La Vie en rose ※ この話をもう少し……というリクエストが入りましたので書きました。こんな話でごめんなさい。
 
 
 
 『 La Vie en rose 特別編 』
 
 
 
 
 日本の夏は、熱い。忙しく鳴き叫んでいる蝉の声を聞きながら、纏わりつく湿った熱さを拭うように腕を振るが、勿論涼しさがやってこようとはしない。
 寝苦しさに思わずうなると、どこからともなく涼しい風が吹き、思わず目を開く。するとアーサーの隣にいつの間にか座った菊が、うちわを片手にほほ笑んでいた。彼女の黒い髪は一つにまとめられてはいるが、額には汗が浮き髪が張り付いている。
「悪い、寝てた」
 起き上がると菊は首を振って、再び眠るように、軽くアーサーの胸を押す。即席の、座布団を丸めただけの枕に頭を下すと、再び瞼を閉じると直ぐにウトウトとする。
 最近は富に夢見が悪い。というのも、恐らく菊の腹の中にいる自身の子供が、もうじき生まれてくるからだ。大切な人間が増えるという事が、かえってアーサーの恐怖心を煽るのかもしれない。もうずっと、誰かに対して暴力など振るったことなど無いというのに。
「御夕飯まではまだもうちょっとあります。休んで下さいな」
 大きなお腹を片手で護りながら、もう片手でアーサーへ風を送っていた。廊下から、先ほどまで魚釣りに出かけていたアルフレッドの足音が、忙しく聞こえてくる。
「きーくっ!今日のばん……」
 しぃー。と菊がアルフレッドに軽い注意をすると、彼女は小さく喉を鳴らして笑う。アーサーが寝入ったのを確認すると、菊は立ち上がりアルフレッドと並んで台所へと向かった。
 残ったアーサーは、夢うつつの中で、鉄の強い臭いを嗅いだ気がして、思わず起き上がろうとした。しかし夢の中に入り掛けていたためか、体はまるで動かなかった。ああ、またいつもの夢が始まるのだろうか……喉が渇き菊を呼ぼうとしても、彼女は今や遠い場所。
『あなたは人間じゃないわ!人間のふりしたって、所詮人間を愛することさえできないのだから!』
 言い合いの末に、女が甲高い声で言い放った。思考では考えたことはあれど、言葉にされたのは初めてである。動揺と怒りで頭にカーッと血が昇り、一瞬何もかも忘れて腰に掛けてあった拳銃を抜き取って、リボルバーの弾が無くなるまで撃ち抜いていた。
 暖色の壁紙に、赤黒い跡がベットリと張り付き、絨毯にも一瞬で血だまりが染み込み、跡を残していた。上がった息を落ち着かせながら近寄ると、ふと、彼女の髪の色が金色から黒に変わっていることに気がつく。
 ああ……またやってしまったのか……息が再び上がり、指先が冷たくなり体が震えあがる。顔に掛った髪を指先でそっと分けると、血で濡れた菊の顔が現れた。触れると陶器のように冷たく、名前を呼んでも勿論返事は無く夢と知っていても尚体が震えた。
『あなたは結局自分の家にしか興味が無いのよ。自分がその一員になれるのなら、誰だって殺してしまうんでしょうね』
 力の無い菊の唇が微かに動き、違う女の言葉を紡ぐ。彼女はもとよりアーサーと結婚する気など無かったのだろう。地元に恋人がいたのかもしれないし、既に愛人がいたのかもしれない。兎に角、カークランドの中でも異端で凶行に走るアーサーとは、初めから言葉も交わそうとしなかった。
 アーサーも彼女に興味なく、出来るだけ接触しないように過ごしていた。毎日、菊の事ばかり考えて過ごしていたかもしれない。
 動かない妻を抱き寄せ、服が血に染まるのも気にせず頬を寄せた。涙がボロボロと零れ、菊の上に降り落ちる。『人が愛せない』という言葉が真実ならば、この悲しみも所詮は作り物だということなのだろうか。自分を慰めるエゴの塊であるのか……
「アーサー」
 不意に菊の声に名前を呼ばれ、世界が揺れ動く。振動に驚き目を開くと、心配そうな菊の顔が覗きこんでいた。
 思わず腕を伸ばして頬を包むと、先ほどとは打って変わって指の先から暖かさが伝わって来る。そのおかげで、夢と現実の区別がはっきりとつき、直ぐに彼女を安心させるための笑みを浮かべた。
「お客さんがいらしてます」
「客?」
 菊の客か二人の客なら分かるが、アーサーにはこの土地に知り合いらしい知り合いも居ない。眉間に微かな皺を寄せると、重い体を無理に起こして玄関口へ視線をやる。そこには懐かしい顔……フランシスが相変わらず締りのない笑顔を浮かべていた。
「フランシス!久しぶりだな」
 未だに東西では大した国交も結ばれておらず、こちらへ遣って来るには随分厳しい審査が必要とされているだろう。ご自慢の柔らかな金糸の髪を微かに汚し、フランシスは苦みを漂わせて肩をすくめて見せる。
 耳をすませば蝉の鳴き声の合間に、台所ではマシューとアルフレッドが歓声を挙げている。思えば彼らも随分長い間会っていないことになるだろう。
「お前の子供を見に来てやろうと思ったけど、ちょっと気が早かったみたい」
 菊の大きなお腹を見やって、既に子供がいるかのように笑った。
「なら一か月くらいこっちに居ればいい。どうせ暇だろ?」
「いや、仕事の途中で寄ったから、五日ぐらいしかいられないかなぁ」
 遊び相手に飢えていたアーサーはつまらなさそうに目を細めると、ようやく立ち上がって大きく伸びをする。欠伸を噛み殺すと台所にいる子供達を覗きに向かった。
「菊ちゃんも元気みたいで、安心したよ」
 遠くでマシューが喜ぶ声を聞きながら、先ほどまでアーサーが座っていた場所に腰をおろし、フランシスは喉を鳴らして笑う。菊も目を細めてほほ笑むと、茶を煎れに行くと言って立ち上がった。
 少しばかり警戒している菊に苦笑を浮かべ、フランシスは胸元にそっと手を置いた。カークランドから預かっていた手紙があるものの、預かってからずっとアーサーに渡そうか悩んでいる。恐ろしすぎて中身に目は通していないが、彼を惑わせるのに十分なものだろう。
「お茶と御茶請けはおいておきますね。私は買い物に行ってまいります」
 音も無く現れた菊に、驚き体を揺すると彼女は穏やかにほほ笑んだまま、部屋をあとにした。マシューとアルフレッドを両脇にくっつけたまま、彼女は家の外の坂を下っていく。彼らの楽しげな声は、随分遠ざかるまで響いて聞こえた。
「それで?用事は?」
 一面、在るべきはずの壁が無く、風と共に雄大な景色が目に飛び込んでくる。自国の山の中でも中々目に出来ない濃い緑に頭がクラクラしながら、ぼんやりと外を眺めているフランシスにアーサーが声を掛けた。
 やはり読まれていたかと、若干苦笑を浮かべつつも、懐に隠していた手紙を差しだす。懐かしい家紋に、アーサーは翡翠の瞳をまん丸にしてから、眉間に深い皺を寄せた。
「『もしも会うことがあったら』渡してくれってさ」
 ふん、と小さく鼻を鳴らし、受け取ると直ぐに封筒を開く。畳の上に落ちた封筒に、少しばかり目を遣ってから、便箋の文字を追いかけるアーサーを仰ぎ見る。直ぐに変化する真剣な眼差しは、彼が現役で暴れまわっていた彷彿させ、フランシスは微かな不安を覚えた。
「アーサー、なんだって?」
「……帰ってきてほしい、って」
 ポツリと漏らされた言葉に、フランシスは米神にじんわりと冷たい汗を掻いているのに気が付き、思わずから笑いをあげる。しかし、便箋を畳むアーサーは神妙な様子で、手紙をソッとポケットに押し込む。
 日本までの長い長い行程、フランシスはこっそり手紙の中身を確認していた。要約すればアーサーの言った通り「帰ってこい」とのことだ。今のカークランドがどれほど地に落ちたか、復権にはアーサーの力がどれほど必要か……第三者からすると、そこに何かしら隠れた思いがあるのが解る。しかし、アーサーにとって手紙に書かれている言葉は、生まれてから長い間待ち望んだ言葉だ。
「アーサー」
「解ってる」
 フランシスの言葉を、鬱陶しそうに片手を振って遮ると、アーサーは再び台所へと向かう。
「酒、飲むよな」
 壁をまたいで聞こえた声に返した辺りで、空がオレンジに染まり燃えだしたのに気がつく。夏の日本は本当に暑いが、美しいと大陸の人間は口をそろえて言っていた。
 再び聞こえてくる子供達の声は、太陽の光を受けて光る深い緑に似ている。綺麗な場所だな、と呟くと、日本酒を持ってきたアーサーは嬉しそうに笑う。
「今日は御客様が多いので、ちょっと時間がかかってしまいますね」
 帰って来た彼女は、大きなお腹に更に両手に大きな買い物袋を携えて帰って来た。先ほどまで汗も滲んでいなかった菊の額にはじんわりと汗が滲み、白い頬は蒸気で少しばかり赤く染まっている。
「無理するなよ、手伝おうか?」
「いいえ、アーサーさんはゆっくりなさっていてください」
 暗に「台所には入るな」と示しながら、菊は食材を手に台所へと引っ込む。残された子供達はじゃれあいながら机の前に座り、犬やら熊やらにかまけている。アーサーは部屋に置かれたランプにいくつも火を入れ、暫くそわそわしてから台所へ自身も向かった。
「こっちの生活は楽しい?」
 ポチと戯れていたアルフレッドは空色の瞳を真ん丸にしてから、いつも通り無邪気な笑顔を顔一杯に浮かべる。
「不便なことも多いけど、まぁ楽しいよ。菊もいるし、社交界とかも無いし」
 にっこりと笑うアルフレッドに、フランシスは密かに胸が痛むのを覚えた。いくらカークランドからのものだといえど、手紙などフランシスの所で握りつぶしてしまえばよかったのかもしれない。
 アーサーと菊が、アルフレッドを迎えに来たのは、フランシスが菊を連れてアーサーの邸宅に行った三日後の事だった。彼らは少ない手伝いの人間に暇を出し、必要最低限の荷物を鞄に詰め込んでいる。アルフレッドは顔を輝かせ駆け寄ると、アーサーは久しぶりの笑顔を見せてアルを抱き上げた。
 そこから日本まではヴィンセントが二人を送って行ったらしい。西でもヴィンセントの家系だけが東と関係を持っていたため、特に怪しまれることもなく、無事に辿りつけた。
「ご飯ですよー」
 台所から菊の呼びかけが入ると、アルフレッドは「はぁい」と元気に返事をし駆けて行く。今まで手伝いなどしたことも無いけれど、下人もいないので自分で動くしかない。
 お盆に沢山のお皿を並べ、見たことも無い料理が机に上にズラリと並べられていく。美食家のフランシスはちょっと戸惑いながらフォークを付けるが、意外に美味しくて思わず頬を緩めて頬張る。
「あ、そうだ、花火持ってきたから一緒にやろ」
 フランシスが荷物を指すと、アルフレッドとマシューは顔を輝かせて、菊は子供以上に喜び手を打った。時折見せるその子供らしい姿が懐かしく、思わずフランシスも頬を緩めて笑う。
「耀さんから頂いた線香花火もあるんです」
 食事を終えて食器を台所に片すと、持ってきた花火と彼女が言っていた線香花火縁側に並べ、子供達と菊は三人で笑いながら黒い世界にきらめく閃光が瞬く。
「アーサー、どうするんだ」
 縁側で並んで坐りながら声を掛けると、アーサーは暫く黙りこんでいたが、花火の光を受けて光る瞳を細めた。
「お前さ、何が幸せだと思う?」
「……えっ?え、えー?そうだなぁ……」
 真面目な質問は、今までフランシスも真面目に考えたことの無いものだった。眼をキョロキョロとさせて躊躇しているフランシスが答える前に、アーサーが口を開く。
「俺は、死んだって伝えておけよ」
 懐に入れておいた手紙を取り出すと、フランシスへと返す。丁度顔を持ち上げていた菊と眼が合って、フランシスは思わずその手紙を慌てて懐の中に隠しいれた。
 アーサーは縁側から降りると、足早に菊へと近寄る。菊は眼を細めて笑うと、隣に立ったアーサーにまだ火を入れていない花火を手渡す。身を寄せて笑い合う二人の姿に、フランシスは溜息を吐きだし懐の中にある手紙を軽く叩いた。
 
 帰りたくない。と頬を膨らませるマシューを抱え、フランシスは船へと乗り込んだ。アーサーとアルフレッドが大きく手を振っている姿が、船が離れて行く内にどんどん小さくなっていく。
「フランシスさん、また会いに行きますよね?」
 大きな瞳でマシューから見上げられ、フランシスは眉根を下して笑った。
「そうだね、今度は二人の子供でも身に行こっかぁー」
 手紙を取り出すと、不思議そうにこちらを見ているマシューの前で、それを細かく千切って海の中に散らしていく。マシューは体を乗り出してそれが海面に浮かんでいるのを見やり、「綺麗」と笑う。