卿菊
『 麦色の日和 』
膨らんできた腹部を撫でながら、菊はほっこりと笑みをたたえて嬉しそうに小声で歌を歌いながら木陰からそっと外を覗いた。長閑な庭のはずれで子供の服を縫いながら通行人を眺めるのが、最近の菊の日課である。
いつもならばアーサーと一緒にぼんやりとするのだが、今日は珍しくお客が来るとのことで、菊一人と数人のメイドとで木陰で休んでいた。極力ストレスにならないようにと、アーサーは社交界からちょっとした、菊と交流の無い客まで全て菊から遮断している。
そんなのんびりとした中、不意に車輪の音がして菊は顔を持ち上げた。アーサーの客がようやくやってきたのだと思い策の外へ目線をやると、金と赤で造られた馬車が止まっている。
「まじありえんしぃ……」
ぶつくさと文句を言いながら馬車の周りをキョロキョロとしている少年が一人。綺麗なブロンドと顔立ちをした男で格好も整っており、どう見ても身分が高い少年である。
「どうしました?」
隙間から顔を覗かせて声をかけると、少年も顔を持ち上げて菊を見やった。
「なんかぁ、手紙落としちゃったみたいなんだよね。怒られちゃうしぃ」
「まぁ大変、みなさん捜してきてくださいな」
待機していたメイドに話しかけると、彼女たちは文句は勿論一人として言わず、裏門の鍵を持ちだして殆ど馬車も通らない裏道に出た。あまり使用される事のない道は荒れ、砂利と草が生えている。
「……足悪いん?」
出てきた菊が車いすに乗っているのに気が付き、少年は悪気も無く眼を丸くして言った。あまりにもあっけらかんとした様子の少年に、菊も笑顔を浮かべて頷く。
「ええ、でも本当は少し歩けるんです。今は妊娠中だから」
「赤ちゃんいるん?」
菊が腹を撫でると、少年は途端に眼を輝かせて駆けよってきて、そして子供のように眼を細めて菊の腹部に掌を置く。一瞬構えたけれど、犬でも宥める様に膨らんだ腹を撫でる様子は微笑ましく、そのままにしておくことにした。
「手紙って、大切なものなのですか?」
「ああ、そうなんよーこの辺にあるカークランド邸に行く途中だったんけど、大切な文書を落としてしまったん。カークランド恐いらしいから、もう帰りたいしぃ」
しょぼんと項垂れる少年に、菊は思わず苦笑を浮かべる。カークランドの名前は周りには随分と恐れられているらしく、家に訪れる人々の中には、彼のようにオドオドとしている人もいる。
「あー、俺フェリクス・ウカシェヴィチ。カークランドん家ってどこか知ってる?」
「私は菊です。カークランド家だったらここを真っ直ぐに行き、突き当り左で正門がありますよ」
別段嘘をついているつもりもなかったし、菊の名前を知っているとばかり思っていたけれど、彼はどうやら菊の事を完全に知らないらしい。「そうなん、助かったわ」と呟くと、馬車の周りを捜している人々へ目線を投げる。
そろそろ時間的にも昼ごはん、本来ならば客は午前中にやってくるとの事だったから、アーサーは相当苛々している頃だろう。それにもうすぐお昼時で菊を呼びに、アーサー本人がやってくるだろう。
「菊はどこから来たん?」
「私は東の小国、日本という島国からです」
フェリクスは菊の返答に顔を持ち上げて、ジッと下から菊を覗きこんだ。新緑の色の瞳を向けられて、その綺麗な顔立ちに少し恥ずかしくなり思わず視線をそらす。
「遠いん?」
「ええ、とても」
ザワザワと木々が揺れ太陽の波紋がゆらゆら揺れ、一斉に光りだす。暫く無言で他方を見つめていたフェリクスは、やはり無言で立ち上がる。
「もう行かんと。手紙は諦めるし」
ポツリと漏らした声は抑揚も無く、不安になって菊は彼の名前を呼び掛けた。菊を振り返ったフェリクスは、ニッコリと笑みを浮かべて手を振る。
「あの、心配されないでも大丈夫ですよ。きっと大丈夫です」
呼びかけるとフェリクスは笑顔を浮かべ、そのまま馬車の付近で捜していた彼の使用人と菊のメイド達に声をかけた。彼らはまだ納得いかない様子で首を傾げたけれど、そのまま馬車に乗り込んでいく。
アーサーにフェリクスの話をしなければ、と思った丁度その時、後ろから聞きなれた声が菊の名前を呼んだ。振りかえると満面の笑み、とは思えない不機嫌顔で無理矢理笑顔を浮かべたアーサーが、菊に向かって手を振っている。
「どうした、道路に出たら危ないぞ」
車いすに手を置き上から覗きこんだアーサーに、菊は曖昧な笑顔を浮かべた。
「道を聞かれて……あの、今日来るはずだった方が迷ってらしたので」
「本当か?フェリクス?」
「ええ、正門の場所をお教えしました」
アーサーは想い深そうに眼を細めると、車いすを押して庭園内へと戻っていく途中に、アーサーはフェリクスとの関係を淡々と菊へ聞かせてくれた。
フェリクスとはほとんど顔を合わせた事無く、彼はかつて巨大な領地を持っていたけれど、彼の前の代から徐々に力を無くしていったらしい。当のフェリクスはあまり野心も無く、積極的にどこかと結びつこうとはしないという。
確かにフェリクスは菊の事も知らなかったし、今まで見てきた誰とも違う、素直な瞳をたたえていた。だからこそ菊は、中々に彼が気に入ってしまったのだ。
「そうか、じゃあもう着いてるかもな」
もう飯の用意は出来てるのに。とブツブツ口の中で文句を言うアーサーを見上げ、菊は頬を緩めた。そして先ほどフェリクスと菊が交わした会話と、手紙の事を話すと、アーサーはかすかな苦笑を浮かべる。
しかしフェリクスがやってきたのは、それから一時間も経ってからだった。二人は食事を終え、既に食後の紅茶を飲んでいたころである。
悪びれた様子を見せずに、また道に迷った旨を伝えながらフェリクスの笑顔は完全に引き攣っていた。どうやら完璧に緊張してちぢみあがっているのは目に見えての事。用事はといえば、遅めの懐妊祝いと本来ならばフェリクスの父からの手紙を届けることだったらしい。それは、今後の支援と仕事上での付き合い申し込みの内容だと、とぎれとぎれにアーサーへ伝える。
フェリクスは完全に上がりきってしまっており、要領を得ない口ぶりにアーサーは思わず苦笑を浮かべた。
「そうだ、妻を紹介しよう。呼んできてくれ」
執事に呼びかけると、それから数分もしない内に菊が顔をだす。眼をまん丸にするフェリクスに「だますつもりでは……」と眉根を下げて申し訳なさそうに菊は首を傾げた。
「手紙の件はもう一度こちらから出してもらえる様に要請を出しておこう。その間この屋敷にいてもらって構わない。見ての通り妻は妊娠中だ、話し相手になってくれ」
「別にいいけど……」
フェリクスに対してさほどの警戒心を抱いていないからだろう、普段なら菊と地位の高い、しかも男と同じ部屋にするのも嫌がる筈だ。菊が大変彼を気に入っている事に加えて、フェリクスの住んでいる場所は非常に遠い。普段あまり外出出来ない菊に、他国の話を聞かせてやりたいと常々思っていた、良い機会だと思ったのだ。
最近アーサーは書類に目を通さなければならないため、話し相手さえ思い通りに出来ない。そこに野心も無ければ色目も使わない純粋な少年の様な訪問者がやってくれば、「丁度良かった」と思うのも仕方ないだろう。
「元々ウカシェヴィチ家に興味があったんだ、済まないが話を聞いてみてくれないか?」
カウシェヴィチ家に興味があったのは真実であるが、仕事の一環だと言えば菊は眼を輝かせて顔を使命感に引き締める。軽く耳打ちすれば、やはり真剣な表情を浮かべた菊は、神妙そうに頷いた。その様子が愛らしく、思わず頬を緩めて頬を撫でると菊は黒い眼を細める。
思えば二人とも人見知りであり、話の進行係であるアーサーが居なくなった後、部屋は暫く無言が続く。菊も菊で、アーサー以外の男と二人きりというのは中々無く(といっても数多くのメイドに囲まれているが)、一生懸命言葉を捜している。
そんな中先に口を開いたのはフェリクスであった。
「なーんか、噂と違ったし」
紅茶を飲みながら洩らされた一言に、パッと菊は顔を輝かせてフェリクスを見やった。
「アーサー様はとてもお優しいですよっ」
嬉しそうに声を弾ませる菊に、フェリクスはアーサーの翡翠よりも新緑に近い瞳を向ける。思わぬ熱心な視線に、菊は困った表情を浮かべて不思議そうにフェリクスの名前を呼ぶ。
「……オレ、もっと奥さん可哀そうって聞いてたんよ」
菊を見つめる眼に微かな影が滲む。それは社交界などで向けられる『同情』と『嘲り』の混じったものではなく、もっと純粋でこの国に来てから一度も見たことのないものだった。その瞳の中から感情を読み取ろうとするけれど、中々解らない。そして解るよりも早く、彼は菊から視線をそらした。
「あ、そうそう。これオレが決めたんよー」
持ってきた懐妊祝いの袋を取り出すと、綺麗な包装をバリバリと自身で開けていく。呆気にとられるメイド陣と、逆にワクワクと眼を輝かせる菊は全員かすかに首を伸ばしてフェリクスの手の中を覗きこんだ。
袋の中からまず現れたのは馬のぬいぐるみで、彼曰く「ポニーやし」。大きな袋に詰め込まれていたのはどうやら全てぬいぐるみで、犬、猫、キリン、ありとあらゆるものが溢れてきて数匹床に転がる。思わずフワフワと笑顔を浮かべて菊はそれを拾い上げると、眼の高さに持ち上げる。それは、菊の知らない動物だ。
「タートは高いネックレス用意したんよ。そっちはさっきカークランドに渡した奴。これはオレが縫ったん」
得意げに言われて縫い目を見やれば、確かに縫い目は歪だ。懐妊祝いなどは、大抵金のかかるものを送るのが通例であり、跡取りが生まれた後も家同士が繋がっていられるために送るものである。
ぬいぐるみを、しかも手縫いを貰うとは思わなかった。メイド達は思わず笑いをこぼしかけ、どうにか誤魔化し咳払いをしていたが、菊はくるくると喉を鳴らして笑う。
「ごめんなさい、あんまり可愛らしいからつい……大切にしますね」
ぬいぐるみを一匹除き、せっかちなアーサーによって既に作られている子供部屋のベッドの上へ移された。先ほど菊が拾った毛がふさふさとした牛のような動物一匹だけ、菊の膝の上に乗せられたまま庭を彼女たちと一周した。
「フェリクス君は何歳ですか?」
アーサーが自ら手を入れることもある薔薇園を、楽しげに見ていたフェリクスは顔を持ち上げた。まだ男性に成りきらない、綺麗な幼さがその顔にはハッキリと残っている。
「……15」
「あら、お若い」
同じぐらいのくせに。と呟くフェリクスに、菊は何も突っ込むことも無くただ含み笑いを浮かべる。実は六歳も年上だと教えられたのは、それから数年も経ってからだった。
「大変ですね、こんな遠いところまで」
「カウシェヴィチ家は元々両替家やってて、だから長男は若いころから旅に出ないと行けんやって」
盛大なため息を吐き出し、つまらなさそうにフェリクスは唇を尖らせる。今の豪族が元々両替家をやっていたのは良く聞く話だが、だからといって今も尚若い子が旅に出る、なんて聞いたことも無い。恐らく、外に出たがらない息子を父親が無理矢理旅に出したのだろう。
「フェリクス君は、こういうの嫌いなんですね」
再びまた沈黙が流れ、その沈黙はしっかりとした肯定を示していた。目線を落としたままのフェリクスは、甘い香りが漂う真っ赤な薔薇を眺めながらもう一度ため息を吐き出す。
「オレのママ、オレ生んだ時に死んだんよ」
洩らされた告白に、菊は自身の胸が跳ね上がったのを覚えた。それは遠くない過去、医者とアーサーに言われた非常に現実的な未来。命を生み出すとうのは、時に己の命を掛けなければならない。アーサーには威勢のいいことを言ったけれど、それが怖くないわけ無い。夜も眠れないほど、菊を責める日だってある。
恐ろしさを覚えた時は、ゆったりと己の腹部を撫でることにしている。それほど大きくは無いけれど、もう新しい命が宿っているのかと思うと、いくらか菊を安堵させた。
「でも、生まないわけにはいかんし、オレはカウシェヴィチ家やし……菊はカークランドやし」
再び純粋で楽しげに輝いていた眼に微かな影が差す。人がするように、自身の感情を誤魔化すような笑顔も浮かべない。
「でも……みんなそうですよ、私だけじゃありません。それに私は生みたいから生むんですね、だから怯えないでください、フェリクス君。きっとあなたが思っているより、ずっと楽ですよ」
「でも俺は、別にお金とか地位とか名誉とか、興味無いんよ。楽しくてかわいくて、そういう生活がいいんよ」
あまりにも彼らしい言葉に、再び菊は控えめな笑い声を立てた。
「ならば、嫌なら辞めればいいんです。少しやって」
菊の言葉にフェリクスはその綺麗な眼を大きくさせる。『辞める』なんて、考えたこともなかったらしい。勿論菊も容易に出来るとは思っていないが、昨今では爵位を売るなんて良くきく話だ。
暫く眼を大きくしたまま考えていたフェリクスは、「おお〜」と感嘆の声をあげた。そして直ぐに笑顔を浮かべて、何度も頷く。
「いつ生まれるん?」
「そうですねぇ、秋ぐらいですかねぇ」
自分で聞いたくせに、フェリクスは「ふーん」とそっけなく答えてから、菊の腹部に掌を当てた。暖かく、打っている脈はまだない子供の心音の様だ。
「きっと、フェリクス君のお母さんも同じ気持ちだったでしょうね」
にこにこと笑う菊と向かい合うと、フェリクスもニーっと笑顔を浮かべた。
一仕事終え、更にカウシェヴィチ家宛ての手紙を慌てて書き上げると、気になっていた二人の様子を覗きに行く。フェリシアーノと大勢のメイドをつけていたから何か起こるはず無いと思いながらも、やはりどうにも気になってならなかった。
呼びかけると二人は菊の部屋にいるという。普段使われていないその部屋ではあるが、自室に入れたとは彼女らしくないと、思わず首を傾げた。行けばお付きの一人を除いて、メイドがズラリと扉の前で待機している。その異様な光景に眉間にしわを寄せながら近寄ると、扉の向こうから二人の笑い声が聞こえ、殆どノックもせずに開けた。
楽しそうな笑い声を立てて、ベットの上、二人の女性……。……女性?
「あ、アーサー様。お疲れ様です」
フェリクスの髪をいじっていた菊は、扉口のアーサーへ笑いかけた。髪をいじられているフェリクスは、菊のお気に入りである振りそでを着こみ、手鏡を覗きこんでキャッキャとはしゃいでいる。
「な、なにやってんだ?」
「フェリクス君が着物を着たいと仰ったので」
女物だろ?というアーサーの突っ込みが入る前に、フェリクスは楽しそうに「オレ超かわいい〜」なんて喜びの声を上げていた。どうやら女物であることは、既に菊からちゃんと説明を受けているらしい。
部屋の真ん中でクルクル回転して姿見でポーズをとる姿に、菊はクスクスと楽しそうに笑い声を立てた。アーサーはさり気なくベッドへ近寄ると、菊の後ろに座り細い腰に腕を回す。そこでようやく菊が持っているぬいぐるみに気が付き、肩口から覗きこんだ。
「バイソンだな」
「ばいそんさん、ですか」
廊下に立っているメイドにまで振りそでを自慢し始めたフェリクスをよそに、完全に周りをシャットダウンした菊とアーサーは手なんかを繋いで話を始めた。そして会話を終えた時フェリクスが取りだした手紙を懐から出すと、アーサーにそっと手渡す。
本来ならば手紙を無くしたことにしてしまおうと思っていたのだが、気が変わったのだという。「見つかったのか」と驚くアーサーに、菊は微笑みながら頷く。
「仕事は終わったから、オレもいれろよ。もう二人っきりになるな」
アーサーなりに羞恥心を捨てて言った言葉に、やはり菊は眼をまん丸にしたまま、ただアーサーを見やった。言わせようとしているのではなく、これが素なのだから大変だ。彼女のこの性質とアーサーのツンデレが、どれほど今まで二人の関係をぎこちなくさせていたことだろう。いい加減どちらかが折れなければ、二人の望むあるべき夫婦になれないと悟り始めた。
廊下で若いメイドまでフェリクスとはしゃいでいるのを確認してから、菊から顔を見えないように首筋に顔をうずめると、羞恥で出ない声を絞る。
「……妬いてんだ」
言って一間置いてから、クスクスと菊は小さく笑い、アーサーの髪を指先で梳いた。こんなスキンシップが出来るようになったのは、会話が増えた最近になってからだ。
それが少し遅すぎたのか、願わくば“ここから”のスタートになること。
「あー!何イチャイチャしてんだし!菊、さっきの桃色の見せて」
ガバリと顔を持ち上げるアーサーに対して、菊はいつもの笑顔を浮かべて「いいですよ」なんて、軽やかに頷いた。
フェリクスは次の日の昼には帰って行ったが、それから年に数度は別荘へのお誘いがくるようになる。アルフレッドが生まれた時は、赤子が入っているベッドのぬいぐるみの大群が三倍になった。歪だった縫い目は整い始め、その上達に思わず菊は頬を緩める。
カークランドと手を組んだ事と、元々それなり大きな家だったからか、カウシェヴィチ家は幾度とない妨害にも負けず、年々大きくなっていた。どうやらこの仕事は、彼が思っていたより楽しい物だったらしい。
最近走り回るようになってきたアルフレッドに抱きつかれ、見上げる瞳を菊もジッと見つめる。よしよしと撫でながら、その蒼い瞳に既視感を覚えて小さく首を傾げた。どこかで見たなー、と思いながらふと一人の人物を思い出す。
「そういえば最近フェリクス君と会ってませんねぇ」
思わずポツリと漏らす菊に「何でフェリクス?」と、不思議そうにアーサーは眉間にしわを寄せた。
「なんでようかね、アルの眼をみてたらなんか思い出してしまって」
色も違うのに……と首を捻る菊に、アーサーは何となく解ると笑い、昨日届いたフェリクスからの手紙を指先ではじく。