八十氏人の数ならぬ もとよりこの身は浅ましき
鋭き牙爪を力にて 挑み争う苦しみの
重きが上の小夜衣。
夫の寝覚もわびしくて 思ひの種ともなりやせん。
恋しくば尋ねきてみよいづみなる信田の森のうらみ葛の葉
(信田妻より)
『恋し葛の葉』
アーサーは硝煙の匂いが混じった己の帽子を脱ぎ去ると、下男に向かい適当に放る。マスケット銃も同様人に手渡すと、リビングで座っている友人の元へと歩み寄った。
「まぁた狐狩りしてたの?お前。」
ソファに悠々と座っているアルセーヌが、そう小馬鹿にするように笑みを浮かべた。アーサーはそんな彼を見やりながら、表情を一切変化させることもなく、アルセーヌの目の前のソファに座る。
「女のケツばかり狩っているお前よりかは有意義な趣味だ。なんてったって剥製にしたら綺麗だし、毛皮なら高価だ。犬の餌にもなる。」
ふん、と鼻先で笑うと、アーサーは出されたカップに口を付けた。今日取った獲物は、見目もあまり良いものではなかったし、犬の歯形が目立つところに付いてしまったから剥製にも毛皮にもできない。
剥製は趣味で2,3体持っているけれど……ふと、今日の狩りで見掛けた狐を思い出し、心の中でうっとりとする。それは紛れもない白狐であり、今まで観たこともないほど美しい狐であった。
早速追いかけようとしたのだが、白狐は逃げる仕草を微塵も見せようとはしない。アーサーが望んでいるのは、そんな立派な狐が犬に追われ、必死になって逃げる様だ。追いかけて追いかけて追い詰めて、殺す。それが一番の楽しみだった。
それなのに、白狐は動かない。その理由が後ろ足に怪我を負っている事にあるのだと気が付いたのは、犬を放つよりも先であった。後ろの左足に、赤い色が滲んでいる。アーサーが近付いても、狐は威嚇をする様子も見せず、ただアーサーを見上げてみせるだけである。
いつでも持ち歩いている簡易の治療グッズを広げると、簡単に処置を施す。治して、今度は逃げまどうその姿を打ち、そして剥製にしようと考えると、背中がぞくぞくとする。
「お前さぁ、そんな事ばっかりしてないで、良い子見つけなよ。あ、そうそう、今度王耀がこっち来るって。東の女も可愛いぞぅ。」
アルセーヌの言葉がアーサーの思考を破り、思わずアーサーは舌打ちをした。
「東の女なんて……」
詰まらなさそうにアーサーは髪を掻き上げると、お茶請けに手を伸ばす。大体東の人間は昔から好かなかったし、王耀とは昔から犬猿の仲である。黒い髪黒い瞳、考えただけで気味が悪い。
嫌気と共に、もうすぐその東の人間が訪れるのだという事を思い出させられ、アーサーの機嫌を急降下させる。その様子を見やり、アルセーヌは自分の発言を後悔する。
着飾るよりも下町で酒や女を買う事の方が楽しいし、社交界に顔を出し大勢で狐を追うより一人で追いかける方が好き。異端児で跳ねっ返り、貴族とはとても思えないアーサーは、周りとは浮いていたけれど、地位は非常に高い。彼の何気ない発言にビクビクしている人間は沢山居るし、彼の機嫌が悪くなると周りの被害は大きくなる。
本当に、どこかに良い子はいないだろうかと、アルセーヌはこっそりと溜息を吐き出した。どうにかコイツを丸くさせ、少しでも、少しでも他人を思いやれる人間にしてくれないだろうか。
そんなアルセーヌが望んでいた女性は、アーサーが嫌がっていた東との社交界で現れた。会場の雰囲気が嫌で庭に出て、煙草を吹かしているアーサーの所へ、突然訪れたのだ。
アーサー曰く、森から来た。との事だけれど、それは彼女を神秘的に思っている盲目的な意見だろうと、アルセーヌは鼻で笑う。彼女の名前は本田菊、勿論東の女性であった。
パーティーに来ているからには王耀と血族であるのだろうけれど、それほど高い位に居る訳ではなかった。己の娘をアーサーの嫁にしようとしていた貴族達は、そんな突然現れた菊を良く思わず、勿論アーサーが菊と結婚すると言い出したときは猛反対した。
変わり者のアーサーが、ただ面白がって東の女にちょっかいを出しているのだろうと、最初はアルセーヌさえそう思っていたけれど、アーサーは菊にメロメロであった。何かと口出されたのに嫌気をさしたのか、結婚式もせずに彼等は召使いを連れて森の中へと入ってしまう。
そして初夜、床の中で菊は、一つだけ。と言ってアーサーと約束を交わす。
「絶対に狐狩りはしないでください。」と。
森の中には何もない。けれども家の遺産と土地のお金で、そこそこ良い暮らしは出来る。今まで楽しんでいた酒も女もそこにはなかったけれど、森の中にあるものといえば、湖と森と花畑、そして家族。……なんだ、最高じゃねぇか。
アーサーは緩む頬で頬杖を突きながら、目の前で懸命に食事を摂っている我が子、ピーターと、その食事を手伝っている菊を見やりながら思う。菊という研磨機にかけられたアーサーは、アルセーヌも吃驚な程に大人しく、夜遊びなんて以ての外、という人間になっていた。買い物と言えばピーターか菊への贈り物ばかり。
口の周りを汚すピーター、その口を拭う菊。ピーターはまだ五つで、勉強の殆どは召使いと菊、アーサーがみている。アーサーが育った家庭は、親子の交流など一切なかった。最初は子供が嫌いであった癖に、今は妻にも子供にもデレデレである。
あの日アーサーが庭で煙草を吹かしていると、確かに菊は森から出てきた。真っ赤な着物を着ていた菊は、アーサーと目が合うと照れたように笑った。「野ウサギが居たので、思わず。」そう言った。
アーサーは始終、ただ固まっていた。その日から煙草も女遊びも、賭け事もピッタリと止め、恋煩い。悶々と頭を抱えるアーサーに、アルセーヌが丁寧に指導をしてやり文など書き始めた。そして成就したとき、その事をすっかり忘れたアーサーが高笑いをしたものだ。
長い間滞在すると言ったその通り、そのまま菊はアーサーと結婚した。菊側は既に両親もおらず、親戚づきあいもないという。だから彼女側にはあまり問題も無く、すんなりとアーサーと共に森の中に入った。
しかし菊は子供を生むと体を崩しがちになり、熱が続く日も多くなる。街から有名な医師を呼んで診せたけれど、原因は分からなかった。ただ微熱であるし、それほど重篤であるようには見えない。けれど心配なものは心配だ。
「菊は大丈夫か?辛くないか?何か欲しい物、無いか?」
この日も寝台の周りでウロウロしながら、荒い息を繰り返す菊の顔をアーサーは覗き込む。すると熱に浮かされて潤んだ黒い瞳が、心配そうなアーサーとアーサーに抱かれたピーターの顔を見やる。
「……アーサー様、お願いがあります。」
「ん、なんだ?何でも言ってみろ。」
頬を包み込んでそう問いかけると、菊は目を細めて頷いた。それから少し戸惑い、やっと口を開ける。
「あの、里帰りをさせていただけませんか?ほんの一ヶ月だけ。」
まさかそう言われるとは思ってはおらず、アーサーはギョッとしてうなされる菊を覗き込んだ。額はジットリと脂汗が滲み、熱を出しているというのに。
「アーサー様、お願い。」
ギューッと真っ黒な瞳に見つめられてそう言われると、「嫌だ」とは言えない。だって彼女がするお願いは、今まででもこれを含めてたった二つだ。
「……分かった。でも、俺も一緒に行っちゃだめなのか?」
アーサーの懇願に戸惑いながらも、菊は囁くように「ごめんなさい……」と言った。衝撃を受けるアーサーと、泣き出しそうな菊。しばし無言で向かい合った後、そうか。と一度アーサーは頷く。
遠い所からやって来た彼女だから、ストレスもあるだろう。里帰りもさせてやりたいと思っていた、けれど、一人は心配だ。その思いに揺れ動いている内、まだ熱も冷めていないのに、菊は荷物を纏めた。
「せめて熱が下がってからに……」
「いいえ、大丈夫です。元気になって、直ぐに帰ってきますから。」
本当ならば舟まで送りにいきたかったけれど、菊は森の入り口までで良いと言い張った。渋々手を振るアーサーに、泣き出しそうな様子で菊を見つめるピーター。菊は病み上がりの青い顔で、細い腕を大きく振る。
小さくなる馬車を見送り、寂しくなった家を振り返る。これから一ヶ月、菊の居ない生活を思うと気分はどんどん重くなる……知らず溜息を一つ吐き出すと、アーサーはピーターを抱えたまま家に戻った。
半月が経った頃も手紙の一通も無く、アーサーは海路に何かあったのかとそろそろ心配になっていた頃である。午後の陽気が気持ちよく、心配で夜中眠れないせいか、ついウトウトとしてしまっていた。
が、何気なく見下ろした窓の下に白い影を見つけ、思わずアーサーは立ち上がって窓の外へと身を乗り出した。窓の真下には大きな白狐が一匹、ジッとアーサーを見つめている。それはもうずっと昔見つけたあの狐であるが、非常に人懐っこいらしい。
欲しい。ぞくりと背筋が打ち震える。久々の感覚に、アーサーはすっかり夢中になった。菊は嫌がるだろうけれど、彼女に持たせたら、それはそれは栄えるだろう。「買った」といえばバレまい。
召使いを一人呼びつけ、もう大分年老いてしまった狩猟犬の名前を呼びながら外に飛び出す。森の中にはいるのなら、馬は必要だろうかと思いながら、先程まで狐が居た場所へと飛び出す。そこにはまだ、あの狐が逃げずに居た。
が、アーサーの手の中に在る物を見つけると、サッと森に向かい駆け出す。頭の良い狐だ。と、内心若い頃に戻り、アーサーは犬に追いかける様に命じ、自分もその後を追いかける。
アーサーは犬の吠える声を頼りに走り、やがて一本の木の根もとへと辿り着く。普通だったら既に犬は狐を穴から引っ張り出して噛み付いている筈なのだが、勘が鈍ったのか犬はただ吠えているだけだ。
「どうした。穴に潜っているのか?」
頭を撫でてやると、犬はただ喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細めてみせるだけだった。やはり勘が鈍ったのか、と、小さく笑い穴の中を覗き込む。
狐の穴にしては大きく、潜ろうと思えば人一人ほど楽に潜り込めそうな穴であった。しかしそこに狐はおらず、ただ奥の方で何かがキラキラと輝いているのしか分からない。
腕を伸ばしてその輝く物を掴むと、己の前に翳してみせる。瞬時に指輪だと気が付いたけれど、アーサーは思わずギョッとした。それは……この世に二つと無い、菊の結婚指輪だったのだ。
「……なんで、菊のが……」
「アーサー様」
不意に後ろで声を掛けられ咄嗟に銃口をそちらに向けると、そこには暗がりながらも、愛しい姿が見えた。けれどもそれはいつもの姿ではない、耳は狐の耳、そして慌てて羽織った様な着物の裾からはシッポが伸びている。
その姿に驚きと戦きが混ざり、微かに指先に力がこもる。が、菊を撃てる筈がない。
「私を撃ちますか?」
菊は悲しそうな様子で眉根を下げた。泣き出しそうな真っ黒な瞳は、どんな物よりも愛した、この世には二つと無い姿。けれど彼女は本当に自分の妻なのか。
「もとよりこの身は浅ましき……慕っているあなたに殺されるならば、それも本望です。」
「……菊?なんで、お前が……だって、里帰りするって……」
混乱したアーサーの口は、縺れた思考そのままの言葉が出てくる。自分でも自分の考えや言っている事が分からず、ただ言葉ばかりが先に出た。
「長く人間の姿で居ると、体調を崩してしまうから……私、あなたを騙すつもりじゃ無かったのです。それだけは、信じてください。」
一歩前に出た菊の足下で、枯れた葉が鳴く。アーサーは構えていた拳銃を下に降ろすと、そのまま地面にその拳銃を落とした。
その拳銃を目で追いかけていた菊は、そっと己の赤い着物の裾に手を入れる。そして差し出されたのは、もうとっくに掠れてしまったと思っていた、昔追いかけた白狐の傷口に当てた筈の己のハンカチであった。
「これを、お返ししようと思っただけなのです。本当に……でも、私……」
下唇を強く噛んだ菊は、何かを耐え抜くように強く目を瞑った後、アーサーの手を取ってハンカチを握らせる。
「あなた、許してください。ただ、貴方のことが本当に好きだったから……でも私、この姿が見られたから、行かなければいけません。」
「……行くって、どこへ……?」
手渡されたハンカチを強く強く握り締めて問いかけると、体の奥が震えるのが分かる。
「……遠くへ。獣の子供など嫌かもしれませんが、どうぞピーターには今までと同じようにしてあげて下さい。お願い、します……」
そう言い残して菊はそのまま踵を返そうとするけれど、アーサーはそれよりも早くに菊の腕を掴み、引き留めた。
「い、今までの様にはいかないのか?耳も尾も隠して、今までみたいに暮らそう。な、俺は、誰にも言わないし、何も見なかった事にして……」
アーサーの緑色の瞳は揺れ、彼は無理に笑顔を作り出した。泣き出しそうな、少々歪んだ、悲しい笑みだ。
アーサーの手の平が菊の頬を包み込んで、伸びたその耳をゆったりとなぞった。混乱はしていたけれど、だからといって彼女と別れるなど、考えられない。ならば、答えは一つだ。
「あなた……獣の妻など、嫌でしょう?私はあなたがあれ程嫌った、狐です。それに貴方は私との約束を破られた。」
淡々と告げる別れの言葉は、今までで一度も聞いたことのない、それは冷たい物だった。アーサーは思わず、掴んでいた菊の腕を、振り解かされることの無いように強く握る。
「お願いだ、菊……それに、ピーターはどうするんだ。お前が居なければ、泣いてしまうぞ。」
どうにか菊を宥めようとするアーサーに対し、菊は目を細めてジッと、静にアーサーの事を見つめる。ただ何も言わずに。
その沈黙を打ち破る様に銃声の音が響き、驚きアーサーは後ろを振り返った。そこには一緒に出掛けた召使いが、銃をこちらに構えて顔を蒼白にし、立っている。アーサーは状況を掴めずに召し使いに目線をやっていると、不意に前に立っている存在が揺らぐのを感じた。
「……菊?」
菊に再び目線をやると、彼女は己の右肩を庇うように蹲っている。指先の合間から、ボタボタと血が漏れて、赤黒いドットが地面に色づき、染みこんでいく。
蹲る菊は、苦しそうな声をその口の端から漏らす。驚き、蹲った菊に手を伸ばすが、彼女は苦しそうな声の合間から、威嚇するかの様な声を漏らす。一瞬戸惑うが、直ぐにハンカチを取り出し右肩を露わにさせた。
白く細い肩は、一つの穴に肉を抉られ、血が後から後から滲み出ている。アーサーは全身の血が冷たくなるのを覚えたけれど、直ぐに止血を施すアーサーの後ろで、召使いが声を荒げる。
「旦那様、それは化け物です!近寄ってはなりません!」
「菊に銃口を向けるな!そこをどけ!手当てしなくては……」
蹲っていた菊を抱き上げると、アーサーは血相を変えて声を荒げるが、召使いも一歩も退こうとはしない。
「旦那様、しっかりなさってください!貴方は騙されていらっしゃるのだ、その化け狐に……!」
そう声を荒げる召使いを尻目に、アーサーは彼を無視して歩き出した。抱き上げた彼女の血が、アーサーの腕を伝ってポタポタと零れていく。
呼びかけられるのも無視してそのまま屋敷に向かい、駆け出す。メイドは、里帰りしている筈の妻を抱きかかえたアーサーに驚き、更には血を流しているのにギョッとした。
「医者を呼んでくれ!急げ!」
寝室に駆け込むと、抱きかかえた己の妻の体重がどんどん軽くなるのに気が付き、アーサーの体がブルブル震え始めた。
「……アーサー様、剥製は、嫌です。剥製は……」
ブルブル震えながら下に目線をやると、アーサーが抱いていた筈の菊は、いつの間にか一匹の大きな真っ白い狐へと変わっていた。白い毛皮に、ベッタリと赤黒い血が付着している。
アーサーは震えながら、まだ暖かい狐に顔を埋め、カッと目の奥が熱くなるのを感じて、更に狐を強く抱く。と、扉を叩く小さなノック音が聞こえ、アーサーは顔を持ち上げて扉を見やる。
「……パパ?」
「ピーター、起きたのか。」
抱えていた狐をベッドの上にそっと寝かせると、アーサーは扉を開け、ピーターを中に招き入れる。そして抱き上げるとベッドに寝かせている白狐を覗き込まさせる。と、ギョッとしたピーターはアーサーに強く抱き付いた。
血が付いているからだろうか、それとも初めて狐を間近で見たからだろうか、「こわいです!」と声を上げる。その瞬間、カッとベッドの上で彼女は目を見開く。そして何も言う間もなく、足を引きずりながらも立ち上がると、少し開いた窓からサッと飛び出した。
止める事さえ出来ずに立ち竦んでいたアーサーは、怯えるピーターを抱く腕に力を込め、真っ青な空をみつめたままだ。ベッドの上には菊の着物が真っ赤に塗られて落ち、そこへようやく駆けつけた医者が飛び込んできた。
一ヶ月経っても菊は帰ってこなかった。それまで交流のあったアルセーヌもアーサー邸に近寄らせなくなり、その後に邸宅の召使いを一斉解雇した。一度アルセーヌが尋ねると、既に屋敷は誰も居ない。
ただその森で狐が良く見掛けられる様になり、中に入るとコンパスも効かなくなり、あまり奥へとは入れない。希に奥まで入る事が出来た人は、森の奥だというのに小さな家がポツリとあり、オレンジ色が暖かく灯っている。一夜の宿を借りようと近付くも、どれ程歩いてもその家には辿り着けない。