卿菊

早く人間になりたい 01
 
 
「私はあなた方が不憫でなりません」
 しわがれた声と共に差し出された手にはいくつもの深い皺が刻まれ、数百歳も年下だというのに、まるで巨木を前にしたような淋しささえ覚える。彼の手の中には黄金色の硝子で出来た小瓶が一つ包まれ、中には八分目まで液体が入っていた。小瓶自体に色が付いていたため、液体が一体何色なのかは解らないが、それは一目で異質であると気がつく。
「これは私が最期だと思い作ったものです。これさえ飲めば、あなた方は人間になれるのです」
 目の高さに差し出されても中々手を伸ばすことが出来ず、兄の顔を伺えば、深い緑もこちらを見やっていた。
「まるで神の子のように罪を背負い、永遠の時を生きるなんて」
 老人は絞り出すようにそう呟いてから、急に口を閉ざした。最初に動いたのはフェリシアーノで、手を伸ばして小瓶を受け取ると胸の中に包み込んだ。見かけよりも冷たく重い小瓶は、簡単に壊れてしまいそうで抱き寄せた掌でそっと撫でる。
「いつ使うか解りませんが、ありがとうございます」
 舌足らずな口調でお礼を述べると、鳶色の瞳がしげしげと薬瓶を眺めた。幼い顔に声、しかし丸く大きな瞳の、その色ばかりは重ねてきた長い年月を映し出している。それは気が遠くなるような、遥か永遠と見間違えるほどの深い色だ。
 胸元から厚い、薬の作り方が子細に書きこまれた手帳を取り出し、それもフェリシアーノの小さな掌に抱え込ませる。さほどの大きさは無いのに、ずっしりとした重みを覚えた。
 老人は薬を渡した3年後の、5月の頭にこの世を去って行った。最期はフランスの地で過ごしていたため、兄弟が彼の死を知ったのは数カ月後の事だ。二人は薬を家から国家の宝物館に移すと、忘れたふりをして過ごした。それが、1519年初夏のことだ。
 
 
 
 幼い頃からそうだ。何をやってもダメだった。芸術や貿易も弟より劣り、頑張ってみてもいつだって空回りで、いつからか頑張ることさえ諦めてしまい、弟に押しつけることが多くなった。
 テレビでは不景気と無職者のニュースが流れ、ロマーノは溜息を吐きだしスイッチを切って立ち上がる。居住地の一つである、ローマの中心部に位置するアパルトメントの窓からは、いつも楽しげに遊ぶ子供たちが見えた。
 観光客が居ようがマフィアがいようが、道の真ん中でボールを蹴って遊んでいる。大きな口を開けて笑い声を洩らす小さな姿は、何世紀経とうと変わることは無い。
 暫く窓際に立って眺めていたが、目を離して上着に手を掛ける。秋口の空はいつもより赤く、少しだけ肌寒い。街中は活気があるものの、冬に向かってみんな支度を始めている。
 昨夜急に見た夢は、遠い日の思い出の一つだった。知識人であった知人の一人が、ヴェネチアーノとロマーノへ『人間になれる薬』を差し出したのは、今から数世紀も昔のことだ。当時はその薬の存在が怖くて眠れない日もあったけれど、今では彼が自分達を騙して遊んでいたように思える。いや、そう思って忘れることにしたのだ。
 市場でトマトを買い求め、庭先のプランターに植えられたバジルの葉を数枚ちぎり、炒めたトマトに塩コショウを振ってトマトソースの即席パスタを拵える。ルッコラと生ハムのサラダにワインを添え、パンを数枚切り分けた。
 席について一人で神に祈る。バチカンにほど近いこのアパルトメントでは、冬の空気の澄んだ日にはかの地から鐘の音が渡り響いてくることもあり、自然と国民達の信仰心が自身の心に差し込んでくるらしい。
 神を裏切ったアダムとエヴァが作った罪。女は出産と男からの支配、男は農奴と死を予言し、神は彼らを楽園から追放した。アウグスティヌスは、男女の性交によって罪は遺伝するとしていた。
 それならば自分達、誰かから生まれていない自分達は負うべき罪など無いのだろうか。
 お祈りを終えてパスタを頬張り、ワインを口に含む。家の前にある酒屋で買った、一本十数ユーロの大して高くも無いワインだが、日の光を浴びて燦々と輝くブドウ畑を想起させた。
 食事も半分終えたころノックの音が聞こえ、最初は居留守を決め込むことにした。広場では楽団が演奏を始め、ロマーノが出している生活音など聞こえはしないだろう。しかし食後のコーヒーを淹れ始めてもノックの音が止まず、眉間に深い皺を寄せながらもようやく立ち上がる。
「まぁた居留守つこうたろー思ったやろ。もう親分はだませへんよ」
 扉の前には大口を開けて笑った顔なじみが居り、その阿呆面に嫌気がさして扉を閉めようとしたけれど、彼の抱えた紙袋から伸びた高級ワインを見やり、取り敢えずあげた。
「お前の夕飯はねぇぞ」
「ええよ、適当に作るから」
 いつものように癖っ毛は櫛など通されてもおらず、伸びたTシャツに天然ダメージジーンズを履いている。これで顔がよくなければ、お洒落なイタリアの町中など歩けない。
 一人分のコーヒーと椅子を持って窓際に座ると、楽団の音楽と、風が入るように窓を開けた。赤かった空は紫に色を変え、天頂には早くも幾つかの星が瞬いている。
 スペインは台所に入ると勝手知ったる我が家のように料理を始める。台所にはいつも食材を貯蔵しているし、よく訪れて甲斐甲斐しく世話を焼く彼にとっては、本当に自身の家より使い慣れているのかもしれない。
 濃い目に淹れたコーヒーは苦く、舌の上が微かに痺れた心地がした。しかし香りは良く、肺一杯に吸い込むだけで落ち着かせてくれる。
 やがて表面を焼いたパンにルッコラ、トマト、生ハムを挟んだパニーニを持って、台所から彼が顔を出す。いつの間にかスペイン専用となったコップにはミルクが入れられ、簡単な食事が始められる。
 スペインが食事を摂っている姿は嫌いではない。ヴェネチアーノもロマーノも美味しいものがなにより大好きだったから、食事の時間が楽しみで、そして楽しそうに食事をする人が嫌いではなかった。
 何かを食べて「美味しい」と味わうことは、まるで自分が人の子にでもなった気がする。満腹から訪れる幸福感は、“人間”が家族でふざけ合っている時に感じる幸福感と変わらないと、幼い頃から信じ込んでいた。
「なぁ、新しい曲練習中なんや! 聞いたって」
 食事を終え、ミルクで流し込んで開口一番、彼は隣に置いていたギターケースを引き寄せて満面の笑みを浮かべる。
「うるさくすんなよ」と眼光鋭くさせながらも、窓を閉めて頬肘付きながら耳をすませた。初めて出会ったときから、スペインはギターを軽快に弾いていた。そのためか、趣味の範囲などとっくに超えて、素人であるロマーノにも上手いことは解る。
 ソファーの背もたれに体重を預け目をつむると、いつも一緒に座った大木を思い出す。ロマーノがグズッたり、自国で辛いことがあるといつもそこに座り、彼の歌声を聞きながら暖かな木漏れ日の中に意識を漂わせた。
 抜けていく涼やかな風、笑う子供たち、穏やかな木漏れ日、青い芝生、そして彼の歌声。
“あの薬”を貰ってから丁度百年ほど後、再びペストが大流行した。人々は苦しみ、悲しみ、神にすがりロマーノに嘆いた。
 こんな時ヴェネチアーノならばうまくやり過ごすのだろうが、不器用なロマーノには出来なかった。毎日知り合いだった人間達が死んでいき、美しかった街角には大量の死体が積み上げられる。
 人々に奇跡の様に扱われていたけれど、そこでようやく自分は無力な傍観者なのだと気が付いた。国が傷つけば同じように傷つき、それなのに自力で立ち上がることもできない。神の子の様に人の想いを担ぐけれど、神の子の様に人は導けない。
 もう立ち直れないと思ったロマーノを大木の下に招きいれて、まるで子供のころの様に『泣いてもええよ』と笑った。もう体は随分大きかったけれど、言われた瞬間堰を切ったように涙が零れ落ちて止まらなくなったことをよく覚えている。
 穏やかな、まるで昔が帰って来たような幸せの時間、彼はいつもの様に伸びやかに歌を歌う。途切れた時に、ふとスペインに“あの薬”の話をした。彼がどんな反応をしたのか、それは覚えていない。
 
 
 いつの間に眠ってしまっていたのか、気がつくとスペインの上着が肩から掛けられ、外の楽団の音も途絶えている。隣に座っていた彼の姿を探して顔を持ち上げると、台所から食器を洗う音がした。
「……いいのに、俺がやっとくし」
「お、起きたんか。ええよ、こんぐらい」
 時間を確認すると眠っていたのはほんの数十分程度、欠伸を噛み殺してテレビのリモコンに手を伸ばしかけたところで、名前を呼ばれた。
「あのな、今日、話があってきたんよ」
 見えるのは食器を洗っている後姿だけだが、なぜかスペインのその一言だけで心臓が飛び跳ね、冷たい汗が背中を伝う。もう、ずっと長い間一緒にいたのだから、彼がこれから大きな決心を打ち明けようとしているのが、直ぐに解ったのだ。
 そしてどうしてか、それが先程まで見ていた夢と関連していると、直感的に勘づき、飛び出た声はいつもより少し大きかった。
「あ、のさ。俺もう寝るわ。今日疲れてんだ」
 遮り立ち上がるけれど、立ち去るよりも早くに泡だらけの手がロマーノの腕を掴んだ。一つだけポツンと点いた、白い電球の下でもスペインの新緑の瞳は痛い程に輝いている。
 真っすぐなその瞳を見ると、いつでも言葉が喉に引っかかり、体はうまく動かない。
「あんな……昔にロマが言っとった薬、まだあるんか」
 予想通りの言葉に一瞬気が遠のき、心臓がひどく傷む。
「……に、人間になりてぇのかよ」
 頭の中まで真っ白で、それ以上は言えずに下唇を噛みしめると、スペインから視線をそらして幾重かにぶれた二人の影を見やった。人好きする彼ならば、そして同じ苦しみを負う自分には、聞かずとも答えはハッキリとしている。
「ちゃんと考えたのかよ……」
「あれから何世紀経ったと思っとるん」
 ロマーノが“薬”の話をした時の、スペインの表情を思い出す。あまり人には見せないけれど、彼にだって、当然苦しくて辛い時期もあった筈だ。度重なる戦争や、そして止めることもできない侵略。
 長い長い途方もない、狂ってしまいそうなほどに遠い日々を生き抜き、もがき、そして自分達は最終地点を模索する。子供を成すことも出来ない、死ぬことも叶わない、それでも大きなものを背負わなければならない。
「……これから、親分と一緒に生きへん?」
 落ちる太陽に家に向かう子供、母親、高い青空に響く汽笛。憧憬さえ覚えて見送ってきた全ての景色が、体の中にストンと落ちてくる。あまりにも大きな説得力に、思考など止まって頷きたくなってしまう。
「……俺も?」
「当たり前やん。一人なんて寂しいわ」
 目を大きくさせて立ち竦んでいるロマーノを尻目に、スペインは眉根をさげて、大きな口でいつもの様に優しく笑う。音は殆どせず、全ての人が寝静まってしまったと思える程に、夜のローマは静かだった。
「また、昔みたいに、家族みたいに、人間みたいに、一緒に生きようや」
「……でも、俺が国じゃなくなったら、何が残んだよ。なんにもできねーし、良いとこなんてなんにもねぇじゃねぇか」
 涙が直ぐに込み上げてくるのが解り、いつまで経っても直らない緩い涙腺が情けなく、手を強く握りしめて痛みでどうにか止めようと試みるが、直ぐに景色は滲んだ。けれども目の前のスペインはいつも通りの笑顔を浮かべている。
「『ロヴィーノ』が残るやろ」
「……え?」
 ケロリと言われた言葉が予想外で、呆気にとられたまま顔を持ち上げると、初めて出会ったときから変わらない笑顔がそこにあった。どれほど時代が変化し、楽しかった時も苦しい時も、彼は変わらずそうして笑いかけてくれた。
「ロマーノがロマーノやなくなったら、ロヴィーノが残るやろ。俺、ロヴィがおったらそれでええねん」
 大きな掌が降りてきて、頭を撫でられる。その暖かさも、忘れることの無い深い想い出が満ち溢れていて、思わず胸が詰まってしまう。
「ば、ばっかじゃねぇの!」
 泣き出してしまいそうなのを誤魔化すために声を荒げるが、語尾は情けなくも震えていた。きつく下唇をかみしめるけれど、感情を落ち着かせることはできない。
「なぁロヴィ、人間になったら俺たちあと半世紀ぐらいしか生きられないやろ?そしたらな、きっと、残りの日を毎日大切にすると思わんか。限られた日を大切な人と過ごすのが、俺は生きてるってことやと思う」
 キラキラ輝く湖面、ギターの快活な音、楽しげな歌声。それら全てがリアルに蘇る。幼い頃を思い出すと全てが輝いて感じるように、明日がそう見えた。
 詰まる胸元に掌を押し当て、混乱する頭で一生懸命考え、ようやく大切な事がいくつも浮かぶ。
「国民は?赦してくれんのかよ」
「親分なぁ、みんな大好きや。みんなも俺のこと愛してくれとる。なんで赦してくれんことがあるんや……ロヴィーノ、そう思わん?」
 この薬を手渡してくれた老人の事を思い出した。彼はロヴィーノとフェリシアーノが『不憫』なのだと言った。
「ほ、ほんとに、死ぬまで一緒かよ。お、おれ、しわしわのじいさんになっちまうんだぞ」
「親分もしわくちゃになるんやから、かわらんやろ」
 決着は初めからついていて、それこそ、自分の“子供たち”を羨むのと同時に来るべき日を待っていた。
 ロヴィーノは俯くと、足元にしみついた自身の影をただ見下ろす。
「ちょっとだけ、待ってくれ。考えるから」
 小さく返した言葉に、アントーニョは軽く笑い、ようやくロヴィーノの腕を離す。掴まれていた箇所が熱くて、思わず自身の指先で触った。
 
 
 
「イタリアくん、大丈夫ですか?」
 スペインの田園風景を眺めていると覗き込んできた昔馴染みの黒い瞳を見やり、強張っていた頬に無理矢理に笑みを浮かべる。
「うん、大丈夫。でも、まさか、本当に“人間”になっていたなんてね」
 『人間になる薬』など、とっくの昔に処分されていたものだとばかり思っていた。そしてそれを、自身の片割れがいつか飲むのなど、露にも思っていなかったのだ。
 刻々と老いていく兄と、昔からさほど変わらない青年姿の自身が向かい合って座っている様は、何度体験しても不思議だった。それは当人であるロヴィーノにも変わりがないらしく、年をとるにつれて『もう来んじゃねー!』と、相変わらずの口調で怒鳴っていた。
 姿が老人になれば、中身も老人になるのだとばかり思っていたけれど、そうではないらしい。
「アントーニョさんが亡くなってから、ほぼ一年でしたね。……気落ちもあったのでしょう」
 ロヴィーノとアントーニョが“人間”になった。と発表したときは、勿論世界中が驚いた。“人間になれる薬”など、今まで一度として聞いたことが無い国の方がずっと多く、殆どが信じさえしなかった。
 けれど、彼らの言葉は確かに通じなくなっていて、そしてほんの少しの間に、あっという間に年をとっていく。国にとってのほんの少しは、人間にとっては白髪が交じる程だと、ようやく思いだした。
 そして彼らが薬を飲んでから約半世紀後には、最初にアントーニョ、次にロヴィーノが亡くなった。最後に住んでいたのがスペインの田舎とあって、彼らの墓はスペインに置かれることになる。
 イタリアにはまだ、ヴェネチアーノが変わらず暮らしていた。そして彼がもし死ぬ時が来たのなら、ヴェネチアーノの遺体はヴェネチアのサン・マルコにでもふされるのだろう。
 多くの研究者が“薬”を研究し、今は量産が出来るようになっていた。アントーニョとロヴィーノが人間になり、国としての業務を負わない立場になっても、国家は難なく動いている。そして彼らが死んでも尚、実質的な大きな変化は無い。
 最初は量産を反対された“薬”も、やがては国の意志のままにと、配布されるようになった。国民の動揺を感じながら、彼らはタイミングを伺いつつ、家の棚にこっそりと隠し持っている。
 ヴェネチアーノの家にも、彼らが飲んだ残りが置いてある。
「あのね、日本。兄ちゃん、死ぬ間際、俺の手を握って泣いてた。泣きながら謝ってたよ」
 いつだかあの薬を差し出した、枯れ枝のような手のひらだったけれど、あの時感じた恐ろしさは微塵も無かった。伸ばされたロヴィーノの掌はただ愛おしくて、つぶれてしまいそうだ。
「薬、飲みたいと思いますか」
「うん。でも俺、待ってるって約束した人がいるし。それにね、日本。それに、世界はとっても綺麗なんだ。だから俺、全部見送るよ。俺が消えてなくなっちゃうまで、全部見届けなくちゃね」
 遠くなっていく小さな背中と「お菓子を作って待ってるね」という自分自身の言葉が脳裏を走る。あの時、幼い自分でも彼がもう二度と帰ってこないことぐらい解っていた。けれども待つのだと決めてから、一体どれほどの年月が過ぎて行っただろうか。
 約束など長い年月に晒されればやがて揺らぎ薄らいでいくものであるし、意地になって守るべきものでもないのかもしれない。
『それでも世界は美しいんだ』
 彼が見ることの出来なかった風景や、もっと素晴らしい空を見上げたかったと望んだ国民や、そして数百年後の世界へ想いを馳せたあらゆる両親たち。彼らに代わって過ぎていく世界を見つめることは、自分の義務だと信じている。
 彼らの愛した子供たちが、いつか誰かを愛し、その子供たちもその果てまでも、彼らが生きる世界は美しいのだろうか……
「ご飯、行きましょうか」
 そっと掛けられた声に笑顔を浮かべて頷くと、お尻に付いていた草を払い落して立ち上がる。言われてようやく、ロマーノが亡くなってから何も口にしていないのに気が付いた。
 恐らくは、何も食べずとも自分達は生きていく。それでもおいしいものをたくさん食べ、笑って生きようとするのは滑稽なのだろうか。ただ自分は、人の子達が羨ましくてならない反面、彼らを愛するのが何よりも楽しい。
 
 
 
「Que sera, sera」
 太陽がジリジリと、一面のトマト畑を焦がしている中、不意に聴き慣れた歌声が聞こえ、ロヴィーノはその鳶色の瞳をあげた。その歌声は、昔、不安で哀しくて苦しくて辛くて辛くて仕方がなくて、そのせいで奇妙な病気にかかった自身のために、ギターを持ち出して一日中歌ってくれたものだ。
 彼は、まるで太陽の欠片のように陽気な笑みを顔いっぱいに浮かべ、熟れて真っ赤になったトマトをもぎっていた。頬には泥が付き、額には汗が滲み、一年中着ているTシャツは裾が伸びきってみっともない。
「Whatever will be, will be」
 みすぼらしい、メーカーも解らないボロボロな靴に、膝小僧が擦れたズボンを平気で着てしまうから、豪華なブランド物が並ぶ通りを彼と歩くのは中々恥ずかしい。それでも一緒に居たいと思うのはなぜだろう。
「The future's not ours to see」
 胸の中に込み上げてくる想いが涙になって、世界はキラキラと揺れる。慌てて拭うと、そのことに気が付いたアントーニョが顔を持ち上げ、眉根をおろして仕方なさそうに笑う。
「ほんまにロヴィーは泣き虫やなぁ……今度はどうしたん?虫でもおったか?」
 働き過ぎて荒れた掌が、ロヴィーノの頭に落ちてくる。この手に撫でられるのもあと何年だろうか。そう思うと、ただこの瞬間さえ愛おしい。
 世界は光っていて、美しくて、そして哀しい。