『ロゴスの目隠し』
椅子に座った菊は、そわそわと窓の外を何度も見やり、溜息を吐いて椅子に深く坐りなおした。憂鬱丸出しの菊に対し、アーサーは朝から残りの仕事を終わらせるため仕事部屋に引っ込んでいる。
「キク!今日のドレスはとっても綺麗なんだぞ」
アルフレッドは空色の瞳をキラキラ輝かせ、扉口から一心に走ってくる。既に菊が抱き上げるには大きくなりすぎていたため、彼にハグを送って膝の上に抱き上げた。
社交界のためにいくら綺麗なドレスを着てみても、勿論心は晴れることも無い。頭の上で母が深い溜息を吐くのを聞き、アルフレッドは不思議そうな様子で顔を持ち上げる。十歳となれば、菊が社交界前に落ち込むのを知っているので、一生懸命励まそうと言葉を探す。
「雪降ったら無くなるかな」
「そうですねぇ。雪、一杯降るといいですね」
当然雪など降りそうにない空に、菊は苦笑を浮かべて呟いた。会場に行ったらアーサーは周りと挨拶しなければならないし、今日は仲よしの人は誰も参加しない。一人であぶれてポツンと坐っている姿が容易に想像でき、更に菊を落ち込ませる。
その上、今回呼ばれた先の主人の奥方は気性が荒く、会うたび菊に引っ掛かってくるのが辛くて溜まらない。またこの娘がビックリするほどに美しく、毎度菊がその美貌やらブロンドやらを褒めないと、すっかり機嫌を損ねてしまう。アーサーの仕事相手だと割り切って懸命に笑うけれど、恐らく引き攣っている。
「そう都合よく雪が降るかよ。もう四月も終わりだぞ」
不意に耳元から聞きなれた声が聞こえ、菊は飛び上がるほど驚く。菊の腕の中に居たアルフレッドも驚き、ひしりと菊の腕にしがみついた。
息が吹きかかった耳を手で押さえ、菊は眼をまん丸にして振り返ると、驚いたことに驚いたアーサーが立っている。眼を丸くしたまま固まっている菊の髪をぐしゃぐしゃと撫で、アーサーの登場に不機嫌を露わにするアルフレッドを抱き上げた。
「残念だが、今日お前は留守番な」
一杯に膨らんだ頬を突き、床に下ろすと菊へ腕を差し出す。気乗りしない様子で菊はその腕を掴むと、何度も溜息を吐きだしながら部屋から連れ立って歩きだした。
「アーサー!キクを泣かしたら許さないんだぞ」
後ろからアルフレッドが声を上げると、アーサーは「解ってる」と右手を振ってみせる。菊は黒い瞳をうろたえさせながらアーサーを見上げるものだから、アーサーは苦笑を浮かべて上げていた手を菊の頬に当てた。
馬車でほんの小一時間程で到着する場所であるため、空は既に暮れかけてから出かける準備を整える。さほど距離はないものの、道は人通りの少ない道を進むため、少々治安の心配はあった。
近頃では都市部で女性を解体する愉快犯が出ているときくし、子供の犯罪も非常に多い。残酷性の高い殺人の頻発と同時に、物取り狙いの強盗や、性犯罪も多発している。普段はお城の様な家の中に収まり、汚い世界を見ずに過ごしている菊にとってまさに異世界だ。
移動中景色を見るのが大好きだと知っていながら、無言で彼女側の窓を閉めてしまうと、少しばかりしょんぼりと肩を落としアーサーの肩にもたれかかる。その腰に腕を回して引き寄せ、アーサーも頬を菊の頭の上に寄せた。
「今夜一晩我慢してくれ」
「大丈夫、解ってます」
腰にまわっている手に菊は己の手を重ね、唇を尖らせながらも頷く。
今回のものに出れば、暫くはこういった催し物に参加しなくても済む。アーサーと菊の夫婦が社交界に出るのを苦手とするのは、周知の事実となって久しい。アーサーが菊を恥じているから、というのが専らの通説であるけれど、今更それを訂正する元気も無かった。
言いたい奴には言わせておけ、なスタンスのアーサーと、訂正することも面倒な菊のため、どんどん尾ひれが付いて広がり、もう収拾は不可能だ。
「体調が悪くなったら直ぐに言えよ。俺が誰かと喋ってても気にしなくていいからな」
頬を撫でながら言われ、菊はうっとりとした様子で頷く。前に社交界で、暫く見ないうちに顔を真っ青にさせていた姿を思い出し、ゾッとする。挨拶を途中で投げ出して駆けよると、酷く体温が下がっていた。
それから何度言い聞かせても、菊は決して己から自分を主張しようとはしない。彼女の国ではそれが美徳だというから、今更納得させるのも不可能だろう。お陰で最近はその姿を眼の端に留めておくようにしている。体調が悪くなれば、それだけ早く家に帰る口実にもなった。
目を瞑ってウトウトとし始めている菊を抱え直した時、馬車が大きく揺れて不意に止まった。衝撃の強さに驚き、縋りつく菊を抱きしめて運転席の扉を叩いて開けると、林の中を抜けているのか闇が強い。いつの間に降りだしたのか、細い雨が辺りを囲み中々視界が開かれなかった。
「中にいろ」
腰に隠し持っている拳銃に手を伸ばし菊に言い聞かせた時、轟音と共に扉が破られる。それとほぼ同時に菊を抱き寄せ、拳銃を天井に向かい一発撃ち込んだ。不意の事に驚いた様子の少年を蹴りあげ、馬車の下へと落とす。
飛び出せば既に数人に囲まれており、そのまま必然的に道脇に逃げることしかできない。
崖の際に追い込まれ、片腕で菊を抱えもう一つで拳銃を構え、もう片方で拳銃を構えた。彼らが一番奪いたいのは馬であり、次に二人が身につけている装飾品だ。
最悪菊が連れて行かれるぐらいならば、今持っているもの全て差し出してしまおうか。拳銃を構えながら思考を戸惑わせていると、不意に男の一人が口を開く。
「女を置いていけば逃がしてやる」
そのセリフに微かな違和感を覚え、アーサーは眉間に深い皺を寄せた。きゅっとくっつく菊を安心させるように、抱きしめる腕に力を込める。
「……誰に頼まれた?」
アーサーの言葉に、男達は驚いた様子でお互いに顔を見合わせた。普通ならば真っ先に「金目のもの」をと要求するのに、彼らは真っ先に菊の事を述べる。そうなれば、誰かに「菊を連れてこい」と頼まれたのだろう。
菊の後釜を狙う家は相当あるだろうし、アーサーが結婚やら妾やらを片っ端から断っていたことに、逆恨みを買った可能性も多いにある。心当たりがありすぎて、一体誰が犯人か思い当るまでに至ることも無い。
「金は全てやる。馬も連れて行け。だが、妻に触れたら、頭吹き飛ばしてやる」
男達が持っている灯りの他に、なんの光もない。一体彼らが全部で何人いるのかも解らず、拳銃の先を幾分さ迷わせていた。
彼らはアーサーの言葉に応えることなく、手に持っていた灯りを消す。一気に目の前は真っ暗になり、ただ音だけが辺りに響く。細かい雨がじっとりと肌を濡らし、もう随分長い間その場で警戒していたかのように思う。
不意に、強く抱いていた菊がアーサーの事を小さく呼んだ後、彼女が引き剥がされそうになるのを感じ、考えるよりも引き金を引いていた。甲高い音と共に、男の苦痛に満ちた叫び声が聞こえる。
叫び声にならない叫びをあげ、菊が震えアーサーの胸の中にしっかりと帰って来る。思わず引き金を引いたけれど、菊に当たる可能性もあったのを思い、後からアーサーの足に震えが来た。
声が乱れ人間の気配が一気に拡散した。彼らは慌てて灯りを点けようしているのだが、霧雨によって掻き消されて中々火が点かないらしい。この間に逃げようと菊の腕を引っ張るが、混乱の中で杖も無いし足元も泥や草で歩きにくく、到底アーサーの速さにはついていけなかった。
倒れかけた菊を抱えようと腕を探らせるが、暗くて殆ど何も見えない。拳銃が邪魔で腰に掛け直したために、今灯りが点けば反撃することも叶わない。しかし灯りが点かないのならば、恐らく彼らは菊の後釜を狙う誰かに頼まれただろうから、暗闇で無暗に拳銃を撃つことはないだろう。アーサーまで殺すわけにはいかないのだ。
「スカートが……」
腕を引っ張られ、泣きそうな声が聞こえた。手探りで彼女のスカートを握ると、思いっきり引っ張り千切る。
その音が聞こえたのか、混乱していた男達の声と足音が二人に向く。それとほぼ同時に灯りが灯り、あまりの眩しさに一瞬アーサーは眼がくらんだ。向こうで腹部を抑え倒れている一人の男が見えた。
「アーサー様、置いていって」
抱え上げるのと同時に菊が囁く。人一人抱えて逃げ切れるとは到底思えないが、馬からも大分距離があり、引き返すことも出来ない。
「それじゃあ本末転倒だろ」
無理に笑って見せる物の、単調な道のりと崖ともいえるほど急な横道しか見えなかった。馬車を運転していた召使いは姿が見えないために、もう逃げたのだろう。近くに民家があるならば、誰かが助けに来るかもしれない。
しかし走り掛けて直ぐに、再び引っ掛かった心地を覚えて振り返ると菊の足首が掴まれている。まだ若い男の子で、アーサーにとってはほんの子供、アルフレッドの姿さえ重なる。その認識が、銃へ伸びる手をほんの少し遅らせた。
仲間が撃たれたことに我を忘れたのか、クライアントの言葉も忘れて少年の拳銃の先がアーサーへと向けられる。瞬時、菊を護ろうとアーサーは菊を抱え込んだ。銃声と共にアーサーはよろけ、菊は彼の名前を叫ぶ。
倒れ込んだ先は坂の上で、草は生い茂っているが急な坂に止まることもままならない。菊は腕を伸ばしてアーサーの頭を抱え込み、そのまま縺れる様に落ちて行く。途中で芝の中につっこむと、伸びる枝に引っかかり方々傷つきながらもようやく止まった。真っ先に抱え込んだアーサーを覗きこむが、言葉は返ってこない。
上から足音がいくつも降りてくるが、何度呼びかけてもアーサーは眼を覚まさない。不安に駆られながらアーサーの体を引っ張り茂みの中に隠れると、アーサーの頭を抱え込んで出来る限り小さく縮まった。
視界を隠す茂みの向こうで、いくつもの光がさ迷い二人を探しているのが見える。その微かな光を頼りにアーサーの傷口を探すと、右肩の肉が抉れ白いシャツが真っ赤に濡れていた。弾はかすっただけのようだが、出血量は多い。
ハンカチを取り出して傷口を覆うと、心臓に耳をくっつける。確かに聞こえてくる心音に安堵のため息を吐きだし、泥や血で汚れたアーサーの頬を掌で拭う。ハンカチ越しでも傷口が熱を持っているのが解り、抑えた頬もほんのりと熱い。
自分が出て行けば彼らは帰るだろうか……しかしそれではアーサーが怒ってしまう。再びアーサーの心臓に耳を付けると、抱きついたままそっと瞳を閉じた。二人とも体が雨に濡れ、体温をすっかり奪われてしまっている。
不意に、足音が一斉に逃げ出した。茂みから外を覗くと、向こうから光が真っ直ぐに向かってくるのが見える。馬車の運転手が助けを求め、誰かが助けに来てくれたのだろうか。
「誰かいるのか」
凛、とした声の後に、澄んだ少女の声が聞こえてくる。そこでようやく菊が茂みの中から顔だし、そっと呼びかける。
冷たい感触を額に感じ、ドロドロに纏わりつく意識の中もがき、アーサーはようやく意識を浮上させた。瞼を開けると差し込む日光と共に、黒い見慣れた瞳が覗きこんでいるのが見える。眼が合うと、それは途端にキラキラと輝いて細められた。
「アーサー様良かった、気がつかれましたか」
嬉しそうに喉を鳴らし、菊がきゅうっと抱きつく。ぼんやりとしながらその頭を撫で、ようやくいつもの見慣れた部屋でもベッドでも無いことに気がつく。
「ここは?」
掠れた声色に重い体、ジクジクと痛む肩口でようやく記憶が返って来る。それと同時に、大けがも無く当たり前の様にアーサーの隣に菊が居ることに安堵し、繋がれていた手を握り返す。
「スイスからいらしていた、バッシュ様のご邸宅です。助けて頂いたんですよ」
「バッシュ……ツヴィンクリか」
殆ど交流も無いけれど、名前は何度も耳にしている。現在イギリスに来ていたことも、昨日アーサーが行こうと思っていた社交界を断ったことも、風の噂で耳にしていた。
菊に助けてもらって上体を起こしたのとほぼ同時に、ノック音が聞こえ一人の少女が扉から顔を覗かせる。綺麗な金髪に濃い緑とも青ともとれる瞳をクリクリとさせてから、アーサーを見つけて嬉しそうにほほ笑んだ。
「起きられたのですね。ご昼食をお持ちいたしましたわ」
バッシュの妹であると名乗り、ふわふわのスカートを持ってペコリと頭を下げる。彼女はナイトテーブルに昼食を置くと、兄に伝えてくると軽い足取りで部屋をあとにした。
「……俺はどのぐらい寝ていたんだ?」
「一晩だけ」
水差しに水を注ぐと、菊はアーサーの手の中にそっと手渡す。覗きこんだ菊の顔にもいくつかのかすり傷があるのに気がつき、指先でそっと出来たばかりの傷口を撫でた。ほんの少しだけ痛みが走り、思わず体をひく。
「菊、良かった」
唇を親指でなぞると、綿菓子のように頬笑みアーサーの左ほほに貼られたガーゼをなぞった。屈んで顔を傾けた所でノック音が聞こえ、アーサーの掌から逃れて菊は布団の上につっぷする。
「む、起き上がれるのか」
先ほどの少女と同じ色をした、中性的な顔立ちをした男が部屋を覗きこんだ。布団につっぷしたままの菊を不思議そうに見ながら、彼はベッド横の椅子をひいて座る。腕を組んで足を組、一見高圧的とも取れる様子で背筋を一直線に伸ばす。
「初めてお会いする、アーサー・カークランドだ。今回は妻共々助けてもらったようで、感謝する」
右手を差し出せば、バッシュは素直に手を差し出して挨拶を返した。彼は妹と初夏の休暇を楽しむつもりでイギリスに入ったため、本来であれば貴族同士の付き合いも敬遠していたという。自国では軍隊を指揮している立場で、軟弱な貴族など嫌いだと言われ、思わず苦笑を洩らした。
菊は気を利かせてか、杖を手に部屋を出て行く。ドレスは出掛けた時の物では無く、恐らく先ほどの少女に借りたらしく、菊にしてはやや華やかな物であった。
「さて、そちらの家にはまだ何も伝えていないのである。もしかしたら、お家騒動の可能性もあるとみたのでな」
菊が出て行くのを見てからバッシュが口を開くと、アーサーは微かに肩をすくめる。
「いや、その可能性は少ないな。だが、言わないでくれてありがたかった」
恐らく少年達を使った人々は、アーサーまで行方不明になっていることにさぞや戸惑っているだろう。ならばこのまま炙り出してやろうか。
「本当に助かった、何かあればカークランドに言ってくれ」
「ならば、退屈をしていたので奥方を吾輩の妹に少し貸していただきたい」
開きっぱなしになっていた窓から、少女と少女の様な菊の笑い声が聞こえてくる。親族以外ではエリザやフェリクス、フェリシアーノへ向ける笑い声と同じだ。
「そうだな……だが、家に息子が一人でいるんだ。出来れば遊びに来てほしい」
「む、息子?一体何歳であるのだ?」
犯罪者でも見るかの様に、バッシュは眉間に深い皺を寄せる。妻を紹介する時、大抵の人間が菊に向ける認識を、彼もまた向けているらしい。
「菊は俺より年上だぞ」
バッシュは言葉の意味を暫く逡巡し、それから「冗談を」とでもいうように肩をすくめた。アーサーはそれ以上無駄だと思い、置かれたままになった水に口を付ける。
「菊ちゃぁぁ〜〜〜ん!」
一番初めに屋敷に転がり込んだのは、アーサーとも付き合いが長いフランシスであった。両手一杯に花束が抱えられた姿を見やり、窓辺でお茶をしていた夫婦は眼を丸くする。飛び込んできた主であるフランシスも同様、眼を丸くした。
「あれ?強盗にあって菊ちゃんが崖から落っこちて、大けがしたって聞いたんだけど……」
両手に花を抱えてオロオロするフランシスに、アルフレッドが駆けて行って飛びついた。
菊は驚いた様子を見せるが、アーサーは満足げに笑って頷く。貴族達がうわさ好きなのを逆手にとって、情報操作をしたのだ。これで釣れるかと思いきや、一番初めに釣れたのはフランシスであった。
「フランシス、そりゃあただの噂だ」
鼻先で笑って肩を竦めて、アーサーは落ち着いた様子で紅茶を一口含んだ。ぽかん、としたフランシスを余所に、ノック音が聞こえ客人がやってきたのを告げる。聞き覚えの無い名前にフランシスは訝しそうな様子を見せるが、菊は嬉しそうに立ち上がった。
「絶対一人になるなよ。あと帰りは遅くなるな。じゃあ、楽しんで来い」
アーサーは菊の右頬にキスを送り、アルフレッドの頭を撫でると、二人を扉口まで送り出す。
「菊には友人が出来たんだ」
満足げに笑うアーサーに、その友人が彼にとっても信用のおける人物であるのが判る。恐らく、この国の貴族陣では無いだろう。
「で?結局何がどうしてこうなったの?暫くなんの音沙汰も無いと思ったら……お兄さん驚きのあまり心臓とまっちゃうところだったじゃん」
先ほどまで菊が座っていた場所に腰を落ち着かせると、新しくやってきた紅茶に口を付けた。アーサーは含み笑いを浮かべたまま、出された焼き菓子を少しばかり口に含むばかりだ。その頬にうっすらと傷跡が見え、フランシスは眉間に皺を寄せた。
アーサーも呼ばれた筈の社交界に、アーサー夫婦は姿を現さなかった。また菊ちゃんの体調が崩れちゃったのかな?と、その日はそれほど騒がれることも無かった。菊が大けがをしたという噂を聞いたのは、それから数週間後の事である。
再びノック音が聞こえ、今度は良く知れた名前が告げられる。この間の社交界を催した家柄で、カークランドから見ると古くから付き合いのある家だ。
「分かった、いま行く。ちょっと待ってろよ、すぐ終わる」
にこやかに出て行ったアーサーを見送って、フランシスは焼き菓子の一つに手を伸ばす。イギリス料理は正直フランシスの口に合わないけれど、イギリスのお菓子は中々おいしいのだ。しかも恐らく、菊が作ったものだろう。
気分も上場に焼き菓子を食していると、不意に客間から数発の発砲音が響く。驚き固まるフランシスは、しばしテーブルの下にでも隠れるべきかと悩んだけれど、暫くするとスッキリした様子のアーサーが姿を現す。彼は固まったままのフランシスの前で、にっこりと笑って紅茶をおかわりした。
やってきたのは今回の社交界の主催者であった。夫婦だけではなく年頃の娘まで連れ、アーサーの対面の席に座る。夫妻は気品あり、娘は彼らの自慢だと分かる程に美しい。
「奥様がお怪我をなさったとお聞きして、お見舞い申し上げに参りました」
「……はぁ」
カップの中をクルクルスプーンで回しながら、アーサーはどうともつかない様子で気の無い返事をする。
「体調はいかがなのでしょう」
奥さまはそういうと、大げさに形の良い眉をひそめた。対してアーサーは唇に笑みさえ浮かべ、右足を組む。
「強盗をしでかした少年達と、話をしたんですよ」
アーサーは緑の瞳を揺らして、眼の前に並んで座った人々を観察した。
勿論、少年達は夜の闇に紛れて逃げて行ってしまい、一度たりとも会話をしたことも無い。すべて偽りだ。しかし、眼の前に並んだ夫妻は明らかに動揺し、微かに身じろぐ。ああ、引っかかったと、アーサーは更に眼を細める。
「今日の本来の目的は一体どのようなもので?そのお美しい娘さんを、是非俺の眼に映したいと?」
彼らはアーサーの言葉になんの反応もせず、ただただ言葉を探しているらしく、文章にもならないセリフを呟くばかりだ。違う、といえば得意の皮肉で釘をさすことも出来るが、否定されなければ押し込めていた怒りの矛先が彼らへともろに向かうだろう。
置いていこうか随分と悩んでいた拳銃に腕を伸ばすと、冷たい表面をそっと撫でた。その瞬間、アルフレッドと被った少年の顔が浮かんだ。アーサーが撃っただろう少年の姿は眼にしていないが、恐らく同じ程の年齢であっただろう。もしかしたら、撃ち殺したかもしれない。
腰に引っ掛けていたリボルバーを引き抜き、弾が入っている事を確認する。客人だけでなく、周りでグルリと控えていたメイド達も驚きうろたえたが、どうしていいのか判らずに立ち竦む。
「ありがたいことに、妻も息子も元気で、代わりなど欲してはいないんです」
銃口が向けられた先の男性は、顔を蒼くして固まる。アーサーが彼を撃ち殺せば、カークランドの名前は一気に落ちて行く。そのことを理解しながらも、いつも冷静なアーサーの瞳が怒りに燃えているのを見ていると、下手なことはいえそうにない。
「このことは、お互いに黙っていた方が賢明でしょう。しかし、カークランドには今後近づかないでもらいたい……お客様のお帰りだ」
銃口は下げられること無く、そのままの体勢でメイドに顎で示唆すると、彼女達は内心動揺しながらも帰りの準備を済ます。放心した彼らが立ち上がり出て行ったのを眼の端で見やってから、収まらない腹を沈めるために、無人のソファに入っている分の弾全てを撃ちこんだ。空になった弾がカラカラと音を立て全て撃ち終えた後、ソファに拳銃を投げやり、忌々しそうに舌打ちをした。
「処理しておけ。あと、このことは菊の耳にいれるなよ」
ボロボロになった高価なソファを指さし、客人が出て行った時とは違う扉から廊下へ出る。一歩外に出た瞬間、もやもやとしていた嫌な心地が一掃され、思わずアーサーは笑みを浮かべた。恐らく、これで彼らは二度と“狂った”カークランドには近づこうとはしないだろう。
フランシスを待たせていた部屋に入ると、阿呆な顔で彼は焼き菓子を頬張っていた。
廊下をバタバタと駆けてくるアルフレッドの足跡の後、菊が扉から顔を覗かせる。服は出掛けた時のものと変わり、随分とモダンな物へ変わっていた。どうやら今日はお買いものついでに、注文していたドレスをとりにいったらしい。
「ただいま帰りました。おや、フランシス様」
少々熱い抱擁をアーサーと交わしながら、菊は上機嫌にクルクルと喉を鳴らして笑う。アルフレッドも楽しかったのか、笑顔でフランシスによじ登っている。
「あー……そうだね、じゃあ俺、もう帰るわ」
ため息混じりに帰っていくフランシスを玄関まで送ると、菊は不思議そうに首を傾げた。
「何か、フランシス様疲れていません?」
「ん、そうか?それより今日は何があった?」
菊の腰に腕を回し笑いかけると、心配そうな様子だったのがころりと変わり、久しぶりの外出が相当楽しかったのか、菊は嬉しそうに眼を細める。つられてアーサーも眼を細めると、黒髪に頬を寄せ抱きしめた。