卿菊

 手紙
 
 
 今年に入って結婚六年目にさしかかった友人、アーサーカークランドは、ずーっとずっと独り身のフランシスをおいて、既に四歳になる子供を抱えている。自由人でいることはやめられないと思いつつ、友人の幸せそうな姿をみていると、そういった幸せの形態もあるのかと感心する覚えた。
 彼の妻はアーサーよりも年上らしいが見かけは幼く、しかもここ数年歳の取り方が非常にゆっくりだ。気性も穏やかで優しくて、カークランドの親子共々依存するのもよく解る。
 そのため最近はフランシスがカークランド宅に訪れるばかりになっていたのだが、今日は雨の中久しぶりに姿を現した。家もそんなに近くは無いというのにわざわざ遣って来たのだから、と思ったが特に用事も無いという上に、むくれているところから機嫌は斜めらしい。
「さて、そろそろここに来た理由教えてくれてもいいんじゃない?あんまり酔っぱらわないでよ」
 ただでさえ楽しみにとっておいたワインがっつり飲まれ、少々気落ちしながら言うと、アーサーは酔っぱらって机に伏したままピクリとも反応を示さない。寝ているのかと思い上から覗きこんだ瞬間、狙っていたかのように小麦の髪を揺らし勢いよく顔を持ち上げる。
 顎に衝撃を受けて悶絶するフランシスをおいて、振り返ったアーサーは立派な眉毛をきりっと持ち上げ床で悶える友人を見やる。
「今日泊めろ」
「えー! なんで嫌だよ! 帰れ!」
「嫌って何だよ!」
 即座に起き上がって拒絶すると、髪の毛を掴まれて引っ張られる。お陰でそれ以上反発することも出来ず、涙を飲んでポコポコと怒気を含んでいるアーサーの隣に腰をおろした。控えているメイド達は皆笑うのを耐え、口元を奇妙に歪ませながら部屋の奥に立っている。
「……まさかさぁ」
 ひとしきり騒いだ後、落ち着きを取り戻してワインを口に含みながら、ふと一つの考えに突き当たる。にやにやと緩い笑みを浮かべてアーサーを見やれば、フランシスが気がついたことを察したらしく、眉間にいくつかの皺を寄せていた。
「もう謝っちゃえよ。どうせお前が勝手に怒って勝手に出て来たんだろ」
 普段仲が良いだけあって、彼らは結構派手な喧嘩をするらしい。喧嘩といっても大抵はあまり自分のことを話さない菊にアーサーが怒り、暫くフランシス邸で頭を冷やして、結局はお土産を一杯抱えて帰っていくのが基本だった。いつも通り結局仲直りするぐらいなら、喧嘩なんかしなければいいのにと思えてならない。
 しかしフランシスの言葉に暫く黙りこんでいたアーサーは、重い口をようやく開いた。
「……今日は菊が怒った」
 ゆっくりと言葉を噛み砕き飲み込んだところで、驚きと笑いを含んで盛大に噴き出す。当然アーサーは翡翠の瞳を光らせてフランシスを睨むため、にやける顔を無理矢理引き締めて表情が歪んでしまう。
「え、なに、菊ちゃんが怒るなんて……楽しみにしてたお菓子でも食べちゃったの?」
「違ぇよっ……だって、だって菊が……」
 眼に一杯涙を溜め鼻をグズグズと鳴らし始め、ああまた始まったかと、フランシスは内心うんざりとした。すぐさまガラス玉のような瞳から大きな粒がポロポロ零れだすのを、つまみを口に放り込みながら眺める。
 途切れ途切れな言葉を繋ぎ合わせて要約すると、最近妻が誰宛にか解らない手紙を書いている。菊は手紙が大好きで、実家や友達宛てだったら寝所で書いたり、内容をアーサーに話してくれるのに、それは自室で書いて決して内容は見せてくれないらしい。
 気になって気になって仕方が無くなったアーサーは、ついこっそり見てしまおうと菊の部屋に忍び込んだところ、妻に見つかってしまったのだという。そこで咄嗟に謝ったものの、いつも怒ったりしない菊が顔を真っ赤にして怒るものだからついつい売り言葉に買い言葉をしてしまったらしい。
「しかし菊ちゃん、一体誰に向かって書いてたんだろうねっ。まぁ良い人が他に出来ても不思議じゃ……」
 堅いものが額に当てられたのを感じ、思わず両手を上げて表情を引き攣らせた。先ほどまで頬を濡らしていた涙の欠片も無く、眼もとに影を落として翠の瞳をギラギラと揺らしている。
「ご、ごめん。冗談だってばぁ……」
 半泣きになるフランシスに、舌打ちをしてから拳銃をしまい、再びグズグズと泣き出した。揺れる金髪を横目に見ながら、面倒くささにうんざりとワインに口を付ける。
 
 
 酒に酔ってようやく眠った友人に安堵し、自室を明け渡して溜息混じりに廊下へと出た。久しぶりに書斎へと入り、執事に頼んで紙とペンを持ってこさせる。
 アーサーの邸宅からここまでくるのに数日は確実に要するはずであり、そうなれば家には連絡も入れていないだろう。フランシス自身も菊が浮気しているなんて微塵も思っておらず、今頃家で心配して後悔して泣いているかもしれない。考えるだけで胸が痛む。
 直ぐに頭に血が昇って中々冷めないアーサーと、頑固な菊では、普段は心底仲が良くても時に喧嘩すると意外とこじれる。菊が怒ることは稀で、よってこの喧嘩に巻き込まれることなんて殆ど無いのだ、やはり少し楽しい。道中も酔っぱらってワアワア泣いていたアーサーを想像すると、腹がよじれ切れる程に楽しい。
 手紙はものの20分程度で書きあげ、盛大に欠伸をしながら執事にそれを手渡す。これからまた数日かけて彼女の元へ届くのだろう。
 自室ではアーサーが寝息を立てているため、そのまま客間へ入りベッドにもぐりこむ。今日恋人を家に呼んで無くてよかったと、心底思いつつ瞼を閉じて、これから菊からの返事が来るまで家に居座れるのかと溜息を吐いた。


 翌日二日酔いで唸っている友人をそっとし、遅めの朝食を摂っている時に手紙が一通届いた。差出人は菊であり、元からアーサーがここに来ることを解っていたらしく、挨拶もそこそこ『そちらにいらっしゃってますか?』という文章に思わず苦笑を洩らす。どうやら行き違いになってしまった手紙の内容ならば、この答えは明記している筈だから、これ以上手紙を出しても意味が無いだろう。
 食事を摂りながら手紙に目を通したのち、未だにフランシスの寝室で寝込んでいる友人の元へと行った。カーテンはきっちりと閉められ、薄暗い部屋はアルコールの臭いが酷く、真っすぐ窓を開け放つ。秋の冷たい風が一気に舞い込み、直ぐにアーサーのくしゃみが聞こえる。
「……っさみーな、なんだよ」
 まだ覚醒してない目元をごしごしと擦り、ようやく彼は顔をあげる。髪はあっちこっちに跳ね、スーツのまま寝ていたらしく高級なシャツは見るも無残にしわくちゃになっていた。
「お前さぁ、昨日夫婦の間に秘密はダメだって言ってたけど、お前には一切秘密なんてないわけ?」
 葉巻を取り出し口にくわえ、笑いながら言うと彼はぐうの音も出ない様子で、眉間に深い皺を寄せフランシスを睨む。特定の人物に見せる凶暴な性格や、酒癖、そして過去の遊び癖など、叩けば埃だけしかでないのだ、大好きな妻には秘密ばかりだろう。
 暫く口をもごもごさせた後「俺はいいんだ」と乱暴な言葉を吐き捨て、シーツに顔を埋める。まるで子供の様な行動に溜息を深く吐きだし、甘い煙を肺一杯に吸い込んだ。
「取り敢えず今すぐシャワー浴びてきて、目でも醒ましなよ。俺は今日こそ楽しく一人で遊びたいんだよね」
「死ね」
 シーツの合間からくぐもった罵倒を聞くも、フランシスは余裕の笑みを浮かべて内ポケットに手を入れた。
「ふぅん、そういうこと言っちゃうんだ。俺、こんなに良いの持ってるのに」
 余裕の笑みで菊の手紙を掲げると、胡乱な様子で翡翠の瞳が睨む。しかししばらくして、掲げられた紙の意味を理解して顔をあげた。きっちりと並んだ、まるでお手本の様な英字はまさに、旅先で何度も読み返している文字だ。
 既にフランシスに悪態を吐くことも忘れているアーサーに、思わず口角を持ち上げて目を細めた。しかし彼が文章を読むよりも早くに懐にしまい直すと、再び殺気に満ちた瞳が真っすぐに睨んでくる。
「はい、お兄さんのお話が聞きたかったら、さっさとシャワー浴びてきて」
 二度目にそう告げると、酷く不服そうに無言で立ち上がる。重い体を引きずりシャワー室へ入ると、ほんの数分で水を滴らせたままでてくると、不服そうに右手を出して見せた。
「ちょっと、カーペットがめっちゃ濡れてるって。はいはい、どうぞ」
 差し出された掌に手紙を渡しかけて、ヒラリと自分の眼前に戻す。
「俺が読んであげる」
 にやりと笑みを作ると、彼の眼光は益々強くなるばかりだ。そうだ少しからかってやろう、なんて最初は思っていたけれど、かの顔があまりにも真面目だから、仕方なくそのまま読み上げる。
「『おひさしぶりです、親愛なるフランシス様。最近秋も益々深くなり、寒さも厳しくなってきたのでどうぞご自愛ください』」
 続く美しい彼女の文字は、上から三行きちんとフランシス宛の挨拶が書かれている。朗々と読んでいるフランシスは、殺気を覚えて残りの一行を飛ばして、アーサーの居場所について問う文章に入って行く。彼女が思い当たる唯一の場所がここなのだろう、恥と確信と不安に満ちた文章だ。
 満足そうに、しかし眉間に皺をよせ、ベッドにあぐらをかいたままアーサーは聞いていた。読みながらその姿を確認し、軽い溜息を吐きだし最後まで読みあげる。
「『そちらに行きたいのですが、この寒さでアルフレッドが熱を出し、遠出ができません。不躾な手紙をお送りし、申し訳ありませんでした』だって」
「……帰る」
 最後の一文で真っ青になった彼は、慌てて立ち上がり、外に居た執事を呼び出し服をきっちり着る前に部屋から飛び出していった。廊下の喧騒を聞きながら、頬を緩めて丁寧に手紙を折りたたむ。そうだ、これでようやく恋人達を呼ぶことが出来る。
 
 最も最短の道を更に急ぎ、出かけた時の半分の時間で自宅へと戻ってきた。よれよれとなったスーツに、ぼさぼさの髪、寝不足で目の下にクマのあるすがたで転がりこんだこの家の主を、アルフレッドは満面の笑みを浮かべて出迎えた。いつも通り頬と服を泥で汚し、不細工で大きな猫を抱いて駆けてくる。
「あれ……おまえ、熱は?」
 驚き柔らかな頬を包むと、彼は空色の瞳をキョトンとさせアーサーを見上げてから、怪訝そうに首を傾げる。その頬はいつもと同じ温度で、熱がある様子もない。ましてや菊が彼を家の外へ出すはずもない。
「くたばれアーサーっ!」
 離そうとしない手を払いのけ、猫を抱えたまま噴水へと駆けていく。捨て台詞はフランシスから教えてもらったもので、気にいってしまったが故に菊の頭を大いに悩ませている。
「アーサー様」
 不意に頭上から声が落ちてきて顔をあげると、自室の窓から彼女が顔をのぞかせている。名前を呼ぶと弾かれるように窓辺から離れるから、慌てて動かない様に告げ、荷物をメイドに押し付け大股で階段をのぼる。
 ノックして扉を開けると、窓辺に立った菊は眉根を下げて申し訳なさそうに下げていた。初めから怒りはなく、どちらかといえば嫉妬のようなものだったのだが、彼女は完全にアーサーが怒っているのだと思いこんで畏縮している。それを解っていながら、「嫉妬してる」なんて言えずに、アーサーも何もフォローできない。
 数日ぶりにみた顔にいつものように安堵を覚えるし、正直今すぐにでも態度を柔和にしたかったけれど、どうしようもない矜持がそれを阻む。
「アルフレッド、熱下がったのか?」
 扉口で声を掛けると、暖かな日差しに当たり俯いていた顔がようやくアーサーに向けられる。夫の言葉が不可解だったらしく、不思議そうに首を傾げたところでようやくフランシスが最後の最後に嘘を吐いたのだと気が付いた。
「あ、あの」
 憎々しげなアーサーに、戸惑いがちな声がかかる。再び深く俯かれた表情は、俯いた事と逆光のために良く見えない。
「私が書いているのは手紙ではありません……日記です」
 項垂れた彼女から漏れた言葉は絞り出すようで、逆に答えがあまりに意外でアーサーはポカンと口を開いたまま「日記」と繰り返した。
「本田家に居る時は毎日かいていたのですが、こちらに来てからは日本への手紙が日記の様なものになってしまっており……でもアルフレッドの成長記録としても、いいかな、と」
 彼女が今抱えている茶色の革の書籍は、どうやら日記であったようだ。気まずそうに本を抱きしめ、近寄ると小柄な体を更にきゅうっと小さくする。
 勝手に手紙だと思っていたけれど、部屋に籠って書きものをしていたとすれば、日記だとしてもおかしくはないだろう。目の前につくと、戸惑いがちに日記がさしだされるが、彼女の胸の中に押し戻す。
「いや、もういい」
 突き放すような言葉に弾かれ顔を持ち上げたけれど、見下ろす翡翠色の瞳と表情が柔らかで、自分の中で張りつめていた緊張がほどける。良く見ればお互い疲れ切った様子で、アーサーのいつもキチッとしたスーツはしわだらけだ。
「……流石に、日記は読んじゃだめだろ。それに、別に、お前がムキになるから、俺までついムキになっただけで……」
 口ごもる夫を見上げて、泣き出しそうな笑顔を浮かべる。伸ばされた腕の中に収まると、使い慣れている香水の香りが鼻をかすめた。本を抱えたままなため、背中に腕を回すことが出来ずに胸元へと頬を押し当てる。
「良かった、嫌われてしまったのかと思いました」
 胸の中から深い溜息が漏れ、抱いていた腕に力を込めた。そういうことをいうところは嫌いだ、という言葉が喉元までのぼってきたが、これ以上険悪な雰囲気を続けていきたくはないので飲みこんだ。
 小さな背中を撫で、頬に彼女の頭を寄せる。庭からメイドがアルフレッドの名前を慌てて呼ぶ声が聞こえ、次いで噴水に何かが落ちた音が響く。
 
 
 ベッドに入ってぼんやりとした会話を交わし、眠そうな彼女の頬に掛った黒髪を指先で除けると、眠たそうな瞳が微かに笑う。アーサーの事が気になってほとんど寝ていなかったらしく、いつもだったらこのまま情事に及ぶけれど、彼女は今にも眠ってしまいそうだった。
 無理強いをさせてまた発熱したら、なんて思うと恐ろしく、大人しく灯りを落とす。カーテンの隙間から薄銀色の月光が差し込み、床に木漏れ日の様な模様を作り上げている。遠くから梟の声が低く響き、ここ数日十分な睡眠をとれていなかったアーサーも直に睡魔がやってきた。
「……日記、そんなに見られたくないのか」
 睡魔に使った思考から、ポツリと言葉が零れ落ちた。「日記なら読めない」なんていいながら、その実中身は非常に気になる。暗い中だと彼女の吐息と気配だけが感じられ、アーサーの言葉に微かにそれらが揺れた。
「ええ、その……あなたのことが沢山書いてありますから」
 眠たそうな優しい声が、視界が殆ど無い空間に浮き上がる。愛しい声を聞きながら、そうなれば益々中身が気になるだろ、なんて心の中で呟き目を閉じる。
「そんなにお読みになりたいのなら、私よりも長生きしてくださいね」
 いつもアルフレッドの猫っ毛を撫でつけている細く優しい指が、アーサーの前髪を梳いた。