雪のごとくは桜の花 散って消えゆく間も見えず
空にまたがる紫雲 一体誰ぞをお隠しか。
手鞠唄と共に、ポンポンと鞠が地を付く音が聞こえ、中国は自然緩む自分の頬を呪った。
そっと足音を立てずに畳の上を歩み、家の中から庭で鞠をついている彼が見える位置まで気付かれずに移動する。彼、日本は齢いくつか、もう自分達はそんな事すらまともに数えてはいないけれども、彼は未だに無垢な子供の姿でそこに存在している。
午後の柔らかなオレンジの光を浴びた彼が、不意にコチラに目線をよこし、そして微笑んだ。
「中国さん」
彼が自分を見つけ、その幼い顔を綻ばしながらコチラに向かって駆けてくる。彼を彩る美しい水干が、その白い肌と黒い髪をより美しく栄えさせていた。
まだ幼い自分の可愛い弟。随分大人っぽくはあるが、こうして時折訪れると嬉しそうに駆けてくる。
大きく育って欲しい、そう思う反面、このまま永遠にこうであって欲しかった。自分の顔を見れば、嬉しそうに駆けてきてくれる彼で。
尽期の君
巨大な革靴を玄関先に見つけて、予想していた事なのにも関わらず中国はクッ、と小さく息を飲み込んだ。直ぐさま脳内にあの巨大な子供の姿が映り、胸の奥底で炎に似た怒りが音を立てて燃え上がった。
本当の事を言えば、日本が鎖国をするといってスペインを追い出した時、少々中国は嬉しかった。どんどん塀を作って、誰も彼もが日本の事を忘れてくれればいいのだと思った。しかしそうするには彼は聡明で愛らしすぎた。侵略、そう呼ぶにはやや柔らかな形で異人達は彼の上にのしかかる。彼の華奢で白い身体に、初めはその靴を脱ぐこともなく。
お邪魔する、の一言も無しに、中国は己の靴を脱ぐとドカドカと廊下を歩み片っ端から障子を開け放っていく。日本の家は信じられないほど広い、が、特に家具もなくがらんどうとした畳ばかりの部屋。その部屋部屋は全て柔らかな光を浴び、思わぬ客人の足さえ止めようとする。
結局目的の人が居た部屋は、最奥に位置した台所。スパン、と小気味良い音を立てて扉を開ければ、彼はその自分と同じ黒い瞳を目一杯に開き驚いて自分を振り返って見やった。部屋全体には昼食として準備していた為にか、良い薫りが充満していた。
ハタリと停まった中国にとっては、いくら空いていようがそんな匂いも日本の事情もどうでも良い。ただ濃い紫色と鮮やかな朱がハッキリと浮き出た白い頬を見やったまま表情さえも消え失せるただけ。
「……アメリカは?」
中国は何か所在なさ気に立っている日本から目線を無理矢理反らして遠くを見やり、ボソリといつもより低い声で呟く。と、伏せていた目線を上げつつ日本は中国の顔を盗み見た。
「今お風呂に入っています。」
「昼に?」
一瞬言葉に詰まりながらも日本がそう言えば、遠くを見やっていたその鋭い双眼で瞳だけを動かしギロリと中国の黒曜石の様なソレが小さな日本の姿を捉えて直ぐに返した。日本の口の端から頬に染まったその生々しい傷跡。触れずともピリリと痛みそうなその傷跡に、目線が触れただけでも中国の心は萎え落ちていく。童顔といえば聞こえが悪いかも知れないが、それ程に彼は昔の面影を抱いていた所為かただただ怒りではなく悲しみばかりがのし掛かる。
つい前まで彼はこの国の塀の中で、確かに世間知らずとして他者とはズレを持ったまま生きていたのだが、それでも保身されていた。なのに、今では全てが彼を傷つけるのだ。ほんのちょっと目を離した隙に。
「これはアイツにやられたアルか?!」
数歩で中国は日本に歩み寄り、その細い顎を捉えて上を向かせると無理矢理視線を合わせた。酷く怯えるものだと思っていたのに、日本は柔らかな大きな瞳を吊り上げて必死に中国を睨め付ける。それでもその狼狽は見て取れた。
「そうだよ。オレが殴ったんだ。」
後ろから不意に声がして振り返れば、日本の民族衣装をメチャクチャに着込んだアメリカが、正しく風呂上がりらしく蒸気し朱に染まった肌を晒している。
散々自分を悩ませている西洋人の弟分。その姿をみとめただけで、チリッと怒りが中国の胸に過ぎる。
「でも殴るつもりなんてなかったんだ。あんまり日本が暴れるんだもの。」
残念、とでも言うかのように大きく両手を広げてみせてから、軽く首を傾け唇を突き出す。
「貴様っ」
今にも中国が踏みだそうとしたその瞬間、グイとその腕を捉えて日本が必死に中国を押しとどめた。勢いを押しとどめられて、思わず中国は振り返るとひっしとその腕にしがみついた日本を睨む。
「離すある!」
中国が怒鳴り声を上げた。幼い頃の彼なら、直ぐに泣き声を上げるだろう語調で。それでも、今の彼は決してその腕を離そうとはせずに、そして大きく首を振った。
「帰ってください!お願いします。帰ってください……」
泣き声を含めた必死の懇願に、頭に血が上っていた中国は奥歯を噛みしめてこの小さな弟を見つめて動きを止めた。沈黙がゆるやかに流れる中、
「これでお終い?」と少々不満そうな声を上げつつ、右手に隠し持っていた拳銃を取り出すとクルクルと器用に回してみせる。
「後でこちらから用件をお伺いします。」
顔を持ち上げた日本がアメリカに聞こえない様にそっと囁いた。用件らしい用件も特になく、なんとなく遊びに来たなんて言えずに素直に中国は頷く。ここで帰るのはアメリカから逃げるかのようで癪だけれども、この場で拳銃など出されたら引き下がるしかない。
にこやかに微笑むアメリカを中国は苛々と睨み付け、踵を返すと日本に背を押される形でズカズカと玄関に向かう。後ろで日本が何度も小さく謝罪をしているが、その声には何一つとして応えられなかった。
「日本、本当に大丈夫アルか?」
玄関先でジッと傷の付いた日本の頬を見つめながら問えば、日本はいつの間に身につけたのか、人工的な微笑みを浮かべる。
「大丈夫です」
そう答える日本の声はシッカリとしていた。が、黒い瞳はどこかユラユラと揺れている。
「……日本?」
痛々しい頬に、まるで割れ物でも触る様にそっと指をあてがってその名を呼べば、ピクリと日本の肩が震える。見開き中国を捉えた瞳が確実に恐怖で揺れる。その幼い頃には決して見なかった表情に中国の言葉すら途切れる。
「……何故、時間は流れるのでしょうか。」
不意に目線をそらして、ポツリと寂しげに日本が囁く。
「私は、変わらなくてはなりません」
小さい声ながらに重い口調。もう一度名を呼ぼうとした中国の顔を見上げ、日本は先程と同じ人工的な笑みを浮かべた。しかしその眉は微かに歪んでいる。
「さようなら、中国さん」
まるで終の別れの様に日本は中国を突き放す。どこか縋るような色を持ちつつも、日本は自分を弟として愛してくれた中国を突き放す。
「にほーん、ご飯!」後ろからアメリカの声が響き、パッと日本の顔もそちらに向けられ、慌てて中国にもう一度頭を下げると遠慮がちにそっとその扉が閉ざされる。ゆったりとした動作で閉じられていく扉の最後のほんの数センチが無くなり、ピシャ、と小さな音が立って二人の合間を完全に遮断する。
雪のごとくは桜の花 散って消えゆく間も見えず
空にまたがる紫雲 一体誰ぞをお隠しか。
帰り道、不意に昔に聞いた手鞠歌が聞こえた気がして振り返れば、ただ海には巨大な威圧感を醸し出した黒い船が数数艘、まるで妖獣に沈黙をしていた。