卿菊

卿菊短文
 
 
 まだ太陽が昇る前といえど眠りが浅くなってきたらしく、寝台が少し軋んだだけで意識が浮上する。まだ薄暗い室内、カーテンの隙間から透き通った青色の光が差し込み、部屋の中がぼんやりと明るくなっていた。
 自身の上に影が落ちているのに気が付き、ようやくしげしげと菊を見つめている翡翠色の二つの瞳を見つけ、覚醒した。
「……私、寝坊してしまいましたか?」
 太陽はまだ昇ってもいないし、いつもよりもずっと早いと思い込んでいたので、慌てて起き上ろうとして制止される。大きな掌が降りてきて額をゆったり撫でられてから、頬にあてて小さく開いていた菊の口内に親指の先を挿し込む。
 まだ半分寝ぼけたまま舌先で舐めると、くるくると楽しそうにアーサーは喉を鳴らして笑う。久しぶりに見る夫の笑顔が嬉しくて眼を細めると、青白い光に照らされて輝く金色の髪が落ちてきて、首筋にキスを落とされ擽ったく身を捩る。
「何かありましたか?」
 胸元に顔を埋めている夫の髪を弄りながら尋ねると、直ぐに「いいや」と返ってくる。
「昨日やっと帰れたのに、お前と遊んでねぇな、って」
 最近は数日おきに帰って来ていたのだが、昨日までの出張は天候の悪化のせいで長引いて半月も帰ってこなかった。ようやく帰ってきたのは昨日の深夜で、無理して帰ってきたせいか髭も伸びており、寝る前に菊自身が剃ってやった。出張の期間はせいぜい十日間だと聞いていたため、菊は心配で暫く寝不足で、二人でベッドになだれこんで気が付いたら今に至っていた。
 互いの懐かしい体温をぼんやりと感じ合っていると、不意に扉が激しく叩かれて驚き体を起こす。
「何かあったのでしょうか……」
 不安げに呟く妻の頭を撫でてから、取り敢えず近場に投げやっていたローブを体に巻き扉を開く。てっきり仕事や家の事を誰かが告げに来たのだとばかり思っていたのだが、立っていたのは寝間着姿で不服そうなアルフレッドである。
「あれ、お前家にいたのか?学校は?」
 長期の休暇はまだだった筈だと、頭の中で考えながら、幼さの残る顔には少し大きめな眼鏡を見やる。今年ようやく14を迎えたけれど、体だけは年々大きくなっていく。
「今は週末さ。菊が一人きりだったから心配で帰ってきてたんだよ。今日中に帰るけどね。それより……」
 不機嫌そうなもの言いの後、腕を強く引っ張られて廊下へと出ていく。秋口で寒く、ローブ一枚だと直ぐに足元から冷気が昇ってきて体が震えだす。しかしアルフレッドは気にせず、菊が待っている部屋の扉を閉めた。
「なんだよ」
「なんだよって何だい、俺聞いちゃったんだぞ!」
 寝起きでぼんやりしている頭を掻きながら問いかけると、アルフレッドが呆れたといわんばかりに両手を広げる。正直、今は我が子と遊ぶよりも菊と暫くじゃれていたかった。仕方なく頷いて先を促す。
「君さ……愛人いるってホント?」
 途中まで怒っていたのだが、最後の方は自信が無くなったのかしょんぼりと眉根を下して上目がち問いかける。愚問に溜息を吐き出し、続いてあくびを大きくすると扉のノブを握った。
「……ニ度寝する。学校帰る前に小遣いやるから部屋に来いよ」
「小遣いなんてどうだっていいよ、本当なのかい?」
 まだ不服そうな様子の息子頭を撫でて部屋に帰ろうとするが、再び腕を引っ張られて戻される。まるで社交界の噂話のような内容に、うんざりとしながら眠い目を擦った。アーサーが口を開くよりも先に、少しだけ開いた扉からそっと覗いている黒い瞳を見つけて固まる。
「あ、う、すみません」
 眼が合うと扉を閉めようとするが、それをアーサーが慌てて防ぐ。強く引くと、寝巻の着物の上にもう一枚厚手の着物を羽織った姿がよたつきながら現れた。足元がおぼつかない菊を抱き寄せると、眉根を下した顔を覗き込む。
「ああ、あのな、違うからな?」
「いえ、でも日本でもよくある事ですし」
 首を横に振ってそういう菊に「ああだから、もう」と口の中で呟き、息子に背中を向けると耳元で何事かを弁明している。納得しているのかいないのか、再び向き直った時も菊はまだしょんぼりとしたままだったが。
「仕方ねぇから、なんでそんな馬鹿らしい噂がたったのか聞いてやるよ」
 眠いのと妻のご機嫌を損なったのが苛立たしいのか、アーサーの口調はいつになく刺々しい。アルフレッドは眉間に皺をよせ、唇を尖らせて事の発端を話し始めた。
 
 
 学校の宿舎生活にも慣れ、最近は週末に毎回家に帰ることは無かった。しかし約束していた十日が過ぎてもアーサーが帰ってこないのが心細いのか、菊から来た手紙はいつもよりも一枚分も多い。
 天候が安定していない事を聞いていたので、そのせいかと最初は気にもかけなかった。しかし一学年下の生徒が持ってきた噂話を耳にし、すぐさま帰宅の準備をしたのだ。
 まだ背も顔も幼い少年は、言いづらそうにアルフレッドの元へとやってくると、先日の休日に『たまたまカークランド卿が近所の海岸に来ていた』のを見たのだという。その時『少女と連れ立っていたけれど、仲睦まじくて恋人にしか見えなかった』のだと言う。
「……少女」
 愕然とした菊から、溜息混じりの声が漏れた。
「あー……ほら、若く見られたならいいじゃねぇか」
 衝撃を受けている菊に、再び懸命に声を掛ける。夫婦を手前に眉間に皺をよせ、「で?真実は?」と先を促す。
「海には菊と二人で行ってたんだよ。前に行った時綺麗だったからな」
「そんなに幼い顔でしょうか。もうアルフレッドだって大きいのに……」
 うなだれる姿に懸命に弁明している様子を見やってからようやく、自分は早朝から、しかも急いで帰宅までして、両親の惚気を聞かされているのだと気がついた。途端バカらしくなり、欠伸を噛み殺して自室へと戻っていく。
 
 
 強い潮風から妻を守るように砂浜を抜ける。歩きづらいらしく何度も足をもつれさせるため、半ば抱き上げてそのまま波打ち際を覗き込んだ。
 アルフレッドが一年の殆どを不在としているため、アーサーが帰ってきても菊はあまり元気が無い。ほんの数日ながらロンドンから少しばかり離れた町へ行こうと誘うと、彼女は眼をキラキラとさせて満面の笑みを浮かべた。
「ほら、貝殻」
 しゃがみこんで桜貝を一つ拾ってやると、彼女は顔を蕩けさせて微笑み大事そうにハンカチに包み込む。可愛いな、と思いつつそれは口に出さず、目につくものを端から拾っていく。
「海はどこも変わらないですね」
 ざざん、ざざん、と繰り返す波音に耳を澄まし、ポツリと呟いた。楽しそうに細められた瞳が、海の彼方の故郷を見ている。
「あんま海風に当たらない方がいいな。そうだ、ここのケーキ有名なんだ食べよう」
「はいっ!」
 眼をそらして欲しくて彼女の好きそうな話題をあげると、嬉しそうに笑ってアーサーの腕に自身の腕を絡めた。