La Vie en rose
※ オリというより♂菊(弟)が出てきます。ほとんど絡みません。名前は“白妙”さんです。らんさんはフィンセントさんでおおくりします
『 La Vie en rose 中 』
書斎の扉がノックされ、返事をすると勢いよく開いた。しかしそこに人影は無く、不思議に思ったアーサーが席を立った瞬間足元に衝撃が走る。思いっきりぶつかってきた主、アルフレッドはにんまりと笑ってアーサーを見上げた。
「アーサー!ピクニックいくんだぞ」
嬉しそうな声をあげて笑うアルフレッドに、アーサーは思いっきり顔を顰めた。
「仕事中だ」
確かに外は良い天気で、太陽の光が木々に燦々と注いでいる。しかし、ピクニックなど一度も行ったこと無いし、行きたいとさえ思ったことも無い。それよりも机に積まれた書類の方が、ずっと大切なことだ。
優しく押し返されて、アルフレッドは大きく頬を膨らませた。そして再びアーサーのズボンにくっつく。
「もうすぐマシューが来るんだぞ。一緒に遊ぶって言ったのはアーサーなんだからなっ」
アルフレッドの言葉に、ようやくハッとマシューの存在を思い出す。マシューはアルフレッドの本当の兄弟で、今はボヌフォアの元で育てられている。この間の社交界でフランシスと話をし、週末会いに来ることを約束したのだ。
アルとマシューは性格が真反対であるが、なんだかんだで仲は良い。一昨年の誕生日に、大きな真っ白のクマのぬいぐるみをプレゼントしたところ、今でも大切に持ち歩いている。その姿は愛らしいが、仕事が忙しすぎてすっかり忘れていた。
「……まさか、忘れてたのかい?」
唇を尖らせるアルフレッドに「まさか」と笑って白々しく笑い、持っていたペンを机に置く。用意するといっても、菓子類は大抵掃いて捨てるほどあるし、プレゼントは買っておいたものが既にクローゼットの中に置いてあった筈だ。
「ボンジュ〜やっほー、アーサー」
丁度良く、開きっぱなしの扉口からフランシスがマシューを抱えて顔を覗かせる。年齢はアルフレッドより一つ上であるが、背の高さは大して変わらない。顔のパーツはそっくりだが、柔らかな髪と雰囲気はマシュー独特だ。
彼はアーサーに向かって、子供らしからぬ丁寧な挨拶を述べ、ぺっこりと頭を下げて見せた。アルフレッドは「よっ!」とか言って、フランシスの足を思いっきり叩く。
「今日は菊がお弁当作ってくれるから、みんなで森に行くんだぞ」
「キク?」
うきうきと楽しそうなアルフレッドに対し、聞きなれない名前にマシューは首を傾げる。
「……菊は行かない」
「えーっ何でだい?菊がいなくちゃつまらないじゃないか」
アーサーに不満を示し、アルフレッドが駆け寄った。しかし、いくら可愛いアルフレッドのお願いだとしても、折角の楽しみ(忘れていたが)に他人をいれたくは無い。
「お兄さんも前回紹介して貰えなかったから、今日は一緒に遊びたいなぁ」
楽しそうに笑うフランシスを思いっきり睨むが、彼はアーサーからスッと視線を泳がせた。嫌われるのを恐れ、子供達の前では手粗いことしないと知っているのだ。
結局アルフレッドはスキップしながら、朝から台所に籠っている菊を呼びに行った。
「フレッドとは仲よしなんだね」
「オレは嫌いだ。もっと従順かと思ったら、可愛げも無い」
マシューもアルフレッドを追いかけて行ったのを見送ると、フランシスが笑顔を浮かべたまま呟く。フランシスの笑顔とは反対に、アーサーは面白くなさそうに吐き捨てた。社交界の様子を見れば、世間一般の【愛】など持っていないのはよく判った。
黒い髪に瞳、魅力的とはいえない体つきは、どこからどうみてもアーサーの好みでは無いだろうとは思っていた。アーサーに苛められてしょんぼりとしていたのはわかったけれど、それほど激しい感情はその顔にあらわれていなかった。あれではアーサーも満足しないだろう。
「アルの前ではニコニコしやがって。気に入らねぇ」
アーサーの言葉に、「おや」とフランシスは小さく眉を動かした。自身の思考とアーサーの述べる“菊”像にはいくらか違いがあるらしい。大体、子供が懐く大人というのは、いくらか子供っぽさがなければならない。しかも相手はアルフレッドだ。
それに文句を言うアーサーの様子も、例えば本当に気に入らない人間の事を悪く言う時とは少し違う。アーサーとフランシスは、随分長い間の仲である。アーサーが子供のころ、フランシスは思春期と歳にはいくらか違いがあったけれど、世間に巻き込まれて一緒に大人へとなっていた気さえしていた。
フランシスはアーサーより、いくらかマシな家庭で育ったという自負がある。やはり家庭内に暖かさは少なかったけれど、両親にさえ邪険に扱われていたアーサーに比べれば、幸せだったように思う。だからこそ、アーサーがアルフレッドを、ぎこちないながらもちゃんと育てているのを見た時は感動さえした。
そして予想した通り、アーサーは可哀そうな大人へと成長してみせた。未だに家族に従属し、そん反面他人を見下ろし思い通りにならないことを何よりも嫌った。自分がそうされていたようにしか、他人には接することが出来ないのかと、フランシスには思えた。それでは彼は、誰も愛せないのかと……
廊下から子供達二人の笑い声が聞こえ、柔らかな優しい声が交っているのに気がついた。瞬時、アーサーが眉間に小さな皺を寄せる。
「苦手なんだよ。なんかペースが崩れる」
小声に早口でそう告白すると、アーサーはもう口を真一文字に結んで、翡翠の瞳の視線を他方へ投げた。
社交界中もつらつらと述べた、彼女に対する不満以上に、今早口で述べた言葉の方が彼の本音だろう。天下のアーサー・カークランドのペースを崩す主は、扉から可愛らしい顔をひょっこりと覗かせた。
「はじめまして、菊と申します」
菊は大きな瞳を三日月に揺らすと、フランシスに向け、深深と頭を下げる。確かにその顔に張り付く笑顔は表面的で、感情は読みづらい。
「みて、フランシスさん。お魚さん貰ったの」
マシューの手にはクマのぬいぐるみの他に、妙にリアルな魚のぬいぐるみが抱えられている。魚……?アーサーとフランシスの頭の上に大きな「?」が浮かぶ中、菊はアルカイックスマイルを崩し、子供っぽく笑う。
「クマが好きだときいたから作ったのですが、熊には鮭かと思ったのもので……こんな可愛らしい熊さんだったとは思わなくて」
口ごもる菊に「でも僕、お魚さん好き」と、マシューらしい気の使い方をし笑いかけた。菊はマシューの言葉に、菊は目尻を下げて嬉しそうに笑い返す。アーサーは肘でフランシスをつつくと「ほらな」と小さな声で呟く。
どうやらちょっぴり天然が混じっているらしい。そして見かけよりずっと大人であり、更には子供であるようだ。
アーサーの領地内にある湖の端っこで、靴を脱いで三人、アルフレッドとマシュー、そして菊は楽しそうに笑い声を立てている。髪と瞳の色さえ変えれば、親子にさえみえた。
「可愛い子じゃん。料理もおいしいし」
菊が作ったという料理をバケットから取り出して食む。サンドイッチの横に、ライスを丸く丸めた不思議な物やこれまた不思議な卵の料理が詰め込まれている。見た目も味も味わった事の無いものだが、中々おいしくて美食家のフランシスも満足できそうだった。
しかしアーサーは腹の音を立てながらも、首を横に振っている。菊に触れる時、必ずアーサーは皮手袋をはめ、目線を合わせることもしない。
「何がそんなに気に食わないの?」
自分でもらいうけておいて、多少はあるだろうが人身差別が最もの理由ではないだろう。その上本気で嫌いなら、短気なアーサーはワンクッションなど挟まずに拳銃を取り出す筈だ。
アーサーは何も返そうとしないため、フランシスは溜息を吐きだした後、靴下と靴を脱ぎズボンを膝まで巻くしあげると、三人のもとへと駆けだす。残されたアーサーは恨みがましくフランシスの背中を睨んだ後、弁当箱から卵焼きを一つ摘まんでそっと口に放り込んだ。
四人が笑うのが聞こえてくる。アーサーは唯一、アルフレッドは愛している自信があった。けれど、ずっと一緒に住んでいるというのに、未だにどうしていいか解らない瞬間がある。例えば夜に一人泣いている時などは、ただ傍に座ってぼんやりとするだけだ。それが果たして“愛”を示しているのかどうか、経験したことないアーサーには解らなかった。
だから、菊がアルフレッドを寝かしつけていたのを見た時は、ドキッとさせられたものだ。菊にはその、アーサーが体験しなかった思い出を持っているのかと思うと、アーサーにも形容しがたい心地が胸に広がる。
「アーサー!」
不意にアルフレッドが裸足のまま、アーサーのもとに駆けてくる。差し出された手の中を覗きこむと、一匹の蛙がギョロリとアーサーを見上げた。
ギョッとしたアーサーが飛びのくと、アルフレッドは悪戯っ子らしく歯を見せて笑う。
「菊が掴まえてくれたんだ」
「は、早くすてちまえ……!」
木にしがみ付いて逃げ出そうとするアーサーを見て、アルフレッドはケラケラと笑い声を立てた。
「アルフレッド君、だめですよ。無駄な殺生は」
追いかけて来た菊に注意され、アルフレッドは唇を尖らせて蛙を余所へ放ると、菊はハンカチを取り出してアルフレッドの掌を拭う。それから青くなっているアーサーにご愛想の笑顔を浮かべ、アルフレッドの手を引いて湖へと戻って行った。
夕飯を食し、すっかり寝入ってしまったマシューを抱え、フランシスは家へ向かう馬車に乗り込んだ。アーサーは蛙事件からめっきり不機嫌で、四人が遊んでいる中にも交ろうとは決してしなかった。しかししっかりとマシューへのプレゼントを馬車へ、マシューと一緒に詰め込んだ。
菊はピクニックから帰ると「体調が良くない」と部屋へと引っ込んだ。恐らく、いつものように知人だけで過ごせるようにと気を使ったのだろう。そういう所だけ大人っぽいのだと、抱えた寝付いたアルフレッドの頭を撫でながら満更でもない様子でアーサーが呟いた。
「……お前、ちょっと変わったね」
言おうか迷ったさえに言うと、アーサーは不可解そうに眉間に皺を寄せた。
「変わるっていうのは良いことだよ。恐がるべき事じゃない。変われれば、いつか、出来なかったことが出来るようになる、っていうことだからね」
マシューを抱え込み、フランシスはそのまま馬車に乗り込む。一人残されたアーサーはやはり不思議そうな表情を浮かべながら、アルフレッドを抱えて屋敷へと戻っていく。菊の部屋からは灯りが漏れていないから、子供を二人相手にして疲れ切ったのだろう。
思えば菊とちゃんと話をしたことも無いし、二人っきりになったことさえあまり無かった。扉の前で立ち止まり、小さく名前を呼んでみる。返事は勿論、返って来るはずもない……
馬鹿馬鹿しい。一体自分は何を望んでいるというのだろうか。社交界で菊を苛めた時も、普段ちょっかいを出すときも、菊の表情を崩すことばかり考えている。それは、アルフレッドやマシューに向ける様な、屈託のない笑顔を望んでいるというのだろうか。
アーサーは足早にアルフレッドの部屋に行くと、彼をベッドで寝かし、ランプに息を吹きかける。
次の日も、その次の日も菊は部屋から出てこなかった。どうやら「体調が悪い」と言ったのは本当だったらしく、移るからとアルフレッドも部屋には近づけようとはしない。食事にもほとんど手を付けず、気がつけば数日顔さえ見ていなかった。
「菊死んじゃうよ」
アルフレッドが泣きついてきたのは、彼がすっかり寝巻に着替えた後だった。アーサーはランプの灯りの下で、細かな物語の文字を追いかけている時だ。
空色の瞳一杯に涙を溜めて訴えるアルフレッドに、アーサーはようやく本を閉じ、重い腰をあげた。面倒くさいのに巻き込まれたくなかったし、医者が必要ないと本人が訴えるのならば放っておくにこしたことは無いし、彼女も自分がちょっかいを出すのを嫌がるだろう。
そんなことを考えながらのろのろと歩くアーサーの腰をアルフレッドが押しながら、気がつけば菊にあてがった部屋の扉の前だ。アーサーの中で、菊に対する気持ちは既に何であるか解らなかった。これ以上菊と向き合うと、自分が自分ではなくなっていくようで、少し恐ろしささえある。
しかしフランシスが去り際、「変わるのは良いこと」だと言った。出来なかった事が出来るようになる、切っ掛けだと。では、一体出来なかった事とは何だろうか……
二度のノックをして、ようやく中から返事が来る。アルフレッドを扉口に置き、アーサーだけが菊の部屋へ顔を覗かせる。正直、アーサーは一度も彼女の部屋へ入ったことが無かった。綺麗に片づけられた部屋は、生活感が感じられない。
「医者、呼ぶか?」
きっちり閉められたカーテンから、月の光が零れ落ちる。白く浮き立つように、ベッドが見えた。
心にもないことを言いながらベッドに近づくが、返事は無い。あわよくば溶けだして、元から無かったように消えてしまっていないかと期待したけれど、覗きこむと布団の隙間から白い手が見える。ベッドに座って暫く無言でうんざりしていると、彼女が鼻をすする音が聞こえた。
『……泣いてる』
よく泣いたアルフレッドにどうしていいか解らず、こうしてベッドに座っていることが多いため、直ぐに感づいた。最近アーサーは意地悪もしていないし、閉じこもる直前までアルフレッドと仲良く遊んでいた。フランシスから何かされた……それも考えにくい。
「……あのぅ、大丈夫です」
暫く悩んでいたアーサーに、恐々と菊が声を掛ける。布団と布団の隙間から、ようやく彼女の瞳がこちらを覗きこんでいた。大丈夫、という割に、やはりその鼻先と眼もとは赤くなり、泣いていたのがすぐに判る。
「なんだよ、目覚めがわりぃな」
帰りたいなら帰れば良い。喉元まで出かかった言葉が、そのまま詰まって言葉にはならなかった。彼女はようやく布団から抜け出すと、アーサーの隣に坐る。
いつもは艶やかな黒髪が、ボサボサとなりあっちこっちへ飛び跳ねているし、やつれた顔は疲れが色濃く浮かんでいた。月の仄かな灯りの中にあっては、生気さえ見えない。
「フランシスさんがいらっしゃた日の朝、弟から手紙が届いたんです。私達の乳母が死んだって。私達は生まれてすぐに親元から離され、だから……」
瞳の下に涙が盛り上がり、彼女の言葉は途切れた。アーサーの乳母は初めから年老いていて、厳しい人で、アーサーが泣くと直ぐに叩いて叱る。幼い頃は恐ろしかったけれど、アーサーが14の頃彼女は肺に病が見つかり簡単に息を引き取った。布団にしわくちゃで小さな体を埋め、アーサーが心配だと呟き、去っていってしまった。
思えば、アーサーの人生の中で彼女が本当に自分と向き合ってくれていた。家族の中では、ほとんど誰からも笑い合った記憶も無い。
「厳しい方でしたけど、私はちゃんと好いていたみたいです」
裾で涙を拭うと、菊は笑みを浮かべてアーサーを見た。いつものアルカイックスマイルでは無く、アルフレッドに向ける無邪気なそれでも無く、彼女なりの人生を歩んだ少し重くて哀しい笑顔だ。
「アルフレッドが心配してんだ、いい加減立ち直れよ」
「……そうですよね」
再び布団の中に潜り込むと、小さく息を吐く。
「帰りたいか、国に」
「……いいえ。こんなに自由なのは、初めてです」
彼女の国の、彼女を護る屋敷を思い出す。まるで鳥かごだと思った通り、あんなに自由奔放なのに普段はずっと襖の向こうに捉われていたらしい。
「ならここでアルフレッドの面倒でも見てろよ」
「アーサー様は、私の事嫌いじゃないんですか?」
ギクリと、弾かれる様に菊へ視線を送った。菊は、布団の隙間からジッと黒真珠の瞳を覗かせてアーサーを伺っている。純粋に、ただ知りたいのだろう。
「嫌い、じゃ、ない……」
言い終えてから冷や汗が吹き出す。言葉こそ出てこなかったけれど、思考はいとも簡単に結論を導き出した。自分の中で、菊はどんどん自分の中で特別になっていく。元からそうであったかのように、当然の様に。
「私も、嫌いじゃないですよ」
「苛めたのにか」
菊は眼を細めて柔らかくほほ笑み、それ以上の言葉を発さずにアーサーを見つめるばかりだ。
既にアーサーの眠る時間を超え、窓の外はほぼ無音だ。屋敷の中で起きているのは、恐らくアーサーと菊だけだろう。廊下で待っているアルフレッドも眠ってしまっただろう。そしてじきに、布団の中から規則正しい寝息が聞こえて来た。
不思議な人だった。驚くほど子供っぽく、意地悪をしている時の様子などガキ大将にしか見えないのに、アルフレッドに向ける笑みは穏やかで、子供を見守る父親の様だ。そして血の匂いを漂わせている時は、恐ろしさと寂しさを綯い交ぜにして佇んでいる。
弟も耀も嫌っていたけれど、初めて会った時から菊はさほど嫌な気はしなかった。少々血の臭いが濃く、生臭いとは思ったけれど、翡翠色の瞳は素直な輝きをたたえている。生まれてきてからずっと、寝床を探し続けているような姿は自分と重なって感じられた。
「菊、ほら、これ」
そしてとても恥ずかしがり屋で、何かをしてくれようとした時は前日からもじもじしているのだ。その日も「何かある」と思ったけれど、敢えて何も聞かなかった。(前から随分意地悪されているので、そのぐらいは大目に見てほしい)
アーサーは菊に向かって、何やら木箱を差しだす。何だかわからずに受け取ると、油の匂いがぼんやりと薫り、開くと真新しい油絵具のチューブが綺麗に整列している。目にしたのは初めてでは無いけれど、アルフレッドの勉強道具の一つとして、前見かけた程度だ。
「絵描くの好きっつってただろ。オレのを新調したから、ついでにな、ついで」
ついで……絵なんて書かない癖に。思わず笑い声を立てると、アーサーは耳まで真っ赤に染めて「何で笑うんだ」とポコポコと怒り始める。こうやって他愛もない会話をしている時、アーサーは年よりもずっと子供っぽく見えた。
「嬉しいです、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げ受け取ると、思わず頬を寄せる。子供っぽいと思われたのだろう、アーサーは先ほどまで怒っていた表情から一転、目尻を下げてアルフレッドに向ける様な笑顔を浮かべていた。
ぼんやりと、その肌に触れたいと思うけれど、アーサーは菊に触れる時必ず手袋をはめる。そのことを寂しいとは、ついこの間アーサーが様子を見に来てくれるまでは、一度も思った事さえ無かった。しかし、人間らしい顔つきを覗かせるようになってからは、アルフレッドと遊んでいる姿を見かける度、彼の指先を目の端で追いかける。
「そっか……えっと、じゃ、夕飯の時にな」
頭を掻いて照れ笑いをし、彼は菊に背中を向けた。ああ、行ってしまう……思考よりも早く、気がつけば腕が伸びてアーサーの掌を、思わず掴んだ。
緑の瞳が吃驚してまん丸になり、菊を振り返った瞬間、ようやく菊は自分のしたことに気がつく。慌てて離し、一歩退き視線をずらして謝罪をした。素手で触ってしまって、怒るだろうか……プレゼントされた絵具セットを両腕で抱き、アーサーの出方を待つけれど、いつまでたっても彼は怒声など発しない。
絵具を抱いていた右手に暖かさが重なり、恐る恐る目を遣るとアーサーの指先が菊の手の甲をゆっくりと撫でる。冷え性の菊にとって、熱いほどの熱をもっている指先は、少々冷える今日には心地良い。
「お前の手って、こんなに冷たかったんだな……」
握られた指先を握り返すと、アーサーは再び柔らかくほほ笑んだ。菊の一挙一動に笑ってくれる姿を見て、胸の奥に暖かみが染み込む。喜びと微かな恐怖、それは期待と裏腹な事が起きることを恐れるあまりに覚えたことだ。
笑い返すと、アーサーは一歩菊に寄る。アーサー御用達の香水の香りが舞い、そういえばこんなに接近したのは、アーサーが慰めに来てくれた時以来だと気がつく。恐らく、彼もそれに気が付いている。
一度名前を呼ばれたけれど、応える余裕など無かった。近寄って来る翡翠色に負けて思わず目を瞑ると、柔らかな感触が唇に当たる。頬に添えられた掌が暖かく、思わず泣き出してしまいそうだった。
前に、厨房で家臣の台所係に勤めている人々と話をしたとき、この国で恋慕の情を抱く場合、接吻がとても重要なのだと聞いた。それは夢物語の一部のようで、菊にとっては完全にお伽噺であるし、そんなに良い物であるとも思えなかった……
抱きつきたい衝動を抑え込み、離れた彼が赤ら顔で笑うのを、やはり頬を緩めて見やる。心臓が破裂してしまいそうで、更に強く絵具を抱く。
「菊!休み時間だから遊ぶんだぞ」
扉が壊れるほどの力強さで開け放たれ、アルフレッドが思いっきり飛び込んでくる。慌てて一歩距離をとると、駆けよって来たアルフレッドを菊が抱き上げた。アーサーに視線をやると、彼は人差し指を口に当て笑う。
敏感な家臣に「アーサーと何かあったのか」と囃したてられ、真っ赤な顔で「何もないです」と部屋に駆け込む日が数日続いた後、アーサーは再び呼びだされて出張することになった。いつだか、血まみれになって戻ってきた事を思い出し、そっと青くなる。
それはアーサーが帰ってくると告げた日よりも、3日も早い頃だった。夜あまり眠れなかった菊は、玄関が開いた音に敏感になり、すぐに上半身を持ち上げ、ベッドの中から抜け出した。
今にも雨が降りだしそうな、雲の厚い日だった。月の光も、家の光も存在しない、深淵の中にいるような、そんな夜中だ。玄関まで駆けると、鼻先にきつい血の、生臭い臭いが漂う。その臭いを纏わせたひとつの人影が、綺麗な大理石に黒い跡を付けて蠢く。
「アーサー様」
菊は弾かれる様に、いっそ不気味な影に声を掛けた。人間性がまるでない、無機質の塊が揺れて菊を見やっている。
「菊、起きていたのか」
本当にソレがアーサーでなかったらどうしよう、とよぎっていた菊は、アーサーの声に思わず安堵のため息を吐く。それから駆け寄ると、少し戸惑ってから抱きついた。そして胸元に頬を寄せ、無事帰ってきたことにまず感謝する。
「お怪我は?」
濃くなる腐臭も気にせず、菊は背伸びをして出来る限り彼に近寄ろうとする。菊の背中の上で幾分さ迷った後、アーサーは菊を抱き寄せた。
「怪我は無い。ただ、寒い」
すごく、寒い。
その日は天気こそ優れないが、比較的暖かい夜だった。菊は笑顔を浮かべ、彼の背中を、アルフレッドをあやすように撫でる。
「なら、今夜はゆっくりお休みをとりましょうね」
「うん」
素直な返事に、菊は手をひいて彼を自身の寝室に招き入れた。灯したランプの下、彼は全身赤黒に染まっている。手際よくお湯を作ると、菊は丹念に彼の髪を洗い上げ、金色を取り戻す。
アーサーが身体を洗っている最中沢山ご飯を作り、服も洗った。しかし血の色は落ちず、頑固にこびりついてしまう。
「お休みなさい、明日はアル君に遊んで貰いましょうね」
『結婚』して始めて同じベッドに入ったけれど、感情はどちらも驚く程に穏やかだった。まるで、数十年来ずっとそうしてきたように。菊を見つめる綺麗な瞳が不意に潤み、赤子に似た涙が白い頬を転がり落ちた。
「……菊」
伸ばされたアーサーの指先が、菊の指先に絡んだ。
「2ヶ月が過ぎたら、こっちで正式に式を挙げよう。オレと結婚してくれないか?」
「……はい」
捕まれていない方の掌が落ちてきて、アーサーの濡れた頬を撫でた。大きな子どもだと、菊は密かに思う。
初めて会ったとき、アーサーの目から嗅ぎとった、自分と同じ雰囲気に間違いはなかったのだ。きっと彼なら、自分の孤独を解ってくれる、と。
二人が婚約した夜から数日後、2ヶ月を迎える前夜、アーサーは家から一通の手紙を受け取った。慌ただしく実家に向かう彼を、菊はいつものように送り出した。
寒い空を抜け、相変わらずうすら寒い我が家へと入っていく。中はランプさえ灯されておらず、ぼんやりと家具や階段が浮かびあがっているばかりだ。家に充満するかび臭さに顔をしかめ、誰かいないのかと呼び掛ける。
「やぁ、アーティ。久しぶりだな」
一番上の兄が、ひょっこりと二階から顔を出した。懐かしい呼称……幼い頃兄に、アーサーのことをアーティなんて愛称で呼び、散々虐められたのを思い出す。
「何の御用ですか?」
アーサーはにっこりと笑顔を浮かべる。パブロフの犬のごとく、彼を前にすると笑うようになっていた。
「今日はアーティにいい話をもってきたんだ」
「いいはなし?」
彼の「いいはなし」が本当に良かったことなど一度もない。大抵が命を賭けて命を奪うような事をしなければならない。アーサーは嫌な思い出ばかりが脳内を過るのに、知らず顔をしかめていた。
「今度、東の領土を少しばかり頂くことにしたんだ。あいつら、人の足下ばっかり見やがって、いつも香辛料の値段ボッてくるだろ?だから、お前に良い縁談もってきてやったんだ」
いくらカークランドが大きな家だからといえど、東へ乗り込む程の力は無い。だから、利益とおれからの繋がりを約束するため“結婚”という手段を使う。それはどこでも、いつの時代でも行われてきたことであり、アーサーも例外に漏れる筈が無かった。
東では菊は立派な“結婚”であったとしても、アーサーを含め西の人々にとって、アーサーが菊を連れ帰ってきたのはただの“略奪”以外、何ものでもない。アーサーがほんのお遊びで東から連れ帰った、ただの暇つぶしにすぎない。
今まではアーサーもそのつもりだったが、今は違う。菊を正式に家に入れてしまおうとし、そのために“政略結婚”に見えるように手を回すつもりだった。それなのに兄は“東”と戦うという。
「……あの」
「ああ、アーティ、お前の家に、変なのがいたな」
言葉を探しあぐね口ごもっていたアーサーを見透かし、兄は口元に笑みを浮かべた。彼が感づくはず無いと思っていたが、いとも簡単にアーサーの考えを読みとり、アーサーが最も恐れる方法でせめてくる。
「ほら、オレの剣を貸してやるよ。どうせそんな価値も無いだろうし、心臓でも耀に送りつけてやれ。お前、そういうの得意だろ?」
彼は腰に駆けていた短刀を抜き取り、半ば無理矢理アーサーの手の中に押し込んだ。
「オレ……」
思わず剣を変えそうとするが、兄は胸ポケットから煙草を取り出し、甘い煙をアーサーに吹きかけた。煙はアーサーの喉に張り付き、思わず盛大にせき込む。そんなアーサーを見ながら、兄は心底楽しそうにケラケラと笑う。
「話は終わりだ、帰れ」
命令はアーサーの全てだった。命令に従い素直にすれば、叩かれたり殴られたり、怒鳴られたりすることも無い。褒められている時だけは、みんながアーサーを見て、更には笑ってくれた。
長い長い、生まれてから今までと言って良い時間、その一瞬のために沢山の嘘をつき、血を一杯浴びた。アーサーにとってそれしかなかったのだ、それだけがアーサーの存在理由だった。