卿菊 ※ この小説は菊女体化のギル菊パラレル小説となっております。



 義姉は美しい。初めて会った時からそう思ったわけでは無く、時折兄と噂に成るような女性に比べると、彼女の容姿は目立たなかった。
 けれども働く姿はハキハキしていて、とても気持ちが良い。作るご飯も美味しく、声色は美しく、撫でてくれる掌は優しかった。幼い頃から厳しくしつけられていたルートヴィッヒにとって、兄が彼女の何を気に行ったのか容易に解る。

 帰宅して真っ先に兄の寮へ向かったけれど、既に底はもぬけの殻となっていた。驚き管理人の元へ行くと、夫婦で住むために、ひと回り大きな部屋を借りて引っ越してしまったらしい。
 菊は勝手に家を出て来たらしく、両親は逃げたのだととても怒っていた。直ぐに兄から「自分が呼び寄せた」という手紙が届き、怒りの矛先はどこへ向かうべきかわからなくなってしまい、全てが有耶無耶となり、ようやくルートヴィッヒの静かなクリスマスが訪れる。
 ルートヴィッヒにとっては、大好きな兄と大好きな兄嫁が二人とも自分の近くに住むというのは嬉しくてたまらない。いつもは楽しくて仕方なかったクリスマスよりも、寮に帰ってからいかに兄、菊の三人で楽しく過ごすのかという事の方が、ルートヴィッヒの小さな胸を捉えて離さなかった。
 東からも舟が入ったらしく、いつもよりも沢山の人が街を出入りしている。この国では珍しい義姉の顔つきと同じような人々が、楽しそうに喋りながら足早に通り抜けていく。黒い瞳を見やると、慈しみ深く全てを見る彼女の姿が浮かぶ。

 管理人に教えてもらったアパートは学校の直ぐ傍で、さっそく向かおうとしたところで朝帰り途中のアントーニョと会った。彼はまだ泥酔しているらしく、トマトのように赤い顔に千鳥足で、ふらふらとルートヴィッヒの前へと現れる。
「あれーもう帰ってきたん?」
 みつけた瞬間に満面の笑みを浮かべ、ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でた。普通だったら実家でそのまま新年も迎えるのだが、元から兄の所で新年は迎えるつもりだ。
「俺は早くに帰って来たんだ。今から兄さんのところへ行くから」
 兄、という言葉を聞いた瞬間、それまで捉えどころのない笑顔を浮かべていた彼は、パチリと瞬きさせる。
「ギルちゃんなぁ……奥さんがこっちに来てから全然遊んでくれへんから、俺寂しいわぁ」
 アントーニョの言葉に、二人が仲良くしているのだと途端に目を輝かせた。二人はずっと仲良かったけれど、ギルベルトがいらない事を言い、菊がむくれていることも多く、実は心配していた。
 アントーニョへの挨拶もそこそこに、ルートヴィッヒは二人の新居へと、飛び跳ねるように駆けていく。重い荷物も、今は軽く感じられるから不思議だ。
 アパートは小さかったけれど、恐らく寮よりも幾分大きな部屋なのだろう。木製のアパートは少し大きな一軒家みたいなものだ。一階から三階、そして屋根裏部屋が貸し出されている場合が多く、夫婦は二階を丸々借りているのだという。
 呼び鈴に腕を伸ばしたところで、とっくに居なくなっていたのだとばかり思っていたアントーニョが、後ろでにこにこして立っているのに気がつく。驚き、空色の眼をまん丸にさせ固まったルートヴィッヒの代わりに、笑顔を崩さずにチャイムを押す。
「ぎーるちゃぁーん、あーそぼーやぁ」
 完全にまだ酔っぱらっている……固まっているルートヴィッヒを余所に、大きな声でもう一度同じことを繰り返そうと口を開いたところで、いきなり開いたドアから白い腕が伸びてアントーニョの口を塞ぐように顔の半分を掴む。それでも柔らかな瞳を崩さずに彼は笑っている。
「おい、今何時だと思ってんだ」
 ぼさぼさの鳥の巣の様な頭に、下着一枚の姿だというのに、ギルベルトの目つきはあまりにも鋭い。訓練中の姿とリンクし背筋を伸ばすルートヴィッヒに対して、アントーニョは解放された後も笑顔は絶やさない。
「なんやの、最近遊んでくれへんから、わざわざ来たったのに」
「お前酔ってんのか?」
 絡んでくるアントーニョの腕を振りほどいてから、立ち竦んでいる弟をみつけて顔を輝かせる。そちらに気をとられ、ぐしゃぐしゃとルートヴィッヒの頭を撫でている間に、いつの間に入りこんだのか部屋から悲鳴に近い驚きの声が聞こえた。
 ギルベルトにくっついてルートヴィッヒも部屋へと駆けこみ、リビングの隣の部屋へ入ると、ダブルベッドに仰向けで大の字になりアントーニョは既に鼾をかいて眠っている。呆れてその光景を見やる二人に、ベッドの端っこにちょこんと座った菊が振り返った。
「……ギル君」
 その泣き出しそうな表情以上に、シーツで隠し切れていない白く滑らかな背中がルートヴィッヒの眼に付き、顔に一気に血が昇り思わず俯いた。それに気が付いたのか、ギルベルトは玄関にかけていた自身の上着をとると、菊の肩にかけてやる。
「こいつ一度眠ると中々起きねぇんだよな」
 飲み屋で何度となく酔いつぶれ眠ってしまったけれど、自分から起きる以外は一度として目を覚まさなかった。菊の頭の上から寝ている主を見やり、溜息を吐き出す。取り敢えずシーツで体を隠してバスルームへ避難し、ワンピースに着替えた彼女が顔を出した。
 いまだに夫婦の寝室で鼾をかいている男を無視し、予想外に早朝から叩き起こされた二人は、早い朝食を始める。まだ朝ごはんを食べていなかったルートヴィッヒの前にも、パンとコンソメのスープが置かれた。
「ルート君が来るなら、もっと良い物を作っておけばよかったですね。そうだ、お昼は御馳走にしましょうね」
 パンを千切ってからにっこりとほほ笑みかけられるが、恥ずかしさに負けてそのまま俯く。義姉が肩を落としているのはわかっているが、細い肩も白く滑らかな背中も、思春期なルートヴィッヒにとって刺激的すぎてまともに彼女を見ることが出来ない。
 恥ずかしがっていつも以上に無口になる弟と、しょんぼりと項垂れる妻を交互に見やりながら、煎れたてのコーヒーを一口飲みこむ。
「もう、行かなきゃ」
 早々に食事を終えて、逃げるように荷物を掴み家を出ていく。途中の食事もそのままに、菊も立ちあがって彼を送りに玄関先へと向かう。
「……じゃあ、お昼はまた来てくださいね。一緒にご飯、食べましょ」
 下からチラリと見上げるように見やった後、無言のままひとつ頷く。すると優しい瞳を更に細めて、彼女は屈みこんでルートヴィッヒの顔を覗き込み、ふと彼の髪が乱れていることに気が付いた。
 気が付いて無意識のまま腕を伸ばすと、パチンと軽い音がして跳ね返される。驚き立ちすくむ菊を見つけて、己が何をしたのか飲みこめていなかったルートヴィッヒは、茫然としている義姉を見つけて慌てて声を上げた。
「ち、違う! ただ、吃驚しただけだ、ごめん……」
 最後は結局謝罪を述べ、逃げるように自分の寮へと向かって駆けだす。後ろで二人の動向を見守っていたギルベルトは、飲みかけのカップを持って、立ちながら立ち竦んでいる菊と駆けて行ってしまった弟を見やる。
「思春期だな」  幼い頃、幼馴染の事が好きで、いつもちょっかいを出してその度に殴られていたことを思い出す。好きな子には、つい意地悪をしてしまうのと同じ原理で、ルートヴィッヒは好きな子にいつも以上に不器用になるらしい。もとから人より不器用なのに、これ以上解り辛くなってしまって、果たしていつかちゃんと恋人が出来るのか、親族ながら心配にさえなってしまった。
 まだ突っ立っている妻の事を部屋へ引っ張り込もうとして、彼女が無言に無表情のまま、ボタボタと涙を零している事に気が付き、驚愕に動きを止める。
「えっ、何お前」
 慌てて服の裾で頬を拭うと、力強かったらしく白い頬に赤みが走った。しかしそのことに対して抗議を述べることも無く、涙を流したまま横に立った彼へと顔を向ける。
「ど、どうしよう……私、き、嫌われちゃった」
 言葉にした瞬間、流れていた涙が本当の滝のように零れ落ちた。殆ど泣かずに耐えしのんでばかりいる筈の彼女が、ぼろぼろと子供のように泣いている姿に驚いて思わず抱きしめると、胸にぎゅうっと顔を押しつけて小さな声を漏らして泣き始める。
 田舎で二人っきり一緒に過ごした時、別れ際も泣き出しそうな様子を見せても、涙を溜めるばかりで泣くことは無かった。自分の事ではなく弟の事で泣いているということに、少し詰まらない気もするけれど、ぴったりとくっついてくるのも珍しくてそのままにする。円い頭を撫で、玄関へと引き込んでから扉を閉めた。
「おー、なんや喧嘩か? 早々忙しい奴らやな」
 いつの間に起きてきたのか、アントーニョは頭を掻き欠伸を噛み殺しながら茶々を入れる。彼は先程まで菊が齧っていたトーストを口にくわえ、笑みを浮かべていた。
「……お前何しに来たんだよ」
 胸の中で泣いている妻をなだめながら、呑気に勝手に朝食を摂っている友人に呆れた声を出すと、彼は「あーほんまやーなんでやろぉ」と眠たそうに応える。
 取り敢えずアントーニョを追い返し、ずっと涙を滲ませている菊を宥め、引っ張り出して市場へと出かけた。眼元を真っ赤にさせ、暗い顔で果物を選ぶ姿を誰もが不思議そうに見やる。誰もが楽しそうに物を選んでいるというのに。
「ルートヴィッヒはお前の事気に入ってんだって」
 厳しい表情でお肉を選んでいる上から声を掛けると、まだ下まぶたの上に震えるほどの涙を溜めこみ、ジッとギルベルトを見上げた。いつもの癖で身を屈めかけて、見慣れた肉屋の店主が頬を緩めて二人を見ていることに気が付き、腕を引っ張りその場を離れる。
 朝食を終えたばかりだというのに、もう昼食の準備を始めた彼女は危機迫る様子だ。仕方が無いから、ギルベルトもデザートであるクーヘンの下準備を始める。
「……なぁ、俺の可愛いルッツの事だから、お前を嫌いになったりはしないと思うんだが……嫌われたらそんなにショックか?」
 他人の前で泣くことを嫌がる菊が、あそこまで人目をはばからずに泣くのだから、尋ねずにはいられない。一生懸命人参を切っていた菊は、問われたことに顔を持ち上げ、気恥ずかしそうに眉根を下げる。
「だって、貴方の大切な弟さんですもの」
 恥ずかしそうに返されると、ギルベルトは思わずニヤーっと笑みを浮かべた。口元から覗く八重歯は菊のお気に入りで、つられたように目を細めると、先程出来なかったために身を屈めて唇を合わせる。
 こちらにやって来てからの数日間で、もう何度も繰り返しているこの行為に、それでも顔を赤くして「包丁を持ってるのに」と怒った振りをした。彼女が怒ると小動物が機嫌を斜めにしているようで愛らしく、怖いなどと思ったことは無い。

 食事が全部揃ったころには、丁度ご飯時となっている。先程の約束と言えない約束、ルートヴィッヒと豪勢な食事を摂るため、並んだ食事に菊は満足そうに頷いた。机は大きめがいい、というギルベルトの言葉の通り大きめな食卓に、ずらりと並んだ皿を前にギルベルトは唇を舐める。
「食べちゃだめですよ。ルート君呼んできますからね」
 そそくさと身支度を整え、気合いを入れてから彼女は家を出て行った。ギルベルトから貰った地図と、ルートヴィッヒの住所を握りしめ、寮の受付と顔を出すが、クリスマスの間は寮の殆どが無人であるため、受付にさえ誰も居ない。
 名簿に名前と来た理由を書き、木製の階段を昇っていく。歩くたびにキイキイ軋む廊下、古い硝子がはめられた窓から射す光は歪み、不可思議な模様を廊下へ描いている。古い木製の我が家を思い出しながら、緊張した心が解けていくような心地がしてくる。
 ルートヴィッヒの部屋の前で止まり、深呼吸をしてからノックすると、直ぐに隙間から空色の瞳が覗く。お昼ごはんに誘い出すと、意外に彼は容易に頷いた。
「綺麗なところですね。学校は楽しいですか?」
 問われたルートヴィッヒは、また素直に無言ながら頷く。柔らかな髪の毛が綺麗で、思わず手を上したくなるのをグッとこらえた。
 クリスマスから数日経った今でも市場は活気があり、正午の暖かな光は人々を楽しませ、浮足立たせている。夜になれば雪が降るだろうと新聞に書かれていたが、この晴れた空からは全く想像がつかなかった。
「あ、あのね、ルート君」
 暫し隣を歩く少年に声を掛けるべきか戸惑っていたが、ようやく名前を呼ぶと、再び眩しい二つの瞳が菊を見上げる。
「菊!」
 菊の声を遮った者は第三者で、驚いた二人は同時に顔を持ち上げた。一人には懐かしい顔が、もう一人には初めてみた男が、道の真ん中に立っている。黒い髪と黒い瞳、更に黒いコートを着込んでいるため、見慣れないルートヴィッヒには小さな夜でもやって来たようだった。
「耀さん……?」
 驚き立ち竦む菊の前へと、耀は駆け寄る。やはり黒い手袋をした掌が、菊の頬を包み込んで満面の笑みを浮かべた。
「お前やっぱり生きてたあるね」
「なぜここが?」
 敵国であるために、従兄である耀の住所などをギルベルトへ調べてもらうわけにはいかず、手紙の一通も書けなかった。お互い生死も判らずに、このまま一生会えないものなのだとばかり思っていた。
「バイルシュミットの長男がキクっていう女と結婚したって聞いて、さがしてたある。今日は長男がここにいるって言うから……ああ、怖い思いしたあるなぁ」
 同じ軍人の家ということもあり、情報が廻っていたのだろう。懐かしい人を見上げていたせいか、いつの間にか涙がうっすらと膜を貼っていたことに気が付き、誤魔化すよう笑みを浮かべた。
 菊の家が襲われた時、耀は父の補佐として一緒に家に居なかった。小さい頃からずっと一緒にいたこともあり、彼と対面するだけで懐かしい故郷が胸に広がる。
「キク?」
 服の裾を引っ張られ、衝撃な再会から目を覚まし、義弟が隣にいる事を思い出した。彼は言葉が解らず、不安そうな様子で菊の事を見上げている。
「あ、この人は」
「子供あるか! それにしては小さいあるな」
 驚きを込めて声を上げたあと、しげしげとルートヴィッヒの顔を観察する。ハーフには見えない彫りの深い顔に、青空と同じ色の瞳が、彼と菊の血の関連を否定していた。
「まぁいいある。話はどこかでゆっくり聞けば」
 腕を引っ張られ、黒い瞳はどんどん引っ張っていく耀と不安そうなルートヴィッヒを数度見比べるてから、先程触りたいと思った柔らかな髪に触れる。
「ギル君……お兄さんを呼んできて貰えますか。そこの喫茶店におりますから」
 優しく言われてやはり無言で頷くが、幼い顔は完全に引きつっている。色々訊きたそうだが、それよりも兄を呼んでくるという指令が優先すべきと感じたのか、心配そうに何度か振り返りながらも駆けていく。

 チャイムも叩くこともなく、ルートヴィッヒは転がり込むように部屋へと入っていった。座って二人を待っていたギルベルトはつまみ食いをしていたため、右頬を膨らませて不思議そうにルートヴィッヒを見やる。
「キクが」
 全力で走っていた為息があがっており、白い頬が赤く染まっていた。いつも落ち付いている少年の尋常ならざる姿に驚き、緋色の瞳が少し見開かれる。
「菊がどうした」
 ソースの付いていた親指を舐めて立ち上がり、青い瞳を覗き込む。強張った表情を浮かべているせいか、逆にギルベルトは実に落ち付いた様子で言葉を促した。
「多分、知り合いだけど……知らない男が」
 まだうまく言葉がまとまっていなかったため、ルートヴィッヒ懸命に考えながらセリフを絞り出す。全く整然としない言葉の羅列を、それでも真剣な様子で聞いてから、落ち付かせるように頬を撫でた。
 義姉のことが心配だったけれど、数年ぶりのその行為が嬉しく、一気に乱雑になった心が落ち付いていくのを感じる。頭を撫でられることは良くあるが、大きくなってからは頬を撫でられる事は数を減らしていた。喫茶店の名前を告げると、部屋で待っているように告げてから家を飛び出す。

 机に並んだお皿の全てに、ルートヴィッヒが好きなものが盛られている。三人で食べられるような量ではないのに、兄も何も言わなかったのだろう。
 暫くそわそわと机の周りを歩いていたのだが、自分がそうしていても時間は進まないと気が付き、椅子に座って二人の帰還をじっと待つことにした。棚に飾られている写真立ての中で、楽しそうな兄と義姉が笑顔を浮かべている。
 初めて菊を連れて来た時は、いつも可愛がってくれる兄が、どこか遠くへ行ってしまうような錯覚を覚えた。いつも訪れていた兄の部屋も、彼女が家に入ってからは中々訪れる事もなくなる。厳しい兄が飲みに行ったり以外で遊んでくれるのは自分だけだと思っていたのに、仕事の小さな隙間に裏庭で義姉とじゃれる姿は、さながら子供と遊んでいるようだ。
 菊のことも、勿論兄のことも大好きだったが、義姉にギルベルトを奪われてしまうような、ギルベルトに義姉をとられてしまうような、変な気分になった。優しくて綺麗で一生懸命で大好きな菊と、幼い頃が敬愛してやまない兄の両方から離されてしまったようで、最初は正直寂しかった。
 ガチャリと玄関の扉が開き、軽い足音が響く。リビングから顔を覗かせた菊は、ルートヴィッヒの顔をみて表情が緩んだ。
「お待たせしました、ルート君。お腹空いたでしょう」
 きらきらと輝かんばかりの笑顔を浮かべて駆け寄り、腕を伸ばしかけて慌てて引っ込める。朝に弾いてしまったのを気にしているのだろうと、胸の奥がキリキリと痛む。
 思わず腕を伸ばしてスカートを引っ張ると、彼女は少し身を屈めて嬉しそうに首を傾げる。綺麗な黒髪が揺れ、底の見え無い瞳が覗きこむ。その眼を見やると、吸い込まれてしまいそうで思わずまた体が硬くなる。
「キクは、どこにも行かないよな」
 空色の瞳が必死に見上げてくる。一瞬の間を飲みこんで、星でも零れ落ちてしまいそうに一気に喜色ばんだ。気がつけばぎゅうっと抱きしめられ、初めての親族以外の抱擁に体が一気に固まった。
「ええ、勿論ですよ」
 鼻先を合わせるほどに顔を近づけて、くるくる喉を鳴らして笑う義姉に、ようやくルートヴィッヒも頬を緩める。
 そこでようやく何かを言い争いながら、兄と先程の男が部屋へと入って来た。今にも噛みつきそうな二人は、かみ合わない言葉のままに罵倒しあっている。けれど菊は全く気にする様子を見せずに、ルートヴィッヒの掌を包んだまま二人を振り返った。
「あの人は私の従兄で、耀さんって仰います。ずっと私を捜してくださってたの」
 嬉しそうに紹介された主は、口をへの字に曲げて機嫌悪そうにルートヴィッヒへ視線を投げた。
「親戚なんてどうでもいいから、さっさと帰るよろし!」
 耀の言葉は理解していないけれど、ぎりぎりと歯ぎしりをしてギルベルトは刺すような瞳で耀を睨んだ。菊は二人を宥めながら、じっくり考えて言葉を訳していく。
 恐らく、二人は出会ったときからこの調子なのだろう。今にも胸ぐらをつかもうとする二人に目を細め、席に座るように促した。楽しみだった食事会は、なんだか妙な雰囲気に包まれていたけれど、ルートヴィッヒには美味しい遅い昼御飯だ。

 長旅で疲れていたルートヴィッヒは食事を摂ってお喋りをし満足したのか、菊に寄りかかったまま眠ってしまった。膝に乗っかった淡い金髪を満足そうに撫でながら、菊は鼻歌を歌っている。
 菊の右に耀、左にギルベルトが座って双方つまらなそうな表情を浮かべている。会ってからずっと仲の悪い二人よりも、自分を好いてくれているのか気に成っていた義弟がくっついてくれることの方が嬉しく、二人に殆ど構わずにいた。
「いいからそいつに帰ってもらえよ。夫婦で話し合いさせろ」
 苛々とした調子のギルベルトも、初めはこんな感じでは無かった。息を荒げて喫茶店にまで駆けてきた彼は、耀と菊を見比べて彼らが親戚であることを大体理解する。
 咄嗟に笑顔を浮かべて右手を伸ばし握手を促すが、耀は胡乱そうな瞳で頭の先から靴の先まで見やり、腕を伸ばし返すことは無い。鼻であしらい、何事かを菊に言っている。それが良くない事だなんて、強張る妻の顔を見れば直ぐに解った。
「菊、訳せ」
 隣の椅子をひいて座って言うと、彼女は二、三度口をぱくぱくとさせてから、困ったように俯く。「誤魔化さずに全く同じように訳せ」と追い打ちをかけると、眉根をさげて泣き出しそうな表情を浮かべる。
「えっと、この方は私の従兄で、耀さんって仰るんです。私の事をずっと探して下さってたらしいくて……その、貴方の事ひと攫いだって。私が本田家の娘だから結婚したって思ってて」
 本田家、なんて、菊の口から自分の家の事は殆ど話さないため、初めて耳にした。反論しようと口を開くが、奴隷として買いつけたとなれば、ひと攫いと言われても仕方ない気がして口を閉じる。
 不安そうな菊の視線を感じて、眉間に皺を寄せて言葉を選ぶ。
「俺達は双方の了解を得て結婚したんだ。そんなこと言われる筋合いはねぇだろ」
 菊がこちらに来てから、しっかりと薬指に付けるようになった結婚指輪を光らせ、苛々と指先が机にぶつかる。その態度を見た耀の眼光が益々鋭くなるが、菊は嬉しそうに眼を細めて、柔らかな表現に変えて耀へと伝えた。
 見つけたら直ぐに家へ帰ってくるとばかり思っていたため、菊がギルベルトのことを愛おしそうに見やることに腹が立って仕方無い。あれだけ心配して、彼女の父親と血眼になって死体が無かった子供たちの行方を捜したというのに。
 そこからヒートアップしていく言い合いを、菊は懸命に柔らかく柔らかく訳していくも、互いが互いを罵っていることなど顔を見れば容易に判る。ルートヴィッヒが待ってるから帰ろう、と菊が言いだすまで、二人は彼女が聞いた事の無いスラングで言い合いをしていた。

 明日また来る。という言葉を残して耀が帰ったのは、ルートヴィッヒが寝入って30分程経った頃だった。今日は一晩ねばるのだとばかり思っていたギルベルトは、若干拍子抜けした様子で細い男の背中を目線だけで見送る。菊も膝の上で義弟が寝ているため、動けずに声だけを掛けた。
「いいのか? 帰らなくて」
 ソファに深く座って問う彼は、探るような視線を投げかけた。菊は唇に笑みを浮かべ、手招き彼を近くへと呼んだ。近寄って来たもふもふの白い髪を撫で、甘えるように鼻先をギルベルトの首筋へと寄せた。
 珍しく甘えてくるのをそのままにして、彼女の言葉をジッと待つ。
「帰って欲しいですか?」
「まさか」
 近寄って来た唇にキスを落として、丸い頭を撫でると懐いた猫の様に目を細めた。ギルベルトはもう一度唇を落とすと、いまだに眠っているルートヴィッヒのためにブランケットをかけてやる。
「いつか俺様が連れてってやるよ、故郷にも」
 にんまり笑うと、彼の八重歯が唇の隙間から覗く。菊の故郷はまだ戦火の跡が生々しく残っていて、とてもじゃないが外国人であるギルベルトが容易に帰ることは出来そうもない。
 菊は「はいっ」と嬉しそうに頷き、柔らかなルートヴィッヒの髪の毛を撫でる。まるで本物の家族のような光景に、耀の事で苛々していたギルベルトも頬を緩めた。ルートヴィッヒの子供らしい顔など、彼女と一緒の時しか見る事が出来ない。
 可愛がってはいるものの、母親のように接することはやはり出来ない。小さな少年が求めている安らぎを与えられるのは、優しい彼女にしか出来ないことだ。
 これからの耀のことを考えるとうんざりするけれど、この光景がいつも見られると思うと胸の奥が暖かくなる。菊と出会う前には、本当に安心して眠れる寝床をずっと探し求めている様な気分がいつも付きまとっていた。
 いつかもう一人家族が加わり、四人で大きなテーブルを囲んでいる光景を思い浮かべ、自身もうとうとと眠気が訪れていることに気がつく。思えば、朝早くにアントーニョに起こされ睡眠時間はとても短かった筈だ。ようやく見つけた暖かな寝床は、今日も眠りを優しく促す。