卿菊
※ 鳩山ぶんちゃんへ!題名は『11人いる!』の続編からwwwいつも遊んでくれてありがとぅるす!!!
ペストが流行った以前も以後も、女性の死亡の原因は大抵が出産だった。アーサーの母親も多分にもれず、アーサーを出産後に体調を崩して寝たきりになり、数年後には帰らぬ人となった。
幼いころに忍び込んだ母の部屋は暗く、寒く、遠くない未来訪れるだろう別れを予想させた。アーサーの存在に気が付き、こちらを見やった瞳はどうだったか覚えていないが、撫でられた記憶も無いから、彼女が望んだ子供では無かったのだろう。
幼い子供に死など解らない。と、人々は口ぐちに言ったけれど、もう二度と会えない事ぐらい幼いアーサーにも理解できた。担がれた棺は土の中に消えていき、大理石の墓は直ぐに人々の記憶から消えていってしまった。
上の兄弟とは母が違い、父は既に手がとどないほどに歳をとっていた。幼い頃のアーサーの遊び相手といえば、本の中の物語と空想上で造り上げた生き物ばかりだった。父が罵る街中を駆けまわる子供と、それを迎える母親を時折馬車の中から見つめるばかりだ。
『東の地平 西の永久』
皿に盛られた朝食は手つかずで、思わずアーサーは眉間に皺を寄せた。グルメで食べている時ばかり心底幸せそうだったのに、今や体調が食べることさえ許さないらしい。
カーテンは締め切られ、いつもは眩しいほどに明るい室内はまるで違う場所のようである。屋敷でも一番景色のいいはずの彼女の寝室は、もう何も見えず幼いころアーサーが忍び込んだ母の部屋に似ていた。
「菊」
起こさないようにそっと名前を呼んで、寝入っている彼女の額に掌を当てる。寝息さえ聞こえてこない彼女にも体温があることを覚え、知らず深い安堵のため息を吐き出した。
菊は未だにアーサーを恐れ、見上げる黒い瞳はいつも怯えを宿していた。アーサーの癪に障らないよう言動に気を付け、いつも探る様な視線を送っている。そのことにアーサーが傷ついている事に、勿論彼女は気が付いていない。
菊の懐妊の報せを受けたのは、ほんの数日前である。つわりの所為で中々十分な食事も摂れず顔は青褪め、わずかな運動も全て拒否していた。細い足はより筋肉を失い細くなり、更には塞ぎこみがちになって、決まった使用人としか口を利かなくなっていった。
恐がられていると自覚をしているから、アーサーもあまり積極的に話しかけたりはしないようにしていた。ただ体調が心配だから仕事は全てキャンセルし、一日に何度かは顔色を伺いに部屋を訪れ、車いすをおして庭を回ることはあった。
時計の針は既に朝の十時を迎え、菊の大好物ばかり盛られていた手つかずの朝食は、そのまま片付けられてしまうのだろう。寝入っている彼女の顔が見える様にしゃがみ込み、シーツの向こう側で微かな寝息を立てている姿に頬を緩めた。
頬をそっと撫で、もう一度名前を呟いた。母が死んだ時、父親から彼女の指輪を一つ譲り受けた。キラキラ輝くエメラルドは、アーサーの瞳と同じ色をしていて、木の実や綺麗な石を沢山入れた箱に隠して庭の隅に埋めた。
「……なぁ、菊。お前はオレの傍から離れないよな……」
棺の中に花が投げいれられ、冷たい土が上からかけられていく。母には親しい友人など殆どいなく、泣いているのは彼女の母親ばかりであった。父は時計ばかりを気にして、兄は式に出席していたかさえ覚えていない。遠くで鐘の音が聞こえ、黒服を着た人々は一斉に自宅へと帰って行った。空は青く、空さえも彼女のために泣いたりしないのかと思えた。
「……アーサー様」
不意に名前を呼ばれてそちらを見やれば、寝起きで虚ろな黒い瞳がアーサーを覗きこんでいた。
「どうしました?泣いていらっしゃってるの……?」
小さな声色は寝ていたせいで掠れていたが、アーサーを覗く表情は久しく見ていない笑顔だった。思わず頬を緩めて体を乗り出して鼻先を合わせる。
「いいや、大丈夫だ」
艶やかな黒髪を撫でると、菊は喉を鳴らして笑った。もしかしたら寝ぼけて、アーサーを誰かと勘違いしているのかも知れない。
「体調はどうだ?朝食は食べていないようだが」
「少々つわりあるだけです。大丈夫です」
菊はナイトテーブルにのったままの朝食を眼の端で見やると、先ほどの笑顔を消してばつの悪そうな様子で俯く。いつもの、アーサーを恐れている時にそうするのと同じように、視線はアーサーから反らされた。
その様子を見やり胸の奥が軋むのを感じ、退室してしまおうかと扉口を見やるが、足は動かない。何かを口にしている姿を見なければ、どうにも立ち去れそうも無かった。
「アーサー様、ずっと聞きたかったんですが……」
菊は不意に、真剣な面持ちを浮かべて視線を再びアーサーに向けた。アーサーも菊に体を向き直し首を傾げて先を促せば、戸惑いながら菊はそっと口を開く。
「この子のこと、愛してくださいますか?」
思いがけない言葉に眼を見開くアーサーと、真摯な様子でアーサーを見つめる菊。一瞬の沈黙が響く室内は、アーサーが幼いころ忍び込んだ亡き母の部屋とダブって感じられた。一斉に冷や汗が滲み、時計の針を覗いていた父親の冷たい顔をハッキリと思いだす。
「な、にを……当たり前だろ」
眉根を下して菊から視線を外すと、俯く。菊はアーサーの返答はあまりにもか細いのに驚き、上半身を持ち上げてアーサーを見やり、泣きだしそうな表情とかちあい、そのまま動けなくなった。いつもの表情ではなく、まるで幼い子供が泣くのを我慢しているかのような、そんな表情だ。
「……ごめんなさい」
菊の切なげな謝罪は切羽詰まっており「またやってしまったか」と、思わずアーサーは苦笑を浮かべた。恐れられる事を恐れ、部屋を逃げ出そうと腰を上げかけて頬を包まれる。そのまま胸の中に抱きかかえられ、つむじ辺りに菊は頬を寄せた。
「き、菊?」
カーッと顔に血が上って熱くなるのを感じながら名前を呼ぶと、彼女はもう一度謝罪を口にした。柔らかな乳房を感じながら眼をつむると、静かな室内に菊の鼓動が聞こえてくる。ゆったりと髪を指で梳かれ、ドギマギとした心地から、解されていくのがはっきりと解った。
きゅうっと抱きしめられ、アーサーは動けないまま彼女に全てを担う事にした。指で髪を梳かれ撫でられると、体験したことの無い母親からの抱擁を覚えて何だか居心地が良いのか悪いのか解らなくなってきた。
「……綺麗。子も、アーサー様と同じ金糸が良い」
頭ごと抱きかかえられたまま、腹部をゆったりと撫でられ、菊は思わず喉を鳴らして掌を受け止める。
「あ……あのさ、昼飯は食えるか?お前の好物を取り寄せたから」
顔を持ち上げて黒い瞳を覗きこむと、ふと瞳を細めた。笑うというのには微妙であったけれど、最近では柔和な表情は非常に珍しい。寝ぼけているわけではなさそうな様子に、アーサーもつられて頬を緩めた。
「頑張ります」
日本から取り寄せた食材を思い起こしながら話していくと、菊は何度も頷く。やがて食材も尽きてしまうと、言うことも無くなり黙り込んだまま菊を見上げた。
「……貴方を独りになんてしません」
幼いころのアーサーにとって女とは、一体何だったろうか。一人でベッドに埋まる母の姿は意志の無い人形だったが、彼女も人間として生まれ、考え、何かを深く愛していたに違いない。少なからず血肉を分けた子供を愛するなんて事も、もしかしたらあったのかもしれない。
寒々しい部屋の中にある唯一の暖かな存在は鼓動する。親族やカークランドに取り入りたい人々のプレッシャーが重く、うざく、そうして少し気になった程度での結婚であった。自分が何かに依存するなど、今まで一度だって考えた事も無かった。
「あら……アーサー様は案外、泣き虫さんですね」
アーサーの顔に顔を寄せると、菊の長い髪がアーサーを擽る。昼時になったらこの部屋の窓を全て開け、空気を入れ替え光で一杯にしてしまおう。思い出の中の薄寒い記憶が変化するとは思えないけれど、少なからず未来を変える事は出来る。