La Vie en rose ※ オリというより♂菊(弟)が出てきます。ほとんど絡みません。名前は“白妙”さんです。らんさんはフィンセントさんでおおくりします。あとグロ描写あり。注意。
 
 
 『 La Vie en rose 下 』
 
 
 
 
 沢山食事を作り、フランシスから貰ったワインを机に置いたまま、アーサーを待ち続けて遂に深夜へと入ってしまった。アルフレッドも家臣も寝かせ、一人食事処でぼんやりとアーサーの帰宅を待っていた。
 今日は、ちょっとした呼びだしだからすぐに帰る。と、最初に言っていたのに、まるで彼がいつも深夜に帰って来る時の様で、菊を不安にさせた。カーディガンを肩から掛けつっぷすると、そのままうとうととし始めてしまう。
 そのため、アーサーが帰って来た瞬間には気がつかなかった。椅子に座ったまますっかり寝入っていた菊は、ふと後ろの気配に気がついて顔を持ち上げる。目を擦りながらそちらを見やると、いつの間にかアーサーが部屋の隅に立ち、腕を組んでいた。
「おかえりなさい。ごめんなさい、ちょっとウトウトしてて」
 机の上のランプに灯りをともすと、アーサーの翡翠の瞳が冷たく光っていることに気がつく。アーサーと菊が今の仲になるよりも以前、アルフレッド以外に気を許さなかったアーサーの表情に戻っていた。
「アーサー様?」
 数歩近付いただけで、お酒の匂いが鼻につく。緑の瞳は冷たいというより、座っているのかもしれない。
 恐る恐る近寄って下から覗きこみ、腕を伸ばして頬に触れようとして思いっきり弾かれた。伸ばした右手に痛みが走り、目を真ん丸にしたままジッとアーサーを見つめ、寂しそうに困ったように眉根をおろして立ち竦んだ。
「どうなさったんですか?何か……」
「お前、本気でオレと結婚出来るって信じてたのか?猿の癖に……」
 そう言うとひとしきり笑ってから、掴んでいたジンのキャップを開けて、再び呷った。立ち竦んでいた菊は思わずアーサーに飛びつき、お酒の瓶に手を伸ばす。
「もうやめてください」
 しかし、瓶に手が届くよりも早く払いのけられる。手に握られたガラス瓶が菊の額を掠り、菊の体は簡単にひっくりかえった。瓶の角がぶつかった場所に掌を伸ばすと、ぬるりとした触感がし、指先に血がついているのに気がつく。
 床に倒れ込む瞬間、こちらを見ていたアーサーが酷く動揺し、ガラスの瞳を揺らす。その姿に、やはりアーサーは変わったわけではないと、額から血を垂らしたのもそのままに、思わず小さく安堵のため息を吐きだした。
 アーサーは菊の視線から逃げるように、ガシャン、と音を立ててジンの瓶を思いっきり床に叩きつけた。ガラスの破片が四方に飛び散るけれど、菊に直接あたることは無かった。逃げ出すようにシャワー室に向かうアーサーの裾を、菊は立ち上がり慌てて掴む。
「アーサー様、アーサー様……どうなさったんですか?お願い、教えてくださいっ」
 振り返りざま振りほどこうとするが、額に血が滲んでいる姿に一瞬戸惑う。菊の真っ黒な瞳が揺れ、じんわりと涙が浮かび必死な形相でアーサーにしがみ付く。
「五月蠅いっ!」
 歯を食いしばり思いっきり振りほどくと、そのまま床に押し倒した。後頭部を強かぶつけ、菊は一瞬意識がふわりと浮かびあがる。再び意識が戻ったのは、冷たい物が腹部に当たり、布が裂けていく音が聞こえた。音の方へ視線をやると、服が裂け肌が外気に晒されている。
 反り返った短刀の刃が、暖かいオレンジの光が反射し銀から金へと輝いていた。刃があたり、その部分だけが冷たくてくすぐったい。胸を締め付けていた布も裂かれ、緩み肺に空気が大きく流れ込んでいる。
「兄さんが、お前の心臓が欲しいって」
 菊にのしかかり、アーサーが顔を歪めて笑う。強い力で抑え込まれているわけではないけれど、菊はされるがままにし、表情も穏やかでただ哀しそうにアーサーを見上げていた。
「オレ、これしかないんだ……自分を護るために、こうやって生きて来たんだ」
 のしかかった上から、パラパラと生温かい雨のようにアーサーの涙が降ってくる。手を伸ばしてアーサーの両頬を包み込むと、彼は菊の手を包み込んですり寄った。
「オレを嫌いになってくれ、じゃないとお前を切り捨てられない……」
 菊の掌の上から顔を両手で覆い、その隙間からパラパラと滴が落ちてくる。しゃくりをあげながら、アーサーは前のめりに首筋に顔を寄せ、菊を抱き寄せた。
「そんなの、ずるいです」
 間近に見える黄金の髪を弄りながら、菊も視界が僅かにぼやけるのを感じた。
 
 
 カークランド邸宅でサロンが行われた時、アーサーは全身を真新しく流行りの、細身のスーツに全身包み現れた。しかし髪の先から靴の先まで赤黒い液体でぐっしょり濡れ、血液独特の生臭い異臭を漂わせ、着飾った人々の合間を縫って現れる。
 綺麗な顔とは裏腹に、アーサーはカークランドの中でも特に人間的に破壊していると、社交界でも専ら噂が立つ。アーサーはカークランドの中でも、家族の中で嫌われているためかあまり表に立たないため、その噂にどんどん尾ひれがついて、一人で勝手に歩き出した。
「ほら、これ……」
 美しくうら若い女性の腰に腕をまわしていた兄に、アーサーは笑顔を浮かべてこぶし大程の小箱を差しだす。白い小箱は赤黒の染みを滲ませ、更に濃い生臭さがムワッと漂った。
「多分直ぐ腐るから、塩でもふってな」
 クルクルと喉を鳴らし、アーサーは無邪気に笑って兄の手の中に小箱を押し込んだ。まだじっとりと濡れ、暖かい小箱は今にも脈を打ち始めそうで、正直も何も気色悪い。しかし受け取った本人も喉を鳴らし笑い、真っ青になる女性に肩をすくめてみせた。
 カークランドのサロンであっても、呼ばれていないアーサーはそのまま人々の間を抜け、馬車へと乗り込む。みんなが真っ青になっているなか、彼の兄ばかりが笑顔を浮かべ、人差し指で己の米神を突いて見せる。
 
 そんな事があったのにも関わらず、アーサーの婚礼は両家の親族揃えて盛大に行われた。参列者は誰もかれも、アーサーを恐ろしく感じながら表面では新婚を祝い、お祝いの言葉を述べる。
 この結婚式が終わって十日ほどしたら、東へ攻め込む筈だった。いや、実際に攻め込むに至ったが、普段は手薄な筈の関所には大勢の兵が待ち受け、想像よりも遥かに手間取い、遂には退却も余儀なくされたのだ。何もかもが失敗に終わり、掌を返して人々はカークランドを非難し始めた。
 カークランド内でも、この失態を誰かに押し付けようと揉めたけれど、結婚以外では殆ど関わりがなかったアーサーは、そのもめごとが飛び火してくることはなかった。
 
 アーサーが結婚式を挙げたちょうどその時、西から送られた従者が耀邸に辿りついた。沢山の調度品を積み、友好関係をアピールするための書までつけて送られる。
 耀は見慣れた調度品に目を配っていると、西の従者の一人がポツンと寝台には向かわずに立っていた。不可解そうに見ていると、彼は深めに被っていたローブを捲り、懐かしい顔を露わに駆けよって来る。すっかり男だと思っていたが、それは泣く泣く嫁に出した筈の菊だった。
「菊、帰って来たアルか」
 駆け寄ってきた小さな体を抱きしめて声をあげる耀に、菊は苦しそうに身を捩る。
「いいえ、アーサー様が逃がして下さったのです。耀さん、西が攻めて来ます」
「西が?」
 つい今しがた、西からの調度品が届いたばかりだというのに。眉間に皺を寄せた耀に対し菊は一度頷き、アーサーから教えてもらった西が破ろうとする関所の個所を述べた。耀は一瞬驚き、それから神妙な様子で目を細める。
「分かった、注意しておくアル。ところでお前が手に持っているのはなんアルか?」
「えっと……豚の心臓の塩漬けだそうです」
 綺麗な小箱に入り、淡い桜色のリボンを結んでいる。『西のご馳走をお送りします』と、アーサーの兄の手紙が付けられ、従者に紛れて逃げる菊の手の中にアーサーが収めた。アーサーの兄は、豚の心臓を菊のものだと、すっかり信じ込んでいるらしい。
「好!そりゃいいご馳走アル」
 だらりと涎を垂らす耀に思わず苦笑を送り、耀に手を引かれて部屋の奥へと入っていく。アーサーは、結婚以外ではそれほど関わりもないし、今まで命令を違えたこともないため、菊を逃がしたこともバレなければ責任を問われることも無い。と言っていた。
 しかし、カークランドが大きな損害を受けることも目に見えているし、夫婦生活も失敗するだろう。彼は存在意義である家族からの“愛”など受けることはできないし、訪れるのは更なる孤立に違いない。
 菊が心配すると彼は何度も「大丈夫だ」と言った。そして彼が言った通りの関所に西の兵が攻め入り、国の兵を総動員して待ち受けていた東は見事に護りきることが出来たのだ。耀は菊を何度も褒め、菊は取りあえず自分の屋敷へと帰った。
 アーサーの事は非常に心配だったけれど、正式に結婚を迎えたとあればどうしようもない。両国の国交が絶たれ、手紙の行き来さえままならなくなった。カークランドに関する噂さえ入って来ることも無くなる。もしもアーサーが今幸せならば、それはそれで良いのかもしれないとどうにか自分を誤魔化し続けた。
 東では情報を持ってきたのと同時に出戻りということもあり、国の事はそのまま白妙に任せ、菊は再び部屋に閉じ込められた。部屋から見える庭一つと、猫の額ほどの城下町が菊に許された自由に歩ける範囲だ。
 時折、寝る前になるとアーサー宅で暮らしていた自由の時間を思い出す。子供と一緒に遊んだり、裸足で湖に入ったり木に登るのはずっと、幼い頃から願い続けた夢であった。それから、恋愛というのにはまだお互い未熟で、それでも手を伸ばしあう関係を見つけたアーサーの姿を何度も繰り返し思い出す。
「姉上、フィンセントさんが御見えですよ」
 机の上につっぷして、窓から差し込むキラキラした光を眺めていた菊に、扉口からそっと白妙が声を掛けた。西から帰ってから空を眺めてばかりの姉に、彼は何も言わない。
「フィンセントさん?お通し下さい」
 彼と会ったのは、あの社交界での一件以来初めてだった。相変わらず大きな体を折って、狭そうな様子でフィンセントは姿を現す。
「久しぶりやの」
「ええ、本当。お座り下さい」
 煙をくゆらせ入ってきたが、扉口に立ったまま動こうとしないフィンセントに座布団を進めるが、彼は座ろうとしない。
「いや、ええ。直ぐ出ていく。それよりお前の耳に入れておきてぇ話があるんじゃ」
 いつになく真剣な様子に、菊の脳裏に懐かしい姿がよぎり、思わず居住まいをただした。
 なんとなく気にかかり障子の前で待機していると、慌ただしい音が聞こえ、菊が転がるように飛び出す。驚いて捕まえたが、振り返った菊は眼をまん丸にして、白妙を必死めいた様子で見つめる。
「落ち着きね。今国交がないやざ。俺が送ってく」
 飛び出した菊と反対に、ゆったりとした様子でフィンセントが顔をのぞかせた。
「何のお話ですか?」
 一人取り残された白妙は、眉間に皺を寄せて二人を交互に見やる。泣き出しそうな姉に対し、フィンセントは非常に落ち着いた様子だ。
「カークランドが……アーサー・カークランドが自分の嫁さん撃ち殺しよったんや」
 ギョッとして白妙は、菊を掴む掌の力を強める。
「で、姉さんはまた会いに行くなど言うんではないでしょうね?」
「ええ、だってアル君とも引き離されて……きっと一人ぼっちです」
 抜け出そうとする菊を抱え込み、そのまま再び襖の中へと入る。話題が恐ろしいのに対し、日差しは非常に暖かく、いつも通りの穏やかさが降り注いでいた。
「姉さん、馬鹿なことは仰らないでください。殺人犯のところなんかに……」
「……きっと、アーサー様にはアーサー様なりの理由があるんです」
 目線をずらして顔を顰める菊は、珍しく白妙の言葉に反抗を示す。良い争いなど、ほんの幼い頃にしかしたことが無かったため、白妙は一瞬キョトンとして菊へと視線をやる。
「それに、ここにいたからといって、私はどこで何が出来るっていうんですか?こんな小さな部屋で、一人ぼっちなんて……死んでるのと何が違うのですか?」
 普段大人しい菊が勢いを強めて白妙に迫るのに、その勢いに負けて思わず白妙は少し体を反らした。眉根を上げて拳を握りしめる菊の頭を、落ち着かせるようにフィンセントがポンポンと叩く。
「俺も連れていくのはええけど、護ってやれるほど傍にはおれん。それでも行きたきゃ連れてったる」
「お願いしますっ」
 白妙が口をはさむよりも早く、菊が即座に声を挙げた。普段ほとんど無表情のフィンセントは、頬をゆるめてニヤリと笑うともう一度菊の頭を優しく叩く。
 
 
 事件が起こり直ぐにアーサーはそれまで住んでいた屋敷から離れ、森の付近のカークランドの別宅に移り住んだ。どう手回ししたのかは解らないが、アーサーは捕まることも無かったけれど、アルフレッドとは引き離されて、召使いも半分以下となった。
 フランシスが初日に少し顔を出した程度で、数週間来訪者も無く、当たり前の様に家族からの連絡は一つも無い。カークランドは東とのいざこざで、今や家の名前を地に落ちているし、尚更、家の名前にしか興味が無かった知人は誰もアーサーを訪ねなかった。いや、妻を撃ち殺したとあれば、誰も来やしないだろう。
 窓の外からふくろうの鳴く音と、それに紛れて馬の蹄が枯れ葉を踏みしめて走って来る音が聞こえた。アーサーは顔を顰め、ひっそりと寝床を抜け出し、誰も起こさずに玄関まで向かう。
 アーサーの邸宅に向かってくる者は、アーサーに用事がある者以外いない。それが良い意味であっても、悪い意味であって……
 菊は東に帰り、あんなに愛していたアルフレッドさえも離された。今ボヌフォワの所に預けられているため、嫌なめにはあっていないだろう。もしかしたら、気難しくて子供の扱いに慣れないアーサーの所より、ずっと居心地がいいかもしれない。
 警戒心が強かった筈のアーサーは、相手を確認することもなく玄関を開けた。今彼が望むのは、自分の思い出と共に全てを跡かたも無く消してくれる、そんな存在だ。
 しかし、玄関先でアーサーを待っていた主は、アーサーを確認すると全身でぶつかり抱きつく。驚き愛銃に手を伸ばしかけるけれど、それよりも先に懐かしい香りが漂い、全ての動きを止めた。
 それはこの状態になってから、どんなに夢に見た姿だったろうか。
「ああ、アーサー様、こんなにおやつれになって……」
 やつれた頬を両手で包み込むと、菊を見ているようで見ていない翡翠の瞳がようやく光を持つ。微かに大きくなると、すぐに細められて腕が菊の背中へとまわされた。
「……本物か?」
「ええ、本物ですよ。ごめんなさい、弟を説得するのに時間がかかってしまって……」
 首筋に顔を寄せぎゅうっと抱き寄せると、疲れて掠れた声色が切なそうに菊の名前を呼ぶ。懐かしいアーサーの、菊の香りを全身で感じながら、出来るだけ隙間が出来ないように抱きしめあった。
「東まではフィンセントさんが、ここまではフランシス様が連れてくきてくださったんです」
 彼女が振り返った所には、柔らかな金髪を持ったフランシスが立っている。彼は右手を挙げると、再び馬に跨り一言も交わさず森の闇の中に紛れていく。彼にも彼の事情があり、昼の明るい中でアーサーに会いに来るのは中々むずかしいのだろう。
 真っ暗な屋敷でランプも使わず自室まで案内すると、月の灯りの下で彼女の顔を露わにする。少々痩せたようだが、あまり変化も見えず、懐かしさと無事に逃げ切った事を知った安堵に、知らず息が漏れた。そのままぎゅうっと抱くと、菊も小さく息を洩らしながら抱擁を受ける。
「あの女、アルに手をあげてたんだ。でも、オレ、撃った時覚えてない……」
 菊は背中にまわされた腕の力が強くなり、非常に息苦しいけれどもそのまま胸元に顔を押し当てる。
「オレ、いつかお前やフレッドも殺しちゃうのかもしれない」
 抱きしめて首筋に埋まった、耳元の唇が泣き出しそうに掠れていた。背中を優しく撫でると、落ち着かせるために彼の名前をそっと呼んだ。
「いいえ、今まで大丈夫だったじゃないですか」
 一度体を離すと、目線を合わせると、懐かしい笑みを菊は浮かべる。アーサーは翡翠色の瞳一杯に涙を溜めると、頬を包み込んだまま顔を近寄せ、深く口づける。驚いて飛びのきそうになる背中を強く抱き寄せ、そのまま音を立てて何度も啄ばむ様なキスを送った。
 顔を離して菊の首筋に顔を埋めて体を抱きしめられると、菊は体格差にすっぽりと包まれてしまう。耳元でアーサーが泣いているのを聞きながら、彼が泣きやむまでずっとそのままで待った。
 
 一つのベッドで眠るのは、前にアーサーが血まみれで帰ってきて以来だった。あの時は控えめに手を繋ぐ程度だったけれど、今は抱き枕の様に菊を抱きこんでいる。音もアーサーが時折鼻をすする音だけが鳴り、どこまでも静かで世界で二人きりになってしまったようだ。
「……菊、すごく怖い」
 アーサーがぽつんと呟き、その体はぶるぶると震えている。全く記憶も無いのに、気がつくとアーサーの前には血まみれになった『妻』がいた。いや、妻だという認識はほとんど無く、仕方なく一緒に住んでいる同居人程度で、撃ち殺すほどの関心も寄せては無い筈だ。
 確かに美しい女だったけれど、アルフレッドは菊ばかり思い出し、懐こうとはしなかった。アーサーはアーサーで、菊が無事に東に辿りついたかどうかばかり気になって、彼女の動向にまで気が回らない。アルフレッドが何をしたのか知らないが、アーサーはたまたま窓から庭を眺めていて、彼女がアルフレッドの頬を叩いたのを目撃した。
 夜にそのとこを問い詰めると、彼女は綺麗な瞳に涙を溜めて「アーサーが悪い」のだと責めたてた。気がつけば拳銃を引き抜き、何度も何度も弾を撃ち込んでいた。それは命令以外で、初めて人を殺めた瞬間だった。使用人が驚き固まり、アーサーの姿をただ見つめている。
 血まみれになった死体を見ながら、アーサーはひたすら恐ろしく思った。こうして、気がつかない内に激情し、アーサーが本当に大切にしている人間までも、姿も分からないほどに殺してしまうのではないかと思えたのだ。何度も、アルフレッドやもう会えないだろう菊を、こうして撃ち殺す夢を見た。
 いつからこんな風になってしまったのだろう……恐らく、初めて人を殺した時から自分は浸蝕してしまったのだ。もう今更幸せな暮らしなど、望む資格さえアーサーには無い。
「アーサー様、明日は何をしましょうか。アル君を迎えに行きますか?」
 菊は夜の帳よりも濃い黒で、ジッとアーサーを見上げる。失ってしまったもの全てがそこに込められているようで、思わず手を伸ばして彼女の瞼をなぞる。
「アルは俺の事、怖がってるんじゃないか?」
 撃った時アルフレッドは傍にいなかったし、彼には何も見せていない筈だ。しかし誰かにアーサーの悪口を吹き込まれているだろうことは、目に見えている。しかし菊はアーサーの疑問に笑みを浮かべる。
「怖がってなんて……あなたにとても会いたがっていましたよ」
 フランシスの屋敷で久しぶりに再会した時、アルフレッドは菊に真っ直ぐ抱きつき、わんわん泣いた。アーサーと離れてから、マシューとも遊ばずに部屋に引きこもりがちだったという。夜になるまで菊と一緒に沢山話をし、暫く口をもごもごさせた後「またアーサーと一緒にいたい」と目に一杯涙を溜めた。
 アーサーは元からカークランドの中でも孤立していたけれど、この事件からは更に誰も寄り付かなくなる。当分家族からも孤立したままとあれば、目を盗むなんて至極簡単だろう。今まで命令を素直に聞き続けて来た事が、彼らの監視を緩めることとなった。
 暫く無言で涙に濡れた翡翠と黒曜石の瞳の視線を絡めていたが、不意に菊が上半身を持ち上げて、アーサーと真っ向から向かい合う。アーサーの頬を包んで身を寄せると、初めて菊から唇を合わせた。
「二ヶ月経ったら……結婚してくださるんでしょう」
「俺じゃぁ……」
 言いかけたアーサーの唇を、指をあてて遮ると、子供と遊んでいる時のような無邪気の笑顔を浮かべた。
「あなた、私がいなければだめでしょう」
 くるくる喉を鳴らして笑うと、今度はアーサーの高い鼻先に唇を寄せる。それから濡れた頬に顔を寄せ「泣き虫ですね」と、再び小さく笑い声をたてた。
 アーサーはそのまま菊をベッドに押し倒して細い首筋に噛みつくと、菊は驚きで思わず体を小さく縮める。しかし抵抗せずに、肌を食むアーサーの頭を抱え込んで受け入れた。菊の背中の服の紐を解き、露わになった肩に歯型をつけ、露わになった乳房にも微かな痛みが走る。荒々しい程の愛撫を受けながら、揺れる金色の髪をぼんやりと見ていた。
 肌の上にポタポタと、生温かい彼の涙が雨の様に降って来る。まるで際限が無い……動く金髪を撫でると、愛撫をしていた動きを止めて菊の胸の上に顔をつけたまま動きを止めた。そのまま暫く動きを止めていると思うと、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 暫く眠っていなかったためだろう。苦笑を洩らして暫く髪を弄っていると、心配で眠っていなかったせいで、菊も直ぐに眠気を覚え瞼を閉じた。
 
 何度も視察した筈なのに失敗したのは、何度考えても東へ情報が漏洩していたからだと至った。しかし、情報が漏れるほど東と関わりがあった筈も無い。
 東と西のパイプとなるだろうものは、いくらかの奴隷と商人(しかし、大抵は西の人間を挟むので、直接の関係を持つことは少ない)ぐらいだ。そこでふと、末弟が自信の邸宅に住まわせていた東の女を思い出す。
 久しぶりに森の端にある別荘を訪れた時には、既に何一つ残っていなかった。ボヌフォワ邸にもアルフレッドはおらず、フランシスは「気がついたらいなくなっちゃった」とお茶らけてみせる。
 結局アーサーは溶けて蒸発でもしてしまったかのように、ほとんど何も残さずにどこかへ消えてしまった。カークランドが再び勢いを付け始めるようになってからは、家族も親族も、アーサーの事を話題に出す者はだれも居ない。
 
 
 アーサーが住んでいた所とはうってかわって、そこは晴天も多く、水も土壌も非常に豊富だった。昔、菊がアーサーの髪と同じ色、と褒め称えた稲穂が辺り一面に咲き、鳥や虫と共に秋の来訪を人間も謳歌している。
 じきに自分達の畑も刈り入れかと、今までしたことも考えたことも無かったが頭をよぎる。西には逃げる場所も無く、結局アーサーは菊の出身地である東へ住まいを移した。不思議がられはしたが、西が東を攻め入るという情報を流したこともあり、嫌悪されることは無い。
「菊、アル、ピーター?」
 両腕一杯に貰った野菜を抱えながら、いつもならば庭を駆けまわっている人物が見えず、アーサーは名前を呼びながら庭を横切る。買っている鶏が声を立て、アーサーの足から逃げて地面を忙しなく突いていた。
 東に来てからも嫌な夢は何度も見ていた。大切な人間を撃ち殺し、真っ赤な海の中でその死体を抱きながら泣いている夢を、月に何度も。朝起きると大抵頬が濡れていて、白くて綺麗な朝日の中で、笑みをたたえながら菊がやわやわとアーサーの頭を撫でている。
 沢山のものを奪っておきながら、今更失う恐ろしさを知ってしまった。何かを傷つけるのが恐ろしく、刀も銃も箪笥の奥底にしまい込み、普段は包丁さえ持たない。といっても、元々菊がアーサーに料理はさせてくれやしないけれど。
 黄色い葉で覆われた銀杏の木の上から笑い声が聞こえ、真下から上を覗きこむ。三つの影が動くのを見つけ目を細めると、その内の一人がアーサーを見つけ、小さな掌を伸ばして笑う。
「あら、アーサーさん。たくさんいただきましたねぇ」
 それを見つけて菊もアーサーへ視線をやり、黒い瞳を三日月の形にさせてほほ笑んだ。そして胸の中に抱いていたピーターを、アーサーへと手渡す。まだ生まれて二年ほどだというのに、一体どうやって木の上まであげたというのだろう……
「ぱぱぁ」
 しがみつくピーターの頭を撫で、頬ずりをし、ケラケラ笑うのが嬉しくて腕の中であやす。今年二歳になったわが子は、ビックリするほどアーサーに似ている。いつも、耀も白妙も心底嫌そうな顔をしながら、それでも楽しそうに甥っ子をあやしていた。
 菊はピーターを生んでからも、変わりなくアルフレッドと一緒に遊んでいたし、アルフレッドも変わらず懐いている。まるで全員元から家族のようで、アーサーも幼い頃からこの輪の一因だった錯覚さえ受けた。それは、今までの人生を補正するような作業で、これからもゆったりと続けられるだろう。
 周囲から立ち昇るように夕飯の香りが漂ってくると、そろそろ菊が夕飯の準備に木から降りてくる頃だろう。使用人もいない家では、そのためにアーサーが薪を運んでこないとならない。ちょっと前では考えられない生活だが、不満は微塵も無い。
 ざわざわと、風が吹くのと同時に大地が揺れる様に、稲穂が一斉に頷く。茜色の空の中でみるその光景は、自分が生まれた時から渇望し、得ることのできなかった物全てが込められている。許されるのならば、今アーサーが愛している者達にソレを与えられたら、と切に願う。