける。いつもの飲み仲間に会わないわけがないし、あることないこと喋るのは目に見えていた。


 家のために行ってきた行為に疑問を抱かなかったのは10代の前半だけだった。血と硝煙の臭いに囲まれ、満足な休息さえ中々とれず、一体何が普通で自分が異常な状態に置かれていることさえ麻痺して判らない。
 派遣された土地は八月の終わりにさしかかっても、蒸す様な暑さに変化は無く、時折訪れるスコールでしか涼しさを得ることは出来なかった。湯気立つ様な暑さと直射日光は、色素の薄いギルベルトにとって天敵であり、半月の滞在で既に立っているのもやっとなほど体力を消耗している。
 同盟国の戦場視察とあり、身の危険を直接的に感じる様な任務は受けていない。ただ、怪我人を見まわったり、戦場跡を見なければならなかった事は、慣れてはいるものの精神的にきつかった。慣れない夏の暑さに体力まで消費していた彼が、環境に参ってしまうのに時間はかからない。
 三日間の長距離移動が終わりふらふらと街の市場を通訳の男と抜けていくが、人でごった返して増した蒸し暑さと、他人の体臭と市場の肉や果物の臭いが入り混じった独特の臭気にあてられて酔い始めていた。これから暑い家に帰って家事をしなければならないと思うと、気が滅入ってくる。
 不意に前から異様な集団がやってきたため、思わず道を開ける。自分の国の平均身長よりずっと低い彼らの頭を見やりながら、フードを被った大勢の人間が通り抜けていくのを見送った。じゃらじゃらと、金属が擦れる音が辺りに一斉に響き、市場の連中も無言の注視をその一団へ送る。
「奴隷です」
 不思議そうに異様な団体を眺めているギルベルトに、通訳が耳打ちする。大体の予測がついていた彼は小さく頷くだけだった。
「おい」
 離れていく一団に声をかけると、先頭を歩いていた奴隷商だろう男が振り返る。顔つきは若々しいものの、髭と頭髪は伸び、栄養が足りないだろう痩せた顔は骨と皮だけで、眼光だけが鋭く光っていた。
「一人買う。家事出来る奴が良い」
「ちょっお手伝いさん雇いましょうよ」
 これから帰宅して食事の準備をし、洗濯をこなし……更には使用人を捜さなければならないと、考えただけで眩暈がしてくる。元々お偉いさん方から声がかかっていたものの、そこから一人選ぶ、というのも後々問題が起こりそうだ。
 ゆるぎない様子のギルベルトに気が付き、通訳の男は溜息を吐き出してから奴隷商の男に伝えた。彼はギルベルトの事を頭の先からつま先まで見やり、口の端だけをあげてにやりと笑う。そしてその場にいる数人にフードをとるように伝え、少女ばかりが数人その顔を露わにした。
「別に家事が出来るなら誰でもいい」
 容姿を見せたことには勿論意味があるのだろうが、ギルベルトは軽く肩を竦めてそれを否定する。しかし、怯えて泣き出しそうな彼女たちの中に、真っすぐこちらを見つめている瞳を見つけ出した。黒曜石に似た瞳は、いっそ敵対心を含んでギルベルトを見つめている。
 黒い瞳と同じ色の黒い髪は、絹の様に細く、短く揃えられている。背は小さく顔を幼く、自国にいる美人の類には含まれないものの、注意をひいて離さない。
「やっぱアレがいい」
 急に指をさされ、彼女のアーモンド型の瞳が揺れた。恐らく外国人が珍しいのだろう、怯えていた周りの瞳が安堵に変わる。
 後は通訳の男と奴隷商の男が交渉し、少しだけ高く、しかし人間の値段とは思えないほどに安く、一人の人間の人生を容易に買えてしまった。鍵を渡され、その場で足枷手枷を解いてやる。
「普通足は解かないんですよ」
 こそりと耳打ちされた言葉に適当に返事をし、足首についた赤い擦れた跡を親指で擦る。驚いた彼女が一歩足を退いたところで立ちあがり、市場の中を歩き始めた。
 ギルベルトに与えられた家は一軒家であるが、使用している部屋は居間と自室、そして台所やお風呂場といった実用的な部屋ばかりだ。通訳は毎朝出勤前にやってきて、夕方には帰っていくため、5部屋程の一軒家はあまりにも広すぎる。
 通訳の男がいる間に家の説明をさせ、買い物へと行かせた。足枷を解いてしまって金を渡すと、そのまま帰ってこない可能性があると助言されたが、彼女は大きな荷物を抱えてちゃんと帰って来た。洋服に靴も選ばせて多めの金を渡したものの、シンプルなものを購入して残りのお金はきっちり小銭単位で机に並べている。
「それじゃあそろそろ帰りますが」
 含ませる物言いを聞き、ソファに横に成ったまま右手をあげる。言いつけたわけでもないのにせかせかと家事を行うのを見やりながら、良い買い物をしたのではないかと思う。生活費を払ってやることを外せば、住み込みのお手伝いを雇ったも同然であるし、自国へ帰る時は自由にしてやればいいだろう。
 
 夕方だからだろうか、涼しい風を感じながら意識をぼんやりと浮上させる。いつの間にか眠っていたらしく、真っ先に空の向こうが赤くなっているのに気が付き、次に床に座った見知らぬ女性が団扇で自身を扇いでいることに気がつく。
 思わず飛び跳ねるように体を起こし、目を丸くした少女を数秒見つめてようやく、買ったことを思い出した。安堵を覚えるのと同時に、食事の匂いが満ちている事で急に空腹感を覚える。
「……そういえば名前きいてなかったな」
 ぼんやりする頭を掻いて言うが、言葉が通じるわけも無くキョトンとした少女と暫く向き合う。
「ギルベルト」
 自分を指差して数度名前を言うと、何度も瞬きを繰り返してから、「菊」と名乗った。未だに警戒を感じる程度に顔を強張らせてギルベルトを観察するが、彼の見かけと違い柔らかなを感じて距離が少しだけ近づく。
「飯食うか」
 欠伸を遠慮なくすると、立ちあがって居間へと移動する。自分で出来る簡単な料理か、露天で買った物程度しか食していなかったギルベルトにとって、机の上に並んだ食事の数々は衝撃的だった。舌の付け根から込み上げてくる唾を飲み込み、そそくさと椅子に座る。
 皿に盛ってある魚を取り皿に移してナイフをいれ、口に運ぼうとしたところでコップに水が注がれる。そこで彼女が水差しを持って横に立っていることに気が付き、そのまま皿へ魚を戻す。
 一人分には少し多めの食事を取り皿にわけ、自身の前の席へ置く。おろおろとしている菊にナイフとフォークを持ってくるよう指示すると、言葉が解らない割には直ぐに食器を揃える。
「一人で食うのは味気ねぇからな」
 ひとり言にも顔を持ち上げジッと耳を澄ます。自国に置いてきた三匹の飼い犬を思い出し、思わず頬を緩めて小さく笑う。おあずけをくらっている彼女は、ナイフとフォークを握りしめたまま不安そうに眉根を下げた。
 胸の十字架を取り出して御祈りをすると、菊もそっと目を閉じる。よほどお腹が好いていたのか、碌なものを食べていなかったからか、食事を摂る姿は心底幸せそうだった。こちらのきつい香辛料を使った食事に辟易していたために、少し違う彼女の食事は最近減っていた食欲を少し刺激してくれる。
 帰ってきて家事をやらせる前に風呂へ入れ、土埃をとり髪に櫛をいれ、新品の服を着せると数時間前まで奴隷だったようにはとても見えない。黒い髪に栄える、こちらの国には珍しく白い肌。朱が入る頬。大人しく食事を摂る姿は、初めて目にした時より綺麗に見える。
 食事を終えると途端にだるさを感じ、今すぐにでもベッドへ入ってしまいたかった。簡単に寝る準備を終え、菊に客間を与えてさっさと寝ようと部屋を出たところで、袖をひかれる。
 振り返るとペコペコと、何度も短い髪をゆらして頭を下げる。ギルベルトの善意だと勘違いされるのは癪だが、それを伝えるすべも無いので頬を掻くだけだった。

 夜中に強烈な喉の痛みで目を覚ますと、顔は燃えるように熱く、足は凍えるほどに冷たい。取り敢えず水を飲みたくてベッドから抜け出すも、目線がグルグルと回り真っすぐあることさえ叶わない。
 部屋を出てから直ぐに立つことさえ出来ず、廊下に置かれていた机に手をついた。電気さえ満足に通っていないこの町の夜は暗く、新月の今夜は翳した眼の前の手さえ満足に見えない。しゃがみ込むのと同時に、机に置かれていた花瓶が衝撃に揺れ、床に当たり粉々に散った。
 静かな室内に激しい音が響くが、耳の裏の毛細血管が腫れているせいか、その音さえ遠くに感じる。
「……ギルベルト様?」
 全ての音が遠くに聞こえる中、音に驚き顔を出した彼女の声が、妙に近く聞こえた。熱くなった額に冷たい指先があたり、もう一度名前を呼ばれる。
「肺がいてぇ……」
 痛む胸に掌を押し当て呟くと、頬を撫でた彼女の気配は遠のく。通訳の男が言った、奴隷は足枷を外すと逃げるという言葉が脳裏に走るが、直ぐに廊下を駆ける足音を聞いた。頭を持ち上げられ、口内に水が流れ込む。
 喉が潤ったことで安堵したのか、再び意識が遠のいていく。最後に、祖国にいる幼い弟の名前を呟いたが、それが声に成ったかは解らなかった。

 目を覚ますと空は真っ赤に燃えており、それが夕焼けだと気が付いたのはじっとりと貼りつくような暑さを感じたからだ。それでも涼しい風を感じてそちらに目線をやると、ベッドの隣に椅子を置いた菊が団扇を扇いでいる。
 ギルベルトが起きたことに気がつくと、嬉しそうに目を細めて笑い、通訳の男に団扇を渡して席を立つ。無言のまま部屋を出ていった後、通訳は体を乗り出す。
「大丈夫ですか? 南東で流行っている風邪だとか……薬が効いて熱は十日間ぐらいで下がるそうですが、完治には一カ月ほどかかるそうですよ」
 安堵の色を見せて彼は一息に言うと、再び椅子に座り直す。
「ナイフとフォークの扱いに慣れていた」
「は?」
 ポツリと呟いた言葉は掠れてうまく聞き取れなかった。男は枕横におかれていた水差しから一杯の水を注ぎ、ギルベルトへ手渡す。コップの中のものをゆっくりと飲み干し、ようやく一息ついた。
「……あの奴隷の素生がわからないか? 名前は菊だ」
 コップを手渡すと、彼は不可解そうに顔を顰める。その様子を無視して人指差しを立てた。
「一つ目に、作った食事はこの国の香辛料を使った物じゃなく、味付けもかなり違った。なのにお前とは喋っていたから、もしかしたらこの国の言語を幼い頃から勉強していた可能性がある」
 次いで二本目の指を立てる。
「俺の言葉も恐らく解ってる。この風邪はここで流行ってるものじゃねぇのに、あの町医者がちゃんと診察出来るとは思えねぇ。症状を聞いた菊が、伝えたんだ。三ヶ国語が喋れるとなれば、相当良い家の出の筈だ」
 風邪は、特徴的な肺の痛みから見ても、ギルベルトが視察をした病院で流行していたものだろう。移動中は潜伏していたが、夜寝ている間に発症したと考えられる。全国で流行しているものではないため、失神して喋れない場合判断する手段は無い。
 通訳の男は呆気にとられて口を半分開けたまま固まっていた。やがて眉間に小さな皺を寄せて、訝しそうな表情を浮かべる。
「調べるのはいいですけど……何のためです?」
 男の言葉一瞬自身でも答えをさがし、直ぐに「うるせぇ」と毒づく。
 
 高熱は一週間ほど続いたものの、薬と甲斐甲斐しい看護のおかげで一週間後には微熱となった。そこから完全にウイルスが抜けるまで随分と長い間ベッドに寝付いくことになったが、看病は甲斐甲斐しいもので不便を感じることは無い。
 通訳の男は調べ始めたらしいが、戦争の混乱からくる情報の錯綜と、名前と顔しか判らないために報告も僅かなものだった。流し読みしていた、敵国の惨状についてのいくつかの報告書に目を通したが、得られる情報はやはり少ない。
 乾季が終わって雨季に突入したためか、湿った空気ではあるが蒸し上がるほどの熱は減り、開け放った扉からは涼しい空気が舞い込んでくる。激しい雨にも関わらず雨が吹き込んでこないのは、天気に合わせた造りの家だからこそだろう。広い庭が見渡せるギルベルトの自室は心地がよく、いつになく気分もよかった。
 ノックの後に顔をだした彼女は、ペコリと深く頭を下げる。毎日やるその動作にも手を抜くことは無く、いつもそうして持ってくる食事はどれも美味しいものばかりだ。その日も、菊が抱えた皿からは食欲を刺激するような香りが漂い、思わず唇を舐める。
 話しかけても解らないふりをし続ける彼女に、何度か「本当に言葉は理解出来ないのでは」と思った。けれども言葉を介しているとしか思えないほどに気が効く動きをするため、疑惑を抱くたびにそれは打ち壊される。
 澄ました様子で食事を机に置く姿を見やり、大袈裟に菊の足元を指差す。
「あっゴキブリだ」
 前に台所から悲鳴が聞こえ、熱で重い体を引きずって行ったら、彼女は小さな虫一匹と半泣きで格闘していた。その時の青い顔と同様、すぐさま眼は見開かれ恐怖で頬の色が青くなっている。
「ほら、スカートの中にもぐってったぞ」
 悲鳴にすらならない悲鳴をあげ、全てを忘れ去った菊は、スカートをあられも無くバタバタと揺らしてから避難するためにベッドへと飛び乗り、助けを求めるようにギルベルトの服の裾を掴んだ。暫く己を忘れて存在しない敵から逃げていたが、ふと抱きついているのが主人だと気が付き、愕然とした様子で顔を強張らせる。
「やっぱり言葉、わかってんじゃねぇか」
 右の口角を持ち上げてニヤリと笑い、顎先を掴むとしらを切るように彼女の視線が下へと反らされる。まだしらを切るのかと、若干驚き身を乗り出して声を掛けると、動揺したらしく黒眼が忙しなく揺れた。
 音は雨音ばかりが激しく聞こえ、二人の沈黙の合間を埋める。ジッと刺すような赤紫の視線を感じながら、意固地に顔を下に向けようとしていた。彼女らしくなく、態度が既に肯定を示しているのだと気が付いていない。
「……おい、何をそんなに恐れてる。お前は俺の持ち物だぞ、知る権利がある」
 ただ黙りこんだ姿を暫く見やった後、腕を引っ張りベッドへ押し倒すとのしかかる。鼻先を数センチの間を空けて合わせると、驚きと恐怖を混ぜた瞳がギルベルトを見つめた。服の上から心臓の上へ手を置くと、早鐘のように鼓動するのを感じる。
「ちゃんと俺の国の言葉で拒絶出来たら、離してやるよ」
 直ぐ眼の前の顔が楽しそうに笑顔をつくり、首筋を指先で撫でる。驚きで体を小さく飛び上がらせるが、太股を触られても震えるばかりで拒絶の言葉が飛び出すことは無い。
 暫くやわやわと体を触っていたものの、菊のきつくとざれた目尻に涙が浮かぶばかりで結局何も言おうとはしなかった。ギルベルトは下で震える菊を見やって舌打ちすると、体を起して菊に背を向けるようにベッドへ腰かけ、放置されていた食事へ手を伸ばす。
 三角に丸められた米の簡易食は、彼女がよくつくるものの一つだ。恐らく菊の国の伝統食であり、中身はその日によってころころと変わった。その日は塩っ辛いサーモンで、そのしょっぱさが白米によく合う。
 無言で食事を始めたギルベルトに驚きながらも、慌ててスカートの裾を直してベッドを降りる。身を縮めて逃げ出そうとしたところで、振り返ったギルベルトと目が合い動けなくなった。
 食べ物を両頬に詰めてもごもごと何かを言っていたが、まったく理解していない事に気が付き数度噛んで飲みこんだ。
「お前、ここを追い出されたどこか行くあてあんのか?」
 真っすぐに見られ、視線を下げて握りしめられた自分の掌を暫く見つめていたが、やがて首を横に小さく振る。ふうん、と呟いて指先について米粒を舐めとった。
「過去は知られたくないんだな」
「……はい」
 頷くとともに、それまで頑として貫いた『言葉が解らない』という態度を崩す。あまりにも不安そうな姿を暫く観察してから、口の中のものをお茶で飲み下した。
「通訳できるやつは二人もいらねぇな」
 ポツリと呟かれた言葉に、身を小さくしてから深く項垂れる菊をよそに、ギルベルトは食事を再開した。病気でほとんど動かないため、食事も直ぐに終わってしまう。それでも出された物すべてを食べ終え、一杯になった腹を一撫でし、大きな欠伸をしてからベッドに横になった。
「お前んとこの国、おもしろい民話とかねぇの?」
 手招き声を掛けられ、菊は安堵の表情を浮かべてベッドの横の椅子をひいた。
「それでは……優しい鬼の話をします」
「オニ?」
 聞き慣れない言葉に思わず聞き返し、菊の顔が見えるように体勢を変える。彼女の発音は少しぎこちなかったが、理解できる程度ではあり、不快だとは感じなかった。
「体が大きくて……歯がとんがっていて乱暴者なんです。でも、とても優しい鬼の話」
 元々柔らかい瞳を益々緩めて、愛おしそうに友人のために己を犠牲にした鬼の物語を語る。彼女の語る物語はどれも独特で飽きることなく、退屈な病床を紛らわせた。独特な雰囲気、柔らかな口調と動作、それらはこれまで戦いの事ばかり強いられていたギルベルトにとって、今まで経験したことない環境だ。
 通訳の男との契約期間はきれていたため、そのまま別れて菊を通訳代わりにしていた。といっても、まだ静養期間が過ぎていなかったため、殆ど家の中で過ごし菊以外と会話をすることも無い。
「あーあ、なまっちまうなぁ」
 ぼんやりとつぶやくと、隣でほつれた服に針をいれていた菊が不思議そうに首を傾げた。そんなのんびりとした雰囲気の中で、めったに鳴らないチャイムの音が響く。
 顔を上げた菊が、玄関先へ訪問客を出迎えるために席を立った。直ぐに帰って来た彼女の顔は沈み、ギルベルトに彼の上司の名前を耳打ちする。中に入れるように告げると、数人の軍人と入れ替わりにスルリと部屋から出て行った。


 数時間後、客人が帰って言ったのを確認してから、肩を落として菊が部屋へ入ってくる。
「んだよ、そんな暗い顔して」
 手招かれていつも通り彼が寝ているベッドの端っこに腰をおろし、膝の上に置いていた掌を強く握った。
「あのっ……戦地に行くんですか?」
 思い切って口を開いてそういうと、赤紫の瞳を少し大きくさせて、必死な形相で身を乗り出す彼女を見やる。
「当たり前だろ、軍人なんだからな」
 ギルベルトの言葉に顔を弾かせるように上げると、黒い絹の様な髪を揺らして大きく首を横に振った。大きな瞳にはうっすらと涙が溜まり、円い頬にさした朱は強くなっている。
 普段感情を顔に出すことない彼女にしては珍しく、拒絶を全面に出してギルベルトに縋りつく。いつも一定の距離を置いて暮らしていた、暗黙のルールを破ったその行為に、ギルベルトは思わず少しだけ身を引いた。
「お願いです、おねがい……」
「……奴隷が主人に言うことかよ」
 苦笑を浮かべて呟くけれど、眼の前で俯く彼女はそのまま数秒黙りこんだ。勿論、今にでもこの時間を終わらせることも出来るが、ギルベルトは黙りこんだ彼女を待つことにした。この短くは無い時間を二人で過ごして、菊の言葉には耳を傾ける価値があるのを、既に理解している。
 やがて持ち上げたその顔は、深い哀しみを暗く宿している。これから始まる語りは、彼女の過去に深く関わるのだろうと、いつもの茶々を飲みこんで言葉を待つ。
「私の父は、軍人です。それも上官で、政治とも深い関わりがある人でした」
 他国の言葉を女ながら教育され、家事全般もきちんとこなす姿はただのお嬢様というわけでは無いと思ってはいた。しかし『軍人』という、彼女にはあまりにもかけ離れた言葉が出てきて思わず怯む。滑らかに言葉を話すことも、その他の家事も、笑ってのんびり過ごしていて出来る筈がないのを解っていながら、自分とはまったく違う、深窓で慈しまれて育ったのだと頭から信じていた。
「父と兄が仕事で外に出ている時、私の街が侵攻されました。捕まったら殺されるよりも酷いことされるって、一番仲の良かった女中が逃がしてくれたんです」
 きっともう家はありません。と続けられたセリフは、掠れて殆ど言葉に成らなかった。泣いてしまうのかと思ったけれど、涙は溜まってはいたものの唇をかみしめたまま涙をこぼすことは無い。
 その動作ひとつひとつ観察してから、俯く顎を掴んで顔を上げさせる。骨格も含めて小振りな造りの少女が、不安そうにギルベルトの瞳を見返す。
「……病気が治り次第、帰国して良いってさ」
 ギルベルトの言葉に表情を和らげ、安堵のため息を吐いてからまた強張らす。
「私がこんなこと言うのは、おかしいと思いますが……これからも身の回りの世話を一生懸命しますし、貴方が結婚なさったら貴方の子供の子守もします」
 だからどうか売らないでと哀願され、思わず喉を鳴らして笑った。そして掴んでいた顎を引き寄せて、ペロリと唇を舐める。驚きに満ちた黒い瞳を見つめながら「閉じろ」と命令すると、彼女は素直に従った。


 まだ暗い中、テーブルランプの灯り一つで、自分の掌に包み込んだ小さな指先を撫でる。後ろから抱き上げた体は、安心しきっているのか単純に疲れているのか、先程からずっとギルベルトのされるがままにしている。
「そういえばお前、何歳なんだよ」
「26歳ですよ」
 想像よりも10程上の年齢を言われ、それまでの静かな雰囲気を壊してギルベルトは声をあげた。驚いて振り返った大きな黒い瞳が、不思議そうに見やる。
「嘘だろ、俺より2つも年上かよ」
「えっ、年下なんですか?」
 互いにジーッと観察してみるが、やはり納得がいかず眉間に皺を寄せた。犯罪じみた行為をしていたのだとばかり思っていたが、小さく造られた体は既に完全に出来上がっていたらしい。
「……ギルベルト様は」
「様はやめろよ」
 前々から呼ばれる度に否定をしてきたというのに、頑なに呼び名を変えようとしなかった。ため息交じりに告げると、やはり大きな目を瞬かせて、しばらく小首を傾げて考える。
「ギルベルト君」
 手を打って笑顔で言われた言葉に、ギルベルトは顔を思い切り顰めて彼女の両頬を軽くつねる。しかし直ぐに解放し、細い首筋に鼻筋を押し当てて目を瞑った。
 一日中だらだらと過ごしているため、疲労感が逆に心地よく、久しぶりに抱いた女性の体は柔らかくて全てが満たされている。名前を呼べば返してくれ、先程包んで遊んでいた掌が子供をあやすように髪を撫でた。
「お国に奥さまや恋人はいらっしゃらないんですか?」
 顔をあげると無邪気な様子でこちらを見ており、訊いて当然だと言わんばかりだ。よく気が効くわりに、自分のこととなると途端に鈍感になる。それは、二人だけで過ごしてきて理解したことの一つ。
「いねぇよ。いたらこんなことしねぇだろ」
 返答で嬉しそうに顔を綻ばすのに毒気を抜かれ、体を引き倒して抱きくるめると彼女は大人しくそのまま抱き枕に徹する。目を瞑ると、そのままストンと眠りへと落ちて行った。


 ギル君、と不意に名前を呼ばれて振り返ると、人ごみに揉まれた小さな菊は懸命にギルベルトの後ろを付いてきている。理由が無ければ伸ばせない腕を差し出すと、輝かんばかりの笑顔を浮かべ、子供の様な両手でギルベルトの掌を掴んだ。
 病床から抜け出し、舟が出港するまでの数週間をのんびりと過ごしている。取り敢えず綺麗な服を買ってやったというものの、家事で汚したくないと、外に出るときにしか着ようとしない。ドレスに宝石に帽子に靴、それらはよく栄えるが欲しがる事もなく、これまでと殆ど何も変わらずに過ごしていた。
「私、こんなに立派な舟に乗るのは初めてです」
 港に着いていた、ギルベルトの国へ行く船に乗って直ぐキラキラと瞳を輝かせていた。話を聞けば随分立派な家に住み、十分すぎる教育を受けていたというものの、敷地内はあまり出て事は無かったらしい。そのため世間のことなど何も分からず、路頭に迷った時、簡易に騙されて奴隷商に捕まってしまった。
 酷いことはされず、一番つらかったのは「お風呂にはいれなかったこと」と言うぐらいだから、さほど長い間奴隷として過ごしていた訳ではないらしい。
「……少しだけ、一人にしてくださいませんか」
 にっこりと笑顔を保ったまま言われ、数度無言で瞬きをする。今、戦時中といえど勝ち戦の色合いも濃く、賑わっている港を見下ろし、更に遠く向こうに霞む彼女の出身地を見やった。勿論観ることは叶わないが、もう二度と帰ることも出来ない土地を想うには十分だろう。
「ん、部屋に荷物置いてくる」
 髪をぐしゃぐしゃと撫で、足元に置かれた大きな二つのボストンバックを掴む。ギルベルトの私物は少なく、ドレスなどかさむ彼女の物が多く入っていた。
 とった部屋は二人で一カ月の船旅をするには少し大きく、シャワー室とトイレもついている。娯楽といえばレストランに併設されたバーぐらいだが、船旅としては十分すぎる設備だ。
 グルリと部屋を見渡し、手早くクローゼットに洋服をかけ、ボストンバッグも一緒にクローゼットの隅に寄せる。ベッドに寝ころび、簡素な天井を見上げて汽笛が鳴るのを聞いた。ゆっくりと船体が動き始めると、港の人々がこぞって歓声をあげはじめる。
 ポケットに鍵が入っているのに気が付き、甲板に居るだろう彼女を迎えに行くために立ちあがった。
 
 梯子を引き上げ、舟が動き出した事に対して喜びの歓声をあげる人々と一緒に、大きな船体を見上げた。港を離れていく舟を見つめるのは、遠い向こうの自分の国を想うよりもずっと胸が痛む。
 見送ることが出来ずに、人ごみに紛れてどこかへ行ってしまおうと踵を返した時、人々が声高に何かを叫ぶ。誰かが舟から落ちた、と口々に言うのにつられて身を乗り出すが、すぐ手前の舟ばかりが視界に入る。
 まさか、と思いつつ人々と共に輝く静かな海を懸命に見やる。しかし穏やかな海面ばかりで、特に変わった点は見つからない。不思議な胸の高揚を覚えていたため、小さく息を吐き出してその場を離れようとするものの、水音と共に悲鳴が聞こえて立ち竦んだ。
「……ギル君」
 港に伸ばされた腕と、水面に揺れる銀色の髪を見つけ、思わず声をあげて駆け寄った。濡れた腕を懸命にひっぱると、咳き込みながらギルベルトの大きな体が海面から姿を現す。
「だ、大丈夫ですか?」
 背中を撫でて席が収まるまで待つと、咳が止んで直ぐに鬼の様な形相でくってかかる。
「おい! 何考えてんだよ、荷物全部置いたままだぞ!」
 鼻息荒く詰め寄られ、目を丸くしたままびしょぬれのギルベルトを見上げた。その円く黒い瞳が、あまりにも純粋に、不思議そうな色を込めて見つめているため、急激に怒りが冷めて口を閉じる。理由があるのなら言え、という態度に、言葉を選ぶために菊は少し瞼を伏せた。
 外野達がぐるりと囲んで、彼女の言葉を固唾をのんで待っている。どのような状況かは解らないし、言葉も解らないが、男女の仲が縺れていることぐらいは解った。
「傍にいたいって言いましたが……でも、貴方の傍にいたらきっと私の事、嫌になると思いますよ。……本当は、私があなたの結婚などを傍で見ていたくないだけなんですけど」
 心情を吐露すると、言葉はあやふやでいつまで経ってもまとまらない。そのことに対して苦笑を浮かべるが、今にも泣き出してしまいそうで途切れた言葉をそのままに、下唇を噛みしめる。
 そうして俯くと直ぐに、いつもと同じように顎を掴まれ、強制的に顔を合わせられた。数センチ先の赤紫の綺麗な瞳が、怒りを込めて菊を見下ろしている。
「おい、俺がいつお前を家政婦にするっつたか?」
「だって……」
「だってもくそもあるかよ。俺は、お前と結婚するつもりだっ」
 怒りと海水の冷たさで青ざめていたギルベルトの顔が、みるみる内に赤く染まっていく。それを茫然と見つめていた菊は、数秒の混乱の後、泣き出しそうな様子で顔を綻ばした。
「うれしい」
 やっとのことで呟いた一言は揺れていて、身を乗り出すと海水にぐっしょりと濡れた首へ腕をまわして抱きついた。周りで見詰めていた観衆達は、交わしていた言葉は解らないものの、ワッと声をあげて二人を祝福する。舟は人が落ちたことに驚き港へそのままもどってきていたようで、甲板で状況を見つめていた人々も声をあげて喜んだ。
 お陰で、一カ月続く船旅でずっと、二人はからかわれ続けることとなった。


 寒さに身を震わせ、ルートヴィッヒの体には大きな鞄を抱えてギルベルトの宿舎の前へと立った。昨晩は、兄とその結婚相手はいつも食事に来る食堂に姿を現さわず、少し待ったが諦めて寮へ帰ったため、挨拶さえ済ましていない。
 呼び鈴を一度鳴らし、二度目に手を伸ばしたところで、扉が小さく開いて黒い目が覗いた。ルートヴィッヒを見つけると、途端顔を綻ばして扉を開け放つ。
「おはようございます」
 柔らかな笑みを浮かべ、菊の細い指がルートヴィッヒの頭を撫でる。兄が誂えた、彼女の国の服であるキモノに似た淡いピンクのパジャマを好んでいつも着ているが、エキゾチックなそれは、いつもルートヴィッヒをドギマギさせた。
「どうしましたか? ギル君、起こしますか」
 寒さで赤くなっていた頬を撫で、しゃがみこんだ彼女の瞳が覗きこむ。ルートヴィッヒは慌てて首を横に振り、覗きこんできた目から逃げるように俯く。
「……そうだ、ルート君になにかクリスマスプレゼントをあげないといけませんね。帰ってきたら用意しますね、何がいいですか?」
「……ずっとこっちにいるのか?」
 弾かれたように顔を持ち上げる義弟に、菊も驚いて目を丸くした。声を出さずに頷くと、青空の瞳をキラキラと輝かせて口元に笑みを浮かべる。
「じゃあ、それだけでいい」
 楽しそうな声色に菊も安堵の笑みを浮かべると、柔らかな金髪お指先で直してやった。恥ずかしそうに再び俯くと、足元に置いていた荷物を引っ掴んで駅へ向かって駆けていく。
「誰だ?」
 小さな背中を見送っていると背後から声をかけられ振り返ると、鳥の巣のようにぼさぼさな頭を掻きながら欠伸をしているギルベルトが立っている。パンツ一丁で寒そうに身を縮ませながら、開いている扉のノブへ腕を伸ばす。
「貴方の弟さんですよ」
 目を細めて笑うと、つられて赤紫の瞳も細められる。冷えたひと回りも小さな掌を掴み、中へと引き込んで外気が舞い込む扉を閉めた。天気予報通り雪が降るらしく、雲は厚くしめっている。