卿菊

 

 『 セピアの夢 』

 

 

 社交界の華やかな雰囲気、音楽、そして楽しそうにお喋りを交わす人々。その全てから切りはなれたように、母は大抵一人で彼らを遠目に見ながら椅子に座り込んでいた。表情に喜怒哀楽の全てが見受けられず、ただそこに座っている。
 きっとアルフレッドが生まれる以前も、そうやって社交界を過ごしてきたのかと思うと、幼いながらも切なさがアルフレッドの胸中に差し込む。アルフレッドは社交界中大抵菊にくっつき、少しでも彼女を護る盾になりたいと思っていた。しかし出来ることといえば、時折顔を持ち上げて母に笑いかけることぐらいしか出来ない。
 振りかかる皮肉にも表情を変えずジッと耐え、アーサーには何も言わない菊を知っているのか、時には堂々と隣に座って嫌味を連ねていく人も居た。幼いころには解らなかったが、学校へ通うような頃になれば、漠然なりとも彼女たちが絶対的な地位についた母を羨んでいたと解る。恐らくは、本当ならば自分こそがそのポストに就くはずだったと思っていたのだろう。
 何も言い返さない母と、それ以上に助けに来ない父を恨んでいた。母は外に出れば感情を無くし、父は自分たちよりも大切な物が出来る。理解と共に寂しさを覚えながら、後ろ髪を引かれる思いをしつつも学生寮へと入った。
 朝眼が覚めた時も、ご飯を食べているときも、授業を受けていてもお祈りをしていても、いつも頭の片隅にあるのはキクの事だった。きっと一人で寂しい思いをしている。差別的なメイドから地味な嫌がらせを受けていないか。また体調を崩していないだろうか……考えることは延々と続いていくが、日々の生活にいつの間にか追いやられていく。
 だからこそ初めて家に帰れるほどに長期の休みになった時、アルフレッドは荷づくりもそこそこに学校から駆けだした。キクはきっと何よりも自分を待ち構えており、朝から晩まで沢山お喋りが出来るに違いないと、そう信じ込んでいた。
 
 ベンチに二人で一杯のシャンパンを飲みながら、キスをしてしまうのでは無いかというほどに顔を近づけて喋る両親を見やりながら、アルフレッドは山積みにされたクラッカーを摘まんだ。社交界というほど大規模で無く、お茶会というには少々人が多い。とある中庭、揃った面子はどれも相当に立場のある人であろうが、彼らの顔を覚えるにはアルフレッドはまだ幼い。
 事の発端はアルフレッドが帰宅したところまで遡る。キクと二人で楽しい休日を過ごすのだと信じていたアルフレッドの前には、嬉しそうな父がいた。三人で別荘へ行こう!と浮かれる父と、ニコニコとそんな父を見やっている母にほぼ強制的に、アルフレッドも頷くしかない。しかしそこに転がり込んできたのは、アルフレッドへ宛てられた一通の手紙だった。
 送ってきた主は、アルフレッドの記憶でも掠れている程に特に仲良くもしていないクラスメイトだ。爵位を持っていることを鼻にかけたいけ好かない奴で、内容は「学校で仲良くしてくれたお礼に、是非ご家族で家に招待したい」といったものだった。
 怪しいと思ったのはアーサーとアルフレッドだけであったらしく、菊はアルに友達が出来たのだと、嬉しそうにはしゃいでいた。時折見せる子供っぽい表情に男陣は心底弱く、そのため結局アーサーもアルフレッドも反対出来ずに招待を受けることとなったのだ。
 堅苦しいパーティーではないし、メインはあくまで子供たちという名目の元、アーサーは挨拶なんかをほとんど放棄していた。元々それほど仕事に関係のある家柄が来ていない、という事も関係しているのだろうが、彼はひたすら自分の妻を構い倒している。
 普段だったら「恥ずかしいから止めるんだぞ」と怒る筈のアルフレッドが黙っていたのは、パーティーに参加していた人々が面白いほどに驚いているから。普段の社交界とは打って変わって、妻を構っているアーサーが物珍しいのだ。
 アルフレッドは隣で何やら喋っているどこかの子供の事は無視して、会場をぐるりと見渡した。先ほど紹介されたクラスメイトの母親の口元にはほくろが一つくっついており、それが何か引っかかった。
 最近続けて読んでいる探偵小説のヒーロー気取りで、アルフレッドは会場の人々に視線を送っていた。クラスメイトの母親、クラスメイト、そしてその弟が一人と姉が二人。二人ともまだ未婚の美しい少女達で、下の子は透き通るような金髪に良く合う青色のドレスを身にまとっていた。
 昨晩アーサーが執事に毒づいていたことによれば、子供をスクールに通わせる金にも困っている家庭だという。そんな家庭がこんなパーティーを開く事には、何か大きな計画があるはずであり、その為アーサーは行きたくないと、こっそり執事に漏らしていた。はしゃいでいるキクの前では言えずにいたのだが。
 しかし菊もおかしい。人前でアーサーと睦まじくしているのをあまり好まない筈なのだが、会場に入るなり磁石のようにぴったりとくっついて離れていない。
 会場内を視線で追いかけると、クラスメイトの母親は何やら次女に耳打ちをしていた。二人の視線は真っ直ぐに両親へと向けられているが、その意味はアルフレッドには解らない。
 やがて探偵ごっこにも飽き始めたアルフレッドは、どうでもよくなって視線を反らした。そして直ぐに、家に帰ったらどうやってキクを独占しようかと、その思考で頭の中は一杯になった。
 
 
 庭に出ると火照った顔が風に当てられ気持ちが良い。音楽が窓から漏れ、わずかな月明かりに照らされた庭をにぎやかに、そして微かに寂しくさせていた。適当なベンチを選んで座れば、人気は一切感じられない。
「しかし、なんで急にあんなこと言ったんだ?」
 少し意地悪を混ぜて問いかければ、隣に座った菊は困った表情を浮かべてアーサーを見返す。前にプレゼントしたワインレッドのドレスはやはり良く似合い、彼女独特の色を良く栄えさせていた。
 最近はストレスになるだろうからなるべく社交界へは行かないようにしているため、菊がパーティー様のドレスを身にまとっているのは久しぶりに見た。今回出るのにアーサーが渋ったのは、勿論怪しいという事と共に菊の体調が心配だったからだ。ひょんなことでも彼女を苦しめかねない。そんな中、家の人間と挨拶を終えた時、菊が気まずそうに口を開いた。
『今日は傍に居てくださいませんか?』と。
 思い出して頬を緩めるアーサーに、菊は眉間に皴を寄せて彼を見やった。
「何を笑ってらっしゃるんですか?……意地がお悪い」
 ワザとらしく拗ねて見せる菊に、アーサーは苦笑を浮かべて腕を伸ばし、菊の顔を隠している真っ黒な髪を指先ですくう。窺う様な瞳と眼が合うと、身を乗り出して抱きよせる。
「……ご迷惑でしたか?」
「いいや、気にするほどの事は無い」
 両頬を包んで顔を向かい合わせると、口角を持ち上げてニヤリと笑みを浮かべそのまま唇を合わせた。建物から音楽が漏れてくるが、家の中からでは死角となっていて二人の姿は誰にも見られないだろう。2,3度啄ばむ様な軽いキスを送った後、ペロリと菊の唇を舐めた。
「部屋、借りるか」
 アーサー宅から随分と離れていたため、是非とも泊って行って欲しいという内容が手紙に書かれていた時は、更なる嫌な予感がしたものだが、無理して菊の体に障るのはよろしくない。そんなわけで仕方なく部屋を借りる事にしたのだ。
 
 菊はアルフレッドを寝かしつけてから部屋へ戻ると、アーサーは柔らかい笑みを浮かべて嬉しそうに菊を待ち構えていた。手招きを受けてベッドに近寄ると、そのまま腕を引っ張られてアーサーの胸の中に倒れ込んだ。素早くベッドに仰向けにすると、アーサーは体重がかからないようにのしかかる。
「いけません、こんな所で……」
 菊は隣の部屋を気にするように視線を横にずらし、眉根を下げた。他人が近くに泊っている事と、いつもとは違う部屋の匂いと雰囲気がなんとなく心地悪い。
「どうせ掃除はメイドだし、壁は厚い。……それに、見せつけるんだろ?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
 指摘されて顔を赤らめる菊に、アーサーは意地悪な笑みを浮かべた。赤く染まった頬へと唇を寄せ「かわいいやつ」と呟けば、更にその顔が熱を持つのが解る。
 そこで一旦会話を打ち切ると、今度はうつ伏せにしてごちゃごちゃ入り組んで面倒くさいコルセットを外していく。肺に空気が入って気持ちが良いのか、うっとりとした様子で菊大きい息を吐き出した。
「誰だオレの菊にこんな体に悪いもん着けたのは」
 やっと現れた白い背中を撫でてから満足そうに声を漏らすアーサーに、思わず菊は笑い声を立てた。
「あなたが買ってくださったんですよ」
「そうだったか?」
 とぼけた口調のアーサーに、思わず菊は再び笑い仰向けになると、腕を伸ばす。アーサーはすかさず身をかがめて、彼女がしがみ付けるようにした。スルリと首に細い腕が回れば、アーサーのシャツ越しに柔らかな乳房がつぶれる。
 抱きしめ唇を合わせると、薄く開いていた唇の隙間から舌を侵入させる。相変わらずおずおずと差し出される舌を絡め、上あごを撫ぜると菊は体を震わせた。暫く口内を堪能してから顔を離し、唇をペロリと舐める。とろんとして涙が浮かぶ黒い瞳と対峙し、うっすらと汗を掻き始めた額に手のひらを差し込んだ。
 肌を合わせようと思いシャツに手をかけた時、一番上のボタンを取るよりも早くにノック音が聞こえてくる。アーサーはあからさまに嫌な表情を浮かべ、盛大な舌うちを一つした。
「この時間に誰だ、非常識な奴だな」
 不機嫌を露わにしながらも衣服を整えると、ベッドからずれ落ちていた菊のドレスを拾い上げて椅子に掛ける。
「いいか、肌隠してろよ」
 心配そうな様子で上半身を持ち上げている菊に、アーサーは布団をスッポリと掛けた。菊は真剣な様子で頷くと、天蓋に隠れる場所へ身を隠す。
 菊の姿が見えないのを確認すると扉を開いた。扉の向こうには、にっこりとほほ笑んだ少女が一人、水差しを抱えて立っていた。金髪を綺麗に結いあげ、会場内で見かけたドレス姿では無く部屋着を身にまとっている。それが一体誰であるのか一瞬解らなかったが、ぼんやりとした記憶の糸を辿り、この家の次女だと気がついた。
「何の用だ」
「水差しを置き忘れていました」
 愛想笑いを浮かべると、彼女は不にっこりと笑い返す。普通そんな用事ならばメイドが受ける筈なのだが……と、不審を表情の奥に隠して受け取ろうと腕を伸ばすが、それよりも速くに彼女はアーサーの横をすりぬけて部屋へと足を踏み入れた。
 ナイトテーブルはベッドの直ぐ脇、例え女性同士といえども他人に肌を見られるのを……ましてや情事中だったと解るような乱れ方をしているのを……菊は嫌がるだろう。アーサーが慌てて腕を取り引っ張ると、水差しから水が零れ、彼女の服を少しばかり濡らした。
「ああ、失礼。オレが持とう」
 半ば強制的に水差しを奪うと、テーブルに乗せる。彼女は蒼い眼を丸くさせ、不思議そうにアーサーを見やっている。
「まだ何か?」
 中々部屋を出ていかない彼女に笑いかけると、戸惑いながらも彼女は顔を持ち上げた。幼く細い眉を歪め、少々口ごもった後に意を決してアーサーを見返した。
「……カークランド様にお願いがあって、夜分に失礼だと思いながら参りました」
 その様子に顔を顰めたアーサーは、右手を持ち上げて彼女の言葉を制止する。勢いをそがれて彼女は口をつぐむと、アーサーの次の言葉を待った。
「申し訳ないが、妻の前で出来る話か?」
 あからさまに嫌な顔をするアーサーが指を指すと、天蓋からスルリと伸びた左足だけが見える。二人の話を聞こうとして、態勢がずれて足が見えてしまったのだろう。
 少女は暫く唖然としてから、頬を染め上げて「失礼します」と呟き、部屋を飛び出していった。扉が閉まった音に気が付き、菊がそっと顔を出しアーサーを見やる。心配そうな表情を浮かべ覗く黒い瞳に苦笑し近寄ると、ベッドに腰掛けた。
「……何だったのでしょう」
「さぁな、寝ぼけてたのかもな」
 適当な事を言いながら、残り香の甘ったるい香水の匂いを手を振り散らせる。恐らく、昼間あれだけ菊と共に居たというのに、社交界の如何わしいアーサーと菊が不仲だという噂を信じたあの母親がけしかけたのだろう。潰れそうな家を護るためだと諭され、なんとまぁ、かわいそうに。
「それより続きをしよう」
 抱きよせて頬へ唇を寄せると、はにかみながら菊は肌を露わにさせた。ミルクに蜂蜜でも溶かしたような、甘い肌の色。細い首筋を軽く食むと、小さく悲鳴を上げた後に菊は笑った。
 
 
 情事を済ませて気だるい体をベッドに沈めながら、アーサーは隣で半分放心している菊の髪をいじる。ゆったりとした動作で菊は首を動かし、アーサーを見やって眼を細め、笑う。
「アルフレッドが居る間に、別荘の方へも行きましょうねぇ」
 幾分も舌っ足らずな様子でほわほわ笑う彼女に笑いかけ、アーサーは頷いた。暫く向かい合って笑顔を交わしていたのだが、不意に菊は笑みを消して真剣な表情を浮かべてアーサーと真っ直ぐに向き合う。
「どうした?」
「いえ……さっきの子、もしかしたら……」
 口ごもり眉間にしわを寄せた菊に、思わずアーサーはその口を掌で塞ぐ。
「あまり気にしなくていい」
 でも、とハッキリ菊は眼を困ったように細める。手を口元から離すと、アーサーは再びベッドに横たわり、菊を抱き寄せて胸同士をしっかりと合わせた。
「もう寝るぞ。話は明日、起きてからにしよう」
 ふわ、と大きく欠伸をしたアーサーにつられ、菊も体が重くなり意識が遠くなるのを感じた。いつもの家とは違うためか、少々熱が上がりすぎてしまい、体力も足りなくなったし腰も痛い。
 背中に腕をまわしてくっつくと、アーサーの心臓の音がよく聞こえる。恐らく先ほどの次女とこの家の事情を考えると、カークランドに取り入ろうとしたのだろう。妻子と一緒だというのにそういうことを考えるとは、アルフレッドと付き合わせるべきではないのだろうか。いやいや、親が子供に口出しできることでは無いか……なんてグルグル考えている間に、気がつけば意識は完全に落ちていた。
 珍しく先にアーサーが眼を覚まし、荷物はすっかりまとめ上げておいた。菊は腰を痛めて立ち上がる事が出来ず、結局アーサーに抱えられての退却となった。お互い笑顔を浮かべ礼を述べ、外で待たせている馬車に菊とアルフレッドを乗せると、アーサーは振り返り夫人へ眼を遣る。
「ああ、そうそう、夜遅くに娘さんを部屋へよこすのはあまりよろしくないな」
 夫人を見て薄く笑うと、馬車の反対側に回り、アルフレッドとアーサーが菊を挟み込む形で座る。身を乗り出していた外を見ていたアルフレッドは、茫然と立ちすくむ夫人を見ていた。
 口元にある小さな黒子は、やはり見たことのあるものだった。それは掠れるほどに遠い記憶、楽しげな雰囲気とはかけ離れた感情の一切無い表情を浮かべた母が、独りで会場の端に座っている。アルフレッドはいつも通り菊に駆け寄り、胸に顔を寄せていた時だ。
 口汚く母を罵る存在を恐る恐る見上げた時、ハッキリとその口元の黒子を見た。小さくなる夫人を見やりながら「あ」と眼を大きくさせると、馬車の中に戻って澄まし顔で座るキクを見上げた。アーサーは何やら疲れているらしく、既にウトウトとしている。
「ねぇキク、もしかしてあの人、昔」
 言いかけたアルフレッドの口元に、菊はそっと人差し指を当てた。それからその指を自身の唇にあて、ふんわりと笑顔を浮かべた。その顔は、どこか申し訳なさが籠っている。
 
 何も言わず感情が無い母と、そんな母を気にも留めない父。
 随分長い仕返しだったなと、なぜだか酷く疲れてウトウトとしている両親を見やり、それからキクに抱きついてアルフレッドも眼を閉じた。