卿菊 ※ この小説は連作として書きました『卿菊』の小話となります。菊女体化のパラレル小説です。
 
 
 

 
 
 馬車の小窓から外を覗いていた彼女が、振りかえることも無くアーサーの名前を呼んだ。普段殆ど会話も無いため、不審に思って身を乗り出すと、振り返った菊は必死な様子である。
「すみませんが、馬車をとめてください」
 なぜ? と問い返す事もなく運転席の窓を上げて止まるように言うと、ほどなく馬車は道の真ん中で停まった。出て行こうとする腕をとって、不思議そうな黒い瞳に肩を小さく竦める。
「なんだ、なんか居たのか」
「……犬が」
 怯えを覚えたのか俯く姿を見やり、ようやくまた、自分が全く笑っていないことに気がつく。馬車の扉を開けると、ロンドンの夕方は相変わらず霧雨が降っており、まだ舗装のされていない道は泥でぐしゃぐしゃになっている。
 民家がある場所から少し離れているため、人影はほとんど見えない麦畑が続いている。今晩呼ばれた社交界は郊外で催されており、直に到着するはずだった。カークランドと同じぐらいの家であるため断れず、苦渋に満ちた表情の菊を仕方なく連れて出て30分程経った頃のことである。
 霧雨の中少しだけ戻ると、樹の根に体を預けて丸まっている子犬を見つけた。元々茶色の毛を泥で殆ど黒に染め、怯えに満ちたつぶらな瞳を眼の前までやってきたアーサーへ向ける。その眼を見やると、先程まで向かい合っていた彼女のそれを思い出す。抱き上げれば案外すんなり腕の中に収まり、怯えと期待を綯い交ぜにアーサーを見上げた。
「怪我してた」
 馬車の中に戻ってから子犬を差し出すと、小さく息を飲んで彼女の小さな掌が子犬を包み込む。手袋を取ると愛おしそうに頭を撫で、怪我をしていた右後ろ脚を怖々と触れる。小さいが肉が抉れた傷跡は生々しく、犬は怯えて鼻の奥で掠れた泣き声を上げた。
 アーサーが戻ってきた事を確認すると、馬車は再びゆったりと動きだす。馬がいななき、泥の地面に重い音を響かせる。
「可哀想に、喧嘩をしたんですか」
 自分を護ろうとしていると判るのか、子犬は身を乗り出して顔を近づけていた菊の鼻先を舐める。驚いた彼女は小さく声を上げてからくるくると喉を鳴らして笑い、その姿に思わずアーサーまでもが頬を緩めると、きょとんとした彼女の目線とかち合い咳払いで誤魔化す。
 ポケットからハンカチを取り出して怪我の箇所へ当てようとすると、菊が慌てて首を横に振る。
「ダメです、汚れてしまいます。私のハンカチで」
 押し戻そうとするが、それよりも早くに手早くハンカチを巻いてしまうと、再びキョトンとした瞳を向けられた。
「あの……この子」
「ああ、飼っていいぞ」
 子犬の頭をせわしく撫でながら言葉を詰まらせた菊の代わりに告げると、途端に彼女の表情はキラキラと輝く。家には既に数頭犬がいるし、今更一匹増えたところで大して違いは無い。
「そもそも、一度助けたら飼うのが礼儀だろ」
 菊の腕の中で大人しくしている犬の頭を撫でると、犬よりも菊の方が嬉しそうに眼を細める。一年間と少し同じ時間を過ごすようになり、ようやく笑顔を度々見かけるようになった。微笑むといつもより大人っぽく、笑うと子供っぽく見える。
「……しかし泥だらけだな」
 子犬を抱きしめて戯れている菊は勿論のこと、泥の道を歩いたアーサーも所々泥が跳ねていた。菊は泥をハンカチで拭おうと取り出したものの、べったりと衣服に付着したそれを落とすことは困難でそのまま途方に暮れる。
 下から見上げられて、アーサーは小さく肩を竦めた。「……帰るか」と呟くと、菊は「だめだ」と言うものの、表情は嬉しそうだ。身を乗り出し運転手に帰るように声をかけると、彼は困惑を滲ませながらも直ぐに方向転換の作業に移った。
「いいんですか?」
「その犬、多分家にも入れてくれねぇだろうし、愚痴も言われるぐらいなら風邪ひいた事にした方がましだろ」
 菊の膝の上にすっかり落ち付いている子犬の顎下を撫でると、犬は心地よさそうに眼を細めて耳を伏せる。暫くもごもご言っていた彼女は、結局嬉しそうに子犬を撫でながら、前にアーサーが教えた子供の童謡を小さく紡ぐ。
 
 
 ぼんやりと意識が浮上し、カーテンの隙間から朝の薄明るい陽ざしがさしこんでいるのを見やった。結局帰宅し、子犬をお風呂に入れ怪我の手当てをしてから、フランシスから貰った高価なワインを開けて二人で一本飲んだ。殆どアーサー一人が飲んだが、菊は顔を真っ赤にさせて終始楽しそうに笑っている。
 体を持ち上げると頭が重く、隣の菊はいまだに心地よさそうに眠りこんでいる。普段ならば先に起きているのだが、アルコールに弱いためにお酒を飲んだ次の日は、いつも数時間遅く起きていた。
 彼女はシーツに体を埋めて、小さな寝息を立てている。身を乗り出して前髪を除けると、幼い寝顔は笑みを浮かべていた。
 ふと、ベッドを見上げて尻尾をふっている小さな存在を見つけて片眉を持ち上げる。昨晩は「何かあるかもしれない」と、夫婦の寝室に、菊お手製の犬用ベッドを持ちこみそのまま眠った。怪我した後ろ脚はまだびっこをひいていたものの、昨日ほどの痛々しさは無い。
「もう怪我は大丈夫か?」
 子犬を抱き上げると、彼はアーサーの腕からすり抜けて眠っている菊の瞼を一心に舐めはじめる。
「んぅ……ふふ、アーサー様?」
 いやいや、そんな事したことないぞ。と、心の中で思いつつも、寝ぼけている妻を微笑ましく見守る。それでも暫く眼を覚まさず、覚醒してすぐに驚いて子犬を抱き寄せた。
「おはよう」
 上から掛けられ、ようやく現実に戻ってきた菊はアーサーを見上げ、朝の挨拶を終える。眠そうに舐められてべとべとになった瞼を擦りつつ、上半身を持ち上げて正面から向き合う。まだ寝ぼけているのか、にっこりと笑いながら犬にも挨拶をしていた。
「ほら、あなたのご主人様ですよ」
 手渡された子犬を素直に抱き上げると、完全にハシャイでいる彼は嬉しそうにアーサーの腕にもぐりこみ、忙しなくしっぽを振っている。泥を綺麗に落とすと、子犬は茶色でもこもこの毛、黒いつぶらな瞳、少し短い足で、狩猟犬にはなりそうもなく、かといって愛玩犬といえる血統も持っていない。
 しかし愛嬌が良くて素直、何より菊が彼を気に入っている。野良犬を拾った、などというのは外聞は良くないが、普段一人で家にいる彼女にとっては良い相棒になってくれるかもしれない。鼻先を撫でると、ふんふんと鼻を鳴らして嬉しそうに子犬は笑みを浮かべた。
 アーサーが子犬を撫でるのを嬉しそうに見やった後、身を乗り出し肩口に額を当てて眼を瞑る。自分からスキンシップをすることなど無いため、驚き子犬の頭を撫でてていた手も止まった。
「ご主人様、お優しくてよかったですね……」
 呟いてから、そのままそれ以上言葉を紡ぐことも動くことも無い。不思議に思って名前を呼び、そこでようやく彼女が再び夢の世界へ舟を漕いでいる事に気が付いた。
 抱きかかえた子犬が菊の手を舐めるけれど、彼女は笑い声を洩らすばかりでそのまま短い眠りにつく。
 
 
 
 2
 
 
 アルフレッドが学校で家を空けるようになって三年目、十日ぶりの再会を昨日果たしたというのに、二人は無言のまま机を挟んで座っていた。用意された紅茶とお菓子には殆ど手をつけず、真剣な面持ちで机の置かれているチェス盤を見つめている。
 チェスのルールを教えたのは随分前のことだが、二人でゆっくりプレイしたことは無かった。二人でいる時間も増え、菊がアーサーに必要以上に気を使うことも無くなったため、日中はぼんやりとチェス盤を前にすることが多々ある。
 久しぶりにチェスでもやろう、と持ちだした時は、当然菊はチェスのルールなど忘れてしまっているに違いない、と思っていた。しかし忘れるどころか、彼女は中々強かったのだ。聞けばいつかアーサーの暇つぶしの相手になれるように、自分で使用人相手に練習をしていたらしい。
 負けず嫌いな彼女らしく、盤を見つめる瞳は真剣そのものだ。その様子が可愛らしいと、紅茶を飲みながら思う。
「そうだ、菊。負けたら罰ゲームをしないか?」
 ビショップを掴みながら声をかけると、盤から眼を離さずに問いかえす。菊も菊で、アーサーが「チェスをしよう」と持ちかけてきた時は大変に驚いた。遊び相手としてまた選んでもらえるよう、彼を楽しませようと必死だったのだ。
「そうだ、俺が勝ったら俺の望みを、お前が勝ったらお前の願い事をなんでも聞いてやる」
「なんでも?」
 黒い瞳がキラキラと輝き、一心にアーサーを見つめる。チェスでの勝負などなくても、そんな顔でお願いされたら家だって宝石だって買ってやるが、当然そんなものをねだったりはしない。
 菊の頭の中で、一度チェスの事は抜けて、アーサーの提案が巡る。楽しそうな夫の表情は柔らかく、宝石の様な瞳は細められていた。
 彼が心身に大きな傷を付けるような提案をしてくるとは思えないが、菊の性格上安請け合い出来ずに、上機嫌なアーサーを見やる。先程一苦労してとったポーンを指先で弄りながら、口を開く。
「それは……その、そんなに大きなことでは無いですよね」
「おおきなこと?」
 観察する様な、訝しむ様な表情で促されて、尚更言い辛そうに俯く。
「例えば、り、離縁とか……」
 思い切って言うと、アーサーは眼を大きく見開いて数秒固まった後、席を立って菊のすぐ横の椅子をひいて座る。俯いていた視界に無理矢理割って入るように、体をかがめさせた。
「お前なぁ……そういうのって結構傷つくんだぞ」
 アーサーの言葉に驚き、弾かれるように顔を持ち上げたところで、真っ向から顔を見合わせる。呼吸もかかるような距離で腰をひきながら「例えば、です」と、小さな声で囁く。
 軽い音を立てて唇を合わせると、菊の掌より一回り大きな彼の手が、柔らかな腹部を擦る。コルセット越しでさほど感触は解らないけれど、降りてきた指先が内太ももを掠り小さく驚きの声を漏らした。
 腕の中で縮こまるのを見やりながら、ルークを右に一コマだけ動かす。顔を真っ赤にさせている彼女に声をかけると、潤んで状況判断が出来なくなりつつある瞳で、ぼんやりと盤を見つめてからクイーンをちょっとだけ適当に動かす。
「菊はナイトの動きが苦手だな。クイーンがとられたら、途端にキングは心細くなる」
 先程まで菊のクイーンが居た位置に、アーサーのナイトが置かれた。動ける範囲が一番大きなクイーンがいなくなった途端、全く勝てない気がする。
「もう、あまり触らないでください」
 負けず嫌いであるため、一度アーサーの手を払いのけて勝負に集中しようとするけれど、払いのけられてからまた直ぐに腰へくっつく。
「昨晩よりはソフトだろ」
 赤くなっている耳に唇を当てると、驚きの声をあげて逃がそうとしたキングが盤に落ちる。
「ああっ!」
 アーサーのビショップ斜め前、悲痛な声をあげるのを無視して、キングを摘まんで脇に置いた。にっこりと笑う夫を前に、白い頬を膨らませたけれど、気にする様子も見せずに抱き寄せる。
「ほら、菊、罰ゲームだ」
 くるくる喉を鳴らして笑う声に、今度は顔を青くさせた。
 
「菊ちゃん!と、クソ眉毛、えらい久しぶりやなぁ」
「おう、久しぶりだなクソトマト」
 久しぶりに対面した仲の悪い二人、アーサーとアントーニョを前に、菊とフランシスははらはらとその動向を見守る。眉間に深い皺を寄せて睨みあう二人に割っているため、菊がアーサーの服の裾を引っ張った。
「ダメです、喧嘩はいけません」
 落ち付かせるために、にっこりと笑う妻につられ、強張らせていた頬を緩める。
 向かい合って穏やかな空気を流す夫婦に、あからさまな舌打ちをしてから肩を竦める。良い気分でフランシスと飲んでいた所に急にやってきて惚気られたとなれば、それは腹立たしいだろう。
「あーもう、なんやねん。なんか用あって来たんやろ」
 イギリスとフランスだって近いと言ってもすぐに来られる距離では無い。ましてや今回は社交界というわけでもなく、手紙でアントーニョが滞在する、という記載があっただけだ。
「菊に新しいドレスでもおろしてやろうと思ってな」
 その言葉の通り、フランスで流行のドレスを着て恥ずかしそうに立っている。無欲な彼女らしくない、宝石をふんだんに使った首飾りだとか、少々派手な赤い靴は、彼が欲しがりもしない彼女に買い与えたのだろう。
 アントーニョとフランシスが品定めをするように菊のドレスを見やるのを、自分で言い出した癖にアーサー不機嫌そうに表情を曇らせた。視線に晒された菊は菊で、居心地が悪そうに眉根をおろしてアーサーにしがみついている。
 その腰をそっと叩くと、驚愕と絶望を綯い交ぜにした瞳がアーサーを恐る恐る見上げた。
「えっ、い、今ですか?」
「今しかねぇだろ」
 こそこそと耳打ちしあう二人を、訝しさと鬱陶しさを込めながらアントーニョとフランシスが見やる。未婚の二人の前で、夫婦がいちゃいちゃするためだけに海を渡ってくるなんて、ただの嫌がらせ以外何物でもない。
「もーなんでもええからさっさと終わらせてくれへん」
 アントーニョが右手で空を払う仕草をしたため、焦った菊はアーサーと二人を交互に見やる。やがて意を決したように身を乗り出し、アーサーの頬へ唇を押しあてた。
「だ、だ、ダイスキです、アーサー様っ」
 ぎゅうっと抱きつく体を抱き寄せる顔が得意気で、残された二人は鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしている。
「え、それで終わり?」
「やるんならもっとやれや」
 ブーイングが飛んでくる最中で、アーサーの肩に顔をくっつけて耳しか見えない彼女の、その耳が真っ赤に染まっていた。泣き出しそうな妻に対して、立派な眉を歪めて夫は凶悪な表情を浮かべる。
「人前で抱きつくなんて、レアなんだよ!」
 涙声で「もう行きましょう」と急かされ、言い足りなさそうな様子ながら二人はその場をあとにした。パリの一等地にとったホテルへと帰っていったあと、残された二人がやけ酒した事には間違えない。
 
 部屋についても涙目で顔を赤くした菊は、小さな掌で頬を覆っている。
「もう、お二人きょとんとしていましたよ……ああ、恥ずかしい」
 恥ずかしがる菊を余所にその隣に座ると、その掌を除けて赤くなっている頬と首筋に唇をあてて押しのけられたが、今度は指先を軽く噛む。諦め抵抗するのをやめて、好き勝手動くそのままに任せる。
 押し倒され、コルセットの紐が外しやすいように腰を少し浮かせると、眼の前の顔がにんまりと笑う。
「次は負けてやるから、ちゃんと罰ゲームを考えておけよ」