卿菊

卿菊
 
 
※ かっるーく性的描写が入ります、夏
 
 
 フランシスから送られてきた招待状は、数あるサロンからのお誘いで、唯一菊が喜ぶ魔法の招待状である。フランスにある彼の邸宅に行くには、船に乗ったり馬車に乗ったり宿に泊まったり……それなり大変なため、菊の体調が芳しくない時は連れて行けない。
 そんな時は見せることも無く処理してしまうので、彼女にとっては数年に一度のお誘いなのだ。
 遠いフランスにはさほど知り合いもおらず、言語が違って悪口だって言われない。その上フランシスの道楽のために開かれているため、毎回芝居やら楽団を呼んだりして、踊れない菊を非常に喜ばした。
 連れて行って下さるの、なんて目をキラキラさせた彼女を見れば、自身の手柄のようで嬉しくてならない。
 そんな楽しみにしていた会場で、長年因縁がある相手と鉢合わせしたのなら、機嫌が急降下するのだって仕方がないだろう。
「あーあー、眉毛がおるんやったら家帰って昼寝しとった方がましやん」
 アントーニョによってあからさまに売られたケンカを買うことなく、唇を噛みしめ眉間に深い皺を寄せる。普段だったら嫌味のオンパレードなのだが、今は横にぴったりくっついた菊の手前、睨むことさえできない。
 フランシスは終始にやにやと楽しそうに笑い、愛おしい黒い瞳は心配そうにアーサーを見上げている。先ほどついうっかり「商家の癖に社交界に顔だすたぁ、随分偉くなった気でいるんだな」とアントーニョを鼻で笑ってから、妻も商家であったことを思い出した。
 結局懸命にフォローをしてしまい、それ以来下手なことを言わないように、何を言われても口を不機嫌に引き締めている。
「そんなに嫌なら向こうへ行ってろよ」
 苛々としながらようやく言うと、ほぼ強制的に菊の腰に腕をまわし歩き出す。申し訳なさそうな菊にフランシスは片手を挙げ、アントーニョに何やら耳打ちする。
 今回も大がかりに劇をするのだと言って、大きな部屋に大道具を次々に入れていた。街の劇団をそのまま雇ったらしく、不思議な小道具や衣装、男の女装など菊は目を丸くして準備の様子まで楽しそうに眺めている。
「少しだけ外すからな」
 好奇心に目をキラキラさせている様子に満足してから、商売仲間の姿を見つけて立ち上がった。それとほぼ入れ違いに、フランシスが隣の席に落ち着く。
「今宵はご招待ありがとうございます」
 相変わらず綿菓子のように笑う姿に笑顔を返す。
「お兄さんも菊ちゃんに楽しんでほしくってね。今日はアル連れてこなかったんだね」
「ええ、今は学校なんです」
 小さく肩を竦めてみせた時、飲み物をとりにいっていたアントーニョが二人の前に顔を出した。
「さっきは挨拶せんで、ほんまにごめんなぁ」
 先程の雰囲気とは一転、穏やかな笑みを浮かべ、自身のためにもってきたのだろうシャンパンを菊へと手渡す。
「カリエド様は、アーサー様と仲があまりよろしくないんですね」
 眉根を下げて、礼を言いつつ受け取ったシャンパンに口を付ける。
「だってあいつ、意地悪いやん」
「……本当はお優しいんですよ」
 最初は意地が悪いと思っていたため、強く言えずに口の中で呟いた。
「それにあいつ酒癖悪いやろ?一緒に住んどって面倒くさない?」
 お酒を飲んでいる姿はしょっちゅう見かけるものの、泥酔していたり酔いのために酷い目にあったことは無い。首を傾げる菊に対して、フランシスもアントーニョに同乗で深く頷く。
 楽しげに話す二人の間に挟まれ、差し出されたクラッカーを口に含む。久しぶりのアルコールのせいか、たかだか二杯のシャンパンに既に頬が熱くなっている。
「おい、菊にあまり酒飲ませんじゃねぇぞ」
 不意に頭上から声が降ってきて、待っていた人が帰ってきたと顔を輝かせて顔をあげると、いつもよりずっと酔っているアーサーが居た。フランシスを蹴りだして菊の隣に座ると、既に飲めず掌で温めていたシャンパンを奪い取って一気に煽った。
「あまり飲んじゃダメですよ」
 見たことの無い夫に戸惑いながら、赤くなった頬を手袋を脱いだ手の甲でそっと触る。
「ん、きく」
 素早くその手をとって手に平に唇を落とすと、満足した様子で体を抱き寄せ肩口に額を当てた。人前で甘える姿は珍しくて、菊とフランシスは目を丸くして目線を合わせる。
 細い指で小麦色の髪を梳くと、酔っぱらって熱くなっているのが直ぐに解った。
「お部屋で休みますか」
 問いかけても返事は無く、腰に回された腕の力が強まっただけだ。
「きしょいわぁー、なんなん」
 菊の左隣に座っていたアントーニョが嫌そうな声をあげるけれど、アーサーは動じることも無く、喉をクルクルと鳴らして黒髪の隙間から若葉の瞳を覗かせた。
「お前こそ、いい年こいて一人でふらふらしやがって。って、貰われる女なんていねぇか」
 挑発的に目を細める姿に、アントーニョも眉間に皺を寄せて苛々を露わにする。
「……金でなんでも買えると思っとるお前よかマシや」
 周囲に座っていた人まで、この罵り合いを緊張しながら聞いているのに気が付き、二人の顔が見えない様に抱きすくめられたまま菊はハラハラと眉根を下す。目の前のフランシスも気まずそうに口元を歪ませている。
「貧乏でなんも買えないお前よりは良いだろ。結婚したところで妻に贅沢もさせられねぇしな」
「その嫁さんも買うたんか?ええなぁ、金のある奴は」
 その言葉を聞いて、アーサーの腕に強い力が込められて、思わず苦しくて小さく呻くと、直ぐに力が弱まる。しかしどうしても我慢出来なかったらしく、立ち上がりそうになったアーサーの服の裾を掴み、拒むと、慌てて彼の口を掌で抑えた。驚いて菊を見やる瞳は殺気立っており、初めて見る姿に一瞬怯えるけれど、落ち着かせるために笑顔を浮かべる。
「ダメです、ね。怒らないで。わたくしと一緒に、お部屋に戻りましょう」
 子供をあやすように言われた言葉に、鋭くなっていた瞳も徐々に毒気を抜かれていく。怒気を無くした事に気が付き掌を除けると、彼は直ぐに立ちあがって菊も立ち上がらせると大股に扉へと真っすぐ向かった。
 戸惑いつつフランシスとアントーニョに視線を送れば、アントーニョは相変わらず睨んでいるし、フランシスは困ったように肩をすくめた。足早なアーサーに引っ張られ、慌ててペコリと頭を下げると、そのままあてがわれた部屋へ向かう。数多くある来客用の、カークランド夫妻用の定位置の部屋。
 まだ日も高く、開いたカーテンから午後の穏やかな光が溢れている。キングサイズの大きなベッドには天蓋が付き、机も窓付近に置かれたテーブルとイスもアンティークで、フランシスの気遣いと趣味の良さを感じた。アーサーは「見せびらかしたいだけ」だと言ったけれど、素直ではないから内心は解らない。
 とても身分の高い貴婦人でも扱うように菊をベッドに下ろすと、靴を脱がして痩せた足の甲へ唇を落とし、愛おしそうに頬を当てた。綺麗に揺れる金髪を見やりながら、こそばゆさを感じる。
「汚いですよ」
 顔を持ち上げて瞳を緩ませると、菊の頬へと腕を伸ばす。先ほどアントーニョを睨んだものと同じ瞳に思えず、珍しくジッと見つめ返した。
 それが嬉しかったのか、彼は身を乗り出して唇を合わせる。いつもと違う早急さで舌が侵入し、上あごをなぞられた。鼻に抜けていく酒の臭いを感じ、ようやく舌が熱い事に気が付き、乱雑さに納得する。
 
 
 綺麗に整えられた爪先が、微かに背中に食い込む。その痛みさえ快楽に感じられ、いつも以上に体を強張らせた菊を抱え込んだ。体を震わせ、抱えられたまま背を弓なり曲げてくぐもった声を上げる。
 アーサーの首筋に額を当てると、乱れた呼吸を正すために深い息を吐き出す。それを手伝うために背中を撫でてやってから、膝の上にずらしシーツを手繰り寄せて拭う。いまだに息を整えている菊に苦笑を送り、真っ赤になった頬の汗を拭ってやった。
 空は茜色になっており、じきに夕飯時になる。一応ドロワーズだけ脱がしたため彼女はドレスを着ているけれど、乱れているために人前には出せない。懸命に上下を繰り返す背中を撫で、乱れた黒髪に櫛を通し、コルセットの緩んだ紐を結びなおし首筋に音を立てて唇をくっつける。
「……どうした、辛いか?水しかないな……何かとってくるか?」
「いいえ、大丈夫です。多分、酔いがまわってしまったんです」
 酔いがさめてきたアーサーに対して、息を整えている菊の顔はいまだに赤い。掌で顔を包むと熱く、コップに水を一杯注いで差し出す。小さく鳴る喉の音を聞きながら窓を開けると、夕焼けの中、舞台を見て歓声を上げる人々の声が聞こえてくる。
 羨ましそうに空を見上げる黒い瞳に気が付き、幾分迷って、開けたままにしてベッドへ戻る。罪悪感を覚えつつ黒髪を弄ってると、ぼんやりと空を見やっていた瞳が帰ってきて頬を緩めた。名前を呼ぶと瞬きと共に笑顔がふってきて、もう一度名前を呼んだ。
 アントーニョの言葉に激昂したのは、彼の言葉が本当だったからだ。この時代大抵の家庭が利益で成り立っているし、殆どの家庭内は冷え切って妾を作っているのだから、我が家はマシであると勝手に思っていたけれど、菊がどう思っているのかは解らない。今まで聞こうと思ったことも、そんな勇気もなかった。
 もう一度呼びかけようと口を開いたところで、彼女の胃が小さく鳴る。笑うアーサーに対してみるみる真っ赤に染まっていく菊が可哀想で、直ぐに笑顔を消して立ち上がった。
「飯、運ぶように言ってくる」
 不安そうな顔に笑いかけて、服を整え外に出る。劇はラストシーンにさしかかっていたけれど、フランシスだけは直ぐに気が付き席を立った。
「お前さぁ……菊ちゃん楽しみにしてたのに……」
「うるせぇな、解ってるよ。それより飯。あと酒」
 飄々と言ったアーサーに眉間に皺を寄せ「まだ飲むの?」と口の中で呟く。睨まれて肩を竦めると、わかったよ、と手を振って見せた。
「あとで持って行かせるから、俺のメイド達に見せられるぐらいの格好で待っててよ。明日は菊ちゃんとご飯食べさせてよね」
 終劇に向かう劇場を置いて、アーサーは真っすぐ菊の待ってる部屋へ、フランシスは待機しているメイドへ声を掛ける。
 本来であれば、劇が終われば客の多くは家へと帰り、ボヌフォワ家と厚い親交がある家だけは残り共に食事を摂る。アーサーが居る時は一緒に座りたがるものが大勢いるため、今日もいつもより少し多くの人が「どうしても」とフランシスに頭を下げた。
 フランシス自身は、ストレスに弱い婦人と、アントーニョも一緒に夕飯を食べることへの心配が杞憂で終わったことに、いっそ安堵さえしている。しかし前回菊が褒めた食材ばかりを取りそろえたから、喜ぶ姿が観たかったのもまた真実だ。
 溜息を吐いて苦笑を浮かべると、そそくさと部屋へ向かう友人の後姿を見やった。
 
 
 翌朝になり、一泊していった客の殆ども自分達の家へと帰っていく。残ったのは昔ながらの友人であるアントーニョと、カークランド夫妻ばかりとなった。カークランド夫妻は朝食にも姿を現さず、結局部屋へと食事を運んだ。
 聞けば昨晩調子に乗ったアーサーがあれから更に酒をあおり、結局朝は二日酔いになってしまい、朝食さえ摂りにこなかったのだという。症状は重く、馬車にさえ酔ってしまうために、宿泊のひにちを更に一日延ばした。
「ほんまに、何やってんやろ。菊ちゃん可哀想や」
 昨日初めて会って少し喋っただけで「菊ちゃん」呼ばわりしているアントーニョに、この場にアーサーがいなくて良かったと心底思う。そんな世間話をしながら二人でフランシス御自慢の、ボヌフォワの庭先をぼんやりと抜けていく。
 少し古風な幾何学的な模様と、イタリア式のパノラマ庭園。田舎の家であるため、整い過ぎるほどに整った、噴水と幾何学の緑が配置された向こうの山には、見渡す限りのブドウ畑が見える。まだ朝日が昇る前に望めば、霞がかかってこの世の風景とは思えないほどに美しい。
 サロン近くの樫の木の近くに人影を見つけ、フランシスは足を速める。
「きーくちゃん」
 シロツメクサの冠を一生懸命編んでいた主は、フランシスに呼ばれてようやく顔を持ち上げた。木陰の隙間から漏れる日の光に揺れつつ、彼女独特の柔らかな笑顔を浮かべる。昨日とは違う、涼しげな淡い青のドレスを身にまとい、長い髪も綺麗に編み込まれていた。
 近づいてからようやく、菊の膝に頭を預けて眠っているアーサーがいることに気がついた。いくつも作られたシロツメクサの冠が、眉間に皺を寄せて眠っているアーサーの頭にも被せられているのに苦笑を浮かべ、小さく肩をすくめた。アーサーは菊の腹部に額をくっつけ、腕は腰をしっかりと抱き寄せている。
「朝食、行けずに申し訳ありませんでした。その上もう一泊とめてくださるなんて」
 座ったままペコリと頭を下げる姿を、アントーニョは面白がって見ている。アーサーは安心して深く眠っているらしく、会話を始めても目を覚ます様子は見られなかった。
「いいよいいよ。そのかわり今日はおにいさんとご飯食べてね」
 盛大にウィンクしてみせると、菊は困ったように笑いつつアーサーの髪の毛を指先だけで弄る。
「昨日は残念やったなぁ、誰かさんのせいで」
 アントーニョの嫌味に、長閑な雰囲気が一瞬ピリッと固まった。言われた当人ばかりがすやすやと心地よさそうに眠っている。しかし、菊は瞬時に笑顔を浮かべて首を横に振った。
「いいえ、楽しかったですよ。あんなに怒ったアーサー様、初めて見ました」
 直ぐに自分を卑下する菊に対して怒鳴ったりすることはあるものの、アントーニョと対峙した時とは殺気がまるで違う。それを嬉しそうに笑って述べる菊に、フランシスは目に見えて顔を強張らす。
「へぇ、家では怒らんの?俺はあの顔しか見たことあらへんよ」
「本当はお優しいんですよ。二日酔いで辛いのに、やな顔せずに一緒にお散歩してくださるぐらいには」
 しゃがみ込んで眠ってるアーサーを覗き込むと、心底嫌そうに顔を顰めた。妻の膝の上で眠っている姿はまるで子供の様で、安心しきっており、いつもピリピリとしている彼とは思えない。その上花の冠をかぶっているとならば、張り合うのもバカらしくなってくる。
 黄金色の髪の毛を梳いている姿は母親にしか見えなくて、性格がデコボコで不釣り合いに見えた夫婦の仲がようやく丸く収まる。
 一応一緒に食べる予定の昼ごはんの話を少ししてから別れる。隣を歩くアントーニョが「結婚しようかな」と真剣な様子で呟くのを、やはり苦笑いを浮かべながら聞いた。
 
 
 目を覚ますと相変わらず胸の奥がどんよりと気持ち悪く、頭も痛い。喉も渇き自身が二日酔いなのだと自覚させられた。
 食事は美味しく菊も幸せそうで、ついつい深酒してしまったのだ。散々「もうおやめになった方が」と止められたけれど、結局ワインを一瓶も空けてしまい、いつ眠ったのかさえ覚えていない。
 妻が楽しみにしていた小旅行を、結局は最初から最後まで壊してしまったのに気がついたのは二日酔いの朝で、せめてもの償いにと、ふらふらの体を起してボヌフォワの庭先に出てきた。けれども結局は体力が持たず、そのことに気がついた菊に促されて木陰に横たわり膝を借りて目をつむる。眠った時のことは覚えていないけれど、起きて一番最初に見た彼女が楽しそうだったから、まぁいいだろう。
「あら、目が覚めましたか。お加減は?」
「……あんまり」
 アルフレッドにするように髪を撫でられながら、ぼんやりと答えると、菊の冷たい掌が頬をなぞった。影が落ちてきて、彼女が身を乗り出しているのが判る。
「それならばもう少しお眠りになって。お可哀想に」
 撫でられると心地がよくて目を閉じる。幼いころにも誰かから慈しまれて撫でられた記憶などない筈なのに、懐かしささえ覚えた。
「ん……悪いな」
「いいえ……私がフランシスさんの開く社交界が好きなのは、あなたが構って下さるからなんですよ。だから、劇が見られなくたっていいんです」
 あんなにしょんぼりと劇の音が響く空を見上げていたくせに。と思う反面、嬉しくて腰に回していた腕に力を込めると、彼女が擽ったそうに喉を鳴らして笑った。