卿菊 ※ この小説はかの有名な貴族英×女体日パラレル(卿菊)の設定を少々拝借させて頂き書いております。私の妄想満開ですので、あしからず。
 
 
 
 
  『 settembre 』
   懐かしき九月
 
 
 
 物珍しい書物を抱えて王耀は涼しい木製の廊下を、素足で足早に抜けていく。まだ残暑が残っているというのに、屋内は涼しく風の通りが良い。
「……菊」
 障子を開けて一番に王耀が部屋の主にそう声を掛けると、窓際で寝っ転がり本を読んでいた彼女は顔を持ち上げ、王耀の方を見やる。眩しい景色の中、菊は相変わらず肌が白く涼しげな様子だ。
「王耀さん、いらしてたんですか。」
 本をパタリと閉じると彼女は顔を持ち上げ、王耀の方に視線をやった。
「先日日本に寄ったから、お前の顔を見に来たある。」
 にっこりと微笑んだ王耀が部屋の中に歩いていくと、菊は体を起こして座り込み、王耀と向き合う。王耀は畳みの上にそのまま胡座を掻いて座り込むと、小脇に抱えていた本を彼女に差し出す。
 異国の文字が並んだその書物を前に、菊は目を大きくさせながらその書物に目線を落とし、その本に手を伸ばす。
「なんて書いてあるのですか?」
「これは英国の有名な作家アルな。シェイクスピアある。」
 14になりたての彼女は、少女と大人の合間の影を色濃く映した顔を持ち上げ、微かに首を傾げたまま王耀の顔を見つめた。
「しぇいくすぴあ……英国、ですか。」
 遠いですね。と、他人事の様に菊は呟くと、挿絵しか分からない本をペラペラと捲る。最近海外から入ってくる知識は凄い量だが、それでも尚こんなにも不可思議な世界があるなんて、予想だにしなかった。
「読んでみたいなら我が言葉を教えてやろうか。」
 王耀の言葉にパッと菊は顔を輝かせ、身を乗り出す。王耀は書物の合間に挟まっていた紙を一枚取り出し、菊の前に翳して見せた。
 紙には林檎やら蜂やらが書かれていて、その下にアルファベットが並んでいる。
「父様のお仕事、少しでもお手伝いしたいのです。」
 ほこほこと嬉しそうに笑っている菊は、王耀から手渡された紙を受け取り、王耀は彼女に英単語を一つ一つ教えていく。あまり発音は良くないが、流石菊というべきか、物覚えはとても良い。
 それから一年後に再び会ったときには、菊は最低限の会話ほどなら英語で話せるようになっていた。流石、流石、と頭を撫でると、顔を真っ赤にさせて彼女は頬を膨らませる。
 
 15歳を迎えた彼女には、父親の権威も多少あるのか、それともその愛らしい顔からか、足が動かなくても沢山の家から婚約の申し込みが舞い込んできているらしい。困った物だと、父親は苦笑を浮かべながら断りの手紙を書いていた。
 王耀は菊の父親の向かい側に座り足を組むと、脇に寄せられている手紙の束を見やり、やはり苦笑を浮かべながらも小さな溜息を吐き出す。それから机に置かれた切られた柿に手を伸ばし、口に含んでから楽しそうに笑った。
「あなたは自分の娘に結婚させないつもりあるか?」
 最近父親の仕事を継ぎ、それなりこの業界で有名になりつつあった王耀だからこそ、気後れすることもなく菊の父親と会話も出来る。
 菊の父親は王耀の言葉にまた苦笑を浮かべると、大きく肩を竦めて見せた。
 
「父様と何の話をなさっていたんですか?」
 菊は首を傾げて王耀に問いかけてくる。外の紅葉は紅葉し真っ赤に染まっていて、ここに来るまでに銀杏は黄色く美しかった。
 1年前に会ったときから彼女はまた一段と色を増して、王耀でさえ思わず一歩退いてしまいそうになる。絹糸の様な髪を揺らしながら彼女は身を乗り出し、グイッといつものように王耀の顔を覗き込む。
「いや、お前の結婚相手が見つからなかったら、我が娶ってやる、っていう話ある。」
「またそんなご冗談を。」
 一瞬菊は顔を赤くすると、王耀の肩にポンッと手を置くと、そのままスルリと王耀の側から離れた。王耀も小さく苦笑を漏らすと、菊の横に王耀は座り込んだ。
「お前もそろそろそんな年あるかー。」
 窓の外に目線をやっている菊の髪に手を伸ばしてそう言うと、よそを見ていた彼女がパッとこちらを向き、拗ねたように唇を尖らせる。
「父様の選んだ方とならいつだって結婚するつもりです。」
 そう言いながらも菊はつまらなさそうに肩を竦めると、黒い瞳を揺らして少々泣き出しそうな顔をし、俯いた。
「……そんなに嫌あるか。」
「そ、そんなことありません!」
 王耀の言葉に、菊はパッと顔を持ち上げて慌てて否定するけれど、眉尻を下げて泣き出しそうな顔をしているから王耀の言葉を肯定している。否定してから直ぐに、菊は肩を落として読んでいた本を指先でなぞっていた。
「だったらやっぱり、我が娶ってやろうか?」
 笑って王耀がそう言うと、王耀を見上げた彼女は、怒ったように頬を膨らませて眉を歪ませて見せる。
 王耀はクスクスと喉を鳴らして笑うと、佇まいを直して小脇に抱えていた本をペラペラと捲り、ずっと幼い頃から歌っている歌を口ずさむ。菊はふと目線を持ち上げて、王耀を見やった。
 もしかしたらそんな未来が来るんじゃないかと、王耀は自嘲気味な笑みを浮かべながらどこかでそんな想像をし、窓の外で栄える紅葉を眺めている菊の横顔を眺める。
 
 王耀が彼女の婚約の話を聞いたのも秋だった。婚約が決まったのは彼女が17歳の夏頃で、向こうに行くのは18歳を超えて直ぐのことらしい。
 また前のように彼女の名前を呼びながら部屋に入ると、菊は気怠そうな顔を持ち上げ王耀の顔を見やった。入ってきたのが王耀だと分かった途端、菊は険しかった顔をクシャリと崩して体を震わせる。
「聞いたある。お前、英國に行くらしいな。」
 王耀のその言葉に、菊は自分の顔を両手で覆ってしまう。慌てて王耀は彼女に歩み寄ると、その小さな肩を支えてやる。
「そんなに嫌あるか。」
 自分が教えた言葉がこんな皮肉に帰ってくるとは思わなかった。あそこまで娘を溺愛している人が、まさかあんなにも遠い所にその一人娘をやるなんて、思っても居なかったのだ。
「いいえ……いいえ、そんなんじゃ……」
 震えた声色で彼女がそう呟くけれど、やはり前と同様、その声色こそ肯定している様にしか聞こえない。
 彼女の名前を呼んで抱き寄せると、幼い頃泣きたいのを我慢していた彼女と同様に、細い指で構成された手の平が王耀の服をキュッと掴んだ。菊のしがみつく手の平を見た瞬間、彼女がまだ幼い頃に母親を亡くし、自分にしがみついてきた事を思い出した。
 あの時はまだ死という概念さえ生まれる前だったかも知れないのに、それでも不安だったのだろう。小さな体はより小さく、まるで小動物の一種みたいだった。
 抱きしめてその頭に頬を寄せると、甘い薫りがフワリと漂い、彼女が本格的に泣き出したのに気が付く。窓の外の紅葉は一層赤く染まり、背後に見える夕焼けと同化してしまいそうだ。秋は、眩しくて儚い。
「さようなら、さようなら、王耀さん……」
 上擦り途切れ途切れになった彼女の声を聞きながら、菊の細い肩を抱く力を強める。こんなにも傍に居たのに、いつか気が付けば離れていって仕舞うものなんて、考えもしなかった。
 もしも、もしも本当に嫌ならば、自分が口利きしてどうにかしてやりたかったけれど、相手は英国の御貴族様である男だというし、自分一人の力ではきっと何一つ力にはなれないのだろう。王耀は目を瞑り、シャクリに揺れる背中を撫でてやる。
 今はまだ力が弱い日本側にとったら、この結婚程嬉しい話も無いだろう。それでも我慢できずに菊の父親に抗議をしてきたのだが、彼は何も言わずに結局何一つ理由を聞くことさえ出来なかった。
「もしも何かあったら、いつでも我に手紙を出すある。」
 何かあったなら、仕事を理由にいつでも行ってやる、と言うと、顔を持ち上げた菊は、真っ赤にさせた目を持ち上げて王耀を見上げ、すん、と小さく彼女は鼻を啜ると、微笑んだ。
 ええ、と菊は頷いたけれど、きっと彼女はどんなに辛い目にあっても自分に言ってはこないのだろう。きっともう、会える機会さえ殆どやっては来ない。
「またな、菊。また……」
 体を乗り出してその額に唇を付けると、涙に濡れた彼女の視線が自分から離れ、窓の外の紅葉をジッと見つめた。
 
 
 あれから何度目かの秋を迎えた頃、また一通の手紙が王耀の元に届く。届け主は当然菊で、近状と13歳になる息子の事についてが記されている。
 と、いう事はあの別れから最低は14,5年は経っている、という単純計算になるのだろう……結局なんだかんだで何もなく、菊の結婚相手については同じ仕事仲間として、度々噂も耳にしていた。
 時折仕事をほっぽり出して家に帰ってしまったりするらしい、というので、思わず王耀は苦笑を浮かべてしまう。初めて目にしたときは、いけすかない奴だと思ったし、それは今でも変わらないのだが、少なくとも菊に暴力を振るう様な奴じゃなかった事だけマシだ。
 そんな彼から一度だけ手紙を貰った事があった。そこには菊の出産の時の危険性なんかがつらつらと、もし何かあったら云々という事が淡々と書かれていた。
 いまいち要点が掴めなかったのだが、結局何かあったときの為に準備しておいてくれ、という事だったのだろう。勿論今にも家を飛び出したかったのだが、自分が行ったところで、一体彼女に何と言えば良いというのか。
 生め、とも、堕ろせ、とも言う権限は自分に無いし、ましてや「頑張れ」なんて言って、一体何の力になるというのか……それでも一人で家に居る菊の事を考えると、いてもたってもいられない。
 そんな時ふと、また彼女の夫であるアーサーの事の噂を聞いた。何でも嫁が妊娠し、その為にまた仕事を休んだらしい。これだから御貴族様は……みたいな事で、やはりまた、王耀は苦笑してしまう。
 
 押し花をしていた一枚の紅葉を取り出すと、王耀は菊に宛てた手紙の中に紅葉を入れ、しっかりと封を閉める。
 ここはまた、美しい木の葉に囲まれた、なんて懐かしい九月になったことか。