卿菊

 名残り
 
 
 15になったアルフレッドが、休暇中珍しく友人のトーリス宅にお世話になることとなった。休み中ずっと一緒に過ごすのかと思っていた菊は、当然しょんぼりとしており、あからさまなその姿にアーサーまで気まずくなってしまう。
 そんな中遠い地の友人フランシスから、遊びに来るようお誘いの手紙が届いた。彼の別荘地であるフランス南部の田園は中々心地が良く、フランシスと菊はそれなり仲も良い。色々考えた結果菊へ手紙を見せたところ、予想外に彼女は顔を輝かせて嬉しそうに頷いた。
 遠出は久しぶりの事であるし、準備を大げさといえるほどにきちんと整え、フランシスへの手紙を出した二日後には馬を出した。馬車の旅はさほど長くなく、海を渡る時は大きな船に乗っていたため、アーサーの心配は杞憂と終わる。菊は久しぶりの旅とあってか、多少疲れていたものの、始終はしゃいでいた。
 港で出迎えたフランシスとも久しぶりの再会だったものの、特に緊張する様子もなく挨拶を済ませた。道中は一度も体調不振になることもなく、いっそ家にいる時より生き生きとしていることが、夫からメイドまで全員を安心させた。
 ただ、フランシス宅に着くと、夏の間避暑地として預けられているマシューが先におり、菊とは一度会ったか会わなかった程度で、男の子からすっかり大人びた顔になっていた。挨拶をするとき、マシュー独特の穏やかな雰囲気に幾分和らいでいたものの、緊張を露わにする妻に少しばかり不安になる。
 マシューはアーサーの姉の息子であり、アーサーの姉はフランシスの親戚と結婚していた。そのためか、よくフランシスの所へ遊びに行っており、アーサーもフランスに訪れた時は彼と顔を見合わせている。
「ごめんな、菊は人見知りなんだ」
 アーサーは昔からマシューと何度も会っていたし可愛がっていたため、勿論警戒することなくその柔らかいブロンドを撫でた。アルフレッドとそっくりな顔をほころばせ、「大丈夫です」と笑う。 「後からアルフレッドも合流するから、仲良くしてやってくれ」
 フランシスの別荘にマシューが遊びに来ている事を告げると、アルフレッドは帰りがけに寄ると、アーサー宛の手紙にしては異例の速さで返ってきた。
 マシューとアルフレッドの二人は、割とよく顔を合わせている。近頃、菊の体調が優れず避暑に行けない時フランシスから手紙をもらうと、代わりにアルフレッドを行かせるようになったからだ。14を超えれば一人前に物事をこなせるし、社会勉強にも丁度良いとアーサーが判断した。
 アルフレッドは少し不満そうだったが、夏になるとマシューがフランシスの別荘に遊びに来ていると解ると、さほど文句も言わなかった。アーサーはマシューが気に行っていたし、親戚として愛らしくもあったため、菊の態度が少し意外だった。
 
「マシュー、苦手か?」
 部屋に着き、荷物も解いてひと段落ついたころに尋ねると、ベッドに腰をおろしていた彼女は、少し慌てて首を横に振る。
「いいえ……あの、小さなころは本当にアルフレッドにそっくりでしたのに、今はすっかり大人で、少しびっくりしてしまって」
 周りから見て、見かけはいまでも二人はそっくりなのだが、菊やアーサーにといった近親者には、性格の違いが明確過ぎて同じように見えないのだろう。ともすれば、マシューに比べてアルフレッドは今でも十分に子供っぽい。
「あいつが少し子供っぽすぎんだな」
 いっそ笑いながら言うけれど、菊は眉根を下げて複雑そうな表情を浮かべていた。アーサーの知らないところで、アルフレッドの教育について誰かにチクリと皮肉を言われているのかもしれない。
 隣に腰をおろし、彼女の、低いと気にしている鼻を摘まむと、下がっていた眉根が上を向く。眉間に皺を寄せて睨んでみても迫力などなく、そのまま身を乗り出して唇を合わせる。
「ほら、こういう時鼻が高い同士だと邪魔で仕方ねぇだろ。低い方が良いんだ」
 その一言で蕩けかけていた菊の眉間に再び皺が寄るが、それを親指で滑らかにしながら笑って抱き寄せる。
「折角なんだし、二人だけで遊びに行こうぜ。髭だって空気呼んでくれんだろ」
 イギリスの庭とは違う、南フランスの幾何学的で遊び心に富んだ、趣向を凝らすことに全力を注いだ庭園。勿論、邸宅に着いた時、好奇心旺盛な菊の興味を引かないわけがない。
 一瞬で機嫌を直してくれた妻に手を貸し立ち上がると、誰も連れずに部屋を出た。外に出ると日差しが強く、夏物のドレスを着ていても暑いらしく、菊は額にうっすらと汗を滲ませる。ぼんやり顔を覗き込んでいると、「汗かいてますよ」と笑みを浮かべてハンカチでアーサーの額を拭った。
 
 
 マシューは小さくため息を吐きだし、飼い犬を連れて庭を横切っていた。久しぶりに会うカークランド夫妻を楽しみにしていたのに、余所余所しく直ぐに部屋に引っ込んでしまった。疲れているんだろう、と勿論解っていたけれど、少しばかり寂しい。
 いろんな話を聞きたいと思っていたけれど、取り敢えず夕飯まで部屋で休ませてやれとフランシスから言われ、仕方なく広大な庭を犬と戯れあそぶことにした。もうじきアルフレッドも合流するのだから、数日暇な日々を我慢すればいいだけだ。
 不意に聞こえた、聞きなれない笑い声につられて柴から顔を出すと、先ほどまで能面の様だったカークランド婦人の顔一杯に笑顔が浮かんでいる。それはカークランド卿も同様であり、冷たい宝石に似た瞳は細められ、ふざけて妻を抱き寄せ水の中に二人して転んだ。
 二人とも水着を着ておらず、華美なコルセットとドレスは池の横に置かれ、彼女はシュミーズとドロワーズという出で立ちで、水にぬれて脚や胴回りの肌が透けて見える。初めてみる女性の肌に、反らさなければと思いつつも目が釘つけとなった。
 殆ど顔を合わせるように話しをしているため、その会話は耳まで届かない。一言二言話をしては、二人は喉を鳴らして笑う。カークランド卿は軽々彼女を抱き上げると、水の中から出て木の根もとへ下す。枝にかけておいた上着以外はずぶ濡れなカークランド卿は、自身のシャツを指差して笑う。
 婦人は慌てて置かれていた衣服の中からハンカチを取り出し綺麗な金髪を拭ってやるが、当然さほどの効果は無い。頭の上で鳥が鳴き声を長く発しながら横切り、葉擦れの音が辺りを取り巻く。
 夏の陽気は暑く、汗が首を滴り落ちるけれど、覗き込んだ体制のまま体が動けない。丁度カークランド卿の背中ばかりが見え、彼女の姿は隠れてしまうように、彼は身を乗り出し妻に覆いかぶさる。少しの間を開けて、首に白く細い腕がグルリと巻き付いた。
 肌に張り付いたドロワーズの中に指先が潜り込んでいく様子を、心臓が破裂しそうになりながら瞬きもせずに見つめる。ただ、隣にいた愛犬にとっては退屈な時間だったのだろう、一つ大きく吠えたて、犬の口をふさぐ間もなくすかさず振り返った翡翠色の瞳に射抜かれた。
「す、すみません、覗くつもりはなかったんです。お声がしたから……」
 鋭い瞳で睨めつけられ、震えあがりながら犬を抱き寄せる。小さな体を隠すように己の方へ寄せつつマシューの姿を確認すると、カークランド卿の顔はみるみる真っ赤に染まっていく。
「ああ、悪い。もう部屋に戻るから」
「あ、いえ……。あの、タオル取ってきますね」
 応えも聞かずに走り出すと、ようやく退屈から逃れたことを喜びながら愛犬がついてくる。
 走っていることと先程の光景が、マシューの体内の熱を上げて、顔が熱くてたまらない。転がるように帰って、訳も話さずタオルを掴み、大きな庭を一気に駆けていく。いつも穏やかなマシューが慌ただしかったことに、フランシスが不思議そうな顔をしていたけれど、会話を交わさず真っすぐに駆ける。
 タオルを受け取ったアーサーはマシューの頭を撫でるけれど、婦人は濡れた下着の上から夫の上着を羽織り、マシューから顔が見えない様に黒い髪を垂らして俯いている。
「ぼく、後ろ向いてます」
 言葉と共に後ろを向くと、アーサーが微かに笑う。さわさわと葉が擦れる音の他には、ただ時折聞こえる布擦れの音だけだ。背を向けているマシューを上から覗き込んだ犬が、不思議そうに首を傾げる。
「タオルありがとな。あとでお土産やるから」
 少し乱れながらしっかりとドレスを着込んだ婦人を半分抱え、びしょぬれのまま屋敷へと向かう。ふと振り返った彼女の黒い瞳が、無表情ながらマシューを見やった。貼りついて透けた肌色を思い出し、マシューの方が思わず顔を伏せる。
 

 
 夕食の時間が来る前に、新しいドレスに着替え直して髪も綺麗にあげた。普段ならば外で服を脱ぐ事など絶対にしないのだが、アーサーの「絶対誰も来ないから」という言葉に乗ってしまった事が、ただ情けなくてたまらない。
「……なぁ、そんなに怒るなよ」
 全身着替えて、濡れた服をメイドに渡したアーサーが、まだ微かに濡れた黒髪に鼻先を当てる。汗の匂いがしないか気になっていた菊は、身を捩って逃れた。
「怒ってませんよ。しかし、悪いことをしましたね……」
 真っ赤になって困った顔をした少年を思い出し、罪悪感に胸が軋む。いくら見かけが大人っぽくて、フランシスと仲良しだからといって、まだ若い少年に違いない。
「いやぁ、マシューにとってもラッキーだったろ」
 伸びてきて腹部を撫でる手を軽く叩き、溜息を吐くと先程捩って逃れたというのに、再び首元に額をくっつけ抱きついてくる。目の端に見える金色の髪の先があちこちに跳ねているのを確認し、手櫛をかけてやると、くっついた額を更に押しつけてくる。
 夫に甘えられるのは正直嬉しいけれど、嫁いで直ぐの数年間、そんな彼の一挙一動に気を使って怯えていた事が少し引っかかる。もう一度溜息を吐きだすと、回されていた腕に力がこもった。
「本当に怒ってないですよ。それより直お食事ですから、ひっついたらお召し物が乱れてしまいますよ」
 怒ってないの一言で離れた夫の、つぶれたタイを直し、日本時代から愛用している櫛を取り出して丁寧に髪を整える。綺麗な金糸の髪は柔らかく、黒くて少し硬い菊の髪とはまるで違い、いつも羨ましくてたまらない。輝くビー玉の目も、長い足も、高い鼻も羨ましい。そんな人の中に入ると、自分だけ劣っているような気がしてならなかった。
 一通り整えてやった直後にノックの音が聞こえ、夕食の報せが告げられる。
 
 食事を終えるとフランシスが菊の為にと、パリの有名店で買い求めた髪飾りを手渡した。派手な宝石はついてはいないけれど、菊好みの複雑な細工に、目をキラキラ輝かせて礼を述べた。ムッとするアーサーを余所に、鏡の前で何度も髪飾りを確認する。
「フランスでは最近、東洋の物が高値で取引されていると聞きましたので、こちらをとり寄せました」
 上機嫌に菊はメイドに香炉を持ってこさせると、香木を一つ落として火をいれた。たちまち立ち込める香りに、フランシスは嬉しそうにその由来などを問いかけている。
「マシューにも見繕ってたよな」
 フランシスと菊が楽しそうに喋っているのを妨害するように口を挟み、大きな包みを菊に渡す。しかし一瞬キョトンとしてから、包みを抱きしめてみるみる顔を赤らめていく。
「いえ、でも、これは……私、男の子が貰って嬉しいものなど解らなくて」
 アルフレッドへのプレゼントはいつもお手製のお菓子やケーキばかりで、物を見繕ったりもしない。アーサーが菊にねだるのも、勿論物であった試しもない。
 今回仕事で忙しいアーサーに、マシューへのプレゼントを頼まれ、心底困ってしまった。思い出の中にあるマシューは、アルフレッドとそっくりの顔ながら、柔らかでやさしくて女の子のような印象を受けたことしか思い出せない。そしてその腕に抱かれた、大きなぬいぐるみ。
「僕、なんでも嬉しいです」
 キラキラした笑顔に困って、ちらりとアーサーを見やると、彼は満面の笑顔を浮かべているだけだ。菊は眉根をおろしたまま、仕方なく差し出した。
 能面のようだった顔が一喜一憂する様子がうれしくて、マシューは上機嫌に袋を開けていく。直ぐに可愛らしい顔が見えて、頬が緩んだ。
「わぁ、可愛いです」
 アンティークのクマのぬいぐるみに、顔一杯の笑顔を浮かべるマシュー。15歳の男の子にテディベアは無いだろうと、フランシスもアーサーも心の底でひっそり思うけれど、明らかにホッとしてる菊に茶々は入れられず笑顔を浮かべていた。
「一応、本当のおくりものはこっちなんです」
 テディベアはきちっと燕尾服を着ているのだが、その袖についた、ぬいぐるみ用にしては少々大きいチェーン式のカフリンクスを取る。カフリンクスには、トルコ石の表面にボヌフォワの家紋がしっかり刻まれている。
 15歳の少年には少しばかり早いが、贈り物としてはピッタリだろう。付けてお礼を述べる少年を見やりながら、自身の息子と比べてなんて大人っぽいのだろうと、内心感心を覚えた。
「先程はみっともない所を見せてしまって申し訳ありません。アルフレッドとは仲良くしてあげてくださいね」
「……いえ、その、大丈夫です。お休みの間はしっかり楽しんでください」
 笑顔を浮かべていたマシューの顔は一気に赤に染まるのを見やり、フランシスはアーサーへと視線をやるけれど、スルリと若葉の瞳をフランシスから避けた。並んで笑みを浮かべ、穏やかにはなしているマシューと菊は、アルフレッドと菊よりずっと親子のようだ。
 気質が元々似ているからか、この夜から特にさほどの壁も無くなり、次の日は四人で船を出したりマシューにねだられて日本の昔話や伝説、神話を聞かせたりなどぼんやりとしたゆったりとした時間が流れた。
 
 
 四日後にアルフレッドがやってくると、屋敷の中は一気に騒がしくなった。馬車から駆け降りてきた彼は、真っ先に菊に飛びつき、細い腕をひきエスコートしながらマシューの元へと行く。
 確かに同じ顔が二つだが、その気質はあまりにも違う。取り残されたアーサーとフランシスは、先ほどまで菊が居たアフタヌーンティーの席を見やり、肩を竦める。
「あー、俺の休みも終わったな」
 紅茶を飲み干すと、深い溜息を吐いて肩を落としたアーサーのもとへ、ようやくアルフレッドが駆けてくる。相変わらずこぼれんばかりの笑顔を浮かべ、フランシスに適当な挨拶をよこし、アーサーにもお土産だとかでピンクのポニーのぬいぐるみを投げ渡した。
 アルフレッドの出産祝いにぬいぐるみを縫ってよこしたフェリクスを思い出し、相変わらずだと、随分上達したぬいぐるみを観察する。不意にマシューがフランシスを、菊がアーサーを、庭の散策へと誘う声をあげた。