La Vie en rose ※ オリというより♂菊(弟)が出てきます。ほとんど絡みません。名前は“白妙”さんです。らんさんはフィンセントさんでおおくりします
 
 『 La Vie en rose 上 』
 
 
 それは戯れで飛び出した一言だった。
「褒美はお前の妹が良い」
 砂漠地帯で発達した細やかな装飾が施された絨毯は、大きさが大きく、装飾が鮮やかであればあるほどに価値が高い。耀の屋敷にはその絨毯がくまなく敷き詰められ、見上げるほどに高い天井からは東洋のシャンデリアがつりさげられている。屋敷全体は木製であり、窓も扉もあらゆる場所が木の彫刻で飾られていた。
 アーサーが立っている場所から数十段の階段の上、寄りかかる部分が以上に長い椅子に腰かけ、耀は顔を顰める。黒地に金色の刺繍を施された服を見にまとい、頭には金で造られた小さな王冠が乗せられていた。
「我には妹などいないアル」
 実際血の繋がっている妹はいない。しかし、妹の様に幼い頃から可愛がっているのなら、数人存在している。その中でもアーサーが指定したのは、極東の小さな島国を統括している一人の少女、菊だ。アーサー自身も姿は見たことも無く、影ばかりが障子の上を滑るように動いていた。
「おいおい、解ってんだろ。なんでもよこす、っつたのはお前だ」
 アーサーは右手に掴んでいた首を王の台座に投げやり、声を立てて笑う。戦場から持ち帰ったばかりであるが、血を抜いたためにすっかり干乾びている。ゴロゴロと音を立てていびつに転がり、やがて左頬を地に付け止まった。西日が窓から差し込み、そこに鎮座する耀に深い影を刻む。
 耀はゆったりと立ちあがると、首を軽く蹴り煩わしそうに首を睨む。それは、耀が積年苦しめられ続けた敵王の首である。耀はこの首を打ちとったものには『なんでもやる』と、おおっぴらに宣伝していたが、同じ東の人間に対しての言葉だった。しかし実際打ち取ったのは敵王と同じ西の王族である、アーサーである。
 というのも、アーサーも西の王族であったからだ。そのため、アーサーに対して大した警戒もしておらず、容易に彼を城の中にあげてしまった。しかしアーサーの家である、西でも最高位にあるカークランドと、東の辺境に位置し、耀の国にちょっかいを出すのがやっとの家では格が違いすぎる。むしろいない方が、カークランドも統治しやすい。
 いちゃもんを付けるのは簡単で、部屋が汚い、料理がまずい、馬鹿にしている……そうしてアーサーは決闘を申し込み、彼の首を彼の家臣や家族の前で切り落とした。高価な洋服は血に濡れ、麦色の綺麗な髪も白い肌も赤黒に濡れる。冷徹といわれるカークランドの中でも、アーサーは特に異質であった。
 幼い頃から両親や兄弟に厳しく躾けられ、アーサーは彼らに反抗するという事を知らなかった。強かでずる賢くはあれど、基本的にカークランドという家を守るために生まれ、家を継ぐことは出来ないぶん、血生臭いことは全て請け負おうと周りも自分自身さえ思っていた。それこそが幸せである、と。
 今回もその一環であり、長兄に命令されて首を切り落とし、あわよくばと耀に顔と名前をうった。菊のことなど、全てを手に出来る彼にとってはただの思いつきである。欲しい物など自力で奪える彼にとっての、ほんの些細な悪戯だ。
「……わかった。ならば条件があるネ。菊を正妻にすること、同居すること、しかし二ヶ月は性交を認めねぇアル」
 耀の申し出に、アーサーは相変わらずの笑みを浮かべ、軽く承諾した。実際菊の姿を見たことは無いけれど、美形揃いの耀一家が、それも耀お気に入りの少女が不細工な筈も無い。
 それに正妻といっても所詮は東の女、気に入らなければどうにでも出来る。正妻といえど西では誰の目にも『ただの愛人か、もしくは下女』程度にしか映らないだろう。カークランドの名前にも今更傷つかないだろう(元々女遊びは昔から派手な一家だ)。
 
 東の中でも極東に位置し、天然の要塞といっても過言ではない程、荒々しい海に360度囲まれ、他国との交流も限定されている。そのため独自の文化を発展させ、アーサーの国の様に一人の神を持つことなく、自然を全て敬って生きていた。緑も水も豊かで、国民性はシャイだがおおらかで好奇心が強い。暇さえあれば仲間と談笑し、子供と一緒に転げまわっている。
 東の国でも孤島に彼女は住んでおり、日に一度潮が引いた時しかその島には行くことさえ叶わない。細い道を抜け、山頂に築かれた寺院に似た建物を仰ぐ。子の中に勤めているのは全員女性で、本来ならば男性厳禁であり、今回はアーサーが彼女の婚約者だから特別であるらしい。菊の代わりに国を統括するのは、彼女の弟である“白妙”が継ぐという。
 昔謁見した場所と同じ場所で、フローリングの床に座り待つと、メイドらしき女性二人によって、かつて見た障子がひかれた。上下ともに真っ白な服を身に纏い、深く深く頭を下げており、実にゆったりと顔をアーサーへと向けた。光の塊の様に真っ白な服と姿に、髪と瞳ばかりが鉱物で出来ている程黒々と輝いている。
 それは美しい女であった。しかし、それだけだった。表情には感情らしい感情も見いだせず、唯アーサーを見つめている。アーサーの興味は一気に冷めていった。
 
 
 それより、彼女との奇妙な共同生活がスタートした。結婚式は東で執り行われ、適当な部屋にメイド、食事を付けて、ペットでも飼うように彼女を招き入れる。アーサーにはアーサー専用の家も使用人もつけられ、普段は屋敷に籠って書類処理や訓練も行っていた。それが両親や兄弟の厄介払いだと解っているけれど、やはり大人しく素直に、屋敷に籠って無駄なことはしたこともない。
「オレの部屋には入るな。後は好きにしていろ」
 部屋に押し込むと、彼女はニッコリと笑って頷き、素直にベッドへ腰を下ろした。菊と会話する場面は何度も来たけれど、声を聞いたのはほんの数回程度で、笑顔意外の表情も見たことが無い。つくづく面白味の無いものを貰ってしまった、これならば宝石とか武具とか領地を貰えばよかったとさえ思える。
 
 暫く黙々と書類に目を通していた頃、不意に楽しげな声が聞こえ、アーサーは手を止め立ちあがる。午後の明かりの中、噴水の中ではしゃぐ二つの姿を見つけ、思わず体を乗り出した。
「何してる、早くあがれ!」
 一つはまだ十歳になったばかりの、義弟のアルフレッド。誰も引き取らないのを、幼い頃から可愛がっていたアーサーが最近引き取り、同じ家で面倒を見ていた。そしてもう一つは、先ほどまで人形の様にほほ笑んでいるばかりであった、菊だ。
 二人はキョトンとした様子でアーサーを見上げるばかりで、やはり噴水の中から出てこようとはしない。痺れを切らしてタオルを掴み階段を駆け下り、未だ噴水に下半身を浸していたアルフレッドの頭をパチンと叩く。
「勉強はどうしたんだ。貴女も子供の様に、何をしているんだ」
 怒声をあげるとアルフレッドは小さく身を縮め、唇を尖らせてようやく噴水から抜け出す。菊は相変わらずポカンとアーサーを見つめていたから、思わず頭からタオルをかぶせる。服は着物ではなく、アーサーの下女に適当に用意させた、それでも高価な洋服を身にまとっていた。それも今や水に濡れ、皺だらけだ。
「菊を怒っちゃダメなんだぞっオレが誘ったんだ」
 アルフレッドに思いっきり脛を蹴られ、思わず蹲った隙にアルは小動物の様に逃げ出してしまった。涙目になって拳を固く握るアーサーに、菊は困った様子で身をかがめて覗きこんだ。
「ごめんなさい、こんなことで怒るとは思わなかったんです」
 こんなこと?思わず額に青筋を立てて菊を睨んだが、菊は相変わらず目を丸くして全く怯む様子も見せずアーサーを見やるばかりだ。なんだか急に馬鹿らしくなり、彼女の手をとって噴水から抜けださせてやる。いくら初夏といえどまだまだ水を浴びるのにも冷たいだろうに。
 メイドに渡して書斎に再び籠ると、盛大に溜息を吐きだして額を抱え込んだ。孤島に一人籠って暮らしていたのだから、ちょっと人とずれているのも考えれば考えつく。いっそ子供の様に鞭で躾けてやろうか、それとも耀にさっそく送り返してしまおうか……しかし、冷たい社会に育ったためか、あまり人に懐かないアルフレッドが懐いたから、子守にするのも悪くない。いや、あれでは子供が二人だ……
 取りあえず書類に戻るが、どうにも思考が止まらず中々進まない。耀から刺客でも送り込まれたのかと、再び溜息を吐きだした。ああ、こんなのは自分らしくない。アーサー・カークランドはもっと傍若無人で我儘でずる賢く、誰にでも恐れられていなくてはいけないのだ。それを望み、望まれているのだから。
 夕食時になり、アーサーとアルフレッドは共に向き合って食卓につく。しかしアルフレッドは今日から一緒になる菊に夢中で、今日起こった出来事を実に楽しそうに話す。話を聞くという役目をとられたアーサーは、やはり面白くない。菊はただニコニコと笑い、アルフレッドの話を聞いている。
 これから毎日これが続くのか……やはり送り返してしまおう。殆ど味のしない食べ物を噛み、適当に飲みこんだ。
 
 食事を終えてシャワーを浴び、アルフレッドが眠ったのを確認しに部屋を出る。アルフレッドは彼が自己を持ち始めた頃出会い、妾腹とあり冷たい対応を受けていたのを見かね、引き取って一緒に暮らし始めた。人間嫌いのアーサーでも直ぐに慣れたのは、アルフレッドの屈託ない性格以上に、幼い頃の自分と重ねたからだろう。
 それはまるで、幼い自身の思い出を埋める作業の様で反吐が出ると思う反面、今まで自身に足りない部分を補う、必要最低限の作業であるようにも感じた。
 扉を開きいつものように天蓋を除ける。微かに漏れたランプのオレンジ色が揺れ、辺りは幻想的に浮き上がる。異国の言葉がゆったりとしたメロディに乗り、彼女の、菊の細い指先が眠るアルフレッドの背中を優しく叩く。それは今まで見たことも、考えたことも無い血のつながりを感じさせるほどの光景だった。
 たかだか会って数時間の間でこれほど親密になるのは、子供同士の関係みたいだ。アルフレッドを寝かしつける菊は、穏やかな、それまでアーサーに向けていた笑顔とは種類が違う幸せそうな表情を浮かべている。子守唄は不意に途切れ、菊は顔を持ち上げてアーサーを見つける。一瞬瞳が大きくなり、それからいつも通りのアルカイックスマイルを浮かべた。
「……何してる。あまり甘やかすな」
 目があった瞬間に我を取り戻し、アーサーは不愉快そうな声を出す。否、実際この光景は不愉快極まりないものだった。妾腹で、在籍する家柄も違うとはいえ、アルフレッドも一応カークランドの血を受け継いでいるのだ。それがたかだか東の女に寝かしつけられてるとあれば、外聞はよろしくない。
「私の国では子供は可愛がるものです。ずっと傍に居て、いつも話をするんです」
「ここはオレの国だ。オレの言うとおりにしろ」
 威圧的な物言いに、彼女は笑顔を浮かべたまま俯く。アルフレッドは菊の膝の上で、心地よさそうに寝息を立てる。アーサーが来る直前、ここから立ち去るつもりだったが間が悪かった。
 元来好奇心旺盛な菊は、アーサーが出ていってから直ぐに部屋を抜け出した。周りはみんな菊を白い目で見ているのに気が付きながらも、庭へと足を伸ばして見事なバラ園を見て回っている時、寂しそうなアルフレッドを見かける。友達もおらず一日中屋敷に閉じ込められていた自身を思い出し、菊は早速、庭で猫を見つめていた彼に近寄った。
 警戒はほんの一瞬。お互い顔を合わせたのは、屋敷について直ぐ、アーサーから紹介された時のみだった。それでも菊の子供っぽさを嗅ぎ取ったアルフレッドは、直ぐに彼女を受け入れて自分のお気に入りの場所を紹介して周る。猫の溜まり場、林檎の木、家鴨の親子が来る池、そして噴水。
「……この子は、あなたの話ばかり。あなたを愛しているんですよ」
 蜂蜜色の髪を梳かして呟くと、彼は再び不機嫌な声色を出した。
「そんなことどうでも良い。とっとと出ていってくれ。フレッドともう話すな」
 菊は特有の笑みさえ消すと、小さく返事をしてベッドから抜け出す。翡翠の瞳が背中を睨んでいるのを感じながら、そのままあてがわれた自室へと向かった。
 耀から結婚の話が来た時は冗談かと思い、今もそれは続いている。どうせ二ヶ月も持たないから、条件を少しでも違えれば逃げられる。それまでどうにか耐える様に言われた。弟の白妙は、自分と同じ顔を歪めて心底悔しそうに菊の花嫁衣装を用意していた。
「ああ、あと、来週社交界に出るからな。ドレスはお前の国のを用意しておけ」
 言われた言葉に、思わず弾かれる様に菊は振り返った。社交界なんかに出れば、鼻ばかりが高い貴婦人達の嘲笑の的にされるのが、目に見えている。第一着物を着て出ていけば、余計注目も集めるだろう。
「戦利品は自慢した方がいいだろ」
 意地悪く笑うアーサーを睨むこともなく、菊は肩を落としてまた小さく返事をした。踵を返してそのまま自室の扉を開けると、灰色の扉のベッドに座りこむ。大きくスプリングし、寝心地の慣れ無さに自身が寝不足であったことを思い出させた。
 
 結局アーサーは社交界の日まで“出張”をしていたため、その間アルフレッドと菊は再び友達のように盛大に遊び転がった。人見知りの質だが、町民出身の家臣には受けが良いらしく、じわじわと顔見知りが増えていく。段々と心地よくなってくる暮らしに、後は社交界と夫だと、毎晩ベッドの中で不安を覚えた。
 血生臭さを漂わせアーサーが帰宅したのは、社交界の前夜だった。輝かしい金色の髪は所々縺れ、赤い固まりを時折金糸に絡めている。殺気だった瞳は獣の様で、ほんのつい先ほどまで命を狩っていたのが良く解った。
 後ろには銀色の月が浮き上がる、雲ひとつ無い理想的な星空が広がる。馬車を降り立つ姿は凛凛しくもあり、恐ろしくもあり、そして居所の無い野良犬を彷彿させた。
「お疲れ様です」
 一瞬怯んだ己を叱咤して駆け寄ると、赤黒く染まった上着に手を掛ける。しかしそれよりも早く、強い力で胸を思いっきり押し返された。突然な事に対応出来ず、そのまま菊は尻もちをつく。その姿を見やり、アーサーは低く呻くように笑う。
「そうか、お前みたいな奴もいたな」
 喉を鳴らして小さな笑い声を残し、彼はそのまま自室へと引っ込んだ。次の日朝食の場に降りて来た彼は、アルフレッドの前でいつも振る舞う「アーサー・カークランド」だった。ホットミルクに口を付けながら、アルフレッドの話に笑顔を浮かべるアーサーが夜に帰って来る意味を理解した。
「そうだ、菊。ドレスは決まったか」
 爽やかなまでの笑顔を向けられ、菊もお得意の、表面だけの笑顔を浮かべる。
「ええ、まぁ……」
 しかし返事は曖昧な尻切れトンボに終わり、アーサーは楽しげに鼻で笑った。彼の暇つぶし、もしくは憂さ晴らしに使われている……そう解っていながら、菊はやはり笑顔を浮かべ食事を済ませると、部屋へと早めに帰る。
 出てくるとき白妙が持たせたくれた嫁入り道具の中から、銀糸を使って黒地に桜を織り込んだ着物を引っ張り出し、思わず再び溜息を吐きだす。こちらでは最近東洋趣味が流行っているとは聞くが、華やかさとは無縁の外見である菊は、やはり貴婦人達に見劣りするだろう。
「菊、すっごく綺麗なんだぞ」
 いつの間に入りこんだのか、椅子に座ってぼんやり着物を眺めていた菊の足元から、にっこりとほほ笑んでアルフレッドが見上げていた。
「まぁ、本当?嬉しいです」
 蜂蜜色の髪を撫でると、彼は嬉しそうに目を細める。アルフレッドは、詳しい話は知らないが、両親もおらずアーサーともそれほど近しい存在ではないらしい。さぞや寂しい思いをしてきただろうに、少々ロマンチスト過ぎるが、大らかで優しい子だ。
「ねぇ、菊はアーサーと結婚したんだよね?ずっと一緒だよね?」
「そうですねぇ……」
 曖昧に濁すと、アルフレッドは頬を膨らませ菊の膝によじ登る。抱きしめると彼は眼を瞑り、菊の胸元へと頬を寄せた。どれほど教育を受けているからといって、まだ幼い子供の仕草に菊も頬を緩める。ここに来てから、アルフレッドが一番の癒しだった。
 
 沢山の人間が一か所に集まり、ぴーちくぱーちく喋ったり踊ったり……閑散とした場所でのんびりと生活していた菊にとって、それだけで既に悪夢であった。胸の奥に吐き気が込み上げてくるのを我慢し、形だけの、差し出されたアーサーの腕をとる。
 見るからに蒼い顔をしている菊を放って、アーサーはシャンパンに口を付けてから、友人のフランシスを見つけ菊の横からスルリと抜ける。普通女性をエスコートするのが仕事であるのにも関わらず、どうしていいのか分からない菊は独り残され、どうすることも出来ずに立ち竦んだ。
 いくつもの目線が自分に注がれており、その上クスクスとさえずる様な笑いが聞こえ、更に胃がキリキリと痛んだ。
「面白いお洋服ですわね」
 不意に声を掛けられ顔をあげると、ブロンドを腰まで伸ばし巻きあげた、華やかな女性が扇子で口元を隠しながら着物の袖を摘まんでいる。甘い香水が漂い、クラクラしながらも菊は慌てて言葉を探す。
「私の、国の……」
 お得意のポーカーフェイスも、なぜか綺麗な女性の前では上手く機能しない。顔に熱が上がり、自分のコンプレックスが全て見透かされている気さえした。
 目線でアーサーを探すと、柔らかな金髪の男性の隣で、にやにやと楽しそうに菊を見ている。楽しんでいる、助けてくれるはずがない。元々解っていたのに、菊はどうしようもなく心が萎えて小さくなっていくのを感じた。
「あなた、アーサー様のお相手なんでしょう?さぞやピアノなどもお得意なのでしょうね。私はてんでダメなの」
 お相手とは、愛人を示唆しているのがありありと解る。そうだろうとは思っていたが、面と向かって言われるとは思っていなかったため、菊は更に動揺する。腕を引っ張られてピアノの前に座らされて、白と黒で出来た鍵盤を前にするけれど、当然菊はピアノなど触ったことも無い。
 どうしていいのか解らず、そのまま震えあがると目の前がじんわりと滲んだ。指先に触れると冷たく、体が非常に重い。取り囲んで笑う声がグルグルと回り、とにかくこの場から消え去ってしまいたかった。
 きつく目を瞑った菊の前から、軽やかな音楽が聞こえ、そっと目を開くと見覚えのある横顔が直ぐ傍に見えた。
「これがモーツアルトじゃ」
 太く骨ばった指先が、意外にも鍵盤の上を滑っていく。正装しているのにも関わらず、相変わらず髪は攻撃的に立てられ、煙管はしっかりとくわえられている。
「……フィンセントさん」
 菊の祖国で最近、耀以外では唯一交流していた国の中でも、特に菊と顔を合わせる機会があった家の主、それがフィンセントだ。
「相変わらずのくてぇ奴やざ。出来んなら出来んと言えばえぇやろ。そんかわし琴や三味線が出来るが」
 荒く頭を撫でられて、今度は違う意味で顔にカッと血が上る。突然のフィンセントの登場に、周りが微かにざわつくのを感じたが、久しぶりの対面に菊はそれどころではなかった。
「お久しぶりです。いらしていたのですね」
 思わず笑みを浮かべると、腕をとられて立ち上がらせられる。グルリと周りを囲み、物珍しい様子で菊を見ていた人間を掻き分けた。
「お前ももちっとしっかりしねま」
 人気のない隅まで引きずられると、相変わらずの強面が菊を睨んだ。(正確には見た)その眼付の悪さに懐かしささえ覚え、菊はたまらず再び笑う。
 
 ポーカーフェイスが完全に崩れるまで待ってやろうと思っていたのだが、闖入者でいとも簡単に菊は救い出された。あまり見かけぬ顔に一瞬戸惑うが、それが菊の国と唯一交流をしていたフィンセントであることに直ぐに気がつく。
「あらあら、いいの?」
 フランシスはによによと、先ほどとは打って変わって楽しそうな笑顔を浮かべてアーサーを覗きこむ。菊は、フィンセントの前で屈託なく笑う。まるでアルフレッドと遊ぶ時の、少女に戻ったかの様に。思わず舌うちを一つすると、大股で喋り続けている彼らに近寄る。
 相変わらずの巨体を前に、益々苛々は募りながらも二人の合間に割って入った。
「相変わらずやの、カークランド」
「悪いがお前と喋っている時間は無いんだ」
 アーサーは胸ポケットから手袋を取り出すと、素早く装着し、菊の腕を掴んだ。引っ張られるまま、ずるずると馬車が停めてある場所まで引きずり歩く。
「お前も雌犬じゃねぇんだ。誰にでもしっぽふってんじゃねぇぞ」
 アーサーの怒りを含む口調に押され、菊はそのまま馬車に乗り込んだ。菊と一番離れた個所に腰を下ろす。離れていく灯りを振り返り、菊はぼんやりと懐かしい友人を思い出した。
 こうして社交界は何の収穫もなく、ただ二人がその後数日口もきかなくなった。それだけだった。
 
 
 このまま大人しく全てが終わり、せいぜい二ヶ月経って傷ものにしてから返してやろうとか思っていた矢先、今度は庭先にある林檎の木の上から楽しそうな二つの笑い声が聞こえた。アルフレッドは菊を、姉のように、従兄のように、友人のように……母の様に慕っている。木陰から二人を見上げると、二人はアーサーにはまるで気がつかず、赤い林檎に歯を立てていた。
 
 
 
 
遣る気満々で書き始めて、ラストに近づくにつれてやる気がなくなる謎の現象。一話で終わらせるつもりだったのに……多分頑張ります